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江漢3:出自と絵師修行 [スケッチ・美術系]

sibahon_1.jpg もう少し江漢の出自・没年を探ってみる。『司馬江漢全集』(八坂書房1992年刊)第四巻末の成瀬不二雄「司馬江漢の生涯と画業」に、こんな記述あり。

 慈眼寺の過去帳に、父と思われる戒名のそばに「丸屋市良兵衛」との注記あり。細野正信氏紹介の儒者東条琴台の記に「江漢は江戸の四谷の生まれ、のち芝新銭座に移った」とある。父母と過ごしたのは四谷で、15歳で父を亡くして財産を失い、母の実家に寓居。後に芝銭座に移った。40余歳で土田氏に入夫して士分となって勝三郎、または孫太夫だろうと推測していた。

 芝ゆえ「司馬」、号は江漢著『春波楼筆記』の「江漢後悔記」の項に「江漢とは、予が先祖は紀州の人なり。紀ノ国に日高川、紀の河とて大河あり。洋々たる江漢は南の紀なりと、故に号を江漢とす」。江漢と称したのは25,6歳頃らしい。

 黒田著には「江漢享年は72歳説と81歳説あり。81歳説は江漢晩年の空想的産物だろう」で、生まれは史跡文通り延享4年(1747)。生没に関してはこの辺で了とした。

 次は絵の修行について。延享4年生まれならば、その歳の先輩は奥村政信61歳、鈴木春信23歳、平賀源内19歳、杉田玄白・円山応挙15歳、歌川豊春13歳。後輩では大田南畝2歳下、葛飾北斎と山東京伝が15歳下になる。

 江漢誕生の4年前に、奥村政信が中国経由の透視画を見様見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を描いている。江漢誕生の翌年には羽川藤永(経歴不明)が、将軍への挨拶を終えた「朝鮮通信使来朝図」(神戸市立博物館)の一行を透視画で描いている。遠景に富士、江戸城石垣。それを背に常盤橋を渡って本町二丁目を行列する一行図。江漢誕生期には早くも「浮絵」普及だろう。

 そうして絵画状況のなかで、江漢は上記「後悔記」に「我が先祖に画を描きし者ありけるにや、吾伯父は吾親の兄なり。生まれながらにして画を善くす。其血脈の伝はりしにや、予六歳に時、焼物の器に模様ありけるを見て、其雀を紙にうつし、伯父に見せける。十歳頃に至りては、達磨を描く事を好みて、数々描きて伯父に見せけり」

 さらにこう続く。「長じて狩野古信に学べり、然るに和画は俗なりと思ひ、宗紫石に学ぶ、其頃、鈴木春信と云ふ浮世絵師当世の女の風俗を描く事を妙とせり、四十余にして俄に病死しむ。予此にせ物を描きて、板行に彫りけるに贋物と云う者なし、世人我を以て春信なりとす。予春信に非ざれば心伏せず、春重と号して唐画の仇英、或は周臣(共に明代の画家)等が彩色の法を以て、吾国の美人を描く~」

 次回は、この画業経歴の検証です。写真は『司馬江漢全集』と黒田源次著『司馬江漢』(昭和47年刊)。

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江漢2:慈眼寺の史跡看板から [スケッチ・美術系]

koukanjigazo1_1.jpg まずは慈眼寺の墓碑・旧跡看板文から、司馬江漢の概要を記して見る。

 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(1770)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋(なんぴん)派の宗紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋画風の教えを受け、天明三年(1783)腐食銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)十月二一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書に「西洋画談」「春波楼筆記」「和蘭通舶」などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。

 墓碑裏面に「資堂金入不許萬古毀」。〝萬古毀すこと許さず〟で今も建っている。さて、史跡看板文としては長文で苦労してまとめられているが、そう簡単に参らぬのが司馬江漢です。黒田著に「関根只誠翁の名人忌辰録に麻布浄林寺に葬る。同寺は廃寺」の記述あり。その「名人忌辰録」を国会図書館データで読んでみた。

sibasisekibun_1.jpg 「名峻字君岳号不言道人俗称勝三郎後孫太夫本邦油絵の祖文政寅年十月廿一日没す歳八十二(※七十二)麻布浄林寺に葬る(本村慈眼寺にも墓碑ありと云えり)江漢は始め浮世絵師鈴木春信の門に入りて重信(※春重)と号し師没後二世春信と名のれり後長崎に行き蘭画を学び油絵銅板の術を得たり文才もありいさゝか蘭学をも伺ひ天文地理暦数の事にも心得ありてその筋の著述もあり又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委しきことは畧す」

 黒田著には江漢書簡「小人今は老衰腰痛み歩すること漸一里をかぎり候。先便に申上候通り、今麻布岡崖の辺地へ庵を結び、一人の老婆を遣ひ安居仕候~」が紹介されている。晩年の文化11年秋に、芝新銭座(浜松町駅から新橋方向へ徒歩3分ほど)から麻布笄町(現・西麻布)に転居。同地で亡くなったのならば麻布のお寺に葬られたとも推測できる。

 「又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委(くわ)しきことは畧(略)す」は面白そうなので、後述することになりそう。挿絵は黒田著のモノクロ掲載「司馬江漢(淡彩)」を着色簡易模写。江漢像は高橋由一の油絵が有名だが、由一もこの絵から描き起こしたのかも知れない。ネットに美術史家・青木茂<高橋由一「司馬江漢像」の成立について>があって、面白く拝読した。

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江漢1:かくインプットされて [スケッチ・美術系]

sibanohaka1_1.jpg 神田古本市で、黒田源次著『司馬江漢』(東京美術、昭和47年刊)を1500円で入手した。「司馬江漢」の名は幾度か眼にするもスルーしてきた。強くインプットされたのは川本三郎『大正幻影』だった。佐藤春夫『美しい町』クローズアップで、それは隅田川・中洲に幻想市街(ユートピア)を作ろうと夢想する男たちの物語。

 主人公のひとりFが、その理想地を探すのに疲れ果て、ふと立ち寄った画廊で見たのが司馬江漢の銅板画『東都中洲之景』。思わず「ここだ!」と決定する。実際は江漢作に『東都中洲之景』なぁんてぇのはなく、彼が描いたのは『中洲夕涼』『江戸橋より中洲を望む』『三囲之景』など。佐藤春夫がそれらをミックスして『東都中洲之景』としたらしい、と小生は1012年10月のブログ「荷風の中洲(5)」で記している。

 二度目にインプットされたのは「ジャポニスム」シリーズの永井荷風『江戸芸術論』。~北斎は司馬江漢の油絵並に銅版画により和蘭画の法式を窺ひ知りしは寛政八年頃~などの記述だった。

 「ジャポニスム」シリーズの次は「司馬江漢」のお勉強を、と思って図書館で成瀬不二雄著『司馬江漢/本編編・作品編』を借り読んだが、どうも〝ノリ難かった〟。どうやら難解人物らしくお勉強を放置。だがその後に黒田著入手で、再度挑戦。同著冒頭「序説 江漢研究の諸問題」は二十章に亘って実証できぬ諸問題を展開。〝ノリ難い〟はずである。

 まずは勢いをつけるべく染井霊園隣「慈眼寺」へ掃苔。すでに幾度か訪ねている同寺だが、今回はカメラ持参。芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓には写真を撮る若い女性が幾人もいたが、司馬江漢に関心を払う人はなし。次回は東京都指定旧跡看板の文言より司馬江漢の略歴を記してみよう。

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カンディンスキー(8)バウハウス以後~ [スケッチ・美術系]

yuukitai1_1.jpg カンディンスキー夫妻は1928年にドイツ国籍を取得も、落ち着いた生活は短かった。翌年、世界恐慌。1933年1月、ヒットラー政権誕生で「バウハウス」閉鎖。身の危険に、12月にスイス経由でフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 妻ニーナによると、彼がパリに落ち着くことに、対極の存在のピカソは嫌ったとか。カンディンスキーは穏やかな生活のなかで晩年作を制作。この時期は、生命の発生や進化に関心を持って有機体が空を浮遊しているような「空色(空の靑)」「穏やかな飛翔」など。どこか〝陽気ではないミロ〟風作品です。挿絵はその一部をアレンジ模写。

 一方、ドイツでは1937年にナチス「退廃芸術展」。膨大な押収作品のなかにカンディンスキー作57作。そこから油彩1点、水彩6点が展示されたとか。1937年、スイスでクレーの臨床を見舞ったのが最後の旅。1940年、ナチスのパリ侵攻。ナチスのパリ占領下の1944年、78歳の誕生日パーティー後に永眠。

 カンディンスキーと別れたミュンターは、ドイツ表現主義の女流作家として活躍し、第二次大戦の戦禍からカンディンスキー作品を守り抜き、85歳で逝去。遺言でミュンヘン市立ギャラリー「レンバッハハウス」に作品寄付。同美術館は一夜にして有名美術館になったとか。(ウィキペディア参照)

 最後に松下透著「あとがき」文を紹介。~彼が抽象絵画に向かった動機の一つは、物質主義のなかで「芸術における精神的なもの」が危機に瀕しているという時代認識。一つは人並み外れた感受性によって、自然から受け取る感動で「自然と宇宙との交換によって生み出されたように思われる」と結んでいた。

 「バウハウス」の理念、カンディンスキーの教えは、米国へ亡命した多数教師陣らによるシカゴ「ニューバウハウス」によって、また教え子らの活躍によって世界中に普及。今も人気のフォント「フーツラ」「ユニバース」もバウハウス系。これにてカンディンスキー理解の〝玄関口〟に辿り着いたようなので、ここで終わる。

 参考資料:二十歳の頃の教科書『点・線・面~抽象芸術の基礎』『抽象芸術論』。展覧会ショップで購入の松本透『もっと知りたいカンディンスキー』、図書館本でアナベル・ハワード『僕はカンディンスキー』、フランソワ・ル・タルガ『WASSILY KANDINSKY』、ハーヨ・デュヒティング『ワリシー・カンディンスキー』。

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カンディンスキー(7 )バウハウス [スケッチ・美術系]

tensenmen2_1.jpg カンディンスキーの時代を俯瞰後は、再び彼の「バウハウス」招聘前後に焦点を当て直す。

 1917~1922年はロシア内戦の荒廃・破壊・残虐・干ばつ・大飢饉。1919年に3歳の長男が胃腸炎(栄養失調)で死去。社会主義革命に奉仕の芸術中心になって、1921年に夫妻は12枚の絵と僅かな身の回り品だけを持ってドイツへ逃亡。

