So-net無料ブログ作成
検索選択
前の30件 | -

岡田暮し3年の様子:不染鉄3 [週末大島暮し]

okadamoide1_1.jpg 最後に不染鉄の岡田村暮しをもう少しクローズアップしてみたい。前述「思い出の岡田村」の解説にこんな記述あり。~岡田村では「ネギどんの家」といわれる家に泊まり、漁師とともに漁をして、3年間暮らした。村人たちと親しく交流し「ふぜんさん、ふぜんさん」と呼ばれた~。

 同作には八幡神社下に軒を連ねる草屋根の一軒に、不染らしき人物が囲炉裏に向かっている姿が描かれている。雄大な自然に囲まれ、情の深い村民たちと過ごした大島での生活は、彼には欠くべからざる思い出・経験だったのだろう。

 また昭和44年の絵葉書「お正月」(写真)には、こんな文章が書き込まれていた。「私が三十ぐらいの時(正確には23~27歳)、伊豆大島で漁師をしていた時、いつも乗っていた小さな舟である。今は皆キカイ船で二人舟はあるまい。大浪の時、風の時、大きな魚をとった時、色々なつかしき思出はつきない。お正月は松かざりをつける。お前と別れて、今は都会に何不自由なく倖せだよ。七十九のお正月だよ。お前を思ひ出して年始にかいて皆んなにお前の話をするよ。あの時は楽しかったなぁ。これをかいていると涙がでそうになってくるよ。悲しいのではないよ。なつかしさの涙だよ。浪の静かなお正月の日出のころにしようねえ」。〝お前〟とは妻のことだろうか。

fusentetu2_1.jpg 読み間違いもあろうが、凡そこんな文章。また昭和初期の作「海辺の村」の解説には~ 「茅葺屋根の住まいには、一間の部屋にいろりがあり、潮風が吹き、波音が聞こえ、海草の香る生活だった。干潮時には、かにや小魚が岩場に姿を見せ、周囲に牛やにわとりを飼う家も多かった」で、そんな抒情的な絵が描かれている。

 また奈良に移った後も、可愛いミニチュア風の岡田村「草屋根の家や舟」と題した作陶を多数創り、思い出の家を板型にして着色したり、魚達の木彫・絵も多い。さらに「思い出の岡田村」と題された絵が描かれた「着物」を幾着も制作。これらは妻亡き後に身の回りの世話をしてくれた女性たちに贈ったとか。

 不染はまた若い女性たちに「正しく美しい心がからだに一パイになると、あふれてこぼれるようにいゝ美しい画になります」と書いた絵葉書を送ったそうな。不染鉄はそんな晩年を送って85歳で逝った。

 小生の島ロッジも間もなく崩れ朽ち、いや、その前に島へ行く元気も失せよう。自動車免許更新が無理になるかもしれない。島へ行けなくなったら、不染鉄のように思い出だけで〝大島暮し〟の絵を描きはじめるかもしれない。改めて〝島の写真集〟でも作るつもりで記録・記憶保存をしておくのも良いかもしれない。

 最後に図録掲載の不染鉄の写真を参考に、彼の絵を描いてみた。小生の心が「正しく美しくない」とみえて上手い絵にはならなかったが、晩年の彼は実にいい表情をしていた。(6月下旬の島暮しの思い出8:付録の不染鉄は3で完)

コメント(0) 

岡田暮しが飛躍の原点:不染鉄(2) [週末大島暮し]

ohsimafuukei_1.jpg 不染鉄は「山海図絵」の前後にも「海村」「大島風景」などで各展入選。3年間の岡田村暮しが、彼の飛躍の基と言っても過言ではなかろう。

 「海村」は展示なしも「大島風景」は、これまた大島の絵では珍しい岡田・風早崎灯台(大正4年に灯火開始)を前面にした大島俯瞰図。灯台左に岡田港。港右の崖下に「龍王神社」、風早崎の右に乳ヶ崎と野田浜。多くの人家と沖に船。その先がたぶん赤禿で、遠くに元町。

 画面には〝すやり霞(素槍霞=大和絵から浮世絵に使われる省略、場面転換、遠近表現で使われる手法)〟が採用されて、沖に鯨が2頭。まさにこの俯瞰も漁師として沖に出て、そこから上昇して見る鳥眼(マクロ)と、想像的緻密描写(ミクロ)の混淆。

 さて、不染鉄は昭和2年末(1927)に、京都を離れて唐招提寺、薬師寺など名刹が点在する奈良県生駒へ移住。この頃に出自の僧侶資格も得たらしい。不染鉄の作品群を大別すれば奈良古刹を描いた作品群と伊豆大島作に分けられよう。

 昭和6年(1931)に神奈川県大磯に移住。昭和8年に妻の実家がある横浜へ。昭和10年(1935)に東京へ移住。同年頃の作に「大島絵物語」。これは霊岸島を夜の10時に出航し、荒波に揉まれて岡田村へ着くまでのを巻紙に描いた作品。

omoidenookada1_1.jpg やがて軍部の力が画壇を浸食し始めると、画壇から距離を置いた。戦後、昭和20年(1945)に乞われて奈良の中学校の理事長から校長へ。奈良の画室からの眺めを平和への感謝をこめて描き出す。昭和27年に同omoidenookada2_1.jpg校を退職。

 昭和33年(1958)、67歳で62歳の妻〝はな〟死去。この頃から再び亡き妻と暮した伊豆大島・岡田村を思い出して描き出す。岡田村を海上から俯瞰したシリーズ「海村」「南海海村」「南島」、そして昭和43年「思出之岡田村」など。これら作の多くには村中央奥に「八幡神社」、右崖の「龍王神社」に描かれている。

 ~村の人同様になり夏の海冬の山、お正月色々思ひ出はつきません。今から四十年も前の事です。今ではかはら屋根の家が並び、築港が立派になり岡田港となりました。~との文があるから、その後も彼は大島を訪ねていたと推測される。

 昭和37年、奈良に建てた終の住処兼画室で描かれたのだろう昭和47年(1972)81歳の作品が「思い出の岡田村」(写真下の横長の作品を2枚に分けてアップ)。脳裏に焼き付いた岡田港を描いたのだろう。沖に中型船が2艇停泊して艀が岸に着くシーン。海岸に並んだ小さな漁船。その右崖下に「龍王神社」、湾の左は現・堤防基部となっている勝崎(かったき)。その奥に人家が軒を連ねて、その一軒に不染らしき人物。人家の奥に「八幡神社」。同作を描いた4年後の昭和51年85歳で没。

 不染鉄の美術館回顧展は、21年前の奈良県立美術館の1回だけで、東京での展覧会は「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)が初めて。次回は3年間の岡田村暮しをクローズアップしてみたい。(6月下旬の大島暮しの思い出7:付録・不染鉄2)

コメント(0) 

「山海図絵」の秘密:不染鉄(1) [週末大島暮し]

sannkaizue_1.jpg 「東京ステーションギャラリー」で開催「没後40年 幻の画家 不染鉄(ふせんてつ)」へ行った。ギャラリ―には東京駅竣工時(大正3年)の煉瓦壁あり。まずは代表作「山海図絵」(伊豆の追憶)に注目。

 この絵、なんと大島・野田浜から見た伊豆の風景だというから驚くじゃないか。同作の元になったスケッチ「伊豆風景」(下)も展示で、不染の文が紹介されていた。「大正十二年十二月廿五日 大島野田浜海岸にて伊豆を見て描く。暖かい冬の日向の下、枯草のそよぐ上に、煙草を吸ひながら海を見る。はるかに富士山に雪がふってるのを見、寒い国の冬を想ひ出す。枯木山や、かさかさした笹にふりつむ雪、霜の道。(中略)~数日前に乗った汽車は今頃もあの道を走っているかもしれない。

