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司馬江漢21:定信の子飼い亜欧堂田善 [北斎・広重・江漢他]

 司馬江漢シリーズ「終わり」と思ったが、小生は「ジャポニスム17~北斎が学んだ新画法」で「大久保純一著『北斎』では(北斎が学んだのは江漢の遠近法ではなく)年代的及び普及度から〝亜欧堂田善の江戸名所銅版画〟から学んだのだろう」なる記述を紹介した。やはり亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)も調べ知りたい。

 細野正信著『司馬江漢~江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売選書、昭和49年刊)他より「亜欧堂田善」を簡単要約でお勉強です。

 亜欧堂田善(善吉)は、延享5年(江漢生の翌年)に白河藩の中心地、福島・須賀川に生まれた。代々農具商の5代目の次男。兄は家業を継ぐと同時に狩野派に学んだ画家。善吉は兄から絵の手ほどきを受けた。兄弟はやがて染物業異国屋に転業。〝異国染〟は鈴鹿・白子で栄えた紙型(現在も文化財)で、同技術は「応仁の乱」で京都と伊勢に二分され、京都では雁金屋(尾形光琳の父)が隆盛を極めた。一方、伊勢の型彫師は全国行脚の商売で、吉宗時代に隠密的性格を帯びて名字帯刀。この伊勢型紙が江戸進出で「江戸小紋」になったとか。

 著者は福島の異国染もそうして伝えられたものだろうと推測。善吉は型紙彫と併せて画業の精進も続けて、白河藩主・松平定信が彼の腕を認めた。天明7年(1787)、田沼意次が失脚後に徳川家斉が11代将軍で、定信が老中になった。

 定信が老中首座を退いた時から書き始めた『退閑雑記』には、寛政6年(1794)に善吉を見出し、お抱え絵師・谷文晁に学ばせた。同年、江漢『西遊旅譚』は久能山を描いたとして絶版命。寛政8年頃に善吉は紺屋を知人に譲って白河城下に住み、定信の御用画家的存在へ。寛政10年、定信は彼を江戸藩邸に呼び寄せ「銅版法を習い製作せよ」と命じた。その時に見せられたのが大黒屋光大夫が帰国の際に持参したオランダ版世界地図。すでに江漢が模刻済も、さらに精密なものを作れと命じたらしい。

 善吉は4年ほど長崎で銅版画修行へ(ウィキペディア)。一方、定信は「寛政の改革」を展開。山東京伝が手鎖50日の刑、版元・蔦重が財産半分没収、恋川春町が自刃?に追い込まれている。文化2年(1805)、善吉は『鈴ヶ森』で銅板画・亜欧堂田善としてデビュー。号は定信が授けた。同年、江漢は59歳、田善58歳。すでに江漢は蘭学者グループから孤立し、同年の『頻海図』を最後に銅版画から手を引いた。

 田善は定信の力をバックに検印なしで銅版画を次々発表。銅板画が江漢から田善へ移行した裏には、びっしりと田沼意次~松平定信の政変があったと推測して間違いなかろう。著者・細野忠信は、田善を〝体制側子飼い名職人〟と評していた。その通り、田善は定信が致仕(隠棲)する文化11年頃には須賀川に帰郷。政局は再び田沼グループの水野忠成が老中へ。

 江漢の「死亡通知書」だが、死亡宣告後は市井の民としてホンネで生きて行こうという思惑もあったような気がしないでもない。「寛政の改革」で狂歌から身を退いた大田南畝(蜀山人)は「白河の清き魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」とこっそり詠ったらしい。

 なお田善は4年間の長崎修業をしたらしいが、同著には勝本清一郎が「田善はオランダに密航して銅版画を学んだという話は奥羽史料にもある」と記していると紹介。どの史料かは定かではない。これは余談になるが、勝本清一郎と云えば、永井荷風の別れた妻・静枝のその後の若い愛人。その後も竹下夢二の愛人から徳田秋声と同棲した山田順子の恋人でもあった人物。その顛末は、徳田秋声自身が書いているそうな。

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司馬江漢20:己の「死亡通知書」配布 [北斎・広重・江漢他]

jiseigo2_1.jpg 『春波楼筆記』を記した翌文化9年、江漢は新銭座の家蔵を売り、終の棲家を吉野に定めて旅立った。だが親類に預けた金子が遣われたと知って、1年ほどで江戸へ戻った(『無言道人筆記』)。『吉野紀行』を記し、今度は己の死亡通知書『辞世ノ語』(文化10年・1813年)を配布。ここは絵とくずし字お勉強。

 江漢先生老衰して、画を需(もとむ)る者ありと雖(いえども)不描、諸侯召ども不往、蘭学天文或ハ奇器を巧む事も倦ミ、啻(ただ)老荘の如きを楽しミ、厺年(去年)ハ吉野の花を見、夫よりして京に滞る事一年、今春東都に帰り、頃日(けいじつ=近頃)上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠摂禅師の弟子となり、遂に大悟して後病(わずらい)て死にけり。

 一、万物生死を同(おなじう)して無物に復帰(またきす)る者ハ、暫く聚(あつま)るの形ちなり、万物と共に尽ずして、卓然として朽ざるものハ後世の名なり、然りと雖、名千載を不過、夫天地ハ無始に起り無終(むじゅう)に至る、人(ひと)小にして天(てん)大なり、万歳を以て一瞬のごとし、小慮なる哉 嗚呼 七十六翁 司馬無言辞世ノ語 文化癸酉(十年)八月

 前述通り「七十八翁」は虚構で、正しくは「六十七歳」。「万物生死~」からの文は老荘思想だろう。この「死亡通知書」後日談に、こんな逸話もある。西脇玉峰編著『伊能忠敬言行録』(大正2年)の<交友門弟>「司馬江漢」の記述~。

 「某江漢の後背を見、追うて其の名を呼ぶ。江漢足を逸して走る。追ふもの益々呼びて接近甚だ迫る。江漢首を廻らし、目を張り叱して曰く、死人豈(あに)言を吐かんや。再び顧みずしてまた走り去れりと」(この逸話は木田寛栗編「画家逸事談」にも紹介されていた)

 さて司馬江漢は、北斎ほどに絵を極めたわけでもなく、良沢のように蘭語を極め、玄白のように医学に情熱を注いだわけでもない。その意では、やはり師匠・平賀源内にどこか似ている。知的遊民、ディレッタント的要素を受け継いだフットワークのよい反骨精神で自由に時代を走り続けた人のようにも思われる。虚無的な人生観を語って、文政元年(1818)10月21日、72歳で没。

 長くなり過ぎたので、ここで司馬江漢シリーズを一応終える。しかし生涯を辿っただけで、様々に考えるのはここからだと思っています。多くを図書館本、国会図書館デジタルライブラリーなどに依ったので、せめて『春波楼筆記』くらいは蔵書し、書き込みもしつつ読み込みたく思っています。次回に参考書籍を一覧。

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司馬江漢19:晩年の老荘著作群 [北斎・広重・江漢他]

 江漢の晩年著作を年代順に記す。文化7年(1810)に身辺雑記・人生訓の随筆集『独笑独言』、8年に随筆集『春波楼筆記』、9年に『吉野紀行』、10年に死亡通知書『辞世語』、11年に『無言道人筆記』、12年に『西遊日記』。その2年後の文政元年(1818)10月22日、72歳で没。

 まず文化6年に哲学的な絵『桃栗に地球儀』を描き、文は「桃に生る虫を桃むしと云、栗に生る虫を栗虫といふ。地球に生るを人間といふ。つるんでハ喰てひりぬく世界むし、上貴人より下乞食まで」。天から見れば人に貴賤なし。そんな事が老年になっても不知の者が多いと歎く。さらに顕微鏡で覗き、それら虫の寄生虫も示す。

 「須弥山論説」では、世界の中心に聳える聖なる山・須弥山をもって世界観を解く古代インドだが、地球や天体を知れば絶笑・妄説。無智の凡僧なんぞや天地広大なる事をしらんや。こうした視点から体制側を切りまくる。江漢の顔が、老荘思想の哲学者になっている。

 『春波楼筆記』冒頭。~狐や狸が人に罠をかける。酒肴の罠にすれば食い倒れ。小判を罠にすれば欲が膨れて大損し盗みにも至る。女を罠にすれば誰もがひっかかる。そうならぬように狐の稲荷に手を合せて拝むがいい。無欲がいい、度量を過ぎず、中庸が宜しい。

 自身の反省も忘れない。「後悔記」はすでに引用の画歴だが、その最後に「我名利と云ふ大欲に奔走し、名を需め利を求め、此二つのものに迷ふこと数十年。今考えるに、名のある者は躬に少しの謬(あやま)ちある時は、其あやまちを世人忽に知る者多し。名のなき者誤ると雖も知る者なし。是名を得たるの後悔。今にして初めて知れり。愚なる事にあらずや」と記す。

 明治27年に同著を読んだ日本哲学の父・大西祝はショウペンハウエルと一致する。江漢は我国の思想界に於ける稀有の産物といふべきと記した。

 成瀬不二雄は「彼の思想を一言でいうと、西洋天文学と老荘思想とを合せた虚無思想。宇宙は水と火で成り立ち、死は水と火が分離して宇宙の大気に還る。そんな虚無のなかで、人間は欲望に翻弄され苦しむ存在。そこから厭世主義にならず現世的な自然主義と中庸主義に落ち着く」と説明。

 小生、これら著作を読むと、下級武士(徒歩組)の大田南畝(蜀山人)が、司馬江漢(庶民絵師・庶民学者)が長崎に旅立った頃に出版した『鶉衣』の著者、上級武士ながら隠居後の横井也有翁の三者を較べ考えざるを得ない。大田南畝も也有翁はもっと洒脱な虚無観だったような気がするのだが~。次は江漢自らの「死亡通知書」。

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司馬江漢17:悩ましき晩年 [北斎・広重・江漢他]

sensoujisiba2_1.jpg 江漢は長崎から戻って旅行記を、天文学や世界地理、物理などの新知識をまとめ、さらには油絵風景画の代表作を次々に発表。脂がのりきった観がするも、心は暗く、次第に隠棲を望むようになっていたらしい。

 推測するに、その一つの原因は、寛永5年(1703)からの蘭学者らとの孤立化。これは桂川甫周がロシア漂流の帰還者・大黒屋光大夫への質疑応答筆記『漂民御覧記』を批判してのこと。烏有道人筆(匿名)が「盲蛇」と題して〝汝は学者にあらず~不届千万なり〟と激しく逆批判。お抱え医・お抱え蘭学者と庶民学者・江漢の間に溝が生まれたこと。