 極貧生活を救ったのがパウル・クレー。彼の尽力で「バウハウス」(すべての造形活動の究極の目的は構成である)校長から招聘される。

 かくして「バウハウス」カンディンスキー先生が誕生。教えることは、自らも色彩・フォルム(点・線・面)の分析考察の日々。教室講義から『点・線から面~抽象芸術の基礎~』を1926年に刊。

 同書が小生二十歳の時の画塾の教科書だった。教科書ゆえ作者への関心なし。今思えば大変な時代を背に構築された諸理論に、もっと有難く拝読すべきと反省する。だが小難しい記述で再読する気にならず、よって関連書の〝孫引き〟です。

 <線>幾何学上、線は眼にみえぬ存在である。線は動く点の軌跡、したがって点の所産である。線は運動から生まれる。~しかも、点そのものが内蔵している完全な静止を破壊することによって、そこには、静的なものから動的なものへの飛躍がある。だから線は、絵画における最初の要素~点~に対しては、最大の対立関係にある。ごく厳密に考えれば、線は二次的要素と名づけられるべきものである。

 あぁ、若き日の記憶が僅かに甦ってくる。カンディンスキーは「バウハウス」がデッサウ市に移転前後に、今度は「円」に熱中する。<円>もっとも控えめな形態だが、容赦なく自己主張をし、簡潔ではあるが、無尽蔵に変化が可能。安定していると同時に不安定。無数の緊張を秘めている。

 かくしてカンディンスキーの抽象画は、次第に筆致が消えて幾何学的になって行く。挿絵は同時期に描かれた「尖りに拠って」。線画模写し、透明水彩+ガッシュで簡単彩色模写。逆三角形がそれぞれの重量と動きを与えられ揺れ揺られるドラマを演じている。

 この歳でコンパスを使うとは思ってもいなかった。机をひっくり返して見つけた小さなコンパスの鉛筆アタッチメントを外し、「PILOT HI-TECボールペン」をセロテープで仮固定して円を描いた。

 二十歳の頃に通っていた画塾は「カンディンスキーの2冊を読め」と「石膏デッサン」の外は大したカリキュラムもなかった。週一か、月一に師のアトリエに入り、師が前夜酔っぱらって茶碗を叩きつつ呟くテープを聞かされるだけだった。某広告代理店デザイナー募集で「カンディンスキーを読んでいました」が採用の決め手だったらしい。

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カンディンスキー(6)絵画状況と欧州史 [スケッチ・美術系]

kandinskyhon3_1.jpg インプレッション、インプロヴィゼーション、コンポジション制作期は1910~13年頃。今回は同時期のパリの絵画状況、欧州史を俯瞰してみたい。

 カンディンスキーはパリの「サロン・ドートンヌ」に1904年から出品。1906年に大賞。1905年の同展でマティス「フォーヴィスム」が注目。1907年にはピカソが「アヴイニョンの娘たち」制作。だがマティスは抽象へ走らず(75歳からの切り絵コラージュは抽象っぽい)。ピカソもブラックも抽象へは向かわず。

 カンディンスキーがいたドイツでは表現主義(絵画、文学、映像、建築に主観的表現に主眼をおく運動)中心だったが、1914年(48歳)第一次世界大戦勃発。ドイツの対ロシア宣戦で中立国スイスへ。諸都市を転々後にミュンターと別れてモスクワへ帰郷。

 1917年、51歳で10代の二―ナと結婚。同年11月、ロシア革命でソヴィエト政権樹立。政治に距離を置くも「教育人民委員会」の造形芸術・工芸芸術部に参加。モスクワ国立自由芸術工房の長、絵画文化美術館・館長、芸術科学アカデミー設立の副総裁。彼の許に若いロシア・アヴァンギャルドの芸術家らが集った。

 だがカンディンスキーの「コンポジション」に比し、若い世代は次第に感覚性・芸術性を排した「コンストラクション」(工業製品に限定)志向。社会主義革命に奉仕する芸術優先となり、彼は1921年12月に再びベルリンへ戻った。

 そのドイツでは1918年「ドイツ革命」翌年にワイマール共和国(ドイツ共和国、1919~33年)誕生。その最中1922年にワイマール州立美術学校「バウハウス」開校で、招聘される。この時、56歳。

 同校は「すべての造形活動の最終目標は建築(Bau、バウハウスは造語)である」が設立宣言だが版画、彫刻、陶器、ステンドグラス、壁画、織物の工房も設けられ、カンディンスキーは壁画工房のマイスター就任。ステンドグラス工房にパール・クレー就任。

 同校は1924年にドイツ人民党の圧力で自主解散。翌年にデッサウ市立バウハウス開校。製品生産会社も設立で家具を生産。カンディンスキーやクレーは応用美術、課外授業で絵画も教えた。

 ここでのマイスターハウスは2連住宅で隣がクレー家。互いに影響し合わぬわけがない。だが1933年1月のヒットラー政権で「バウハウス」閉鎖。身の危険にカンディンスキーはフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 写真はフランソワ・タルガ著『WASSILY  KANDINSKY』(美術出版社)。バウハウス時代の「黒い随伴」(1924年作)が表紙になっている。

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カンディンスキー:コンポジション(5) [スケッチ・美術系]

composition2_1.jpg その3:コンポジション(composition)について。カンディンスキーは「インプロヴィゼーションと同じだが、今度は時間をかけ練り上げての表現。私はこの種の絵を〝コンポジション(作曲)〟と呼んでいる」とか。

 作例に1911年の「コンポジションⅣ」をあげる。画面中央に城砦を頂く青い山。中央の人物が持つ黑い長槍が画面を左右にわける。左側が戦闘場面で、右側が平和場面で右下に男女が横たわる。

 この作品には、抽象過程をうかがわせる「コンポジションⅡ」がある。同作より「Ⅳ」へ至る過程例として「Ⅱ」の部分模写を添えてみた。肩肘で寛ぎ横たわる男女、馬を駆る二人の騎士、荒波に呑まれる人々が描かれ、それが「Ⅳ」の表現に至っている。(あぁ、小中学だったか、具象をこんな風に崩して抽象画に仕上げる図画の授業があったと思い出した)

 カンディンスキーは、夜明けの薄明りのアトリエで目にした絵が余りに美しいのに涙し、後でそれが自分の描いたこの絵だと気付く。この時期の彼は恋人ミュンターと妻アーニャとの三角関係の窮地にあって、相当に深刻だったらしい。極めて鋭敏・繊細な精神状態だったのではと推測するが、いかがだろうか。

 ちなみに二人は1916年頃に別離。こじれにこじれた。1921年に弁護士が彼女へ連絡をとって彼の持ち物や絵を返却するよう要求するも、大半は「精神的ダメージへの補償」として拒否。(ミュンターその後は後述)。

 異性との激しく諍いの後は、可愛い女性がいい。同年51歳のカンディンスキーはモスクワへ戻ると、なんと10代のニーナと結婚。彼はとんでもない〝ロリコン親父〟になった。彼女は奔放で妖艶で軽薄(『僕はカンディンスキー』著者記述)だが、彼女は27年後の彼の死まで添い遂げたそうな。

 理論家、哲学者、偏屈、完全主義者、厳格教育者のカンディンスキーに秘められた裏の顔がチラッと伺えるも、私生活を秘すも彼の流儀。※参考資料は最後に記す。


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カンディンスキー:インプロヴィゼーション(4) [スケッチ・美術系]

improvisation2_1.jpg カンディンスキーの抽象画への道、その2:インプロヴィゼーション。彼はこう記しているそうな。「無意識な大部分は突然に成立した内面的性格をもつ精神過程の表現、つまり〝内面的な自然〟の印象。この種のものを、私は〝インプロヴィゼーション(即興、improvisation)〟と呼ぶ。

 作例に1910年「インプロヴィゼーションⅣ」を挙げよう。彼は子供時分に伯母から繰り返し聞いた中世物語を心の中に膨らませていたのだろう。絵は帆船が襲われるシーン。右下に死んだ馬か。大砲の砲筒があり、その上に射撃手が並ぶ。銃口先に連なる白煙。傾く帆船、必死にオールを漕ぐ人、左舷着弾の水柱。画面上は絞首刑の人々、血に濡れた赤い月、雷鳴が響いている。(写真は〝即席〟模写)

 「即興(インプロヴィゼーション)」とは云え、前作「インプレッション」に比して、この絵は作者内面で充分に発酵形成された映像だろう。心の奥の熟成画像の〝即興表現〟と捉えたらいいだろうか。

 彼は42歳の頃に「シュタイナーの神智学」(人間界は物質界、魂界、霊界の三つで~云々の神秘主義)に夢中だったそうな。その内容は知らぬが、心の中で映像を形作る訓練にはなったと思われる。小生だって、子供時分は心のなかで映像を浮かべる経験もしたかと思うが、今は耄碌して、そんな感性は失った。

 ドイツ中世物語にも興味なしだが、孫が遊びに来る度にせがむ絵本「おむすびころりん」物語を、こんな調子で描くことは出来るかも知れない。画面中央下にネズミの饗宴。上部に抜ける穴。穴の上は斜面で「おむすび」が転がって、爺さんと狸が走っている。右下に爺さんを待つ婆さん。左上に小槌と溢れ出た小判。左下に強欲な爺さん婆さん。そんな絵を描き上げれば、孫の心の奥と響き合えるかも知れない。だが、孫はカンディンスキーより断然ショアン・ミロの絵の方が好きだと言いそうだな。次は「コンポジション」ヘ。

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カンディンスキー:インプレッション(3) [スケッチ・美術系]

impressin3-2_1.jpg カンディンスキーの風景画は、次第に目に見える自然を解体し、色彩の響き合いに重点が移って行く。そうした過程で思索されたのが『芸術における精神的なもの』(1911年刊)。

 二十歳の頃に読んで難儀したので、再読したいとは思わぬが、彼はこう記しているそうな。

 ~実景から解放されたコンポジション(構図、構造、構想画)を描くことが目標になった。それは印象派によって壊された欧州の偉大な構想画(コンポジション)の伝統を、今度は〝神話・聖書世界〟から脱却して再興することだ。

 それは、次のように展開される。「内的ヴィジョンの直接的な表現(即興、インプロヴィゼーション)や、目に見える自然の解体(印象、インプレッション)が必要かつ大切。それには精神性かつ色彩と形体をめぐる綿密で持続性の省察も不可欠~」

 二十歳の頃に、こんな小難しい書と格闘していたとは。カンディンスキーは、かくして次第に抽象絵画へ向かって行く。1912年、46歳で初の個展をベルリンで開催。インプレッション・シリーズ、インプロヴィゼーションン・シリーズ、そしてコンポジション・シリーズ。