 伊豆から島に渡ったのだろう。その時に見た伊豆の風景を、大島・野田浜で蘇らせつつ描いている。見えるはずもない汽車まで走らせて、富士山の奥には雪降る日本海の漁村まで描いている。「山海図絵」は大正14年の第6回帝展入選で不染鉄の代表作。

nodahamafuji1_1.jpg 小生も絵を描き始めた2年前に乳ヶ崎(野田浜)を数度描いた。乳ヶ崎トンネル越しに見える海と富士山を描いた際には、ハッキリ見えぬのに伊豆の町並を描き込んだ。小生の想像力はそこまでだったが、不鉄は時空を超えた。

 図録解説文には、同作品に不染の特質=中心性、俯瞰構図、マクロ的視線とミクロ的視線の混淆、多視線のすべてがここに現れていると指摘されていた。あの<バベルの塔>を描いたブリューゲルと共通点が多いとも指摘。

 図録より不染鉄の経歴を読む。明治24年、小石川・光円寺(現存、茗荷谷駅の近く。大田南畝と共に活躍した狂歌師・鹿都部真顔の墓あり)生まれ。浄土宗の名門・芝中学入学もワルで放校。画家を目指し、小石川の川端画学校の日本画家・山田敬中の門下生から大正3年に日本美術院の研究会員へ。だが金も自信もなく行き場も失って、妻(はな)と共に霊岸島から汽船に乗った。〝行き場も失って〟の裏には、図録年譜に18歳で母を亡くし、22歳で父を亡くしたことの影響があろう。

「廿七の秋(正しくは大正3年23歳)東京に住むところのなくなった私は病ひ上りの家内と二人東京を小さな汽船に乗って話にきく大島へまいりました。途中風雨夜中からはげしく目的地まで行く事が出来ず、岡田村という淋しい村につきました。そこで三年程都を忘れて漁師と遊びくらしました」

 その後、京都市立絵画専門学校日本画予科から本科を首席で卒業。その年(大正12年、32歳)に大島を再訪して描いたのが「山海図絵」。彼は妻を亡くした晩年も、共に暮した岡田村を思い出して実に多くの大島を描き遺している。次回は〝不染鉄にとっての大島とは〟、その次に〝岡田村で暮した3年間の様子〟を探ってみたい。(6月下旬の島暮しの思い出6:付録・不染鉄1)

コメント(0) 

岡田港の昔と明日 [週末大島暮し]

okadatunami2_1.jpg 今回の島暮しで、小生は〝岡田港〟について無知だったと相知候。我がロッジ住所が大島町岡田字~なのに、大島通い26年なのに。

 大島発着港は元町か岡田で、元町は島の中心で馴染店も多い。比して岡田港は馴染店なし。だが船は元町より岡田港が多い(ナライ=北風が強いと元町港で、西風や南風が強いと岡田港)。岡田に着岸すれば即バスやタクシーで港を離れ、出航時はいつも慌ただしい。

 今回は、元気な老夫人らに「港で慌ただしくお土産を買うのはイヤ」ゆえに、事前に岡田港へ連れて行けと仰せつかった。彼女らの買い物中に、初めて岡田港の村ん中を散策。家々を縫い歩けば鎮守様「八幡神社」へ出た。為朝建立。御神体も為朝がらみ。1月15日の「正月祭」で〝天古舞〟奉納。若衆が梃子(てこ)を用いて木槍に合せて舞う。都の無形文化財。その模様はYou Tubeにもアップされていた。

 そして漁港(絶壁)側に「力士大島伝吉碑」と「力石」。その右側の崖に「龍王神社」。八幡神社の祭神が源(為朝)ゆえ、平家の神々が怒って災害を起こすので建立とか。

 史蹟案内板には、岡田港の災害も記されていた。関東大震災(1923)の津波で繋舟(かいせん、つなぎぶね)が民家二階に押し上げられ、崖崩れで死者も出た。元禄16年(1703)の大津波では回船・漁船の18槽、男女54名、流人2人、家58軒が波に取られたとあった。史蹟看板に「繁舟」とあるが「繋舟」の間違いだろう。

 さて、そんな岡田港が目下大工事中。大島支局HPを見ると仮称「岡田港船客待合所兼津波避難施設」。当初は2015年完成も、何か事情があったのだろう、遅れに遅れて今は土手状階段部分(津波避難通路?)が完成しつつあった。ここから堤防基部に「緑地施設休憩所・船客待合所及び津波避難施設」(確かな情報ではないが外観三階建てだが4、5階に備蓄倉庫や貯水槽、その屋上部分が高さ約12㍍とか)へ繋がるらしい。

 島のブログを拝見すれば車で1分、走って数分で高台ゆえ、わざわざ海に面した避難施設が必要だろうかと云う指摘に納得もするが、竣工すれば店舗も入り、イベント開催も可能だろうから岡田港に新たな魅力も生まれるかもしれない。★完成予想図が見つからなかったので、勝手想像で完成図を俯瞰気味に描いてみた。

 そんなことで岡田港に改めて関心を寄せれば、大正3年(1914)から岡田港で漁師生活3年を過ごしたという日本画・不染鉄(ふせんてつ)の展覧会が「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)で開催中と知って、さっそく鑑賞に行った。岡田港の絵がたくさん展示されていた。次回は不染鉄の岡田港暮しについて。(6月下旬の島暮しの思い出5)

コメント(0) 

爺婆とBBQとスイカと~ [週末大島暮し]

kokisuika.jpg 古希越えの友人婆さんらと、ベランダでバーベキューをした。島のS氏に婆連を紹介し「この歳でも食える柔らかい肉を按配して~」と注文。まぁ旨かった、良く食った、ビールも戴いたワインも飲んだ。最近は〝長生き・元気の元は肉〟ってんで、老人達もよく肉を食う。

 もうひとつ、皆でぜひ食いたかったのが、口からプッと種を飛ばしつつ食うスイカ。誰もが子供時分は縁側のある生活も、今は縁側のある家には住んではいない。旨いスイカだった。「げんろく」で買ったが〝内地もの〟だろう。

 昭和40年の元町大火復興計画のコルビュジエ師事の建築家・吉阪隆正調べで都立中央図書館へ行った際に、横井弘三『東京近海 島の写生紀行』も借りて読んだ。未だコンクリートやアスファルト道路もない時代の長閑な大島スケッチ群。そして練馬区立美術館で昨年開催の「横井弘三の世界展」チラシが、写真の通り老人がスイカを食う絵だった。

 他によく食べたのが野菜即売場「ぶらっとハウス」の野菜たち。開店と同時に売り切れになる店は島のどこにもなく、島一番の人気店と云っていいだろう。とくにアシタバは元ベテラン主婦の婆さん連が腕を振るって様々に料理してくれた。また彼女らは実にたくさんのアシタバをお土産に持ち帰った。

 食さなかったは意外に思われるが〝魚〟だ。島で出回る〝地魚〟は僅少。〝魚市場〟はあるも鮮魚なし。島の宿が提供する魚は、一体どこから仕入れているのやら。島で魚が食いたかったら自分で釣るか、突くしかない。島は〝肉よし〟〝野菜よし〟だが〝魚よし〟とは参らない。