 翌6年の『西遊旅譚』に久能山を描いたことで絶版命。寛政8年には『蘭学者芝居見立番付』で〝唐ゑ家のでつち猿松〟や〝銅(あかがね)やの手代こうまんうそ八〟と揶揄されたこと。

 江漢、ほとほと厭になったのだろう。文化3年(1806)、60歳になって柳橋万八楼で「退隠書画会」を行う旨の引札を配布。「今茲年已(すでに)耳順(60歳)気力且衰」によって業を門人に譲り閑居すると宣言。開催は翌文化4年だった。

 文化5年から〝江漢奇行〟のひとつ、9歳加算の年齢偽称が始まる。文化6年には浅草観音堂に納めた蘭油『錦帯橋景』が「衆之を奇とし、観るもの堵の如し(群がって)、清浄の地に南蛮の画を揚ぐるは不可なりと因(よ)つて終に之を撤せり」という事件も起きた。(西脇玉峰著『伊能忠敬言行録』より)

 なんと、80年後の明治23年刊の松本愛重著『本朝立志談』(国会図書館蔵)に、その想像情景図が掲載されていた(上写真)。文は「当時は西洋諸国を南蛮と卑しめける世の習いで、諸僧が清浄なる伽藍に蛮画を掲ふるは穢らハしといふ論起りてとり除きぬ」と説明。

 翌文化7年に慈眼寺に寿塔。これには私的な悩みもあったと推測される。「母七十三にして没しぬ。家を捨てゝ諸国遊覧と思ったが、人道にあらずと親族に諫められて~」、42歳で長崎に旅立った時は「宿(裏長屋)に妻子置きたる故~」で、この時には所帯持ち(入夫して一女を設ける)。

 だが『春波楼筆記』では「四十を過ぎて後妻を娶るべからず、人四十にして漸く精気衰ふ。女子と小人とは養ひがたし」「今に至りて考えるに、子は無きにしかじ」とも記していた。そんな精気衰ふが原因か、妻とは離別。娘に入夫された門人・江南は小胆者で間もなく不縁。持参金三十両で惣右衛門を入夫させたが早くに没で、二代目惣右衛門は俗人でままならず(昭和17年刊の中井宗太郎著『司馬江漢』より)。墓は自分で建てておく他になかったのだろう。

 かくして公私共に厭なことも次々に起こっての隠棲だろう。ついには己の「死亡通知書」配布に至る。隠棲となれば、筆峰は遠慮なく鋭くなる。次は晩年の著作集について。

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司馬江漢16:地動説を説明 [北斎・広重・江漢他]

tidousetujiga_1.jpg 次は寛政8年(1796)『和蘭天説』。朝鮮文字、韃而靼文字、西洋文字の例をあげ、諸国商船は万国に通じていると説明。さらに関心は宇宙に飛ん太陽系惑星図(水・金・地球と月・火・木・土星)と、公転周期(地球は約365日など)も説明。

 そして象限儀之図(四分儀)、起源儀之図(六分儀)で、天体の角度を測定して現在地の緯度を知る法。(ブログ「古代の天文学」さんは江漢の図を見て、絵を真似ただけで観測装置に無知だとわかる、と記していた)

 さらにコペルニクス紹介。「刻白爾(コペルニカナ)ト云人ノ説ニテ、日輪ハ天ノ中心ニアリテ運転シ、月ハ大地ヲ中心トシテ施リナガラ~」ちなみにコペルニクスは地動説『天体の回転について』の発表を25年余もためらい、70歳の死の当日に校正刷り(1542年刊)だったとか。それでも100年余後のニュートン万有引力の法則(1687年、元禄元年の前年)をもって、初めて「地動説」が受け入れられたらしい。

 江漢は上記説明に続いて雨、雪、雷、隕石、太陽の黒点、虹、蜃気楼、地震、干潮、温度、火山などを説明。同年は他に『天球図・天球全図』(禽獣人物異形ヲ以テ星ノ名トス=星座図)を紹介。一転して顕微鏡で見る小虫や雪の結晶などミクロ世界も紹介。文化2年に『頻海図』(アジア海図)、文化5年(1808)に『和蘭通舶』で五大陸風俗から西洋画法、銅板画までを説明。

tidousetu_1.jpg この時期の江漢からは、西洋知識の啓蒙普及に情熱を燃やす姿が浮かんで来るも、絵師として油絵の風景画代表作も次々発表していた。寛政6年(1794)『捕鯨図』(石井柏亭が布置・写形・着彩すべてよく傑作と称していた)、寛政8年『相州鎌倉七里浜図』、寛政9年『富嶽遠望図』『品川沖図』、寛政10年『品川富士遠望図』、他に『駿河湾富士遠望図』や『犬のいる風景図』など。

 銅版画から油絵へ、西洋の新知識普及、旅日記など脂がのりきった大充実期と思われるが、どうやら、その裏でジワジワと〝陰〟が忍び込み、次第に彼の頭に厭世の人生・世界観を膨らんでいたらしい。挿絵上は文化5年(1808)刊『刻白爾天文図解』の江漢自画像。挿絵下は地動説の説明図。(国会図書館蔵)

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司馬江漢15:地球・天体の著述へ [北斎・広重・江漢他]

sibacikyuzu1_1.jpg 江漢は長崎から戻ると『西遊旅譚』の絵と文のまとめ、各スケッチから油彩代表作を描き、さら長崎で入手の書物から天文学、世界地理、物理への興味を募らせ、これら模写・説明にも熱中した。

 黒田著「司馬江漢の自然科学的業績について」冒頭に~ 「司馬江漢は我国洋画の先駆者であると共に窮理学(物理学)の開拓者である。『和蘭天説』『刻日爾天文図解』等の著述を通じて、我国に初めて地動説を紹介した彼の業績だけでも明白である。またこれら知識を旧思想打破の一武器として利用しやうとした感がある。窮理学的業績が彼を思想家、哲学者に仕上げて行った」

 成瀬不二雄も「西洋の進んだ世界を紹介し、控え目ながら開国貿易論、人間平等論を説くなど鎖国体制下の進歩的思想家としての業績も評価したい」。これら著作を年代順に簡単に紹介してみる。

 寛政4年(1792)に『銅板輿地全図』『輿地略説』。「輿地=ヨチ、万物をのせる地=地球」。地球儀風平面図で世界の大陸を紹介。寛政5年に『地球図』『地球全図略説』。勝手現代訳で読めば「余絵事の余暇に、オランダ舶来の奇器画図の類を模写する。すでに西洋の銅版画法を考察し、すでに諸図を新製して人に見せて来た。今、その法でかの西洋の図を得て、是を模写して銅版に刻す~」

gesyokuhoka_1.jpg こんな調子で南極、北極、赤道、夏至と冬至、黄道、月蝕、日蝕などを説明。「月は一つの水晶の玉の如くにて、ひかりなきものなり、日の光りを受け、映じ照して光をなす、(略)~(月と日が)行合重なるときに日蝕するなり、又日月の間に地を隔て月地のために塞られて月の光を失ふゆへ、月蝕する也」

 緯度・経度、五大洲の説明。「エウロツパ諸州の人、遠く此諸国に船を通じ、其物産を交易しとなり、余先年長崎に遊し時~」と体験談も交える。熱帯、極寒地の人々の絵も描く。

 東海道ブームで旅行熱が高まる江戸で、江漢さんは海の向こうの五大陸、天文知識を披露。隣の熊さん・八っさんが「江漢先生よぅ、あっしも〝士農工商〟の窮屈な江戸から飛び出せるかなぁ~」なぁ~んて訊ね来る光景が浮かんで来る。挿絵は国会図書館デジタルコレクションより『地球図』(1巻)、月蝕・日蝕図(2巻)です。

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司馬江漢14:捕鯨体験記 [北斎・広重・江漢他]

kujiraawase_1.jpg 江漢は天明8年11月16日に長崎から船で平戸嶋に渡った。当地はシビ(鮪)漁が盛ん。

 21日、壱岐守(平戸藩第9代藩主、松浦静山侯、文政4年・1821年に全278巻『甲子夜話』刊。ちなみに妾腹33人の豪)書斎へ。侯は多数蘭書、西洋絵画、地図類を蒐集。宿に戻って、亭主に殿様から薄茶と菓子を戴いたと言うと、胆を潰した。22日、足軽船方宅に泊。翌日より平戸見物とスケッチ。

 9月4日、生月島へ渡る。鯨師・益冨又左衛門と倅・亦之助がいた。鯨の実談をせんと逗留。8日、鮪発見に、漁師の舟に乗る。6艘で網を囲み、引き上げるのを見物。13日、鯨来る。カコ6人の鯨舟に乗るも未発見。16日、鯨来る。前回に懲りて船に乗らぬと思うも、急き立てられて乗舟。矢の如く疾走。

 7、8艘が鯨を取り巻き、鯨の背に舟を乗り着けるようにして17本の銛を打ち込む。鯨の両側に3艘づつで剣を打つ。鯨が弱った段階で一人が鯨の潮吹きの処に登って穴を穿ち綱を通す。1人が海へ飛び込み、鯨の腹へ大網を回し込む。舟2艘に丸太2本を横に渡して鯨を支え吊り(沈まぬように)、午後10時に鯨の解体地へ着岸。一番大きなセミクジラで大きさ15間。17日、人足10人が各々長刀で解体。油200樽。金400両なり、鯨は捨てるところなし。

kuaitaawasw_1.jpg 江漢は同地で大晦日・正月を過ごし、1月20日に下関から筑前若松船の百石積の船に乗った。船賃40目、古き布団1貫200で出航。備前(岡山)牛窓で上陸し、大津の先の草津宿追分から中山道経由で寛政1月4日に江戸着。

 なお『画図西遊旅譚』は国会図書館デジタルコレクションで、『江漢西遊日記』は東京国立博物館アーカイブスで閲覧できる。『西遊日記』は出版を諦めたことで、自由に記した自筆書。大正5年(1916)に陸軍士官学校で英語講師奉職中の岡村氏が同校書庫で発見まで眠っていた。昭和2年に黒田源次・山鹿誠之助校注で坂本書店から刊。同年に与謝野寛・晶子、正宗敦夫編『日本古典全集』の『江漢西遊日記』で刊。

 挿絵は『西遊旅譚』4巻の捕漁之図、解体之図。「鯨漁之図」の図中文字は「鯨頭を出し海上にあらハれ気を吹、即夫を見て魚〇(モリ)を投、気を吹終れハ尾を出し波を扣(たたい)て海底に入」「鯨舟ハ二十艘を出す、其他勢子舟いづる、又網舟を出す、双海と名づく、一結と云ハ網舟二艘に通舟二艘なり、此島にて三結を出す、三結ハ皆にて六艘、網舟ハ大船なり、是網を積故なり」