 まずはインプレッション(impression):外面的な自然から受けた直接的印象。これが素描的・色彩的な形態をとって現れるもの。この種の絵を私は「印象、インプレッション」と名づける。

 作例に1911年の「インプレッションⅢ(コンサート)」を挙げてみよう。彼は友人と共に室内楽コンサート(アルノルト・シェーンベルクの弦楽四重奏第二番。別の惑星の空気を感じるような風変わりな作品)を聴いた。聴衆は驚き笑いヤジを飛ばしたが、彼には天啓のように響いたそうな。

 その感動を二日後に一気に描いた。黒く大きなグランドピアノ、ピアニスト、聴衆、右斜めに傾いた構図、白い縦線は不協和音か。

 カンディンスキーはチェロとピアノが得意。音楽を聴くと、視覚的な感性が震えるそうで、音楽は画家として欠かせぬ要素。同作を描いた後で、彼は興奮して作・演奏者に手紙を書いた。面白そうだから〝即興〟模写をしてみよう。

 おっと、数ヶ月使っていなかった「ホルベインガッシュ」半分が凝固していた。比して10年も前の「ニッカーガッシュ」が使えたり。顔料次第で凝固按配が違うのか。あたしは〝インプレッション・インプロヴィゼーション、コンポジション~〟と呟きつつ、新宿・世界堂まで「ターナーアクリルガッシュ」(安価)を求めに往復ウォーキングに相成候。

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カンディンスキー(2)まずは具象画 [スケッチ・美術系]

kandinskykao9_1.jpg 二十歳で読んだカンディンスキー著作は、理解に難儀して〝人となり〟まで気は回らなかった。今回のチラシ『商人たちの到着』を観て、「抽象画の前に、こんな絵を描いていたんだ」と驚いた。幾点ものスナップ写真から容姿も知った。ショップで購入の松本透著『もっと知りたいカンディンスキー』や図書館本より、まずは彼の経歴調べ~

 1866年(慶応2年、2年後に明治)、モスクワ生まれ。黒田清輝と同い年だな。幼児期に両親離婚。ドイツ系伯母に育てられる。叔母は彼にドイツの伝統的童話をよく話した。1892年(明治25)、モスクワ大卒。経済学と法律を学び、同大法学部助手の時期(1896年、30歳)にモネ「積みわら」を観て、画家を志し、ミュンヘンへ移住。

 ちなみに黒田清輝は18歳で法律を学ぶべく渡仏も、20歳で画家志望に転向。1896年に東京美術学校に西洋画科発足で教師に。さて30歳のカンディンスキーは、画学生に混じって画塾でデッサン開始(ピカソのデッサンは秀逸も、彼のデッサン力は?)。ミュンヘン美術アカデミー2度目?の入試で合格。33歳。インテリゆえ考察・分析力は鋭く、旧来授業に疑問。芸術集団「ファーランクス」を結成。展覧会自主運営や画学校も開設。当時はどんな絵を描いていたのだろうか。

 「木版画」と「彩色ドローイング」とか。「木版画」はドイツ中世騎士物語(幼児期に叔母から聞いた童話の数々。また改革へ向かう画家をも託して)。「彩色ドローイング」は平たく言えばチラシ系題材で短い筆致の具象画。1904年からパリの「サロン・ドートンヌ」に出品。1906年に大賞。大学卒業頃に従姉妹の妻・アーニャ(1911年に離婚)と結婚していたが、当時は画学生の生徒ガブリエール・ミュンターが恋人(1914年に別れ)。

 ドイツは当時「ユーゲント・シュティル」(アール・ヌーヴォー要素を色濃くした絵画からデザインまでを含めた考え方)や、「ミュンヘン分派派」(絵画を建築の一部と捉えた考え)の動きがあって、それらに影響を受けたらしい。

 題材=ドイツ中世舞台、技法=テンペラ画(生卵使用)、短い筆致~これらを選んだのは、実景から離れて自身の色彩感を自由に描きたくての意もあったか。次第に眼に見える〝風景解体〟で、色彩を自由に構成する抽象絵画傾向へ。1910年、水彩による最初の抽象画を描く。〝具象から抽象〟へ変わって行く過程が、どことなく微笑ましい。

 この時期に各国各都市を旅行。生活は?と心配すれば、なんと彼はモスクワに7階建てアパート所有。裕福な茶商人だった父の遺産かしら。〝生活なら召使がやってくれる〟とまで言わぬが、彼に生活の苦労は無縁で芸術的思索に耽溺か。

 1911年、45歳で『芸術における精神的なもの』刊。似顔絵は47歳の写真から。鼻眼鏡。「彼の写真から画家をイメージするのは難しい。行政長官か哲学教授か、あるいは医者を想像させる」(フランソワ・タッルガ著)

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汐留でカンディンスキーと逢う(1) [スケッチ・美術系]

kandinskytirasi1_1.jpg 「今日は何をしようかしら」。隠居ってぇのは、そんな日々です。「そうだ、パナソニック汐留ミュージアム『カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち』を観に行こう」。

 二十歳の頃に、某大・応用化学科の実験白衣を脱ぎ捨て、美術塾へ通った時期がある。そこはイラストなど描けば罵倒される雰囲気で、教科書代わりが59年刊カンディンスキー『点・線・面~抽象芸術の基礎』(下写真の左)、58年刊『抽象芸術論』(下写真の右)だった。

 難解なり。当時は「バウハウス」と「イラスト」両派があって、師は「バウハウス派」だったか。かくしてイラストを一度も描かずに、グラフィックデザイナーとして社会人になった。

 久し振りに眼にした「カンディンスキー」の名に、懐かしさを覚えて同展へ。ポスターもチラシ(写真)も『商人たちの到着』。カンディンスキーが具象画を描いていたとは知らなかった。胸踊らせて会場に入ったが108点中、カンディンスキー作は僅か18点だった。

 ゆえに図版は買わず、ショップで「カンディンスキーのガイド本」を買った。二十歳の時に読んだのは、函入りハードカバーで活字中心。このミニ画集が、当時のカンディンスキー概念を変えてくれそうな気がした。

 同書を数頁めくると、昨年に小生が新宿御苑でスケッチした絵と、まったく同じ構図の絵『サン=クルー公園~陰暗い並木道』があって愉快なり。お閑な方は同題画像探索と、弊ブログの新宿御苑スケッチ「プラタナス並木を描く」を見比べて下さい。

kandinsky2mai.jpg さて「汐留」は電通、日テレ、汐留シティセンターなど街は様変わり。だが「新橋駅」よりはサラリーマンの街。定食屋で「サンマ定食」を食いつつ、電通のガラス高層ビルを眺めながら「過労死するほど働いている青年はいないだろうな」と心配した。

 小生、カンディンスキー没年の生れ。大学の実験白衣を脱ぎ、彼の著作を読んだ。カンディンスキーはモスクワ大卒で同大法学部助手になるも、モネ『積みわら』を観て画家を志した。30歳だった。

 生きる道は幾つもある。「決して死ぬほどの無理をしてはいけません」。小生、好き嫌い激しく生きて来た結果が貧乏隠居だが、昔も今もそれなりに愉しく暮らしている。

 若い時分を思い出したので、いい機会ゆえ、二十歳の頃に読んだカンディンスキーを、少しだけ再勉強してみようと思った。(続く)

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「大島動物公園」脱走物語 [週末大島暮し]

osimakoen1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」最後は「大島自然公園」。この写真は水鳥らの池だろうか。小生、閑ゆえ<昔の「島の新聞」>から〝動物公園脱走物語〟を記したことがある。

 まずは「熊脱走物語」。昭和11年5月17日早朝。壁に立てかけ忘れた梯子から子熊3頭が脱走(熊は木登りが得意)。警察・消防団が大捜索も同日未発見。18日に公園付近で1頭捕獲。同日夜に公園から3里は離れた御神火茶屋隣接のラクダ小屋で1頭捕獲。20日、野増村の〝かよばあさん〟が大いびきの熊を発見して捕獲。野増から泉津への帰還沿道は拍手喝采。

syowa38kuma3_1.jpg 昭和11年10月4日。再び子熊3頭脱出。19年後の昭和30年12月26日の朝日新聞に大熊目撃の相次ぐの報に、園長は「昭和11年脱走の2頭捕獲も、逃げた1頭だろう」。さらに昭和43年10月、大島猟友会3人が落花生畑の大熊を射殺。昭和11年脱走熊なら35歳。射殺せずも長寿全う間近だった。

 次にタイワンサル。昭和17年の大島公園から数匹脱走。昭和39年の「島の新聞」に7~80頭繁殖か。平成14年の朝日新聞によれば推定2千頭。平成22年1月の「asahi.com」では4千頭に繁殖。

 次はタイワンリス。同じような経緯で脱走・繁殖。現在は計測不能の数万頭とか。林の木が揺れていれば、そこにリスがいる。林の中でガァガァの鳴き声がすればリスだ。平成17年に特定外来種に指定。

 目下はキョンが話題。昭和45年の台風で10数頭が脱出。目下は1万5千頭とも。三原山樹林でも我がロッジからもキョンを見る。今秋に捕獲チーム名「キョンとるず」、ロゴマークも決まったそうな。

simasaru2_1.jpg 別の動物話題を二つ。中西悟堂『定本野鳥記』第1巻「放飼編」を読んでいたら、家や部屋ん中で多数大型野鳥を飼っていたが、同編末に「今は禽舎はガラアキ。ほとんどの鳥を、東京湾汽船の林社長の懇望で伊豆の大島へ移してしまった」の記述。昭和10年記で、同年は動物公園開園。

 さらに驚いたのがWeblio辞書。「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集めらた鷲、鷹、雉などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥と記されていた。本当かしら。これは裏をとっていない。

 最近の動物公園は素敵に楽しく改修・拡充されている。東京都立大島公園は植物縁・椿園/動物園/ハイキングコース/海のふるさと村で構成。同サイト最新ニュースには「レッサーパンダの赤ちゃん公開開始」「ラマの赤ちゃんが産まれました」と楽しそう。

 300円で入手の「昔の絵葉書」だが、たっぷり楽しませていただいき、これにて終了。新聞切り抜きはクリック拡大で本文読めます。

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「長根浜」の象とライオンと羊と [週末大島暮し]

naganehama1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に「長根浜公園から三原山を望む」写真あり。同公園の為朝顕彰碑は紹介済だが、今はゴジラ像、中村彜(つね)像などがあり、水着混浴露天風呂「浜の湯」、道路向こうに食堂・プール併設の「御神火温泉」がある。