 さて、横井弘三が大島スケッチをしたのが昭和2年で、それより10年も前に岡田港で漁師らと共に3年暮した日本画家がいた。現在「東京ステーションギャラリー」で「没後40年幻の画家 不染鉄」が8月27日まで開催中。その話は後で~ (6月下旬の島暮しの思い出4)

コメント(0) 

海原と空に似合わぬ船の色 [週末大島暮し]

tatibanamaru2_1.jpg 大島へのお客様の帰京便に「橘丸」をセットしたので、数日後の自分達も「橘丸」で帰ることにした。数年前の新艇だが、新しさ微塵も感じぬ〝何と無粋な色よ〟と思った。逆によくもまぁ、こんな色・配色を考えたものと感心した。

 例えば、こう問えば納得できようか。「貴方はこの配色の車を買いますか?」。おそらく全員がNOだろう。青い海原と空に、何とも似合わない。そう云えば、ジェットフォイル4艇も子供のオモチャみたいに着色されていて、もっとスッキリできなかったのだろうかとも思う。東海汽船の〝模様デザイン〟は柳原良平らしい。

 ちょっと前までの元町桟橋の壁画も、不気味な深海魚が蠢くような幻想ゴチック風だった。現・空港の土手壁もちょっとギョッとする。きっとバームクーヘン風模様を意識したのだろう模様が描かれている。海も緑も美しいのに、人間の変な手が加わって不自然、妙な具合になる。

daibakikyou_1.jpg さて、色は無粋も〝橘丸〟の船名復活は個人的には楽しい。その名に60年前の「中学1年生秋の遠足」を思い出した。「橘丸」で一泊の大島遠足。日本は未だ米不足だったか、宿泊する遠足は自分用の〝白米〟持参だったと記憶する。

 当時は裕次郎ブーム。小生のアルバムには三原山をバックにトレンチコートの襟を立て、短い脚ながら裕次郎を気取ったポーズの色褪せた写真が残っている。写真は「橘丸」で夜のレインボーブリッジ下を通過中。優雅な大型船の旅も、貨物船に乗っているようだった。(7月上旬帰京の大島暮しの思い出3)

コメント(0) 

小綬鶏が玄関に居る鄙暮し [週末大島暮し]

IMG_6349_1.JPG 終始賑やかだった客人らが帰った後、ロッジに静謐が満ちた。気が抜けてソファーで惚けていたかかぁが「おまいさん、玄関に鳥が来たよぅ」。小綬鶏。網戸越しの写真はピンボケだった。

 ロッジに居れば、大鳴声「コッチコイ!」が響き渡るも、その姿をなかなか見ること叶わず。そこで幾羽の小綬鶏が出没するという東京郊外・府中の浅間山(せんげんやま)公園まで行ったことがある(下写真)。玄関に小綬鶏で長年の謎が解けた。久し振りに島へ行けば、玄関床に鳥の白い糞あり。「そうか、犯人はコヤツだったか」と。

 なお小綬鶏は昭和14年9月の「島の新聞」に「昨年に放した小綬鶏の繁殖全島で分布し~」の記事があり、昭和13年に放鳥されたものと推測される。

 野鳥話題をもうひとつ。静かになったロッジ・ベランダで寛いでいれば ♪特許許可局~トッキョキョカキョク~」。その鳴き声はホトトギスに違いない。スマフォで「伊豆大島 ホトトギス」で検索すれば「グローバルネイチャークラブのガイド日記」の写真と記事がヒットした。

m_kojyukei2_1[1].jpg ウグイスの抱卵時期に〝託卵〟すべく5月中旬頃に島に飛来とか。双眼鏡を手に鳴き声方向に車を走らせたが、姿を見ることは叶わず。だが白っぽい腹に横線模様の鳥が、上空を一直線で飛んで行く姿を見た。「うたた寝にその鳴き声ぞホトトギス」

 ウグイス、ホオジロの囀りは終日響き渡り、斜め隣家の屋根はイソヒヨドリのお好み場だ。野鳥に加え「グバッ・グワッ」の野獣声方向を見ればタイワンリスがいて、キョンの親子も歩いている。

 「あぁ、鄙なる暮しよ」と思えば、今朝のテレビで山形県鶴岡市の民家の玄関に熊出没の映像が流れていた。熊の心配はないが、かくも大島の鄙な暮らしです。(6月下旬の島暮しの思い出2)

 ★メモ:「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集めた鷲、鷹、雉子などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥された。(Weblio辞書)

コメント(0) 

煙突へ絡む枝葉の切り落とし [週末大島暮し]

tentotu1_1.jpg 薪ストーブの煙突に、桜の枝葉が絡み付いていた。秋のストーブ稼働を思えば、枯葉に火が燃え移る危険もあろう。当初はチェーンソーで木を伐採と思っていたが、それも大ごとで「高枝ノコ」で切り落としてみようと思った。

 東京のホームセンターで「高枝ノコ」を見れば、数千円から1万円余まで各種あり。島で安いのを購入と思ったが約7千円の品だけ。そこで隣家より長い垂木を借り、「くぼごん」で格安ノコと針金を求め、垂木先端にノコを括りつけた。

 ノコが格安過ぎか、ヘナッと曲がってしまうのを騙しだまし、かつ軟弱な肩の筋肉を励まし、膝の屈伸も加えつつ幾本もの枝を切り落とした。「ここまで切り落とせば、秋に薪ストーブが愉しめるだろう」と満足気に見上げれば、今度は屋根の垂木覆い?の板が弱っているのに気がついた。貧乏隠居には、業者を頼んで足場を組んでもらう余裕もなく、これまた垂木に刷毛を括りつけて防腐剤を塗りましょうか。

 ロッジを建てた若い時分はチェスト、ベンチ、椅子、棚などのDIY仕事が愉しかった。しかしロッジがボロくなってくるとメンテナンスで目一杯。併せてこちらの身体にあちこちとガタが来た。手当しつつだまし騙しで生きている。

 ボロ小屋暮しも、老いた身体との付き合いと同じく、ガタとだまし騙し上手に付き合って行くことに〝暮らし方の極意〟がありそうな気がしてきた。(6月下旬の島暮しの思い出1)

コメント(0) 

荷風の友・井上唖々とは(5)内妻と本妻 [永井荷風関連]

yaeji3_1.jpg 井上唖々の終焉地が東大久保の西向天神祠畔(しはん)とわかった。だが唖々と云えば〝深川の陋巷暮し〟が有名で、荷風の憧れだった。そこは深川「大久保長屋(湯灌場大久保)」で、二つの〝大久保〟が紛らわしい。今回は荷風が憧れた唖々の深川暮しをテーマにする。

 荷風文の「(唖々は)深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり。子が〝深川夜烏〟と称せしは此の故なり」が〝大久保長屋〟で唖々の女は「阿久(おひさ)」さんだった。これは荷風の随筆『深川の散歩』に詳しい。

 同随筆には、彼らが若き頃に編集の「文明」に、唖々が「深川夜烏」の名で大久保長屋暮しについて記した文を掲載で、荷風が長文引用している。まずはその地を確認する。〝六間掘に沿った東森下町の裏長屋〟は、隅田川の「新大橋」と上流「両国橋」に挟まれた〝川向こう〟。現・都営新宿線「森下町」駅辺り。

 「東森下町には今でも長慶寺という禅寺が在る。此寺の墓地と裏河岸との間に、平屋建の長屋が秩序なく建てられてゐて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じてゐた。長屋の人達はこの處を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び~」なる書き出しで、深川夜烏こと唖々がその暮しを書いている。