 なお挿絵上の捕鯨図は、寛政6年頃に数点の油彩に仕上げている。石井柏亭著『画人東西』(昭和18年刊)で、「布置(ふち、配置)と云ひ写形着彩と云ひすべてがよく整って居り~と称賛されていた。

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司馬江漢13:長崎日記 [北斎・広重・江漢他]

dejimaawase_1.jpg 江漢『西遊旅譚』と『西遊日記』のクライマックスは長崎。簡略に記す。小生、長崎知らずゆえ、机上に地図を広げる。江漢の長崎着は天明8年(1788)10月10日で、約一ヶ月滞在。

 まず高き処「浦上」より入る。おらんだ屋敷(出島の商館)、唐人屋敷(中国人居留地)を望み、湾内に7,8隻の唐船。遠くにおらんだ船1艘。「長崎町数九十六、町中石段多し、旅館はなし、旅人滞在を禁ず」

 「おらんだ部屋付き役」稲部松十郎宅へ滞留すべく訪ねる。夕方に「おらんだ大通詞」吉雄幸作(『解体新書』序文を記す)、本木栄之進(通詞で蘭学者。ラテン語やフランス語にも通じ天文・地理・暦学関係の10数冊の蘭書を翻訳。『天地二球用法』でコペルニクス地動説を初紹介。(江漢の江戸に戻ってからの窮理学系出版物の多くは、彼の翻訳書に頼ったような気がする)

 11日、幸作宅へ。二階の「おらんだ座敷」(幸作蒐集の洋書、絵画、器具が陳列)を見学。12日、御崎観音へ(長崎から7里の半島先端)。13日、三崎からの帰路で初めて唐人を見る。16日、南京寺を見て丸山町へ。大夫揚代二十七匁。夜芝居を見学。

kabitantunagi_1.jpg 17日、出島は坊主、総髪出入りならずで、剃って野郎(商人風?)となり江助を名乗ると決める。21日、町役と丸山で大夫を揚げ、泊る。22日、通詞方で交易の話を聞く。23日、唐船に乗って見学。24日、吾が白河侯の隠密と思われていると知り、江戸会所商人となって館内に入ることにする。

 25日、江戸会所より門の切手(札)を入手して出島入り。暫く行くと江戸の長崎屋で逢った外科医ストッツルに逢う。彼の部屋へ上がる。その後、通詞幸作の案内で「カビタン(商館長)部屋」へ。初めて黒人に逢う。商館長は江戸で逢っているロンベルグ。江漢に付き添う長崎在住者は、江漢がオランダ人と話している姿に胆を潰す。

 26日、悟真寺で唐人、オランダ人の墓を見る。27日、おらんだ船に乗る。船の詳細スケッチ。28日、通詞と共に唐人60名余の仏参に同行。30日、ビイドロ細工の玉屋訪問。ガラス絵を伝授してもらう。2日、長崎出立を決め、船が出るまで土産購入、挨拶回り。

 以上、多数スケッチを掲載。そのなかより出島とカビタン室内をアップ(国会図書館蔵)。『司馬江漢全集』掲載図には、出島絵には「阿蘭陀人ハ出島ヲ築(キズキ)館ヲ作(ツクル) 一年二銀五十五貫目地代ヲ日本へ出ス」や面積、各施設説明文入り。室内絵には「阿蘭カビタン居所ビイドロ額人物山水をえがく障子ビイドロに張ナリ」などの書き込み有り。

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司馬江漢12:一九や北斎とも絡み~ [北斎・広重・江漢他]

sannin.jpg 江漢は天明8年(1788)4月に江戸を出立し、丸1年で江戸に戻ってきた。即〝旅日記〟を完成だが、東照宮を描いたことで絶版の命。14年後の享和3年(1803)に同絵や文章大幅削除で『画図西遊譚』を刊。

 その前年、享和2年に十返舎一九『浮世道中膝栗毛』初編大ヒット。享和4年(文化元年・1804)、東海道人気にあやかって葛飾北斎も『狂歌入り東海道五十三次=春興五十三駄之内』(広重の東海道五十三次・保永堂版より約30年も前)を板行。

 同年、喜多川歌麿が『太閤五妻洛東遊観之図」(国立博物館蔵)で入牢3日間50日の刑。十返舎一九もベストセラー人気に調子に乗ったか、『化物太平記』で手鎖50日の刑。それを知って58歳の江漢は、首をすくめたに違いない。

 かく厳しい改革のなかで、江戸の出版業界は艶物から一九の道中もの、馬琴の勧善懲悪の読み物へギヤチャンジ。浮世絵も北斎が風景画を前面に押し出し始めた。江漢は文と絵をもって両方のシフトチャンジに拍車をかけた。(と小生は推測)

koube_1.jpg 以上の時代状況を認識した上で、いよいよ司馬江漢〝西遊もの〟を読む。「天明戌申四月二十三日 昼過、江戸芝神僊坐(新銭座)を出立して金川(神奈川)に至る。其日曇て雨なし。従者には宿(自宅の裏長屋)に居たる弟子なり。歳二十位の者にて松前の産れなり、吾此度の旅行はじめてなり、是より肥州長崎の方諸国を巡覧して、三年を経ざれば帰るまじと思ひ立しにや~」

 江漢は描き上げたばかりの『三囲景図』など一連の腐食銅版筆彩作、覗き眼鏡、蘭書などを携帯。4月26日に熱海に着。29日「今井に一碧楼と云有。画など認め、持参した蘭器・書蘭など取出し、皆々に見せけるに、事好なる者もなし、見物山の如し」

 覗き眼鏡を知る好事家などいないから我も我もと大騒ぎ。蘭書の世界地図の見せたかもしれない。封建制度下に生きる人々には驚愕だっただろう。江漢、秘かに啓蒙者気取り。そんな調子で行く先々で長逗留が多く、長崎に本当に行く気があるのかと思わすが、同年10月10日に長崎着。

 ここで道中すべてを紹介するわけにはいかないゆえ、次回に旅のハイライトだろう長崎部分と、例の捕鯨体験の部分を紹介の予定。

 挿絵上は左から江漢・北斎・一九の似顔絵(今までに描いてきた小生絵を合成)。挿絵下は「覗き眼鏡」(神戸市立博物館蔵)。江漢は折り畳み式を携帯。反射鏡で左右逆に映るゆえ、絵は左右反転の遠近法〝浮絵〟で描かれている。

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司馬江漢11:西遊旅譚と西遊日記 [北斎・広重・江漢他]

kunouzan1_1.jpg 天明6年に田沼意次の老中罷免。松平定信の浮世絵、戯作、異学(朱子学の他)などを締め付けるイヤな時代が始まった。江漢はそんな江戸に背を向けるように天明8年(1788)4月、42歳で念願の長崎へ旅立った。

 3年予定も、丸1年で江戸へ帰ってきた。その絵日記〝西遊もの〟を読む前に、心得ておくことがある。江戸に戻った寛政元年~2年(1789~90)頃には、旅の絵と文をまとめた『西遊旅譚』完成も、出版ままならず刊行は10数年後の享和3年(1803)になった。

 寛政6年(1794)に全5巻の版完成も、第1巻に「久能山之図」(静岡県・日本平辺り)に東照宮が描かれていて絶版命。同絵は海際に聳える山にジグザク階段が山頂まで続き、頂きに五重塔や社。問題ありの絵に思えぬが、そこは家康埋葬の東照宮(埋葬翌年に日光へ改葬)。「寛政の改革」がそこまで厳しかったってことだろう。

kunouzan2_1.jpg 文章は「府中より東の方三里久能山あり、海を望て山俄に高し、石段十七曲斜に登る、左に五重塔、唐銅の鳥居入て正面本社、右に経蔵堂、御廟は頂に有、扨此山を下りて一里余行て八部と云所十二景あり」

 東海道は「清水」から西に真っ直ぐも、江漢は海岸線(現150号線)を歩いたか。雪舟描く『富士三保清見寺図』の絶景を見て、描きたかったと推測する。「久能山之図」さえ描かなければ~と思うが、お上は何かと難癖をつけたような気もする。

 なお、この絶版は『司馬江漢全集(一)』に収録、「序」の日付も寛政甲寅(寛政6年)五月。ゆえに「久能山之図」も掲載。挿絵も大量135図で圧巻です。問題の絵を削除し、各地名士らとの交流記述も削除した『画図西遊譚』全5巻(享和3年・1803年刊)は国会図書館データベースで公開。

 そして69歳、己の「死亡通知書」配布後に同旅行を懐かしく思い出し、絵と文を改めた『西遊日記』6冊を清書。この自筆本、なんと大正5年(何故か陸軍士官学校書庫で)発見まで眠り続け、昭和2年に初刊行。

 参考に「久能山」の次に掲載の駿河湾を眼下に富士山眺望の両方の絵をアップ。絵上は『画図西遊譚』(第1巻のコマ番号16)が銅版画を意識してか、鋭く短い筆致の風景画。絵下は国立博物館蔵アーカイブス『江漢西遊日記』(本文17P)は柔らか筆線と濃淡の絵。「久能山観音寺ヨリ富嶽ヲ望図」が、お上に忖度して「八部山ヨリ眺望ノ図」になっている。

 この両絵と雪舟「富士三保清見寺図」、江漢の寛政11年作の油絵「駿河湾富士遠望図」を併せ見るも一興。むろん各「西遊もの」併読がお薦めです。

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司馬江漢10:『蘭学事始』概要Ⅱ [北斎・広重・江漢他]

rangakukoto_1.jpg 杉田玄白は4年間で、原稿書き換え11回。前野良沢は蘭語の完璧解釈が目的だが、玄白は一日でも早く正しい解剖知識をもって治療に役立てたく『解体新書』を刊。

 前野良沢は蘭語勉強に生涯をかけ、中川淳庵は海外の物産研究へ。玄白の許に何度も質問状を送った奥州一関の建部清庵と玄白の往復書簡は『和蘭医事問答』にまとめられた。

 清庵は老人ゆえ門下の大槻玄沢を江戸へ上らせ、玄沢は先輩らに学んだ後に長崎へ。通詞宅寄宿で勉強後に江戸で『蘭学階梯』を刊。新井庄十郎は長崎の通詞の養子だったが、源内の許へ。後に福知山侯の地理学の手助けをした。宇田川玄隋は秀才で根気もあって『内科撰要』全18巻を刊。

 京都の医者・小石元俊は大槻玄沢宅に同居勉学後に、京都で蘭学を広めた。高橋宗吉は玄沢に入門後、大阪に戻って医者になって蘭学を広めた。山村才助も玄沢に入門後、新井白石『菜覧異言』に新知見と訂正を加えて全13巻を刊。