 この写真で眼についたのが赤屋根の東屋。公園から野田浜へ向かう「サンセットパームライン」沿いに同じような東屋が幾つかある。同ライン開通は「黒潮小屋」竣工時と同じく「島の新聞」に大仰な見出しで報じられていた。「世界第二の人口を誇る大東京六百万人の健康と行楽のためのハイキングコースとして開通」。なんと昭和12年開通で、昭和38年の大島循環道路開通より26年も前のこと。この絵葉書は昭和25・26年噴火後のもの。その当時からこの東屋は建っていて、前回紹介の縦長写真のアンコさんが寄りかかるのも同東屋の柱だろう。今は「浜の湯」で撤去されている。

 第二に注目は、松林奥の赤い建物。なんだろう。伊豆大島「懐かしの写真集」を見たら「移動動物園を長根浜公園に設置し、象やライオン等、島の人達が普段見ることの出来ない動物を披露した」とあった。ホントかいなぁ。

 調べたら確かにそうで、昭和26年5月に上野動物園「移動動物園」のアジア象「はな子」と雌ライオンが、東海汽船の貨客船「黒潮丸」(昭和22年進水)で大島にやって来て一ヶ月滞在。その間に「はな子」散歩中に脱走騒ぎもあったとか。

 ネットを丹念に探索すると、アンコさんが子象に乗った当時の写真が「東京ズーネット、井之頭自然公園」サイトでヒット。「はな子」は昨年6月末に69歳で長寿全うした。また昭和30年刊の岩波写真文庫「伊豆の大島」に、長根を背景にした草原(公園)に〝羊の群れ〟写真があった。昭和10年の「島の新聞」に動物公園の孔雀と羊の群れの記述があり。動物園から連れて来て撮ったのかも知れない。

 なお「長根浜」の名は、眼下の海に突き出た溶岩岬=長根から。室町幕府成立=1338年噴火熔岩で、当時は先端まで大地で、波に浸食されて熔岩だけ残った形とか。ってことは昔は西海岸一帯が200㍍先まで大地だったということか。話題豊富な長根浜公園です。

 現・長根浜公園と云えば「浜の湯」。昭和61年の大噴火で、元町地区の水源井戸の温度が上昇して温泉になったとか。大規模「御神火温泉」に比して「浜の湯」の常連古老らは〝効きが断然違う〟と絶賛。温泉から望む夕陽は絶景だが、振り向けば三原山で、4年前の土石流の痛々しい傷跡(山肌)が、やっと緑になってきた。

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「アンコさん」とジオパーク [週末大島暮し]

anko1_1.jpg 前回記した坂口安吾『消え失せた沙漠』を読むと、門外漢ながら観光施策を考えてしまう。同随筆は三原山噴火の書き出しだが、島の魅力考察でもあった。

「東京から七時間、伊東から二時間の大島だが、風俗習慣がガラリと変わっている珍しさがある。内地を一昼夜特急で走っても、これほど習慣の差のあるところはない」(原文を圧縮引用)

 つまり「三原山(ジオパーク的関心)+アンコはじめの異風習=大島人気」と分析・指摘していた。アンコ風俗、祭神、遺跡出土品、祖先(ネイティブ)、島言葉、古民家、タメトモさん、水事情、酪農などをそれぞれ考察して結論へ。

 「〝旅〟です。大島にはそれがある。それが味わえる。村のアンコたちと噴煙を見ているだけで、旅行者は〝旅愁〟を味わえる。日本にもそんな島があるということ」

ankoyuhi1_1.jpg その指摘通り、大島観光客は急上昇で昭和48年に83.9万人のピーク。同年オイルショックもあってか急降下を開始。それは昭和61年の三原山噴火まで続いて約40万人。離島ブームで少し上昇した平成3年にミニピーク(約46万人。小生ロッジ建造年)。

 後は現在までダラダラ下降線で今は18万人ほど。推移グラフを見ると内輪山から外輪山、そして海まで下る等高線のようであります。(参考:「伊豆諸島・小笠原諸島観光客入込実態調査報告書」「大島町統計資料」)

 現観光施策を部外者の眼でみれば「補助金頼りの格安展開+ジオパーク展開」は〝下降現状の持続可能展開〟のように見える。〝消え失せた異風習〟に代わるものは何か。答えがないのかも知れない。超アイデアが出るか、はたまた自然変化が起こるか。それまでは観光客減+人口減を併せて、下降線が〝海岸線〟へ迫って行くような気がしないでもない。

 小生は島では外食もせず会食もせず、ただ静かにのんびりと過ごすのが何より。なのに実際はボロロッジのメンテナンス、雑草刈りで疲労困憊になる。ゆえに疲れを癒す夕陽見つつの「浜の湯」がいい。ボロでもマンションにはない木の家の心地よさがいい。静かな夜に見つめる薪ストーブの火がいい。そうか、「昔の絵葉書セット」にはない〝島の三至福〟だなと気付いた。

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「三原山」消え失せた砂漠 [週末大島暮し]

miharayama2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に、二つ折りパノラマ写真「三原山全景」があった。この写真を前に考え込んでしまった。小生が知る風景とはかなり違う。焦げ茶の溶岩、黄色の砂漠。古い絵葉書ゆえの褪色か、はたまた砂漠風に彩色修正が施されたものか。

 本当はどんな色なのかしら。昔の写真を探し見るもモノクロばかり。小生の昭和32年の大島遠足のクラス写真も白黒で、カラー写真は未だ普及していない。

 写真探しを諦めて三原山噴火史を探った。近世では天和4年(1684)~元禄3年(1690)の7年間に渡った噴火。安永6年(1777)噴火。そして260年振りの昭和25,26年(1950~51)大噴火。これで風景が一変した。

miharakako2_1.jpg 当時の様子を坂口安吾『消え失せた沙漠~大島の謎~』(「文藝春秋」昭和26年7月1日号掲載)が書いていた。

 「正月元旦に大島上空を飛行機で通過したとき、内輪山の斜面を溶岩が二本半、黒い飴ン棒のように垂れていただけで、くすんだ銀色の沙漠が広がっていた。(略)いわば海の上へスリバチを伏せたようなケーキを置き、その上に白クリームをかけ、その中央にチョコレートを二本半の線で垂らしたように見えた。火山の凄味はなく、夢の国のオモチャのように美しいものであった」(原文を短くまとめた。以下も同じく)

 「そんな風景が噴火で一変した。三月と四月の大噴火で広い沙漠の半分を熔岩が埋めてしまった。大変なことです。(略)元禄以来二百六十年振りという大爆発。(略)この熔岩が風化して再び沙漠になるには百年か二百年もかかるのだろうか。とにかく三原山といえば沙漠が名物であったが、その沙漠が昭和二十六年(1951)に失われて熔岩原となった。今後は熔岩原が三原山の新名物で、再び沙漠が名物になるには百年もかかるとすれば、これは一つの歴史的爆発に相違ない」 改めで同随筆題名は「消え失せた沙漠」。またこの絵葉書もそれ以後の製作とわかる。

 三原山はその後、昭和32年(1957)に爆発し、昭和61年(1986)11月15日に火口噴火。一週間後に〝割れ目噴火〟で溶岩が元町まで迫って同21日に全島民が島外避難。

 小生が知っている三原山・表風景は平成3年から。平成8年(1996)秋に火口周辺まで開放されて遊歩道が開通。その時に〝陶芸の野焼き〟をし、遊歩道を歩いて火口を覗いた。

 三原山は噴火の度に景色を変えていると改めて知った。15日が全島民避難の大噴火から31年目。噴火は40年周期とも。次に島へ行ったら「火山博物館」を訪ねて、昔の三原山の様子を、また今後の心構えをしておこうと思った。

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「橘丸」船も島も有為転変 [週末大島暮し]

tatibanamaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」より五枚目は「橘丸」。煙突の流線型が特徴か。愛称〝東京湾の女王〟。写真は元町港。昭和十年(1935)霊岸島から初就航。岡田堤防完成(昭和十五年)まで交通船が沖合まで往復。

 昭和十三年に海軍徴傭で病院船に。同年に中国軍襲撃で浅瀬座礁・横転。仮修理後に日本で本格修理。翌年解傭で東京湾汽船に復帰。だが観光客少なく日清汽船へ傭船も、「葵丸」が乳ヶ崎で座礁・沈没(昭和十四年十二月)で、再び大島航路に復帰。

 昭和十八年、陸軍徴傭で病院船。「橘丸事件」(病院船ながら部隊、武器輸送で千五百人捕虜)。戦後は復員船。昭和二十五年二月に東海汽船・大島航路に復帰。昭和四十四年「かとれあ丸」就航で神津島・式根島航路へ。昭和四十八年「さるびあ丸」就航で引退。

ensoku.gif なんと波乱の〝船歴〟よ。小生は昭和三十二年(1957)に中1の秋の大島遠足で「橘丸」に乗っている。記憶皆無も背景は三原山、両脇にアンコさんのクラス全員写真。

 町史をみれば第一回椿まつり、小涌園ゴルフ場完成、波浮港大火(十六戸焼失)の翌年。遠足年の十月に三原山噴火で火山弾で一名死亡、重軽傷五十三名。そして遠足翌年が三原山・山津波(狩野川台風)で元町五十五戸全壊。本当にそんな時期の災害の間隙をぬった遠足だったかと首をひねるも写真記録に間違いはなかろう。

 船のみではなく、大島も波乱の連続だな。〝自殺名所〟という変な要素を含んだ三原山人気、離島ブーム、元町大火も凄く、全島避難を含む幾度の三原山噴火、土石流などの大災害など。今は観光客減、人口減に直面しているか。小生もフリーランス人生で仕事は荒波サーフィンの如しも、平成三年に島ロッジを建てるとは思ってもいなかった。

 振り返れば島へのアクセスも激変だった。羽田発YS-11、ジェット機B737-500、双発機DHC8-300。調布発のアイランダー機。船は夜発の大型船「かとれあ丸」「さるびあ丸」。それでは愛犬同伴が厳しく車で熱海発「シーガル」へ。今はジェットフォイル艇。空便はジェット機に備え空港大拡張も、利用者少なく羽田便消滅。

 船史、島史、アクセス史、ついでに我が人生も「有為転変」。明日のことは誰にも分らず。今をそれなりに一生懸命生きること~。

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「行者窟」伝説に満ち満ちて~ [週末大島暮し]

bakinbun1_1.jpggyoujyakutu2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」から、次は「行者窟」。小生、島通い27年も未だ訪ねず。この機会に〝役小角〟も少しお勉強。