 「露地を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久(おひさ)の家で、即ち私の奇遇する家である。阿久はもと下谷の芸者で、廃(や)めてから私のせわになって二年の後、型ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。(両隣の家族を紹介してから)私の家は二畳と四畳半の二間切りである。四畳半に長火鉢、箪笥が二棹と机。そこに阿久とお袋と阿久の姉と四人が住んで居るのである。そこで型ばかりの式を友人十人ばかり招いて酒宴を張ったのが明治四十三年六月九日だった」

 荷風は同随筆で、唖々の明治四十四年五月の深川芝居見物の顛末記も引用紹介している。荷風はそうした亜々の生活を「裏長屋に潜みかくれて、交りを文壇にも世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでゐたのを見て、江戸固有の俳人気質を伝承した真の俳人として心から尊敬してゐたのである」と記している。

 亜々と阿久一家が何時、何故に別れたかは不明だが、彼は次に「みね」を正妻にして二子を設けたのが本郷元富士町二番地前田侯邸内」。永井荷風の水魚の交わり=井上唖々調べは、この辺で区切りをつけたい。挿絵は唖々が東森下町の長屋暮しをしていた頃の荷風のお相手・新橋巴屋八重次、後の藤間静枝さん。

コメント(0) 

荷風の友・井上唖々とは(4)終焉地 [永井荷風関連]

nisimukitenjin_1.jpg 「東大久保の僦居に帰りしが、病處に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しむ」。荷風文を書き写して、思わず「東大久保だと?」。我家近所じゃないか。〝東大久保〟を調べてみなくてはいけません。

 そこで『断腸亭日乗』大正十二年七月十一日をひも解く。「午後速達郵便にて井上唖々子逝去の報来る。夕餉を食した後東大久保の家へ赴く。既に霊柩に納めたる後なり。弔辞を述べ焼香して帰る」 以後、唖々に関する記述はなく九月一日の関東大震災を迎える。『日乗』を遡ってみる。

 大正十一年四月二十五日:井上唖々子厳父如苞翁逝去の報に接す。(荷風は唖々の父の葬儀で焼香した後に、唖々家菩提寺の近く、白山・本念寺で大田南畝、南岳=南畝甥の墓を掃っている。この時期の日乗には頻繁に地震記述あり。大震災の兆候だろう)

 八月二十三日:唖々子書を寄す。頃日本卿加州侯邸内の旧居を引払ひ東大久保西向天神祠畔に移りしといふ。唖々子本郷に住すること実に二十三年の長さに及び、去るに臨みて涙なきを得ざりしといふ。余大久保売宅の事を想出して亦悵然たり。(唖々は父逝去で加賀藩邸を出ることになって西向天神祠畔の借家へ移転。荷風はつい先日に大久保余丁町の家を売却したばかり。なお本郷住所は『断腸亭尺牘(しゃくどく、書簡)』によれば本郷元富士町二番地前田邸内)

 そして大正十二年五月九日:毎夕新聞社に唖々子を訪ふ。その後健康次第に頽廃せしものゝ如く顔色憔悴し、歩行も難儀らしく、散歩に誘ひしが辞して其家に帰れし。唖々は体調を崩して弱っている。荷風さん、心配してたびたび唖々を訪ねている。

 六月十二日:東大久保村西向天神祠畔(しはん)の寓居に唖々子の病を問ふ。甚だしく気管支を害し、肺炎を起せしなりと云ふ。専心摂生に力めなば恢復の望未全く絶えたりとも言ひがたきやうなり。されど衰弱甚だしく見るからに痛ましきさまなり。細君はさして心配の様子もなきやうなるは如何なる故歟(か)。夕陽枕頭に映じ来る頃再見を約して去る。そして七月十一日の唖々逝去の報。

 以上によって井上唖々が本郷から東大久保へ移転の経緯と場所が特定でき、亡くなった状況もわかった。西向天神は荷風『日和下駄』に〝夕陽〟の項に登場。弊ブログでも長谷川雪旦の精緻スケッチ「江戸名所図会」と、広重のデフォルメされた「絵本江戸土産」の両西向天神の絵を紹介済で、ここでは境内を撮った写真をアップ。

 今年五月、西向天神社・例大祭の笛の音に誘われて里神楽「悪鬼退治」を拝見した。あのリフレインされる妙なる笛と鼓の調べを井上唖々も聴いただろうか。

 なお最後に唖々を見舞った荷風は、その足で余丁町の旧宅前を過ぎ、谷町通善慶寺〝平秩東作の墓〟を掃苔。「東作の建てたる其父母の墓と、稲毛屋次郎右衛門と刻したるもの二基ありも〝平秩東作の墓〟がわからなかった」と記している。小生は確か東作は父母の墓に眠っていると聞いている。墓標は「南無阿弥陀仏」、台座に「立松之墓」とあったはず。荷風さんに教えてあげれば良かった。次回は唖々の内妻と本妻について。

コメント(0) 

荷風の友・井上唖々とは(3) [永井荷風関連]

aameiji452_1.jpg 永井荷風は『断腸亭日乗』昭和五年七月(荷風五十一歳)でも井上唖々の詳細を記している。八回忌に白山蓮久寺へ掃苔せんと家を出るも雨に遭って叶わず。「平生(へいぜい)から彼の詳伝をつくらむと思ひながら老いて懶(ものう)く遂に果さず。年々物事忘れ勝ちになり行けばここに思出るままを識し置くべし」と書き出している。

 前二回との重複部分を割愛し、まずは二人がこれ程までに仲良くなったのは~「子が高等学校に学びし時は厳君(=父君)が家を麹町飯田町三丁目に移したり。恰是時(あたかもこれと)余が家も小石川より飯田町もちの木坂に移りしかば日として相見ざるはなく交誼〝水魚の如く〟なりき」。※正確には小石川から麹町区飯田町三丁目もちの木坂下へ。翌年に麹町区一番町四十二番地へ移転。※本名は精一、号は九穂、玉山、晩年は不願醒客。荷風の日乗では号が記されること多々で、覚えておく必要がある。

 秋庭著には、荷風家の一番町移転後エピソードが記されている。「唖々の家から九段坂を登れば直ちに一番町の荷風の家に至る。(中略)九段下から唖々が大荷物を背負ってきた。それは唖々家の本で、二人はそれを質屋へ持ち込んだ金で人力車を北廓(吉原)に飛ばした」

 荷風文に戻ろう。「(子は)明治三十二年に至り高等学校を退学し、予及木曜会の諸生と提携して文学雑誌〝活文壇〟を刊行せり。同誌廃刊の後唖々子は雑誌発売の書店大学館の編集員に雇はれ、大正改元の秋頃まで凡そ十四五年間通勤し居たり」 次は人となりとプライベートを紹介。

 「子は二十歳の頃より当時の青年と全く性行(せいこう、性質と行い)を異にしたる人にて名聞を欲せず成功を願わず唯酒を飲むで喜ぶのみ。(略)。明治四十三年八月都下大洪水の頃、子は凡一年余り元下谷の妓なりし女と狎れ親しみ深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり。子が〝深川夜烏〟と称せしは此の故なり」。その当時の暮しを唖々自身が記していて、荷風がその部分を引用紹介している文もある。それは次回紹介で、この荷風文を続ける。

 「明治四十四五年の頃甲州の人某氏の女を娶り男子二人を挙げたり。大正七年の冬に毎夕新聞社の三面に筆を執りしが、数年後に活版所校正係となれり。日々愚にもつかぬ世間の俗事を記述するは永く堪ふべき所ならず(略)それより酒飲む暇の多き閑職こそ望ましけれと言ひ」。そして最晩年の紹介。