 石井恒右衛門(庄助)は長崎通詞の養子になって馬場清吉。定信侯は彼にドドニュース『本草書』を和訳させた。彼はまた『ハルマ辞書』も翻訳。桂川甫周は秀才でオランダのことは概ね通じて名声広く、将軍より和訳御用を承っていた。

kaitaikokkaku_1.jpg 稲村三伯は玄沢門下で蘭学を学び、全13巻の蘭日辞書『江戸ハルマ』を編纂。宇田川玄真は玄沢門下から甫周の塾で学び、杉田玄白の養子になるも放蕩が過ぎて離縁。その後に『医範提網』を刊。行いが改まったので玄白と昔通りの間柄になった。

 大槻玄沢は将軍家御所蔵の蘭書和訳を命じられた。玄真も同様拝命を受けた。オランダ通詞・元木栄之進の弟子・志筑忠次郎はオランダ文法を研究。文化年間に吉尾六次郎と馬場千之助他らが学んだ。千之助は天文分野で蘭学翻訳。

 『解体新書』から約50年で、かく蘭学は全国普及。その医術は人々の命を救い、鎖国の日本に西洋知識を普及させた。

 挿絵は前野良沢と杉田玄白。玄白資料が83歳の皺だらけゆえ少し若く描いた。写真下は『解体新書』の精緻な小野田直武の模写例(国会図書館蔵)。次回から司馬江漢の〝西遊〟について。

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司馬江漢9:『蘭学事始』概略Ⅰ [北斎・広重・江漢他]

kaitaisinsyo_1.jpg 江漢はまだ江戸に戻って来そうもないので、その間に当時の蘭学事情をお勉強。『解体新書』の杉田玄白が83歳になって当時のことを記した『蘭学事始』を読む。

 まず菊池寛の同題を青空文庫で読んだが、一部クローズアップの小説化。ここでは中公クラシック刊『蘭学事始ほか』から私流概略です。

 まずは平戸出島のオランダ医師による外科手術を見様見真似の「阿蘭陀外科」西流、栗崎流、桂川流あり。それらは読み書きに至らず。八代将軍吉宗が蘭学勉強を許可し、江戸では野呂元丈と青木昆陽に勉強を命じた。

 備前中津藩養子で藩医・前野良沢が晩年の青木昆陽に師事。青木著『阿蘭文字略考』を覚えて長崎留学へ。百日昼夜一心の勉強。小浜藩の杉田玄白と中川淳庵は麹町在住で、長崎遊学の医師・安冨寄碩からアルファベットで「いろは47文字」を習った。

 前野良沢の許に蘭学を学ぶ杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周、平賀源内、司馬江漢らが集った。オランダ通詞の元木良永、馬道良らも仲間に挙げておこうか。時は田沼意次時代で望遠鏡、暗室写真機、寒暖計などの西洋器機も続々入荷。

 当時はオランダ商館一行の長崎から江戸参府が恒例で、宿舎は日本橋・長崎屋。上記の蘭学仲間らがここに馳せ参じた。某日、商館長カランスが、彼らに知恵の輪仕掛けの袋を差し出し「開けられたら差し上げましょう」。誰もがお手上げも末席の源内がスラッと開けた。本草学の源内は、逆に竜骨を披露・贈呈で、カランスは源内に『禽獣譜』『生殖本草』『アイボンス貝譜』などを贈呈。その後に源内は長崎遊学。壊れたエレキテルを入手。

hokusainagasakiya_1.jpg 明和8年(1771)、長崎屋でオランダ人が人体解剖図『ターヘル・アナトミア』『カスパリュス・アナトミア』を譲ると言った。玄白は家老直訴でお金を工面して入手。その直後に千住で腑分けの一報。前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、小杉玄適他計6名が立ち会った。オランダ解剖図に間違いなしと確認した。

 帰り道で良沢、玄白、淳庵、玄適は「せめて『タ-ヘル・アナトミア』一冊でも翻訳してみよう」と約束。以来、良沢宅で1ヵ月6,7回ペースで解読に精魂を傾けた。

 写真は『解体新書』の「解体図」小野田直武模写の扉カット(リンク第1巻の17頁)。写真下は北斎が享和2年(1802)に描いた『画本東都遊』の長崎屋(リンクの29頁)。オランダ商館の江戸参府は寛政2年から4年に1度になっているが、その際に描いたものだろう。画像は共に国立国会図書館デジタルコレクションより。 

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司馬江漢8:源内と直武はゲイ? [北斎・広重・江漢他]

gennai1_1.jpg 江漢が天明8年(1788)に長崎へ旅立ったので休憩余談。

 江漢出立の12年前、安永5年(1776)に平賀源内はエレキテル復元に成功。エレキテル=電気治療器に江戸中が大騒ぎ。だがその3年後に源内は獄中死。翌9年に小野田直武32歳も死去。蘭学・蘭画史の謎。

 それを探って平野威馬雄『平賀源内の生涯』を読めば、解説文が田中優子先生だった。優子先生(現・法政大総長)は自著『江戸の恋』で<源内と直武はゲイだった>と記している。

 ~源内『根南志具佐』は、女形役者の二代目・瀬川菊之丞に捧げた小説。源内は実生活でも役者に溺れた。源内宅には常に男性複数が同居。そのなかで直武は特別な存在。相当の美青年ではなかったかと記していた。

 『解体選書』挿絵をはじめで江戸滞在4年。安永6年に一時帰郷。江戸に戻って1年後に謹慎処分(理由不明)で急きょ秋田に戻された。彼が帰途についた直後に源内の殺人事件~獄中死。直武も半年後に死去。病死とされるも血染めの裃が残されていたとかで、自害ではないかと推測していた。

 「やむにやまれぬ理由で人を斬らねばならぬとしたら、源内はやはり直武を江戸から逃がすであろう。殺人の理由を追及されて、それが直武に係わる事であれば、獄中で自害するかもしれない。一方直武の死が自害ならば、どう考えたって〝後追い自殺〟である」

 また田中優子先生は平野著の解説で興味深い指摘をしていた。「源内は紙で遊んだ人である。源内が江戸に出てきてすぐに四国高松藩(出身地)で作られた「衆鱗図」が幕府に献上された。源内の関わりは不明だが、これは紙に凸凹をつけて感触も愉しむ絵。春信の「錦絵」が源内アイデアなら、春信の「空摺り」(凹凸付け)も源内の発案だろう。

 源内の有名な「金唐革」も紙に凹凸を付けて革を模して煙草入れ、壁紙などになった。源内の「火浣布」も燃えない不思議な紙のようなもの。彼は紙で遊ぶことを教えてくれた人だった、と記す。

 また源内の油絵、直武や秋田藩主・佐竹曙山らの「秋田蘭画」は、日本と中国と欧州の絵がそのまま混在した奇妙な東洋画。それは模倣ではなく完璧に混合形態で、それを阿部公房は「文化のクレオーレ現象」と言っている。秋田蘭画もクレオーレ変異の産物だろうと記していた。

 自分の基礎がしっかり出来ているから、単なる模倣ではなく消化する力が強い。その系譜が源内~直武~鈴木春信~江漢へと繋がった。同様指摘は黒田著にもあった。「当時の洋画家は、それまでの和漢画の素養を放棄せず、むしろ駆使し折衷して独自の画風を生み出している」。小生はさらに続け加えたい。北斎はじめ浮世絵に刺激を受けた印象派らのジャポニスムもまた然りと。

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司馬江漢7:油絵と銅版画 [北斎・広重・江漢他]

masayosie_1.jpg 江漢は『春波楼筆記』に ~吾が年三十の時に仙台侯へ絵の御前披露をした。その時に同席の親和親子(深川在住の書家、篆刻家)より〝足下は唐画描と聞きしに和漢の人物風景山水を描く〟と誉められた、と記している。三十歳で唐絵(紫石門下)としてすでに名を成していたらしい。だが編者・成瀬不二雄は、仙台藩正史にそれは天明元年の記録ゆえ、江漢35歳が正しいと記す。

 年代解釈はさておき、深川で思い出した。清澄庭園から隅田川寄り「アサノセメント深川工場」脇に建つ「平賀源内電気実験の地」碑を撮ったことがある。面倒ゆえ写真探しはしないが、同地は神田を火事で焼け出された後の源内が移転した「深川清澄町の武田長春院の下屋敷」だろうか。源内は安永5年(1776)のエレキテル復元成功の3年後に獄中死。翌9年に小野田直武も秋田で死去。

 二人の死の謎は後述するが、ここでは万象亭『紅毛雑話』掲載の北尾政美画「エレキテル」治療図(国会図書館)を紹介し、次に江漢の油絵習得について調べる。

 江漢『西洋画談』(寛政10年刊)の書き出しが面白い。油絵を説明するにあたってまずは「西洋は唐日本より西にある国土をさして云々~ 其遠く国土を欧羅巴(ヨーロッパ)と名づけ世界の一大州にして~」と世界地理の説明から入る大変さ。

 「西画は蝋油を以て膠に換ふ。故に水に入りても損ぜず。世俗之を油絵と云う」。崎陽(長崎)に遊んだ際に阿蘭人チシングより画帖を贈られた。本は『コンスト・シキルド・ブ-ク』(『紅毛雑話』では「シキルデブック」)。

 黒田著には「当時チシングは長崎にいない。彼の江戸参府が安永9年か天明2年。江漢は蘭学仲間の一員として江戸で彼と交誼を結んだ際に〝仲間共有の書〟として貰ったのだろう。そう推測すれば天明3年の銅版画創製も符号する」と記す。それが正しいだろう。

 すでに万象亭が『紅毛雑話』で同書を訳してい、さらに『解体新書』翻訳の前野良沢、大槻玄沢らにも協力をあおいでの油絵、銅版画習得だったと思われる。江漢の初期油絵の代表作『異国風景人物図双幅』(神戸市立博物館蔵)を黒田著では天明5年頃と推定している。ならば江漢の長崎旅行前で、すでに油絵を描いている源内の油絵具で、画法も源内にも教わったかしらと解釈したい。

(追記:森銑三著作集・第1巻「平賀源内研究」にこんな一文を見つけた。~藤岡作太郎博士は「日本油絵の祖」なる一文に於いて「近世油絵の祖は平賀源内なり」と断定せられ、司馬江漢の油絵は、源内より伝へられたのであらうといはれてゐる)

 同じように腐食銅版画の法も研究。油絵より早い天明3年(1783)に『三囲景図』(神戸市立博物館蔵)を完成。続いて『御茶之水図』『広尾親父茶屋図』『不忍池図』『両国橋図』『七里ヶ浜図』『中洲夕涼図』を描いている。これらは覗き眼鏡用ゆえに左右逆構図。絵上部の題字も裏返し。銅版画をものにした江漢は、それら作品と折り畳み式覗き眼鏡を弟子に持たせて、天明8年(1788)42歳で念願の「画修行のため」長崎に旅立った。