 まず馬琴『椿説月張月』を読んでいたら、「行者堂」言及の一節あり。江戸の読本なれど楷書版字で実に読み易い。その一節を原書通りに筆写してみた。

 伊豆國は、いにしへより罪人を流さるゝ地なれど、大嶋へは文武天皇元年、役小角を配流されし、これはじめ歟(か)。その以前の事傳らず。今も小角が往ける嵒窟(いはや)、泉津といふ村にあり。嶋人これを行者堂と称して、常に詣るとなん。

 役小角(えんのおづぬ)のお勉強に藤巻一保著『役小角読本』を読む。信頼できる史料は死後百年後の797年刊『続日本紀』と822年『日本霊異記』のみとか。その『続日本紀』も史実は一節。

 丁丑(ひのとうし、文武三年〝699〟五月二十四日)、役君小角、伊豆嶋に流される。初め小角、葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師なりき。後にその能を害(ねた)みて、讒(しこ)づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に配(なが)さる。

 次から早くも伝聞。「小角能く鬼神を使役して、水を汲み薪を採らしむ、若し命を用いずは、即ち呪を以て縛る」 史実はそれだけ。しかも亡くなって百年後の記述で、どこまで信用していいのやら。史実はこれにて終了。折角ゆえ〝虚構〟も少し遊んでみる。

 没後、約八百年の室町末期に、一冊にまとめられた最古の小角伝『役行者本記』あり。著者は同記より経歴を要約。舒明六年(634)、葛木上郡茅原(現・奈良県御所市)生まれ。父は高賀茂十十寸呂(たかかもとときまろ)、母・白専女(そらとうめ)。賀茂氏の氏神・賀茂大神の祭祀、呪術を司祭する家系。

 十代、二十代は家職の知識習得。その合間に山に籠って修行。三十代に入ると人間界の一切を捨て、山中籠居で過酷な仙人修行。日本最初の神仙道家になる。山に籠って三十年余の文武二年(698)、朝廷が全国各地に鉱物資源調査を命じる。朝廷のお膝下の大和國調査に小角に白羽の矢が立った。小角は命を断って朝廷の怒りを買った。捕縛の内通者が弟子の韓国連広足。かくして文武三年(699)に伊豆大島へ配流。

 絵葉書の「行者窟」で昼は修業し、夜は富士山へ飛んだそうな。二年後の大赦で故郷・茅原に帰り、以後は諸国の峰々を巡ったので、各地の霊山幽谷に行者の足跡が残された。著者は巻末に全国99カ所の霊地を紹介。小生自宅近くの高田馬場「穴八幡」の別当「放生寺」にも、子犬が潜れるほどの窟に〝役行者〟由来が記されていたりするから、窟=役小角と思っても過言ではないかも。

 さて島の「行者窟」は間口16m、奥行24目m。本人作と伝わる像もあり。都指定旧跡。毎年6月15日の「行者祭」は無形民俗文化財。島内外の信者が「護摩供養」をし、十年ほど前までは洞窟手前の浜で地元・泉津小の子供らの奉納相撲もあったとか。平成三年より落石危険で行者窟への道は交通止とか。

 今、行者窟へ行けば、配流699年から現2017年までの1318年の時空を一気に飛ぶことになる。そう、ここから富士山へ飛ぶなんぞは朝飯前のこと。大島は伝説の島と改めて認識です。

 追記:「大島公園」から下って海岸遊歩道へ。「サンドスキー場」跡の先が行者浜で、平成6年(1994)に「行者海岸トンネル」(500㍍)が開通。トンネルを抜けると「海のふるさと村」。緊急時や職員用トンネルらしいが、車は通れぬも自転車走行の写真が幾点もアップされていた。自転車は可らしい。島は狭いが、知らない場所も多い。

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「源為朝」を神田の茶店で~ [週末大島暮し]

hatimanjinjya_1.jpg 前回の続き。「神田古本市で『保元物語』を探そう」と思った。岩波書店刊の日本古典文学大系『保元物語 平治物語』を200円で入手。近くのタリーズ店でコーヒーを飲みつつ頁をひも解いた。

 「此為朝をば首を刎らるべきか、禁獄せらるべきか、如何有べきと様々也けるに~」。「遠流にてこそあらめ」とて、伊豆の大嶋へ流しつかはさる」。そして「以後弓を引せぬ様に相計べし」。かくして左右の腕をのみにて打放てぞ抜たりける。 

 「伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人共せず。思様に振舞ければ、預(あづかり)伊豆国大介、狩野工藤茂光もてあつかひていかゞせんとそ思ひける」 ここで終わっていた。何度も読み返したが、為朝の記述はここで終わっていた。

 同書は「金毘羅宮所蔵本」で、後に多くの流布本が出た。同書には小活字で付録「宮内庁書陵部蔵本『古活字本 保元物語』も収録。それを読むと、為朝が湯屋で真裸のところを捕まって「伊豆大島へながされけり」と出てきた。すでにフィクションが膨らんでいる。まぁ、そこから読んでみる。

 「我清和天皇の後胤として八幡太郎の孫なり」と大島を菅領し、五島をうちしたがへし。十年過ぎ、白鷺が飛んで行くのを見てはや船をだして鬼ヶ島へ。彼らを配下に。これを聞いた後白河院がおどろいて茂光に命じ五百余騎、兵舟二十余を率いて大島へ討伐に」

 だが為朝は、無駄な殺生を嫌って念仏を唱えるが、そこに一陣の舟が迫ってきて矢を射った。沈む舟から兵らが他の舟に移るなどを見て「保元の時は一矢でおほくの兵をころした。あぁ、南無阿弥陀仏」と唱えながら家の柱を後ろに腹をかき切った。「つゐに本意をとげず三十三にして自害して、名を一天にひろめけれ」で終わっていた。

tokyokokurituhaku_1.jpg そして『保元物語』から587年後、江戸は文化4年に馬琴『椿説弓張月』。「保元物語」の優れた武将・為朝の末路が甚だ悲惨だとして、大島で死なず琉球に渡って大活躍の椿説=珍説物語を創作。これが大当たり。浄瑠璃、歌舞伎、簡易読物、錦絵などになって大普及。馬琴の勧善懲悪、道義心、士気高揚を為政者らも利用したりで、大島の「為朝顕彰碑」もその一つかも。

 なお馬琴『椿説弓張月』最後に「為朝神社并南嶋地名辨畧」の項あり。全国の為朝神社が挙げられていた。大島に関しては~「和漢三才図会絵巻の六十七、伊豆国の條下に云(いわく)為朝社は大嶋にあり、祭神鎭西八郎為朝云々。大嶋の為朝の社あること、いまだ詳ならず」と記されていた。

 大島・元町の「為朝神社」(頭殿神社)は藤井家の氏神で神事は十月。岡田港の村に「八幡神社」(写真上)あり。同神社の御神体は為朝が配流の際に奉じた「九重の巻物」。「開かずのお箱」に収められ、開けたら眼がつぶれる。毎年1月15日に正月祭。為朝がテコ(梃子)で溶岩を取り除いた縁起から「天古舞」が奉納されている。

 写真下は『椿説弓張月』より国芳描く「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(東京国立博物館蔵/研究情報アーカイブスより)は、為朝が清盛を討つべく水俣の浦から船出をするも、荒天で転覆瞬間に讃岐院使者と称する天狗らに救われ、紀平治が抱く舜天丸(すてまる、後に琉球王)も沙魚(わにざめ)に救われる図。

 史実(現実)はさておき、戯作者も絵師も長屋の庶民も〝想像力豊かな世界〟を共有して愉しんでいる。これを〝飛んでいる〟と解釈すれば、次の絵葉書「行者窟」へ入りやすい。

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「源為朝碑」伝説の大島 [週末大島暮し]

tametomohi2_1.jpg 興味や出会いなしだと、スルーして無知のままの例も多い。昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットに「源為朝碑」と「行者屈」あり。無関心だったが、いい機会ゆえお勉強。まずは「源為朝」から。

 源為朝は保元1年(1156)「保元の乱」の登場人物。後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇の白河殿を襲った乱。上皇方の源為義・為朝父子は、父が打首で為朝は大島に配流。史実としては概ねそこまでか。

 鎌倉時代の承久2年(1220)頃(年代不詳)に作者不詳の軍記物語『保元物語』が刊。「保元の乱」はじめの武勇は詳細記述も、捉えられた後は、弓が引けぬように肘を鑿で抜かれた。「為朝は伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人ともせず」で、伊豆国を預かる狩野工藤茂光も「あつかひかねる」で終わっている。島での暮し、鬼ヶ島などの詳細は記されていないとか。(次回に『保元物語』を読み、この辺を改めて記す)

 江戸は文化4年(1807)になって曲亭馬琴が、武将末路がそれでは気の毒だと、万巻の書を看破して膨らませた『鎭西八郎為朝外伝 椿説弓張月』(挿絵は葛飾北斎)の前篇を刊。計5編29冊。琉球でも大活躍の椿説=珍説、為朝外伝=正史外の物語に仕上げた。

tametomoya2_1.jpg さて、絵葉書「為朝顕彰碑」(現在は露天風呂〝浜の湯〟管理棟前にある)には、何が記されているのだろうか。「町史」によると大正8年建立だが、摩耗して解読できぬが「為朝公の事蹟を世に伝え、英雄の霊を慰め、更には島の男子の雄心を鼓舞するため」の碑文とか。

 島には為朝が祭神の岡田八幡神社、為朝神社あり。その神事を含め椿説・為朝が満ち満ちている。また島の娘と所帯を持った男性を〝為朝さん〟と云うそうな。加えて「役小角」他にも伝説があって、島民はそれらを上手に語れなくてはいけない。

 写真下は北斎の挿絵。為朝が射った一本の矢が、先陣・忠重の討伐船を撃沈する場面。島民にこの画を見せれば、血沸き肉躍る説得力で語ってくれよう。島民は〝大嘘上手〟で誰もが馬琴さん、北斎さんなのだ。(と記し、そうだ神田古本市で『保元物語』入手を、と思い立った)。

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「菊丸」月島桟橋と投身事件 [週末大島暮し]

kikumaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットの「黒潮小屋」の次は船です。船マニアではないから自信なしも、煙突とマーク、その後ろのアーチ状柱などから「菊丸」と推測した。写真は岡田港で、手前のドロップ(涙)状堤防の内側は漁港かな。

 「菊丸」は昭和4年に就航の759トン。霊岸島~大島~下田、房総航路など。昭和10年に木更津港外で座礁。昭和13年頃に傭船で陸軍船として中国へ。昭和17年より機密津軽防備部隊船として室蘭方面で活動。昭和21年に東海汽船復帰。昭和44年に解体。昭和初期と昭和21~44年に大島航路に就いていたらしい。