 「大正十二年六月の中旬友人某々等と共に麹巷の旗亭(きてい=酒場、料理屋)に登り、飲んで夜深に至り醉倒(すいとう)して遂に起つ能(あた)はず。翌朝友人に扶けられて東大久保の僦居(しゅうきょ、借家)に帰りしが、病處に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しぬ。年を享(うけ)ること四十有六なり」

 挿絵は再び井上唖々。前回は無頼風も今回は所帯を構えた頃の写真だろうか、それを参考に描いてみた。次は終焉地・東大久保、深川の妓とは?調べてみる。

コメント(0) 

荷風の友・井上唖々とは(2) [永井荷風関連]

rasosanjin1_1.jpg 荷風による『井上唖々君のこと』を読む。書き出しに「本年七月十一日肺結核で永眠した」とあり、亡くなったニケ月後、大正十二年九月「枯野」発表の原稿。前回との重複部分を割愛し、( )に注釈や訂正も加えつつ概要引用する。

 ~彼は秀才で在学時より書店「大学館」の編集部員。同館発行誌「活文壇」は生田葵山(きざん)君編集で井上君が其助手を勤めていた。同誌の俳句選者は河東碧梧桐(かわひがしへきごろう)氏。在学当時は漢文を島田篁村(こうそん)の塾に学び、漢詩を(荷風と同じ)岩渓裳川(いわたにしょうせん)に学んだ。同級生に俳句を作る者がいて時々俳句会を開催。仲間には正岡子規の処に出入りしていた者もいた。

 (荷風十九歳の時)明治三十一年に自作『簾の月』を携えて広瀬柳浪氏を訪ねた時も井上君は同行した。また唖々君は葵山君の紹介で巖谷小波(いわやさざなみ)氏の「木曜会」に出席するようになった。(荷風自身は挿絵の清国人・羅臥雲〝蘇山人〟の紹介で「木曜会」に参加と記している)

 唖々君の「大学館」勤務は明治三十四年から大正元年。同館退社の数年は遊んでいたが、その間に加賀藩の編纂所で史料記載。細君を迎えてから一時深川の森下に住んでいたが、間もなく以前の加賀藩の関係の本郷の前田邸内の家に戻った。明治四十三年に私が慶応義塾講師になって『三田文学』を編集したが、その第一号に唖々君小品文を載せた。

 大正五年(慶応、三田文学を辞めて)に籾山庭後、井上唖々らと雑誌『文明』を創刊。同誌は丸二年続き、其の後の『花月』は私の処に発行所を置き、編集を唖々君がやってくれた。大正七年に唖々君が「毎夕新聞」入社で『花月』廃刊。彼は亡くなるまで「毎夕新聞」に在社。主な著は『夜の女界』『猿論語』と『小説道楽』(荷風渡米前に大学館から刊。荷風を主人公にしたモデル小説)。君の家の菩提所は白山の蓮久寺であるから、君もそこに葬られたのであろう。~で同随筆は終わっていた。

 挿絵は荷風を「木曜会」に紹介した羅臥雲(らがうん)。男もゾクッとする眉目秀麗とか。写真を見ると描かなかったが右手が女性仕草っぽかった。羅臥雲については「荷風句雑感(その3)」で詳細を記したの省略。(次は『断腸亭日乗』や随筆『深川の散歩』に書かれた井上唖々について~)※明日から1週間ほど〝島暮し〟。帰京後に続きをアップ。

コメント(0) 

荷風の友・井上唖々とは(1) [永井荷風関連]

kafuaa1_1.jpg 時に荷風関連記事の閲覧あり。読み直せば、荷風と〝水魚の交わり=井上唖々〟の名を流し記すも、彼の人となりを記さなかった反省と、ネット上でも彼の詳細記述少なく、改めて調べ直してみた。

 まずは秋庭太郎著『考證 永井荷風』を参考にする。荷風と井上唖々が出会ったのは、荷風の東京高等師範尋常中学校(神田一ツ橋、6年制)時代。荷風は明治24年、12歳で同校2年編入学。軟派・荷風は硬派の寺内壽一(後の元帥陸軍大将)らに殴られている。

 荷風は病弱で長期療養で1年留年。その間の読書で文学に親しんだ。17歳より尺八と三味線の稽古を開始。併せて書を岡三橋に、絵を岡不崩(横山大観と共に東京美術学校の第一期生)、漢詩を岩渓裳川に学んだ。漢詩を共に習った同級生・井上唖々と親しくなる。

 余談だが、荷風が絵を習っていたとは知らなかった。荷風は師の不崩とは晩年まで交際を続けたそうな。荷風が描く絵に、かく謂れがあったと改めて認識した。ちなみに弟・威三郎(後に農学者)も同中学在籍で、彼の同級生で図画は〝藤田嗣治か威三郎〟と言われたそうな。威三郎は昭和35年の西欧旅行の際のパリで藤田に逢い〝少女像〟を額入りで贈られ持ち帰った。藤田は日本画壇に愛想をつかしフランス国籍、レオナール・フジタになった後だろう。

 話を戻す。秋庭著より井上唖々(本名・井上精一)経歴を簡単に記す。~金沢藩士の長男。明治11年、名古屋生まれ。幼少より父と東京飯田町に住み、第一高等学校第一部を卒。東京帝国大学独文科に学ぶも、病のために学業を廃し、書店に勤める傍ら雑筆を以て口糊とした。英独語に通じ、漢文学の素養浅からず、式亭三馬や斉藤緑雨風の滑稽風刺文を得意にした。

 日本史に明るく、芝居を好み、俳諧に遊んだ。文壇に見向きもせず陋巷陰士的生活をよしとし、酒を愛し清貧に甘んじ、明治43,44年頃に継母と衝突して深川東森下町近くの裏長屋に女と隠れ住む。

 その後、正妻みねを娶り二子を設ける。大正時代に籾山書店勤務後に毎夕新聞に入社(酒が呑める暮し優先で校正係りに甘んじる)。荷風主筆の文芸雑誌『文明』『花月』の編集に協力。大正12年、46歳で〝脱俗陰淪(だつぞくいんりん)の一生を終わった。著書に『猿論語』『酒行脚』『裏店列伝』『小説道楽』『遊楽書生』など。荷風との合作『夜の女界』。

 挿絵は荷風帰朝後に浅草で撮った写真を参考に描いた。二人、無頼ぶっている。写真ではよくわからないが荷風は髯を蓄え、唖々は丸眼鏡を外しているか。(このシリーズ4、5回は続きそう)

コメント(0) 

円形信号機から若き日々を [スケッチ・美術系]

nisigutidigi_1.jpg さらに苦手の高層ビル街へ。新宿警察署近くの「新宿アイランド」前にLOVEの赤文字オブジェ。道路反対側は「新宿三井ビル」(1Fにキヤノン修理サービスあり。先日も立ち上らぬストロボ修理が無料だった)

 その十字路が「新宿警察署裏交差点」で珍しい〝円形信号機〟が架ってい、それを描いてみた。なんだか〝塗り絵〟のようになってしまったが、苦手のビル街を描いたことで、苦手意識が薄らいできたような気がした。

 描き終わって、この円形信号機(サインリング)が「GKデザイン」作と知った。GKグループ創業者は栄久庵憲治さん(2015年没)。工業デザイン草分けの偉い方だが、実は氏は小生が若い時分に数年所属の「ヘラ鮒底釣り会・喜楽会」会長だった。