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司馬江漢6:再び人体比率図を~ [北斎・広重・江漢他]

fujinratainozu_1_1.jpg 前回、江戸は明和7年(1770)刊、万象亭(桂川甫周の弟、森嶋中良)編の『紅毛雑話』の人体比率図をアップしたら、美術系友人から「江戸時代にそんな図が出回っていたとは驚いた。文章があれば、それも紹介せよ」の連絡が入った。古文書初心者ゆえ、たどたどしく読んでみた。

 「紅毛の画法附銅板の法」 紅毛の画たるや至れり尽せり。尤(およそ)此道学ぶ者、初めに男女の骨節(骨格の意だろう)を精(くわし)うし。夫(それ)より赤裸(あかはだか)の人物を出き習ひ。其上にて衣服を着たる所を画くにいたる。下に出す画法は「シキルデブック」に載る。一チ二箇を模写して、好事の人に看(かん)に呈す。「シキルデ」は画、「ブック」は書の事なり。扨(さて)銅板(あかねばん)を~ 文章はここから銅版画の法の説明に入っていた。(誤訳あればごめんなさい)

koumougahou1.jph_1.jpgkaonokakikata_1_1.jpg 残念ながら、比率図に関する文章はこれだけ。ついでに「婦人身體之図」と「同異本之式~是はコンパスル矩(さしがね)にて割たる法なり~」(顔の描き方の説明図)もアップ。これまた現在のデッサンの教材と同じ。

 改めて記すが、杉田玄白『解体新書』刊の4年も前、鬼平が火付盗賊改方長官になる17年も前の、明和7年刊の書です。当然ながら以後の絵師らも、むろん北斎も同図を見ていたような気がします。

 国立国会図書館『紅毛雑話』下巻をリンクゆえ、興味ある方はその先もお読みください。他に「骨節之式」「手足之式」「人物活動之式」なども掲載。次回は司馬江漢の油絵と銅版画についてのお勉強に入ります。

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司馬江漢5:源内に親炙して [北斎・広重・江漢他]

mansyouteizu_1.jpg 江漢の師・宗紫石は平賀源内の友人の一人。源内著『物類品隲(ひんしつ)』(宝暦12年・1763刊。前年の「東都薬品会」全1300種展示から360種を掲載・全6巻)の第5巻「産物図会」の絵を担当。著者名は楠本雪渓(宗紫石)。また同著には源内も「鳩渓山人自画」クレジットで砂糖黍を絞る図を描いている。

 当時の源内はオランダ版『紅毛花譜』、ヨンストンス著『禽獣譜』、ドドニュース著『生殖本草』、アンボイス著『貝譜』、ブルックネル著『世界図』などを蔵書。紫石はそれら銅板挿絵を粉本に「ライオン図」なども描いている。杉田玄白『蘭学事始』には、当時の蘭学仲間の交流がいきいきと書かれている。若い江漢は、彼らの西洋情報に胸踊らせていたに違いない。

 同宝暦13年、源内は戯作『根南志具佐』(女形役者に捧げた小説)、『風流志道軒伝』(小人・巨人・足長・女だけの諸国遍歴物語。『ガリバー旅行記』匹敵の物語)刊。源内の才恐るべし。その数年後には平秩東作『水の行方』序文を、大田南畝『寝惚先生文集』序文も書いている。

 明和7年(1770)に鈴木春信、46歳で死去。江漢は源内にたきつけられて(小生説)春信の偽作を描く。同年、前回登場の万象亭(桂川甫周の弟、森嶋中良の著名)が『紅毛雑話』編・刊。驚く事に現在も人体デッサン基本の人体構成比率図を洋書から模写。(写真は:国会図書館所蔵

 明和8年、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らが小塚原の腑分けに立ち会う。その3年後に安永3年(1774)に玄白『解体新書』刊。挿絵は秋田藩の小野田直武。彼は源内が秋田藩の鉱山視察の際に出会った青年。源内が泊まった造り酒屋に良い屏風絵があって、訊ねると直武作。彼に「鏡餅を上から見た絵を描いてごらん」。直武困惑に、源内が洋風陰影を教えたとか。26歳の青年藩主義敦(狭山暁山)も和洋折衷画法の腕を磨いて「秋田蘭画」を形成。藩主は直武に源内の洋画法を学ばせるべく上京させ、その最初の仕事が『解体新書』挿絵だった。

 では源内がいかに洋画を学んだか。彼の長崎遊学は宝暦2年、25歳の時。2回目は明和7年で「阿蘭陀翻訳御用」で長崎へ。だが源内は語学不得手。翻訳勉強をせずに『陶芸工夫書』などを書いていた。だが長崎で観た油絵・ガラス絵・銅版画、そして技法も訊いて「ヨシ!」とばかりに自ら描いてみたのが油絵『西洋婦人図』。手製キャンバスに油絵具で模写。素人の初油絵とすれば上出来だろう。

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司馬江漢4:源内と春信と紫石と~ [北斎・広重・江漢他]

harusigebijin_1.jpg 江漢は最初に狩野派(黒田著:木挽町狩野派4代目・狩野古信では時代が合わぬゆえ、その実子・典信に就いたのだろう)の修行から始め、南蘋派の宗紫石(本名・楠本雪雪渓)に師事した。

 南蘋派については「ジャポニスム」シリーズで調べた。江戸では唐画。中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保16年(1731)に長崎に渡来して始めた派。特徴は色の濃淡でリアルな質感写実の描き方。

 「宗紫石は円山応挙と雁行の存在なり」と黒田著。応挙は円山四条派の大御所。彼は奥村政信の「浮絵」と同じく、オランダ渡来の遠近法で肉筆画、版画製作もしていた(吉田暎二著「浮世画入門」)。吉田著には遠近法で描いた政信と同じような応挙「芝居場内図」掲載。その意では奥村政信、円山応挙、宗紫石ともに雁行なり。

 黒田著は「江漢は紫石に師事しながら鈴木春信の門へ。これは紫石が放任したか、春信門下が先かは不明」と記すも、そこも小生は「ジャポニスム」でこう解釈していた。

 明和2年(1765)に鈴木春信が多色摺版画「錦絵」を創始した年、司馬江漢は19歳。神田の春信の借家に平賀源内が入居していて、源内ベッタリだった江漢は源内と春信の付き合いにも従っていただろうと。杉田玄白、宗紫石らも近所付き合い。紫石は源内著作の絵も描いている。皆、仲間だったんだ。

 芳賀徹著『平賀源内』の「神田白壁町界隈」にもこうある。~源内は明和2、3年(1765~6)の「大小の絵暦」ブームに一枚加わっていた。これは旗本や道楽商人らが連を組んで、暇と金と才にまかせた工夫で、大小の月を絵の中に巧みに隠し込んで張り合った遊び。これによって浮世絵は墨摺り、紅と緑を基本の紅摺絵から「見当」を付けての多色摺りへ。紙も薄い粗悪品から厚手の奉書に。顔料進化、彫工や摺師の腕も磨かれて「錦絵」誕生に至る。

 万象亭著『反古籠』にも「春信は神田白壁町の戸主にて画工なり。画は西川に学ぶ。風来先生と同所にて常に往来す。錦絵は翁(源内)の工夫なり」。この頃の江漢は、源内に従って秩父鉱脈探しにも付き合っている。源内に従えば春信とも交流で、江漢も錦絵誕生の渦中にいたと推測できる。

  なお万象亭の本名は桂川中良。源内門人かつ蘭学の桂川甫周の弟で秀才。明和7年に「紅毛雑話」を森嶋中良の名で編。(平野威馬雄著『平賀源内の生涯』より)

 明和7年(1770)、春信46歳で没。江漢の春信偽作は、源内に〝たきつけられて〟と推測する(これ小生案。多くの江漢研究者が版元・彫り・摺りの世界でそんな偽作は不可能だろうに~と記すも、源内企てなら可能だろう)。また源内が油絵「西洋婦人画」を描いたのも明和8年らしい。

 平賀源内と司馬江漢それぞれの年譜を付け合わてみると、面白いことが次々に発見できて面白い。挿絵は「春信款」の鈴木春重(江漢)「楼上縁立美人画」(国立博物館所蔵)。生前の春信はこんな背景(唐画風・遠近法)は描いていない。美人図より遠近法や背景の描き方の方が主役で、江漢ならではを強調している。 

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司馬江漢3:出自と絵師修行 [北斎・広重・江漢他]

sibahon_1.jpg もう少し江漢の出自・没年を探ってみる。『司馬江漢全集』(八坂書房1992年刊)第四巻末の成瀬不二雄「司馬江漢の生涯と画業」に、こんな記述あり。

 慈眼寺の過去帳に、父と思われる戒名のそばに「丸屋市良兵衛」との注記あり。細野正信氏紹介の儒者東条琴台の記に「江漢は江戸の四谷の生まれ、のち芝新銭座に移った」とある。父母と過ごしたのは四谷で、15歳で父を亡くして財産を失い、母の実家に寓居。後に芝銭座に移った。40余歳で土田氏に入夫して士分となって勝三郎、または孫太夫だろうと推測していた。新銭座町は裏長屋の密集地(芳賀徹著)。

 芝ゆえ「司馬」、号は江漢著『春波楼筆記』の「江漢後悔記」の項に「江漢とは、予が先祖は紀州の人なり。紀ノ国に日高川、紀の河とて大河あり。洋々たる江漢は南の紀なりと、故に号を江漢とす」。江漢と称したのは25,6歳頃らしい。

 黒田著には「江漢享年は72歳説と81歳説あり。81歳説は江漢晩年の空想的産物だろう」で、生まれは史跡文通り延享4年(1747)。生没に関してはこの辺で了とした。

 次は絵の修行について。延享4年生まれならば、その歳の先輩は奥村政信61歳、鈴木春信23歳、平賀源内19歳、杉田玄白・円山応挙15歳、歌川豊春13歳。後輩では大田南畝2歳下、葛飾北斎と山東京伝が15歳下になる。

 江漢誕生の4年前に、奥村政信が中国経由の透視画を見様見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を描いている。江漢誕生の翌年には羽川藤永(経歴不明)が、将軍への挨拶を終えた「朝鮮通信使来朝図」(神戸市立博物館)の一行を透視画で描いている。遠景に富士、江戸城石垣。それを背に常盤橋を渡って本町二丁目を行列する一行図。江漢誕生期には早くも「浮絵」普及だろう。