 「菊丸」をネット検索したら、小生の記事「辻まこと(3)西木版:もく星号のダイヤ」がヒット。西木正明『夢幻の山脈』で、昭和27年の「もく星号墜落」後に辻まこと・西常雄の両名が、宝石回収に東海汽船・菊丸で竹芝桟橋から大島へ向かった、の記述に、それは間違いだろうと記していた。

 竹芝桟橋船客待合所竣工は昭和28年7月。松本清張著の「遺体は東海汽船の〝菊丸で月島桟橋〟へ帰ってきた」とある。また野口富士男『耳のなかの風の音』は、大島より〝月島桟橋へ帰港途中のK丸〟から実父が身投げした事件の顛末記。辻と西は「月島桟橋」から大島へ向かった、が正しい。

 霊岸島から芝浦桟橋に移ったのが昭和11年。昭和23年3月から月島桟橋で、昭和28年7月に竹芝桟橋になる。昭和初期に霊岸島発「菊丸」で大島へ渡った林夫美子、与謝野晶子、漫画家集団ら多くの文化人が記録を残している。「葵丸」が昭和14年12月に乳ヶ崎海岸で座礁沈没ゆえ、当時のメイン船は「菊丸」。

 時代は遡るが野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』を読むと、同家繁栄を築いたのが母方の祖父・久右衛門で、長男が二代目を継いだが女道楽。東京湾汽船の社長・桜井亀二の娘「菊」と結婚も芸者を落籍。「菊」は離婚し、二代目は信用を失って放浪生活へ。

 その後を潤一郎の伯父(先代の長女の養子婿)が引き受けて手堅く商売していたが、長男が無茶な相場で大損。伯父は大正4年(1915)に、息子の責を負って大島通いの船から三崎沖で投身自殺とか。「菊丸」の前の「豆相丸」だったろうか。

 船は乗客それぞれの悲しく辛い人生も運んでいる。そう思うと、船ってちょっと悲しく重い感じもする。

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黒潮小屋とナチスと三原山人気 [週末大島暮し]

kurosiokoya1_1.jpg 池袋西口「古本まつり」で「ジャポニスム」関連書の他に、面白い絵葉書を入手した。「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セット300円也。

 制作年の印字なし。何時頃のものだろうか。紙袋に「第五種郵便」。そこから昭和26年~五種廃止の昭和41年までの間と推測した。

 15枚の中で、小生まったくわからぬ「黒潮小屋」(写真)があった。これは何だろうか。島関連のネットで、大島公園の現・椿資料館が「元黒潮小屋」と知った。昔の「島の新聞」をひも解く。昭和十三年八月五日号に「太平洋を望む〝黒潮小屋〟大島公園に新登場」の見出し。

 今では想像もできぬ大仰なリード文に思わず笑った。「世界第二位の人口を誇る大東京六百三十万市民の健康・厚生のための近距離〝海の公園〟として~(中略)~面目も一新しやうと昨年から着々工事を急ぎつゝあったが、三年計画第一期工事中の王座たる山小屋が此のほど竣工したので、その一般的開放披露をかねた落成修祓式が去る一日同所で執行された」

 式次第レポート後に施設説明。「落成したロッジは木造平屋建百五十坪、赤瓦のモダンなコッテージ風の建物で、宿泊料は三十銭、休憩料十銭という大衆向きであるが、ベランダに出れば太平洋の黒潮が一望の彼方に見渡せる雄大な気分をそのまゝに『黒潮小屋』と井上公園課長が命名した御自慢のもの(以下略)」。

 同月廿五日発行号にも注目すべき記事。吉阪正隆氏『(大火の)元町復興計画』の項で記した「日独伊三国同盟でヒトラー・ユーゲント(ナチスの少年組織)一行三十名が、東京聯合少年団数百人と共に九月十八日に来島」の報。この東京少年団のなかに語学堪能の吉阪少年もいたのだろう。

 次に同年三月に大島人口の発表。「大島人口は一萬五百人。女性の方が百三十人多く〝女護の島〟の観を呈していると分析。大島の明日は限りなく輝いていた。

 それを裏付けるように、同記事隣に「春は大島へ、来るぞ!一萬人~」。「六日の日曜日に二千人、八日に東京のデパートガールが押しかけ、十日に東京の理髪業五、六十人を混えた四百名。その他に平日ながら四、五百人づつ流れ込む三原山ゴールドラッシュ。島内はまさにあふれるような超景気」とあった。

 昔の絵葉書「黒潮小屋」からのアレコレでした。島は今も輝き続けているだろうか。

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ジャポニスム22:印象派の政経事情 [北斎・広重他]

 目下、日本ではお粗末政治話題で喧しいが、印象派の裏の政経状況を記した吉川節子著『巴里・印象派・日本』を読んだ。「通説の印象派=官展サロンに対抗、落選画家らの独自展覧会の出品者。批評家がモネ『印象‐日の出』を揶揄して〝印象派〟と命名」。

 著者はその「通説」は大違いと記して当時の状況説明へ。小生も同著を離れて当時のフランス状況をお勉強した。1789年フランス革命。絶対王政から共和制へ。(同年の日本は寛政元年。寛政の改革で浮世絵、戯作、狂歌が締められた。山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦重が財産半分没収、恋川春町は自刃か、大田南畝は狂歌を辞めた)

 だが約十年後に共和制から再び王制復活。以後は紛争続き、1870年(明治三年)に普仏戦争(普=普盧西=プロシア=ドイツ)敗北。第二帝政崩壊で第三共和制へ。ドイツへの賠償金や財政赤字を克服後、1873年に王制派マクマオン元帥が大統領。1879年まで王制志向。未曽有の好景気を迎えるも、美術界は保守派画家中心。

 その最中、1874年(明治七年)四月に印象派第一回開催、会場はパリ・キャプシーヌ街三十五番。モネが前年に同地移住で「キャプシーヌ大通り」を描いて同展に出品。大繁華街での開催だった。

 第一回参加者は三十人。出品作は百七十点。三十人のうち十二人が、なんと官制サロンに同時出品。サロン無監査の年配実力者もいたし、モネは二十四歳で、ルノワールは二十三歳で、シスレーは二十六歳で、女性画家モリゾは二十三歳ですでに「官制サロン」入選済。

 第一回印象派展は通説「官制サロン」反抗・落選組の展覧会ではなかったらしいのだ。しかも好景気に少しでも高く多くを売りたい狙いがあったようで、正式名称も「画家、彫刻家、版画家など美術家による共同出資会社第一回展」。

 入場料1フラン(現在の千~千二百円)。全入場者数三千五百人。悪くない数字。モネ『印象‐日の出』は八百フラン(約百万円)売約など、どの作も高額売値。若く貧しい画家のイメージもない。

 だが翌年にフランス大不況。1879年1月に共和派大統領で共和制確立も金融大恐慌。第一回印象派のお買い上げ作品も暴落。株仲買人ゴーガンは年収三千万の生活を失って画家へ。高額所得者・画家らも低所得者へ。若き印象派の画家らは天才ゆえの貧乏ではなく、実際はバブル崩壊による貧乏画家へ。

 画家らはその後もフランス景気に、また王党派VS共和派(町絵師・北斎好き)に揺れつつ生きる宿命~。詳しくは同著をどうぞ。物事は両面を見ないと真実を見誤るらしい。

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ジャポニスム21:古本市で関連書入手 [北斎・広重他]

boston3_1.jpg 池袋西口・古本まつり初日が十八日だった。以後は連日雨予報で初日に行った。かつて同まつりで全作揃いの広重『狂歌入東海道五十三次』を入手。書道系書棚下に文鎮を見つけてから骨董市で文鎮探しも始めた。

 今回はブログ「ジャポニスム」シリーズ中ゆえに、二十九年前の日仏共同企画でパリと国立西洋美術館共催『JAPONISME』展図録を千円で入手した。ジャポニスム資料として貴重な四百頁。片手で持つも辛い重さ。

 次に三年前のボストン美術館浮世絵名品展『北斎』図録を千五百円で入手。すでに所有のボストン美術館所蔵・肉筆画浮世絵展『江戸の誘惑』図録と併せ揃ったことになる。

 以上が物語る通り、浮世絵名作はことごとく海外美術館が所蔵。当時の日本では浮世絵(錦絵)は紙屑同然扱いで、屑屋から紙漉き所へ運ばれる束一貫目(四キロ)が十銭。それらを林忠正がせっせと欧米で売り捌いた。「ジャパニスム12」掲載の歌麿『鮑取り』三枚続が1050フラン(パリ小市民一ヶ月生活費150フランほど)とか。かくして日本の浮世絵は底をついたが、流失先で画家や工芸家らに大影響を与え、かつ大事にされて海外美術館に収まった。

 永井荷風『江戸美術論』執筆が大正二年だった。欧州の浮世絵人気に、日本画や西洋画を真似した日本油絵作をもってパリ展を開催したのが大正十一年。酷評。振り向く人は皆無。大きな〝勘違い〟。反省もなく、荷風没の二十一年後、昭和五十五年(1980)になって、やっと『ジャポニスム(=浮世絵の影響)」に注目した。日本の画家や美術界は相当に惚けていたと言って過言ではない。

 そんな事も記す瀬木慎一『浮世絵 世界をめぐる』も六百円で入手した。浮世絵全般を要約の函入り吉田暎ニ『浮世絵入門』(昭和三十六年刊)を千円で入手。他に北斎川柳の理解に中野栄三『江戸秘語事典』(昭和三十六年刊)も六百円で入手。

 これだけで相当に重かったが、帰宅後に自転車を駆って四谷図書館で岸文和著『江戸の遠近法~浮絵の視覚』、成瀬不二雄著『司馬江漢』(本文編・作品編)を借りた。「ジャポニスム」シリーズ20回で終了と思ったが、新資料入手であちこちに補足追記遊びに相成候。

 国立西洋美術館「北斎とジャポニスム」展が始まった。入場料1600円で図録が3000円らしい。新たな資料展開があるとは余り思えぬのだが~。貧乏隠居には古本と図書館本相手がお似合いかも。

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ジャポニスム20:北斎の艶本 [北斎・広重他]

hokusaiwa2_1.jpg 〝浮世絵=春画〟イメージ&概念は根強い。小生、内緒だが幾年も前の「池袋西口古本まつり」で絵師別春画(林美一&リチャード・レイン共同監修)を五冊入手。北斎は『東にしき』と『縁結出雲杉(いつも好き)』。

 さて「ジャパニスム7:林忠正とは」で木々康子著『林忠正とその時代』を紹介したが、今回は同著者の『春画と印象派』を読んだ。著者の義祖父が林忠正で〝春画流出の国賊〟を払拭すべくの著作。冒頭「はじめに」を要約する。