 当時、上井草駅近くに「釣り堀・喜楽沼」あり。何故そこへ、どう行ったかも思い出せないが、釣りを見学していて誘われたのだろう、「喜楽会」へ入会した。

 月例会後に、帰り道が同方向だったかで栄久庵さん、老哲学者、絵描きさん他のメンバーで喫茶店に立ち寄ってしばし談笑が恒例。その談笑が釣りより愉しかったのを覚えている。栄久庵さんはヤマハのバイクもデザインしていて、当時の小生はヤマハ音楽振興会の仕事をしていた。

 当時は仕事一途だったが、このヘラ鮒釣りを機に、子供時分の釣りを、高2からの山岳会(東京白陵会)活動を思い出して、一気に野外遊びに目覚めた。遊びのためにバイク、自動車免許を取得。ランクルにある日はトライアル競技バイクを積み、また海釣りやダイビング機材を載せて走り回るようになった。そんな事も思い出して~(苦手の風景スケッチ克服記6で完とします)

コメント(0) 

ツナギを購った萬年屋を描く [スケッチ・美術系]

mannenya3_1.jpg 新宿御苑を出て自転車に跨れば「島の作業ツナギがボロボロで、新ツナギ購入」を思い出し「萬年屋」へ向かった。新宿南口からワシントンホテル前を通って角筈交差点際の黄色ビルへ。

 店頭にツナギが吊るされ〝格安札〟。1階奥壁に3180円の各色ツナギが並んでいた。腰に伸縮自在の蛇腹折り付き。ポケットにあった数千円で買える価格ゆえ、そのブルー色に即決。

 店員が親切で「2階も見て下さい。その上でコレが良いならばMとLの試着をして下さい」。ズボンの上から着ることが多いのでLを購入。店のロゴ、亀のイラスト入りタオルをくれた。

 同ビルは人目を惹く黄色ペイントに亀のイラストが描かれていた。左右ビルを省略し、手前に街路樹と黒塗り高級車を配した。初めて自動車(3台も)を描いた。満足できる絵ではないも〝苦手〟を描いたことで〝よし〟としましょ。

 ネットで水彩画巡りをすれば、本格水彩画に写実派、濡れた(水気たっぷり)抒情派、人物中心、街中心、風景中心など実に多彩多岐。さらに「線と淡彩」、「線画中心」などの描き方もあって、それぞれがグループ(指導者と生徒たち)が形成されている。小生は群れるのが嫌いゆえ、あくまでも〝自己流〟探しです。

 次は最も不得意、描きたくもない高層ビル街の真ん中へ行ってみた。(苦手の風景スケッチ克服記5) 

コメント(0) 

カップルを〝さっぱり描き〟 [スケッチ・美術系]

couple1_1.jpg 描き込み過ぎた台湾閣を大反省し、再びプラタナス並木に戻ってベンチに座るカップルを超省略で描いてみた。

 右上に広重風景版画を意識して、プラタナスの葉を大きくデフォルメかつ白スペース風に残した。葉の繁みもプラタナスとわかる描き方で簡略。彩色もサッと幾筆。

 ウム、ちょっと要領がわかってきたぞ。背後から覗き込んできた西洋人が「オォ、ジャパニーズ〝サッパリ〟ネ」と言った。(それは嘘。先日のテレビで建築家・隈研吾と日本修業を経て米国で日本食レストランを成功させたオーナーシェフが対談。二人が〝さっぱり〟コンセプトを話し合っていた)

 〝サッパリ〟の要領を覚えた次は、さらに苦手の建造物(街)を描くことにも挑戦したくなってきた。(苦手の風景スケッチ克服記4)

コメント(0) 

台湾閣を描く。写実より省略を [スケッチ・美術系]

goryoutei15_1.jpg 新宿御苑3作目は御苑スケッチの定番、旧御涼亭(台湾閣)。この日もどこかの〝教室〟の年配者らが並び坐ってスケッチをしていた。彩色仕上げまでするのか、蚊の対策は万全か。

 野外スケッチは椅子が肝心だ。身体の安定をもって画用紙、ペンの走りも安定する。小生も鳥撮り用にコールマンの折り畳み傘状になる携帯椅子を持っているが、公衆の場(人前)で椅子に座って絵を描く勇気がない。風景画苦手には景色観察は遠視で、手元は近視で、その遠近調整が少々辛いことも関係している。

 ここは御託を並べても埒はあかない。無理して描き始めれば、風景を〝写す〟ことに己を見失って描き込み過ぎた。小生のような初心者でも、ペン・筆を持てば描けもしないのに、見た通り(写実)に描こうとし、その結果〝無残なお目汚し〟になってしまう。

 人は何故、細部を描こうとするのだろうか。本能や? ゴッホらジャポニズムの西洋画家らは、浮世絵の大胆な省略(デフォルメ)に胆を潰し魅了されたらしい。

 西洋画は〝見るまえに跳べ〟の実存主義的なところがある。その引き換えに一つづつの筆触に責任を負う。比して水彩画は〝描く前に考えろ〟だ。構図やテーマを、白をどう残すか、どう省略し、どんな線で、どう彩色するかなどを描く前にしっかりと頭の中でデザインしてから描き始める。

 細部を描こうとする性癖が本能ならば、ここは浮世絵や水墨画でも描く〝禅的〟な気持ちを持って、思い切った省略(抽象に近いほど)の覚悟が必要だろう。次はこの辺に留意して描いてみることにした。(苦手の風景スケッチ克服記3)

コメント(0) 

プラタナス並木を描く [スケッチ・美術系]

platanus1_1.jpg 最初に描いたのは日本最古のプラタナス巨木だが、次に大木戸門方向の「プラタナス並木」を描いた。ベンチに座ると、並木の陰と陽が交互に続くのが面白いと思った。

 昔、ここのプラタナスの穴にワカケホンセイインコが出入りしていたのを見たことがある。

 プラタナス並木と云えば『鈴懸の径』。立教大キャンパスの〝鈴懸の並木〟から佐伯孝夫が作詞で灰田勝彦作曲。あたしは4ビート・アレンジの鈴木章治のクラリネット、平岡精二のヴィヴラフォンが好きだ。

 御苑のプラタナス並木の秋の風情もいい。プラタナスの大きな落葉が、ベンチを埋めるかのように降り積もる。

 昔、某有名写真家が某のジャケット写真をここで撮った。〝早撮り〟の彼のこと、苑の許可なしでサッと撮ったらしいが、子供時分から御苑を知っている者には〝あぁ、この写真の木はあの木だなぁ〟とわかる。そう指摘すると彼は頭を抱えた。某の名は言えぬ。

 そんな鳥や歌や写真家のことなどを思い出しつつ、この絵を描いた。途中で投げ出そうかと思ったが、最初に描いたベンチの板の線(角度)が良かったので最後まで頑張れた。さて、3枚目はどこで描こうか。(苦手の風景スケッチ克服記2)

コメント(0) 

新宿御苑2度目のスケッチ [スケッチ・美術系]

taijyu3_1.jpg 2年前の春、暇つぶしに新宿御苑で初スケッチ。「うひゃぁ~、描けねぇ」で、ムキになって始めた水彩画。人物を描くのは好きになったが、風景画は相変わらず苦手。2年振りにクロッキー帖持参で御苑へ行った。

 これまでも幾度かスケッチブックを持参で御苑に行ったが、風景画は描かずしまい。「今度こそ」。新宿門を入ってすぐ右の巨木(明治20年頃に移植の日本最古のプラタナス=モミジバスズカケノキ)を前に、藪を背にしたベンチ(後ろから覗かれない)に座って描き出した。