 そうして絵画状況のなかで、江漢は上記「後悔記」に「我が先祖に画を描きし者ありけるにや、吾伯父は吾親の兄なり。生まれながらにして画を善くす。其血脈の伝はりしにや、予六歳に時、焼物の器に模様ありけるを見て、其雀を紙にうつし、伯父に見せける。十歳頃に至りては、達磨を描く事を好みて、数々描きて伯父に見せけり」

 さらにこう続く。「長じて狩野古信に学べり、然るに和画は俗なりと思ひ、宗紫石に学ぶ、其頃、鈴木春信と云ふ浮世絵師当世の女の風俗を描く事を妙とせり、四十余にして俄に病死しむ。予此にせ物を描きて、板行に彫りけるに贋物と云う者なし、世人我を以て春信なりとす。予春信に非ざれば心伏せず、春重と号して唐画の仇英、或は周臣(共に明代の画家)等が彩色の法を以て、吾国の美人を描く~」

 次回は、この画業経歴の検証です。写真は『司馬江漢全集』と黒田源次著『司馬江漢』(昭和47年刊)。

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司馬江漢2:慈眼寺の史跡看板から [北斎・広重・江漢他]

koukanjigazo1_1.jpg まずは慈眼寺の墓碑・旧跡看板文から、司馬江漢の概要を記して見る。

 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(1770)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋(なんぴん)派の宗紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋画風の教えを受け、天明三年(1783)腐食銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)十月二一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書に「西洋画談」「春波楼筆記」「和蘭通舶」などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。

 墓碑裏面に「資堂金入不許萬古毀」。〝萬古毀すこと許さず〟で今も建っている。さて、史跡看板文としては長文で苦労してまとめられているが、そう簡単に参らぬのが司馬江漢です。黒田著に「関根只誠翁の名人忌辰録に麻布浄林寺に葬る。同寺は廃寺」の記述あり。その「名人忌辰録」を国会図書館データで読んでみた。

sibasisekibun_1.jpg 「名峻字君岳号不言道人俗称勝三郎後孫太夫本邦油絵の祖文政寅年十月廿一日没す歳八十二(※七十二)麻布浄林寺に葬る(本村慈眼寺にも墓碑ありと云えり)江漢は始め浮世絵師鈴木春信の門に入りて重信(※春重)と号し師没後二世春信と名のれり後長崎に行き蘭画を学び油絵銅板の術を得たり文才もありいさゝか蘭学をも伺ひ天文地理暦数の事にも心得ありてその筋の著述もあり又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委しきことは畧す」

 黒田著には江漢書簡「小人今は老衰腰痛み歩すること漸一里をかぎり候。先便に申上候通り、今麻布岡崖の辺地へ庵を結び、一人の老婆を遣ひ安居仕候~」が紹介されている。晩年の文化11年秋に、芝新銭座(浜松町駅から新橋方向へ徒歩3分ほど)から麻布笄町(現・西麻布)に転居。同地で亡くなったのならば麻布のお寺に葬られたとも推測できる。

 「又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委(くわ)しきことは畧(略)す」は面白そうなので、後述することになりそう。挿絵は黒田著のモノクロ掲載「司馬江漢(淡彩)」を着色簡易模写。江漢像は高橋由一の油絵が有名だが、由一もこの絵から描き起こしたのかも知れない。ネットに美術史家・青木茂<高橋由一「司馬江漢像」の成立について>があって、面白く拝読した。

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司馬江漢1:かくインプットされて [北斎・広重・江漢他]

sibanohaka1_1.jpg 神田古本市で、黒田源次著『司馬江漢』(東京美術、昭和47年刊)を1500円で入手した。「司馬江漢」の名は幾度か眼にするもスルーしてきた。強くインプットされたのは川本三郎『大正幻影』だった。佐藤春夫『美しい町』クローズアップで、それは隅田川・中洲に幻想市街(ユートピア)を作ろうと夢想する男たちの物語。

 主人公のひとりFが、その理想地を探すのに疲れ果て、ふと立ち寄った画廊で見たのが司馬江漢の銅板画『東都中洲之景』。思わず「ここだ!」と決定する。実際は江漢作に『東都中洲之景』なぁんてぇのはなく、彼が描いたのは『中洲夕涼』『江戸橋より中洲を望む』『三囲之景』など。佐藤春夫がそれらをミックスして『東都中洲之景』としたらしい、と小生は1012年10月のブログ「荷風の中洲(5)」で記している。

 二度目にインプットされたのは「ジャポニスム」シリーズの永井荷風『江戸芸術論』。~北斎は司馬江漢の油絵並に銅版画により和蘭画の法式を窺ひ知りしは寛政八年頃~などの記述だった。

 「ジャポニスム」シリーズの次は「司馬江漢」のお勉強を、と思って図書館で成瀬不二雄著『司馬江漢/本編編・作品編』を借り読んだが、どうも〝ノリ難かった〟。どうやら難解人物らしくお勉強を放置。だがその後に黒田著入手で、再度挑戦。同著冒頭「序説 江漢研究の諸問題」は二十章に亘って実証できぬ諸問題を展開。〝ノリ難い〟はずである。

 まずは勢いをつけるべく染井霊園隣「慈眼寺」へ掃苔。すでに幾度か訪ねている同寺だが、今回はカメラ持参。芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓には写真を撮る若い女性が幾人もいたが、司馬江漢に関心を払う人はなし。次回は東京都指定旧跡看板の文言より司馬江漢の略歴を記してみよう。

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カンディンスキー(8)バウハウス以後~ [スケッチ・美術系]

yuukitai1_1.jpg カンディンスキー夫妻は1928年にドイツ国籍を取得も、落ち着いた生活は短かった。翌年、世界恐慌。1933年1月、ヒットラー政権誕生で「バウハウス」閉鎖。身の危険に、12月にスイス経由でフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 妻ニーナによると、彼がパリに落ち着くことに、対極の存在のピカソは嫌ったとか。カンディンスキーは穏やかな生活のなかで晩年作を制作。この時期は、生命の発生や進化に関心を持って有機体が空を浮遊しているような「空色(空の靑)」「穏やかな飛翔」など。どこか〝陽気ではないミロ〟風作品です。挿絵はその一部をアレンジ模写。

 一方、ドイツでは1937年にナチス「退廃芸術展」。膨大な押収作品のなかにカンディンスキー作57作。そこから油彩1点、水彩6点が展示されたとか。1937年、スイスでクレーの臨床を見舞ったのが最後の旅。1940年、ナチスのパリ侵攻。ナチスのパリ占領下の1944年、78歳の誕生日パーティー後に永眠。

 カンディンスキーと別れたミュンターは、ドイツ表現主義の女流作家として活躍し、第二次大戦の戦禍からカンディンスキー作品を守り抜き、85歳で逝去。遺言でミュンヘン市立ギャラリー「レンバッハハウス」に作品寄付。同美術館は一夜にして有名美術館になったとか。(ウィキペディア参照)

 最後に松下透著「あとがき」文を紹介。~彼が抽象絵画に向かった動機の一つは、物質主義のなかで「芸術における精神的なもの」が危機に瀕しているという時代認識。一つは人並み外れた感受性によって、自然から受け取る感動で「自然と宇宙との交換によって生み出されたように思われる」と結んでいた。

 「バウハウス」の理念、カンディンスキーの教えは、米国へ亡命した多数教師陣らによるシカゴ「ニューバウハウス」によって、また教え子らの活躍によって世界中に普及。今も人気のフォント「フーツラ」「ユニバース」もバウハウス系。これにてカンディンスキー理解の〝玄関口〟に辿り着いたようなので、ここで終わる。

 参考資料:二十歳の頃の教科書『点・線・面~抽象芸術の基礎』『抽象芸術論』。展覧会ショップで購入の松本透『もっと知りたいカンディンスキー』、図書館本でアナベル・ハワード『僕はカンディンスキー』、フランソワ・ル・タルガ『WASSILY KANDINSKY』、ハーヨ・デュヒティング『ワリシー・カンディンスキー』。

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カンディンスキー(7 )バウハウス [スケッチ・美術系]

tensenmen2_1.jpg カンディンスキーの時代を俯瞰後は、再び彼の「バウハウス」招聘前後に焦点を当て直す。

 1917~1922年はロシア内戦の荒廃・破壊・残虐・干ばつ・大飢饉。1919年に3歳の長男が胃腸炎(栄養失調)で死去。社会主義革命に奉仕の芸術中心になって、1921年に夫妻は12枚の絵と僅かな身の回り品だけを持ってドイツへ逃亡。

 極貧生活を救ったのがパウル・クレー。彼の尽力で「バウハウス」(すべての造形活動の究極の目的は構成である)校長から招聘される。

 かくして「バウハウス」カンディンスキー先生が誕生。教えることは、自らも色彩・フォルム(点・線・面)の分析考察の日々。教室講義から『点・線から面~抽象芸術の基礎~』を1926年に刊。

 同書が小生二十歳の時の画塾の教科書だった。教科書ゆえ作者への関心なし。今思えば大変な時代を背に構築された諸理論に、もっと有難く拝読すべきと反省する。だが小難しい記述で再読する気にならず、よって関連書の〝孫引き〟です。

 <線>幾何学上、線は眼にみえぬ存在である。線は動く点の軌跡、したがって点の所産である。線は運動から生まれる。~しかも、点そのものが内蔵している完全な静止を破壊することによって、そこには、静的なものから動的なものへの飛躍がある。だから線は、絵画における最初の要素~点~に対しては、最大の対立関係にある。ごく厳密に考えれば、線は二次的要素と名づけられるべきものである。

 あぁ、若き日の記憶が僅かに甦ってくる。カンディンスキーは「バウハウス」がデッサウ市に移転前後に、今度は「円」に熱中する。<円>もっとも控えめな形態だが、容赦なく自己主張をし、簡潔ではあるが、無尽蔵に変化が可能。安定していると同時に不安定。無数の緊張を秘めている。

 かくしてカンディンスキーの抽象画は、次第に筆致が消えて幾何学的になって行く。挿絵は同時期に描かれた「尖りに拠って」。線画模写し、透明水彩+ガッシュで簡単彩色模写。逆三角形がそれぞれの重量と動きを与えられ揺れ揺られるドラマを演じている。

 この歳でコンパスを使うとは思ってもいなかった。机をひっくり返して見つけた小さなコンパスの鉛筆アタッチメントを外し、「PILOT HI-TECボールペン」をセロテープで仮固定して円を描いた。

 二十歳の頃に通っていた画塾は「カンディンスキーの2冊を読め」と「石膏デッサン」の外は大したカリキュラムもなかった。週一か、月一に師のアトリエに入り、師が前夜酔っぱらって茶碗を叩きつつ呟くテープを聞かされるだけだった。某広告代理店デザイナー募集で「カンディンスキーを読んでいました」が採用の決め手だったらしい。