 ~春画を欠いて浮世絵は在り得ず、つまり春画を欠いて印象派も在り得ず。なのに〝春画〟は常に隠されてきた。欧州の巨大文化(キリスト教文化)による伝統絵画から脱皮せんと闘っていた若き印象派の芸術家らが、江戸の小市民=町絵師が描いた浮世絵の画力、また大らかな庶民の姿や春画からも、人間性回復の勇気を得たのではないか~、その推理を解き明かしたい、と記して検証・分析に入っている。

 本文紹介はブログ一回分で足らぬゆえ小生の経験を記す。「ヰタ・セクスアリス」? いやそんな秘め事ではない。東京オリンピックを二十歳で迎えた。東京がうるせぇ~ってんで、友人と東伊豆に脱出した。食堂の空き部屋で一週間ほど滞在。店主紹介の村営浴場に通った。納屋ほどの小浴場だが、なんと老若男女で賑わう混浴だった。

 なんとまぁ、大らかだったことよ。昭和四十年の東伊豆から江戸時代を想像すれば、まさに浮世絵で描かれる庶民の光景が展開と思われる。働く男らは褌姿で、夏の女性は下着なしの薄着物。古典落語では庶民長屋の壁が板一枚で、屁さえ隣に筒抜けの滑稽を語っている。弥次喜多が東海道の宿に泊れば、隣部屋の新婚を覗いて襖ごと倒れ込む。春画に襖、障子からの覗き絵が実に多い。武家屋敷裏口からは奥女中相手に〝張形売り〟の行商が出入りした。この辺は法政大総長・田中優子先生の著作に詳しい。まぁ、大らかだった。

 欧州絵画の女性像は〝女神〟限定。宗教神話中心ゆえ花鳥風月は最下位の価値領域。だが産業革命の都市荒廃で自然復興に目覚めれば浮世絵の花鳥風月、江戸庶民のイキイキとした姿があった。美術工芸品は『北斎漫画』の花鳥風月を先を争うように取り込んだ。

 著者は「ジャポニスム12」掲載の歌麿『鮑取り』同ポーズで、ミレーが裸の『鵞鳥番の少女』を描いたと指摘。またゴングール「日記」より「今朝、ロダンとブラックモンと食事。ロダンは全く獣じみた様子で、私のエロティックな日本の作品を見たいと頼んだ」。その絵の細部ひとつ一つに感嘆の声をあげた~の記述を紹介。

 浮世絵は西洋から遠近法(浮絵)を学んだが、春画の局部拡大図法に腰を抜かしたに違いない。眼を剥いたロダンのように。そうか、もっと自由に描いていいんだと。著者は「外叔父・林忠正は浮世絵の画法・画力のみならず、パリの芸術家に花鳥風月を愛でる心、人間の本質の素晴らしさを伝えたかったのではないか」と結んでいた。

 写真は北斎『東にしき』一部。「あれサ、こぞうがおきますよ。そんなにせわしなくせずとも、いいじゃねへかナ」。ちなみに、これら絵や絵本を称して和印、読み和、笑い本、笑い絵、独り笑い、あぶな絵、秘画、秘本、写し絵、鏡絵、勝絵、避火図、会本(えほん)、艶本、猥本、エロ本、好色本、色本、春本、籠底書、埒外本など。(続く)

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ジャポニスム19:北斎のバレ句 [北斎・広重他]

hokusaisenryu.jpg かつて宿六心配著『北斎川柳』を読んだ。上品に育った小生は、余りの下劣さに、こりゃ~眉唾だぁとブログに記すのを躊躇した。いい機会ゆえに確認してみよう。

 永田生慈監修の図版本を読めば、巻末に『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』収録の北斎川柳が二百句ほど掲載。飯島虚心『葛飾北斎伝』にもこんな一文あり。「北斎翁、嘗て川柳風の狂句を好み、名を百姓といひ、秀吟頗多し。実に葛飾連の棟梁たり」。

 永田著『葛飾北斎』(吉川弘文館)にも「北斎は文政六年頃から弘化三年(1823~1846)にかけて娘・栄と共に川柳の『誹風柳多留』に投句し、句選も行うなど本格的に活動。お栄も評を行う力量で発表句は七十四句」。さらにボストン美術館浮世絵名品展「北斎」図版のコラム(鏡味千佳)にも、北斎の川柳号は「卍」句が百八十二句、「万字」句が四句、「百姓・百性」句が二十八句。「カツシカ」句が二句。計二百二十五句と記されていた。

 これで宿六心配著は本当のことと納得した。「宿六さん、疑ってすみませんでした」。ちなみに幾つかの句を紹介してみる。~いゝのいゝのを尻で書く大年増/其腰で夜も竿さす筏乗り/まじまじと馬の見て居る麦畑/立ちながらこそ細布はおつぱづれ/擂粉木をきぬたに寺の秋牛房/指人形も居敷から手を入れる/この翁とうとうたらり水っ鼻/無理口説き大根おろしで引きこすり/間のわるさ月の影さす夜蛤/弱よく強を刺レマア寝なんしょ/婚礼を蜆ですます急養子~などなど。

 宿六著の解説をうろ覚えで記せば「立ながら~」は立ってイタす時の滑稽姿。「寺の秋牛房~」は坊主の逸物。「夜蛤」は夜鷹のこと。「馬の見て居る~」は麦畑でイタしている時の光景。性を大らかに笑っているエロ川柳=バレ句=破礼句=艶句ばかり。小生も読み解こうとしたが「江戸の秘語・隠語事典」なくしては解釈できなかった。

 画業には厳しい集中力が求められる。北斎と娘・お栄は、こんなバカ川柳を作っては笑い合って息を抜いていたのだろう。偶然だがお栄さん(応為)の肉筆画に素晴らしい『月下砧打図』あり。北斎の〝わ印〟も、そんな川柳に通じていたのだろう。

 北斎艶本の林美一&リチャード・レイン共同監修の解説を読むと「彼の艶本は文化十一年~文政四年(1814~1821)制作で、欧州で話題騒然の〝タコに犯された海女〟も文化十一年『喜能會之故真通(きのえのこまつ)』の一作、と解説。

 艶本制作期が北斎五十四~六十一歳の頃で、バレ句は六十四歳~八十七歳頃。まぁ、北斎の絶頂期じゃないか。こうなってくると北斎の〝わ印〟にも注目しなければいけないだろう。「ジャパニスム」とは関係なさそうだが浮世絵は町絵師=庶民(北斎は特に貧乏だった)の体制への反抗心、自由、自然生活感があってこそ。それが欧州画家らに強固だったキリスト教伝統文化から脱皮する勇気を促した。(続く)

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ジャポニスム18:北斎・遠近法の謎 [北斎・広重他]

mitiwari2_1.jpg 前項で北斎『〝浮絵元祖〟東都歌舞岐大芝居之図』の遠近法が、歌川豊国を真似ただけとわかった。同右画面の透視線が消失点に集中していたのに、左画面の透視線がズレて(消失領域)いるのは何故だろうか。

 さて、もうひとつ注目の北斎の遠近法が『北斎漫画(三編)』の見開き頁にあった。右図は「三つわりの法」(写真上)。画面縦横三等分の線と透視線が二本。黄金比に近い矩形で左右対象構図。北斎文字は「ここにて三寸のたかさにかゝんときハ」「二ツを天とすべし」「一ツを地となす」。北斎は後にこの構図で『富嶽三十六景・深川万年橋下』を描いた。

 解せぬが左頁図(写真下)。木が約4:6で左寄り(靑線)、建造物透視線(赤線)、帆船らしき船が浮かぶ水平線(緑線)。北斎文字は「間のすじにあわせてかくべし」「かくのごとし」と読める。この図は明らかに左右非対象を主張しているような気がする。

hokusaihitaisyo.jpg この両図はオールコック『日本の美術と美術産業』(日文研データベースで閲覧)に銅板模写で紹介されていた。同著はロンドンで明治十一年(1878)に刊。北斎とは記されぬまま日本の遠近法として紹介されたか。

 この左右非対象図をよくよく眺めれば、どこか異国風ではないか。沖の帆船、人物の帽子やコート姿はオランダ人のシルエットっぽい。北斎は、この図をオランダ資料を見て描いたような気がしてきた。ならば、その元図はどこにあるのだろうか。

 そしてパリの印象派の画家らは左右対称図には見向きもせず、消失点がズレた左右非対象で奥行きを演出したを風景画を幾作も描いていたような~。

 ならばこの左右非対称図はオランダ~日本~ロンドン~パリ~日本を駆け巡ったように思えて、ちょっと愉しくなってきた。次が北斎のバレ句(艶句)について考えてみる。(続く)

 ★なお、岸本和著『江戸の遠近法』を読んだので、その内容を前項「ジャポニスム17」に大幅追記した。同著は多数の歌舞伎座内図に小生と同じく透視線を引いて詳細考察されていた。

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ジャポニスム17:北斎が学んだ新画法 [北斎・広重他]

hokusaisibaizu.jpg 「ジャポニスム15」文中、荷風文の「(北斎が学んだ新画法は)司馬江漢が西洋遠近法の応用」を引用した。また「彼が司馬江漢の油絵並に銅板画によりて和蘭画の法式を窺い知りしは寛政八年の頃」なる記述もあった。鍬形薫斎(北尾正美)からも勉強したのだろうか。この辺が詳しく知りたくなった。

 荷風『江戸芸術論』、飯島虚心『葛飾北斎伝』に加え、大久保純一『北斎』、永田生慈の『葛飾北斎』他を読む。

 北斎六歳の明和二年(1765)に鈴木春信が多色摺版画=錦絵を創始。この年、司馬江漢が十九歳で春信門下になる。神田の春信の借家に平賀源内が入居。近所の杉田玄白、宋紫石らも在住。錦絵は源内の発案との説がある。安永七年(1778)、北斎十九歳で勝川春章に入門。翌年に平賀源内が没。天明三年(1783)に司馬江漢が「銅版画」制作に成功。

 平賀源内で「おゝ」と気付く。この時代は蘭学を通じて西洋文化が入っている。十八世紀前期に中国経由で透視画法が日本に入って「奥村政信」が見よう見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を制作したのが寛保三年(1743)。

 難しく云えば「平行遠近法」から視点を軸にした「幾何学的遠近法」へ。これには江戸中がびっくり仰天で、当時の事件簿に載っているそうな。但し遠景は日本の伝統的絵画の「平行遠近法」が残されていて「共存型」。これは芝居内容を伝えるために意図的なこと。