 向こうに白シャツの男が座り込んで紫陽花を描いていた。鉛筆でアタリを取り、ペンで描き始めて数分か、ブ~ンと蚊が手に止まった。払い避け、まくり上げていた袖を手首まで伸ばす。再びブ~ン、チクッ。

 虫よけ剤を不携帯。最初はヤブ蚊くらいに思っていたが、痒くなるに従って、ひょっとしてネッタイシマカ、ヒトスジシマカだろうか。デングウィルス感染かと思ったら集中力が切れた。

 彩色せずも、せめてペンだけはと頑張ったが「いやぁ、参った・参った」。次のスケッチ場を探しながら、もしもデング熱ならば潜伏期間2~14日後に高熱かぁ~とつぶやきつつ、次は大木戸門方面のプラタナス並木へ向かった。(苦手の風景スケッチ克服記1)

 ★安倍内閣の暴挙止まらず。蛇蝎かの嫌悪感を覚えるあの顔が、テレビに映る度にチャンネルを変えてきた。チャンネルを変えれば〝御用新聞系チャンネル〟だったりで、テレビから離れる日々。風景スケッチの苦手は努力すれば克服できようが、議会無視で次から次へ憲法を変えて行くヤツラの罪は計り知れぬ。〝地獄に堕ちろ〟と記せば、戦前ならば即〝憲兵〟が飛んで来ただろう。チクッ、チクッ。毒がまわって暗黒の大日本帝国時代が甦る。 

コメント(0) 

累計総閲覧数200万を越えて~ [アクセスレポート]

access1_1.jpg 大島シリーズ中に、ブログ累計総閲覧数が200万を越えていた。最近の閲覧数多い記事は「島の玄関・竹芝の高層ビル群」「九鬼周造の人生」「岡倉天心と九鬼周造」「謎の〝大島元町復興計画〟」「吉阪隆正と大島」「大江戸骨董市の掘り出し物」だろうか。

 思わぬ記事に閲覧が多く、これはと思う記事に閲覧が少なかったりもする。或る日は最新記事に一切見向きもせず、古い記事ばかりが閲覧されていることもある。古い記事は、自分でも何を記したかを忘れてい、自らアクセスして懐かしく読み返したりもする。

 そそっかしい小生は誤字脱字も多く、そうした際に訂正もし、時には過去の〝改ざん〟もする。ブログの写真を絵に替えたのが2年前。暇ならば昔の記事の写真なしに絵を添え、写真を絵に差し替える遊びもある。

 ブログ歴が永いくせに、200万を越えて「so-netブログ」左枠最下段「検索ボックス」の便利さに初めて気付いた。ちなみに「霊岸島」で<検索>すると18件ヒット。冒頭に写真か絵がアップで、文章は途中で<・・・>で終わる形で関連記事一覧が出る。そこの題名クリックで全文記事へ飛ぶ。

 江戸時代の金銭、時間、古文書解読などは一度勉強しても忘れてしまうことままで、そんな際にも過去の勉強記事に一瞬に飛べて、これは便利と今更になって感心した。

 写真は6月7日(今朝の数字は2006522)。更新はほぼ隔日ペースで記事数は1900ほど。1日の平均訪問者は200名で記事閲覧数はその3倍ほど。アクセスランキングとやらは1434だから、まぁ、地味な存在なのだろう。

 何故にブログを? 決まっているじゃないですか、隠居は暇なんですよぅ。金持ちならば他の遊びもあろうが、こちとら(此方人等)貧乏隠居ゆえ図書館の本を読む、絵を描く、散歩をし、自転車に乗り、ブログを記す。みぃ~んなタダで遊べることばかりです。

コメント(0) 

大型船と中村屋とゴジラカレー〈2017‐10〉 [週末大島暮し]

ohgatasen3_1.jpg 元町の観光協会前、「寿し光」海側の小公園に座って元町桟橋を眺めていたら、大型船「さるびあ丸」が出航するところだった。

 かつて竹芝を夜発の同船に乗るべく長蛇の列に並び、座る場所確保に熾烈な闘いを展開した嫌や思い出が甦ってきた。だが大島を昼発の大型船には〝優雅な船旅感〟があった。「久し振りに大型船で帰ろうか」。しかし帰京日の大型船運航なし。

 大島暮し7日目に、元町からジェットフォイル艇で島を後にした。ややして右舷窓から我がロッジが見えた。大別荘の脇の小さな茶色屋根。手前の白線は塩工場の屋根。車で海岸通りをロッジへ走っていると「ロッジが火事だ」とドキッとすることがある。白煙は火事ではなく塩工場から立ち昇る煙(湯気)らしい。

 塩害については不明だが、いずれにせよ防風林が伐採されて船からロッジが丸見え。ロッジから海一望で、冬はニシ(強い西風)を食らって怖くて住めなくなった。老人ゆえ残り幾度の島暮し。ここは島の産業、塩の量産・発展を祈りましょ。

wagaya1_1.jpg 船の中で大島土産を確認した。「アシタバ五把、ゴジラカレー二つ、冷凍ハンバノリ四つ、そして大島の塩」。土産を見ながら「ゴジラカレーと中村屋がコラボすればおもしろかったのに」と思った。中村屋はインドカリー発祥店。中村屋の娘と結婚できぬ傷心を島で癒した中村彝。前回記したが新宿中村屋ギャラリーで「中村彝生誕130年記念展」をやっていた。実は我家は安くて旨い中村屋のレトルトカレーを常備している。

 それが元町「ベニヤ」にもあって驚いた。もしも前述のコラボが実現していたら、全国のスーパーに「中村屋の大島ゴジラカレー」も並んだだろうにと、その絵を想い浮かべたら、ちょっと楽しくなった。

 楽しくないのは、初めて描いた船の絵。友人が言う。「お前は線がダメなんだよ。描く前に線を引く練習をする。縦に、横に、円も描く。太く、細く、早く、遅く、入りと抜き~」。今回の大島暮しで痛感は、もう少しマメに島通いをすること。風景スケッチ苦手を克服すること。(今回の大島シリーズおわり)

コメント(0) 

御神火太鼓の子供たち〈2017‐9〉 [週末大島暮し]

gojinkataiko2_1.jpg 今回の大島では、ライフライン復活と草刈りでスケッチをする余裕もなかった。そこで「ぶらっとハウス」裏の多目的広場で行われた恒例「軽トラ市」で行われた子供たちの「御神火太鼓」の写真より〝お絵描きの練習〟です。

 ブログ絵は迷った結果、やはり「ペン画+淡彩」がいいと結論し、改めてペンを再考。今までのペンは万年筆=LAMY Safari(ラミーサファリ)+インク=プラチナのカーボンインク・ブラックの細字と太字の2本。そしてボールペン=パイロットHI-TEC-C。共に水彩をのせても滲まぬインク。

 ボールペンではやはり硬質過ぎやしないかと、もっとタッチ感の出そうなSTAEDTLER pigment liner(ステッドラーピグメントライナー、水性顔料インク)が良さそうだ。世界堂へ行くとボールペンは文具売り場で、ステッドラーは画材売場。ドイツ製。絵を描くには、やはりコレがいいらしい。

 かかぁが言った。「お爺さんが文具に夢中になって、女学生みたいじゃないの。絵は道具じゃないの。腕よ、デッサン力よ。描いて・描いて・描きまくらないと上手にならないよ」。ピカソか、はたまた漫画の浦沢直樹みたいなことを言った。

コメント(0) 