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カンディンスキー(6)絵画状況と欧州史 [スケッチ・美術系]

kandinskyhon3_1.jpg インプレッション、インプロヴィゼーション、コンポジション制作期は1910~13年頃。今回は同時期のパリの絵画状況、欧州史を俯瞰してみたい。

 カンディンスキーはパリの「サロン・ドートンヌ」に1904年から出品。1906年に大賞。1905年の同展でマティス「フォーヴィスム」が注目。1907年にはピカソが「アヴイニョンの娘たち」制作。だがマティスは抽象へ走らず(75歳からの切り絵コラージュは抽象っぽい)。ピカソもブラックも抽象へは向かわず。

 カンディンスキーがいたドイツでは表現主義(絵画、文学、映像、建築に主観的表現に主眼をおく運動)中心だったが、1914年(48歳)第一次世界大戦勃発。ドイツの対ロシア宣戦で中立国スイスへ。諸都市を転々後にミュンターと別れてモスクワへ帰郷。

 1917年、51歳で10代の二―ナと結婚。同年11月、ロシア革命でソヴィエト政権樹立。政治に距離を置くも「教育人民委員会」の造形芸術・工芸芸術部に参加。モスクワ国立自由芸術工房の長、絵画文化美術館・館長、芸術科学アカデミー設立の副総裁。彼の許に若いロシア・アヴァンギャルドの芸術家らが集った。

 だがカンディンスキーの「コンポジション」に比し、若い世代は次第に感覚性・芸術性を排した「コンストラクション」(工業製品に限定)志向。社会主義革命に奉仕する芸術優先となり、彼は1921年12月に再びベルリンへ戻った。

 そのドイツでは1918年「ドイツ革命」翌年にワイマール共和国(ドイツ共和国、1919~33年)誕生。その最中1922年にワイマール州立美術学校「バウハウス」開校で、招聘される。この時、56歳。

 同校は「すべての造形活動の最終目標は建築(Bau、バウハウスは造語)である」が設立宣言だが版画、彫刻、陶器、ステンドグラス、壁画、織物の工房も設けられ、カンディンスキーは壁画工房のマイスター就任。ステンドグラス工房にパール・クレー就任。

 同校は1924年にドイツ人民党の圧力で自主解散。翌年にデッサウ市立バウハウス開校。製品生産会社も設立で家具を生産。カンディンスキーやクレーは応用美術、課外授業で絵画も教えた。

 ここでのマイスターハウスは2連住宅で隣がクレー家。互いに影響し合わぬわけがない。だが1933年1月のヒットラー政権で「バウハウス」閉鎖。身の危険にカンディンスキーはフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 写真はフランソワ・タルガ著『WASSILY  KANDINSKY』(美術出版社)。バウハウス時代の「黒い随伴」(1924年作)が表紙になっている。

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カンディンスキー:コンポジション(5) [スケッチ・美術系]

composition2_1.jpg その3:コンポジション(composition)について。カンディンスキーは「インプロヴィゼーションと同じだが、今度は時間をかけ練り上げての表現。私はこの種の絵を〝コンポジション(作曲)〟と呼んでいる」とか。

 作例に1911年の「コンポジションⅣ」をあげる。画面中央に城砦を頂く青い山。中央の人物が持つ黑い長槍が画面を左右にわける。左側が戦闘場面で、右側が平和場面で右下に男女が横たわる。

 この作品には、抽象過程をうかがわせる「コンポジションⅡ」がある。同作より「Ⅳ」へ至る過程例として「Ⅱ」の部分模写を添えてみた。肩肘で寛ぎ横たわる男女、馬を駆る二人の騎士、荒波に呑まれる人々が描かれ、それが「Ⅳ」の表現に至っている。(あぁ、小中学だったか、具象をこんな風に崩して抽象画に仕上げる図画の授業があったと思い出した)

 カンディンスキーは、夜明けの薄明りのアトリエで目にした絵が余りに美しいのに涙し、後でそれが自分の描いたこの絵だと気付く。この時期の彼は恋人ミュンターと妻アーニャとの三角関係の窮地にあって、相当に深刻だったらしい。極めて鋭敏・繊細な精神状態だったのではと推測するが、いかがだろうか。

 ちなみに二人は1916年頃に別離。こじれにこじれた。1921年に弁護士が彼女へ連絡をとって彼の持ち物や絵を返却するよう要求するも、大半は「精神的ダメージへの補償」として拒否。(ミュンターその後は後述)。

 異性との激しく諍いの後は、可愛い女性がいい。同年51歳のカンディンスキーはモスクワへ戻ると、なんと10代のニーナと結婚。彼はとんでもない〝ロリコン親父〟になった。彼女は奔放で妖艶で軽薄(『僕はカンディンスキー』著者記述)だが、彼女は27年後の彼の死まで添い遂げたそうな。

 理論家、哲学者、偏屈、完全主義者、厳格教育者のカンディンスキーに秘められた裏の顔がチラッと伺えるも、私生活を秘すも彼の流儀。※参考資料は最後に記す。


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カンディンスキー:インプロヴィゼーション(4) [スケッチ・美術系]

improvisation2_1.jpg カンディンスキーの抽象画への道、その2:インプロヴィゼーション。彼はこう記しているそうな。「無意識な大部分は突然に成立した内面的性格をもつ精神過程の表現、つまり〝内面的な自然〟の印象。この種のものを、私は〝インプロヴィゼーション(即興、improvisation)〟と呼ぶ。

 作例に1910年「インプロヴィゼーションⅣ」を挙げよう。彼は子供時分に伯母から繰り返し聞いた中世物語を心の中に膨らませていたのだろう。絵は帆船が襲われるシーン。右下に死んだ馬か。大砲の砲筒があり、その上に射撃手が並ぶ。銃口先に連なる白煙。傾く帆船、必死にオールを漕ぐ人、左舷着弾の水柱。画面上は絞首刑の人々、血に濡れた赤い月、雷鳴が響いている。(写真は〝即席〟模写)

 「即興(インプロヴィゼーション)」とは云え、前作「インプレッション」に比して、この絵は作者内面で充分に発酵形成された映像だろう。心の奥の熟成画像の〝即興表現〟と捉えたらいいだろうか。

 彼は42歳の頃に「シュタイナーの神智学」(人間界は物質界、魂界、霊界の三つで~云々の神秘主義)に夢中だったそうな。その内容は知らぬが、心の中で映像を形作る訓練にはなったと思われる。小生だって、子供時分は心のなかで映像を浮かべる経験もしたかと思うが、今は耄碌して、そんな感性は失った。

 ドイツ中世物語にも興味なしだが、孫が遊びに来る度にせがむ絵本「おむすびころりん」物語を、こんな調子で描くことは出来るかも知れない。画面中央下にネズミの饗宴。上部に抜ける穴。穴の上は斜面で「おむすび」が転がって、爺さんと狸が走っている。右下に爺さんを待つ婆さん。左上に小槌と溢れ出た小判。左下に強欲な爺さん婆さん。そんな絵を描き上げれば、孫の心の奥と響き合えるかも知れない。だが、孫はカンディンスキーより断然ショアン・ミロの絵の方が好きだと言いそうだな。次は「コンポジション」ヘ。

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カンディンスキー:インプレッション(3) [スケッチ・美術系]

impressin3-2_1.jpg カンディンスキーの風景画は、次第に目に見える自然を解体し、色彩の響き合いに重点が移って行く。そうした過程で思索されたのが『芸術における精神的なもの』(1911年刊)。

 二十歳の頃に読んで難儀したので、再読したいとは思わぬが、彼はこう記しているそうな。

 ~実景から解放されたコンポジション(構図、構造、構想画)を描くことが目標になった。それは印象派によって壊された欧州の偉大な構想画(コンポジション)の伝統を、今度は〝神話・聖書世界〟から脱却して再興することだ。

 それは、次のように展開される。「内的ヴィジョンの直接的な表現(即興、インプロヴィゼーション)や、目に見える自然の解体(印象、インプレッション)が必要かつ大切。それには精神性かつ色彩と形体をめぐる綿密で持続性の省察も不可欠~」

 二十歳の頃に、こんな小難しい書と格闘していたとは。カンディンスキーは、かくして次第に抽象絵画へ向かって行く。1912年、46歳で初の個展をベルリンで開催。インプレッション・シリーズ、インプロヴィゼーションン・シリーズ、そしてコンポジション・シリーズ。

 まずはインプレッション(impression):外面的な自然から受けた直接的印象。これが素描的・色彩的な形態をとって現れるもの。この種の絵を私は「印象、インプレッション」と名づける。

 作例に1911年の「インプレッションⅢ(コンサート)」を挙げてみよう。彼は友人と共に室内楽コンサート(アルノルト・シェーンベルクの弦楽四重奏第二番。別の惑星の空気を感じるような風変わりな作品)を聴いた。聴衆は驚き笑いヤジを飛ばしたが、彼には天啓のように響いたそうな。

 その感動を二日後に一気に描いた。黒く大きなグランドピアノ、ピアニスト、聴衆、右斜めに傾いた構図、白い縦線は不協和音か。

 カンディンスキーはチェロとピアノが得意。音楽を聴くと、視覚的な感性が震えるそうで、音楽は画家として欠かせぬ要素。同作を描いた後で、彼は興奮して作・演奏者に手紙を書いた。面白そうだから〝即興〟模写をしてみよう。

 おっと、数ヶ月使っていなかった「ホルベインガッシュ」半分が凝固していた。比して10年も前の「ニッカーガッシュ」が使えたり。顔料次第で凝固按配が違うのか。あたしは〝インプレッション・インプロヴィゼーション、コンポジション~〟と呟きつつ、新宿・世界堂まで「ターナーアクリルガッシュ」(安価)を求めに往復ウォーキングに相成候。

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カンディンスキー(2)まずは具象画 [スケッチ・美術系]

kandinskykao9_1.jpg 二十歳で読んだカンディンスキー著作は、理解に難儀して〝人となり〟まで気は回らなかった。今回のチラシ『商人たちの到着』を観て、「抽象画の前に、こんな絵を描いていたんだ」と驚いた。幾点ものスナップ写真から容姿も知った。ショップで購入の松本透著『もっと知りたいカンディンスキー』や図書館本より、まずは彼の経歴調べ~

 1866年(慶応2年、2年後に明治)、モスクワ生まれ。黒田清輝と同い年だな。幼児期に両親離婚。ドイツ系伯母に育てられる。叔母は彼にドイツの伝統的童話をよく話した。1892年(明治25)、モスクワ大卒。経済学と法律を学び、同大法学部助手の時期(1896年、30歳)にモネ「積みわら」を観て、画家を志し、ミュンヘンへ移住。