 そして同世紀後半(明和四年~寛政年間・1767~1801)に歌川豊春、豊国、北尾重政、北尾政美らの浮絵第二世代が西洋から輸入された銅板画を学ぶなどして「浮絵」を改善。具体的には写真のように透視線が消失点ならぬ「消失領域」に集約されるようになった。また遠近法強調に視線を後ろにして遠近空間を広くしている。

 北斎は春章入門後の二十八歳、天明七年(1787)頃に、歌川豊国「浮絵 歌舞伎芝居之図」を参考に左右対称一点透視画『絵浮元祖東都歌舞岐大芝居之図』(写真)を描く。※~と記されているが、小生が両図共に透視線を引いてみれば、目線は二階席の高さで、右側透視線は消失点に集中しているが、画面左側は豊国と同じく「消失領域」で視線がやや彷徨っている。北斎が「浮絵を改善」とは言い難く、それで〝浮絵元祖〟はおこがましい。彼の〝てらい〟性なりとわかる。北斎はこの頃から遠近法強調作を描き始めている。

 次に大きな画法習得は、中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保十六年(1731)に長崎に渡来して始めた南蘋派(江戸では唐画)から、色の濃淡でリアル写実(質感)の描き方を学んだ。

 そして銅版画習得へ。その代表作が『銅板 近江八景』や『阿蘭陀画鑑 江戸八景』(文化八年~十一年頃)。これは本物の銅板画(エッチング)ではなく、その描線(ハッキング)を模した作品群。大久保著では年代的及び普及度から司馬江漢の後の「唖欧堂田善の江戸名所銅版画」から学んだのだろうと推測していた。

 ★岸文和著では「(こうした経緯をもって)北斎や広重は〝浮絵という風俗画領域〟から、浮世絵を〝風景画領域〟へ進めた」と記していた。また同著では北斎の弟子・昇亭北寿「東都両国之風景」について、豊春とも春朗(北斎)とも趣を異にしていると注目。これは同著の81年前の荷風『浮世絵の山水画と江戸名所』で「空と水の大なる空間を設けたること(中略)山水画に光線を表示せんと企てたる事なり」と記していた。81年前の荷風洞察の鋭さをまた認識です。

 北斎は弘化五年(1848)の絵手本『画本彩色通』二編末に、腐食銅板画の説明を記しているそうな。なお司馬江漢は江戸の町屋生まれ。源内の鉱山探しに同行した奇人だそうで、ぜひ調べ知りたい人物です。

 次が油絵のお勉強。文化前期・中期頃に油絵風五作あり。石垣模様の縁取りで、ひらがなを横書きした英語風「ほくさいゑがく くだんうしがふち」。九段坂の急なお濠崖が〝板ぼかし〟で重厚な油絵風に仕上げられた作。銅板画と同じく、これも絵手本『画本彩色通』初編に荏油(えのあぶら)の作り方が絵入りで紹介されている。

 写生力、画題の広範さに加えて、これら北斎の西洋画法の試みもあって、印象派画家らから身近な存在として迎えられたようにも思える。次は『北斎漫画』に描かれた不思議な遠近法の謎について。(続く)

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ジャポニスム16:北斎の戯作&画 [北斎・広重他]

tokitaro2_1.jpg 今回は〝おまけ〟で、北斎が「時太郎可候」名で戯作者&絵師で仕上げた『竈将軍勘略巻』の巻末「舌代」文と自画像の模写遊び。

 同作の刊は寛政十二年(1800年)。北斎四十一歳。「戯作者&絵師」は山東京伝が絵師・北尾政寅でもあったように当時は特別珍しいことでもなし。この世で隠居中の小生も、現役期はライター&デザイナーだった。以下、参考原画は国会図書館デジタルデータベース。「漢字くずし方辞典」を久々に紐解いての筆写です。

 舌代 不調法なる戯作仕差上申候(つかまつりさしあげもうしそうろう)。是ニ而(にて)、御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々當年評判すこしもよ路しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(早々=急ぎ書き、不具=気持ちを充分に言い表わせていませんがの意の手紙結文) 十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 参考:鈴木重三校注

 作者名「時太郎可候」の時太郎=幼名。可候=かこう(そうべく、そうろうべく)。北斎が勝川派から離脱して「春朗」から琳派「宗理」改名が寛政七年頃。そして「宗理」を捨てて「可候」へ。「北斎」に至る狭間期で未だ前途厳しく、絵一筋の心持に至らずの「戯作&絵」だったのだろうか。未だ馬琴と大喧嘩をしていない。

 だが自画像を見れば、江戸時代の四十歳らしく?すっかりお爺さん姿。しかし本領発揮はこれからで、相当に奥手(大器晩成)だったと再認識です。

 これでシリーズ終了と思ったが、北斎について知りたいことが幾つも出てきた。北斎は〝遠近法〟をはじめの新画法をどのように身に付けてきたのだろうか。次はその辺を探ってみる。(続く)

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ジャポニスム15:荷風の北斎論Ⅱ [北斎・広重他]

hokusaitera.jpg 荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」の続き。『北斎漫画』については周知多々ゆえ省略し『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』の記述を読む。

 「これら諸作はいづれも文政六年以後の板行せられしものにして、北斎が山水画家としてまた色彩家としてその技量の最頂点を示した傑作品たるのみに非ず、その一は司馬江漢が西洋遠近法の応用、その二は仏国印象派勃興との関係につきて最も注意すべき興味ある制作なりとす」

 北斎の遠近法には快感さえ覚える。またその線は日本画の線を廃し、能ふ限り柔かく細き線を用ひたれば、色彩の濃淡中に混和して分別しがたきものあり。これは浮世絵在来の形式の超越、西洋画の新感化を応用なり、と分析する。

gakyouhaka.jpg 「文政六年歳六十余に初めて富嶽三十六景図の新機軸を出(いだ)せり。北斎は全く大器晩成の人にして、年七十に及んで初めて描く事を知りたりと称せしその述懐は甚だ意味深長なりといふべし」

 次に色彩について。「その色彩は絵画的快感を専らとしたり。天然の色彩を離れて専ら絵画的快感を主にしたるものならずや。(中略)これは色彩板刻から得たものだろうが、仏蘭西印象派の画人らが初めて北斎の板画を一見するや、その簡略明瞭なる色調の諧和を賞するのみならず、あたかも当時彼らが研究しつつありし外光主義の理論と対照して大に得る処ありとなせしものなり」

 それによって印象派の画家は、北斎の山水板画を以て成功したのだろう、とまで言っている。特に富士山の陰影は黒く暗く見ゆるものにあらずの新理論は印象派の主張と一致すると指摘。荷風さん、子供時分から岡不崩に絵を習い、仏語の北斎論も読み込んでいるだろうから、その観察眼・指摘を侮ってはいけない。

 写真は三年前の春、自転車で元浅草・誓教寺の北斎お墓を掃苔して撮ったもの。1893年(明治二十六年)にも書肆・逢枢閣主人で浮世絵商の小林文七が、写真師・小川一真を伴って写させている。飯島虚心『葛飾北斎伝』にも載ってい、また「これを欧州に贈りたる」とあるから、林忠正の手を通してゴンス、ゴンクールの手にも渡ったのだろう。

 写真家・小川一真については「青山・外人墓地」シリーズの「荷風と下水道とバルトン」や「凌雲閣設計と写真とバルトン」に登場済。彼はまたフェノロサや岡倉天心との関係あり。(続く)

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ジャポニスム14:荷風「泰西人の北斎」 [北斎・広重他]

kafuedo1_1.jpg 今回は永井荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」を読む。荷風はまず日本人による優れた北斎評がないのを歎く。

 「泰西人の北斎に関する著述にして余の知れるものに仏国の文豪ゴンクウルの『北斎伝』。ルヴォンの『北斎研究』あり。独逸人ペルヂンスキイの『北斎』。英吉利人ホルムス『北斎』の著あり。仏蘭西にて夙(つと)に日本美術の大著を出版したるルイ・ゴンスはけだし泰西における北斎称賛中の第一人者なり。ゴンスは北斎を以て日本画中の最大なるものとするのみに非ず、恐らく欧州美術史の最大名家の列に加ふべきものとなし~」

 まぁ、日本人の情けないことよ。日本では1893年(明治二十六年)の書肆・逢枢閣を営む浮世絵商・小林文七から出版の飯島虚心『葛飾北斎伝』くらいか。だが同書を読めば経歴・逸話を集めた書で、北斎絵画評ではなし。同書は鈴木重三校注で岩波文庫刊。原文はARC古典籍ポータルデータベースで読める。

 ★追記:荷風さんが同著執筆は大正二年(1913)、没年は昭和三十四年(1959)。日本の美術関係者が「ジャポニスム」に注目して執筆開始は昭和五十五年(1980)前後から。日本の画家はじめ美術関係者の眼と頭は相当に惚けていたと言っても過言ではなさそうです。

 さて、荷風さん改めて「そもそも何が故に斯くの如く(北斎が)尊崇せられたるや」と分析・考察。北斎称賛要素に「堅実な写生力」と「画題範囲の浩瀚無辺」を挙げた。

 まず写生について。日本画古来の伝統法式ではなく、その円熟の写生が泰西美術の傾向と相似たる所で、その写生力が泰西鑑賞家らにとって「初めて日本画家中最も己に近きものあるを発見し驚愕歓喜のあまり推賞して世界一の名家となせしに外ならざるなり」

hokusaiden1_1.jpg その写生力は観察力の凄さ。印象派と同じく性格の表現に重きを置かんとして、人物禽獣は飛躍せんばかり。彼は浮世絵、琳派、狩野の古法、支那画、司馬江漢に西洋画を学んだが〝写生の精神〟は始終変わらず。老いてなお、観察はさらに鋭敏にその意気いよいよ旺盛。この点において北斎は寔に泰西人の激賞するが如く不覊自由(ふきじゆう)なる独立の画家たりといふべし。

 次に画題範囲の浩瀚無辺について。筆勢の赴く処、縦横無尽に花鳥、山水、人物、神仙、婦女、あらゆる画題を描き尽せしもの古来その例なし「一驚せざるを得ざるべし」と記す。

 さらにその制作は肉筆、板刻の錦絵、摺物、小説類の挿絵、絵本、扇面、短冊、図案等各種に渉りてその数夥しい。そのなかで泰西人称美の第一は『北斎漫画』などの絵本、第二は『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』等の錦絵。第三は肉筆掛物中の鯉魚幽霊または山水。第四は摺物なり。長くなったので区切る。写真は岩波文庫『江戸芸術論』(全集では第十四巻収録)と飯島虚心『葛飾北斎伝』。(続く)

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