 ちなみに黒田清輝は18歳で法律を学ぶべく渡仏も、20歳で画家志望に転向。1896年に東京美術学校に西洋画科発足で教師に。さて30歳のカンディンスキーは、画学生に混じって画塾でデッサン開始(ピカソのデッサンは秀逸も、彼のデッサン力は?)。ミュンヘン美術アカデミー2度目?の入試で合格。33歳。インテリゆえ考察・分析力は鋭く、旧来授業に疑問。芸術集団「ファーランクス」を結成。展覧会自主運営や画学校も開設。当時はどんな絵を描いていたのだろうか。

 「木版画」と「彩色ドローイング」とか。「木版画」はドイツ中世騎士物語(幼児期に叔母から聞いた童話の数々。また改革へ向かう画家をも託して)。「彩色ドローイング」は平たく言えばチラシ系題材で短い筆致の具象画。1904年からパリの「サロン・ドートンヌ」に出品。1906年に大賞。大学卒業頃に従姉妹の妻・アーニャ(1911年に離婚)と結婚していたが、当時は画学生の生徒ガブリエール・ミュンターが恋人(1914年に別れ)。

 ドイツは当時「ユーゲント・シュティル」(アール・ヌーヴォー要素を色濃くした絵画からデザインまでを含めた考え方)や、「ミュンヘン分派派」(絵画を建築の一部と捉えた考え)の動きがあって、それらに影響を受けたらしい。

 題材=ドイツ中世舞台、技法=テンペラ画(生卵使用)、短い筆致~これらを選んだのは、実景から離れて自身の色彩感を自由に描きたくての意もあったか。次第に眼に見える〝風景解体〟で、色彩を自由に構成する抽象絵画傾向へ。1910年、水彩による最初の抽象画を描く。〝具象から抽象〟へ変わって行く過程が、どことなく微笑ましい。

 この時期に各国各都市を旅行。生活は?と心配すれば、なんと彼はモスクワに7階建てアパート所有。裕福な茶商人だった父の遺産かしら。〝生活なら召使がやってくれる〟とまで言わぬが、彼に生活の苦労は無縁で芸術的思索に耽溺か。

 1911年、45歳で『芸術における精神的なもの』刊。似顔絵は47歳の写真から。鼻眼鏡。「彼の写真から画家をイメージするのは難しい。行政長官か哲学教授か、あるいは医者を想像させる」(フランソワ・タッルガ著)

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汐留でカンディンスキーと逢う(1) [スケッチ・美術系]

kandinskytirasi1_1.jpg 「今日は何をしようかしら」。隠居ってぇのは、そんな日々です。「そうだ、パナソニック汐留ミュージアム『カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち』を観に行こう」。

 二十歳の頃に、某大・応用化学科の実験白衣を脱ぎ捨て、美術塾へ通った時期がある。そこはイラストなど描けば罵倒される雰囲気で、教科書代わりが59年刊カンディンスキー『点・線・面~抽象芸術の基礎』(下写真の左)、58年刊『抽象芸術論』(下写真の右)だった。

 難解なり。当時は「バウハウス」と「イラスト」両派があって、師は「バウハウス派」だったか。かくしてイラストを一度も描かずに、グラフィックデザイナーとして社会人になった。

 久し振りに眼にした「カンディンスキー」の名に、懐かしさを覚えて同展へ。ポスターもチラシ(写真)も『商人たちの到着』。カンディンスキーが具象画を描いていたとは知らなかった。胸踊らせて会場に入ったが108点中、カンディンスキー作は僅か18点だった。

 ゆえに図版は買わず、ショップで「カンディンスキーのガイド本」を買った。二十歳の時に読んだのは、函入りハードカバーで活字中心。このミニ画集が、当時のカンディンスキー概念を変えてくれそうな気がした。

 同書を数頁めくると、昨年に小生が新宿御苑でスケッチした絵と、まったく同じ構図の絵『サン=クルー公園~陰暗い並木道』があって愉快なり。お閑な方は同題画像探索と、弊ブログの新宿御苑スケッチ「プラタナス並木を描く」を見比べて下さい。

kandinsky2mai.jpg さて「汐留」は電通、日テレ、汐留シティセンターなど街は様変わり。だが「新橋駅」よりはサラリーマンの街。定食屋で「サンマ定食」を食いつつ、電通のガラス高層ビルを眺めながら「過労死するほど働いている青年はいないだろうな」と心配した。

 小生、カンディンスキー没年の生れ。大学の実験白衣を脱ぎ、彼の著作を読んだ。カンディンスキーはモスクワ大卒で同大法学部助手になるも、モネ『積みわら』を観て画家を志した。30歳だった。

 生きる道は幾つもある。「決して死ぬほどの無理をしてはいけません」。小生、好き嫌い激しく生きて来た結果が貧乏隠居だが、昔も今もそれなりに愉しく暮らしている。

 若い時分を思い出したので、いい機会ゆえ、二十歳の頃に読んだカンディンスキーを、少しだけ再勉強してみようと思った。(続く)

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「大島動物公園」脱走物語 [週末大島暮し]

osimakoen1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」最後は「大島自然公園」。この写真は水鳥らの池だろうか。小生、閑ゆえ<昔の「島の新聞」>から〝動物公園脱走物語〟を記したことがある。

 まずは「熊脱走物語」。昭和11年5月17日早朝。壁に立てかけ忘れた梯子から子熊3頭が脱走(熊は木登りが得意)。警察・消防団が大捜索も同日未発見。18日に公園付近で1頭捕獲。同日夜に公園から3里は離れた御神火茶屋隣接のラクダ小屋で1頭捕獲。20日、野増村の〝かよばあさん〟が大いびきの熊を発見して捕獲。野増から泉津への帰還沿道は拍手喝采。

syowa38kuma3_1.jpg 昭和11年10月4日。再び子熊3頭脱出。19年後の昭和30年12月26日の朝日新聞に大熊目撃の相次ぐの報に、園長は「昭和11年脱走の2頭捕獲も、逃げた1頭だろう」。さらに昭和43年10月、大島猟友会3人が落花生畑の大熊を射殺。昭和11年脱走熊なら35歳。射殺せずも長寿全う間近だった。

 次にタイワンサル。昭和17年の大島公園から数匹脱走。昭和39年の「島の新聞」に7~80頭繁殖か。平成14年の朝日新聞によれば推定2千頭。平成22年1月の「asahi.com」では4千頭に繁殖。

 次はタイワンリス。同じような経緯で脱走・繁殖。現在は計測不能の数万頭とか。林の木が揺れていれば、そこにリスがいる。林の中でガァガァの鳴き声がすればリスだ。平成17年に特定外来種に指定。

 目下はキョンが話題。昭和45年の台風で10数頭が脱出。目下は1万5千頭とも。三原山樹林でも我がロッジからもキョンを見る。今秋に捕獲チーム名「キョンとるず」、ロゴマークも決まったそうな。

simasaru2_1.jpg 別の動物話題を二つ。中西悟堂『定本野鳥記』第1巻「放飼編」を読んでいたら、家や部屋ん中で多数大型野鳥を飼っていたが、同編末に「今は禽舎はガラアキ。ほとんどの鳥を、東京湾汽船の林社長の懇望で伊豆の大島へ移してしまった」の記述。昭和10年記で、同年は動物公園開園。

 さらに驚いたのがWeblio辞書。「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集められた鷲、鷹、雉などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥と記されていた。本当かしら。これは裏をとっていない。

 最近の動物公園は素敵に楽しく改修・拡充されている。東京都立大島公園は植物縁・椿園/動物園/ハイキングコース/海のふるさと村で構成。同サイト最新ニュースには「レッサーパンダの赤ちゃん公開開始」「ラマの赤ちゃんが産まれました」と楽しそう。

 300円で入手の「昔の絵葉書」だが、たっぷり楽しませていただいき、これにて終了。新聞切り抜きはクリック拡大で本文読めます。

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「長根浜」の象とライオンと羊と [週末大島暮し]

naganehama1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に「長根浜公園から三原山を望む」写真あり。同公園の為朝顕彰碑は紹介済だが、今はゴジラ像、中村彜(つね)像などがあり、水着混浴露天風呂「浜の湯」、道路向こうに食堂・プール併設の「御神火温泉」がある。

 この写真で眼についたのが赤屋根の東屋。公園から野田浜へ向かう「サンセットパームライン」沿いに同じような東屋が幾つかある。同ライン開通は「黒潮小屋」竣工時と同じく「島の新聞」に大仰な見出しで報じられていた。「世界第二の人口を誇る大東京六百万人の健康と行楽のためのハイキングコースとして開通」。なんと昭和12年開通で、昭和38年の大島循環道路開通より26年も前のこと。この絵葉書は昭和25・26年噴火後のもの。その当時からこの東屋は建っていて、前回紹介の縦長写真のアンコさんが寄りかかるのも同東屋の柱だろう。今は「浜の湯」で撤去されている。

 第二に注目は、松林奥の赤い建物。なんだろう。伊豆大島「懐かしの写真集」を見たら「移動動物園を長根浜公園に設置し、象やライオン等、島の人達が普段見ることの出来ない動物を披露した」とあった。ホントかいなぁ。

 調べたら確かにそうで、昭和26年5月に上野動物園「移動動物園」のアジア象「はな子」と雌ライオンが、東海汽船の貨客船「黒潮丸」(昭和22年進水)で大島にやって来て一ヶ月滞在。その間に「はな子」散歩中に脱走騒ぎもあったとか。

 ネットを丹念に探索すると、アンコさんが子象に乗った当時の写真が「東京ズーネット、井之頭自然公園」サイトでヒット。「はな子」は昨年6月末に69歳で長寿全うした。また昭和30年刊の岩波写真文庫「伊豆の大島」に、長根を背景にした草原(公園)に〝羊の群れ〟写真があった。昭和10年の「島の新聞」に動物公園の孔雀と羊の群れの記述があり。動物園から連れて来て撮ったのかも知れない。

 なお「長根浜」の名は、眼下の海に突き出た溶岩岬=長根から。室町幕府成立=1338年噴火熔岩で、当時は先端まで大地で、波に浸食されて熔岩だけ残った形とか。ってことは昔は西海岸一帯が200㍍先まで大地だったということか。話題豊富な長根浜公園です。

 現・長根浜公園と云えば「浜の湯」。昭和61年の大噴火で、元町地区の水源井戸の温度が上昇して温泉になったとか。大規模「御神火温泉」に比して「浜の湯」の常連古老らは〝効きが断然違う〟と絶賛。温泉から望む夕陽は絶景だが、振り向けば三原山で、4年前の土石流の痛々しい傷跡(山肌)が、やっと緑になってきた。

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