吉谷神社への参道に感動〈2017‐8〉 [週末大島暮し]

mikageisi2_1.jpg 新宿区百人町在住だった早大教授で「ル・コルビュジエ」に師事した建築家・吉阪隆正。彼は昭和40年の元町大火のテレビ映像を観た夜に「大島復興計画書」を書き上げて大島へ届け、復興の希望と勇気を元町に届けた。(弊ブログ2月に6回シリーズで紹介)

 「大島町史」にも昭和41年に〝吉阪教室による町づくり〟なる文言あり。彼らは「都市計画」と同時に建築家集団ゆえに島南部(例えば波浮小学校)の建物など多くを手掛けたらしいが、実際にどの建物の設計をしたのかは小生調べでは確証を得るには至らなかった。

 その中で「復興計画書」に図入り記載され、かつ多数建築家らが吉阪隆正について語った膨大な「You Tube」資料にも「吉谷神社への敷石参道」も彼のアイデアだったとあった。それは町づくりにおける海岸から神社へのドラマ性の演出で、敷石は都電廃止で不要になった御影石を利用とか。

 都電史をみれば、銀座を走っていた都電も同時期に廃止ゆえ、この参道の御影石に銀座の敷石が混ざっていたように推測してみた。さて、本当にその敷石参道はあるのだろうか。この眼で確認したく元町をちょっとワクワクしながら歩いてみた。

 「あった、あった、確かにあった」。

 計画書通り御影石の参道は、海岸沿いの道、現・観光協会事務所の前、以前に何度か共に呑み、元町花火を屋上で楽しませてくれた夫妻の現・廃業ホテルと東屋のある小さな公園の間から石畳みは始まっていた。

mikageisi3_1.jpg tosyokan_1.jpgそこから山側へ真っ直ぐ続いて役場通りの元町郵便局まで続き、すこし左にズレて銀行から吉谷公園(昭和43年開園。これも吉阪チームによるものらしい)を通って神社までドッシリとした石畳参道が続いていた。

 あぁ、これが銀座を含めた都電廃止による御影石の参道だ、コルビュジエに学んで都市計画に情熱を燃やした吉阪隆正の痕跡だな、とちょっとジーンと胸が熱くなった。彼は同計画に日本初?の住民参加のワークショップを勧め、また世界初のボンネルフ設計(人間優先の車道で、後に真っ直ぐな車道に直されたらしい)など数々のユニークなアイデアを提案・実施。

 小生なら参道下に、この石敷参道の由来を記した案内板を設置し、観光客を吉谷神社へ誘いたく思うのだが、そんなことを思う島の方は誰もいないんだなぁとちょっと淋しかった。

 また朽ちかけた元町図書館も、多くの資料に「吉阪プロジェクト」によるものとの記述があったので写真をアップです。

コメント(0) 

夏来る繁茂の庭と老い戦〈2017‐7〉 [週末大島暮し]

kusakariman.jpg 何日も要して腰まで伸びた庭の雑草を、小生の頭(坊主)のようにきれいに刈り込んだ。島ではあちこちで〝草刈り現場〟を眼にした。その手際の良さに感服も、街育ちの老人(小生)は10分やって30分の大休憩。

 「こんなに辛い草刈りはもうイヤ」。ついに「除草剤」を買った。草刈り後に〝いざ散布〟と説明文を読めば、撒くのは草刈り後ではなく、雑草に直接散布して葉や茎を経て根を枯らすとあった。除草剤は次回へ。「老いぼれて闘い放棄の除草剤」

 さて、帰京後の仕事が上手く行けば、かかぁの友達らと再び島遊びの予定。同じメンツで幾度も島を愉しんできた。庭写真の「杉」は、I夫人が某社催事で入手の15㎝の苗を植えたもので、それがこんなに大きくなってしまった。

kusakarikanryo_1.jpg 昨年は玄関急階段でT夫人が転げ落ちた。いつの間に全員の足許が覚束ない歳になった。手摺りが必要だが、それを作る技術なく、庭に土を削った緩い階段を拵えた。

 ご夫人方全員がマンション暮しで〝あぁ、私たちもそんな土の階段作りがしたかったなぁ〟と言い出しそう。マンション暮しで出来ぬ作業に汗するのも〝島暮し〟の愉しみです。

 今回の庭仕事で、長年(20年)愛用〝黄色いツナギ〟がボロボロになった。庭仕事や防腐剤塗りなどで必需品。新調すべくネット検索すれば「草刈り専用ズボン(前部にパット、背部にベンチレーションジッパー)が15,120円。専用ヘルメット、ジャケット、手袋、ブーツもあって計68,000円。リッチな方も草刈りをするらしい。

 近所に「ワークマン」なし。西新宿の「萬年屋」か「伊勢啓中村屋」で安いツナギを求めよう。挿絵は描き終わってパソコン取り込み後に、肩ベルトが本体に繋がっていない(描き忘れ)のに気付いた。Windows「ペイント」のマウスで描き足した。草刈りが苦手でも、パソコン操作は若者のようにサッと出来る。

コメント(0) 

長らへてあと幾度や島の風呂〈2017‐6〉 [週末大島暮し]

roten6_1.jpg ロッジのライフライン復活と草刈りで疲労困憊。いつもなら毎夕愉しむ「浜の湯」(水着着用の露天風呂)だが、今回は7日間で2日だけ。

 かつて、湯に浸かりつつ〝島の古老らの話を聞くのが愉しい〟と記したが、湯に寛ぐ方々を見回せば〝吾も古老〟かと気付かされた。かかぁが湯にあたって倒れはせぬかと眼を離せず、自分も弱った足腰をマッサージしつつの入浴。

 2年前のこと、突然の足裏のシビレに驚いた。大病院診断は「脊柱狭窄症」。病院通いをすれど改善せず、自己流ストレッチで痺れを軽減。1時間ほどのウォーキングも平気になった。腰痛は慢性。

 過日のこと、小石を踏んで転んだ。自己判断をすれば足首の柔軟性、強靭性が失われて踏ん張る力を失ったと判断。大腸内視鏡検査を勧められ「ケツから何かを突っ込んで調べるなんぞ真っ平御免でぇ」と啖呵を切るも、結果はポリープ(良性)を二度に渡って除去し、年に1度の定期検査を受けることにもなった。

 若い時分に無理をした反省あり、逆に遠慮したことの反省あり。いずれにせよ、人生やり直しが効かぬ歳。そう思ったら「浜の湯」隣にある「中村彝(つね)像」が気になった。彼は小生の半分37歳で逝った。島ではどんな暮らしをしていたのだろうか。

 帰京後に「新宿・中村屋ギャラリー」で開催中の「中村彝・生誕130年記念~芸術家たちの絆展」を観た。彼は岸田劉生と同じく「白馬会研究所」に在籍。劉生の2年先輩で、二人の仲は良くなかった。その劉生も39歳で逝った。思わず「長らへてあと幾度の島の風呂」です。(季は〝島〟で四季)

 挿絵は「浜の湯」に自分らを配す〝想像〟で描いた〝初想像画〟。今回の「浜の湯」は若夫婦と2歳半の赤ちゃんが展開する微笑ましい入浴風景が記憶に残った。

コメント(0) 

自然木カウンター〈2017‐5〉 [週末大島暮し]

counter1_1.jpg 大島のボロロッジは薪ストーブ、吹き抜け、天井を回るファンに加えて、この太い自然木カウンターが存在感を発揮している。

 かつて島を去った知人が譲ってくれたもの。チェーンソーでカウンターの形に整えて入念に塗装。大人4、5名でワッセ・ワッセの掛け声に合わせて運び込んで設置したのを覚えている。

 ブログ挿絵は、目下さまざまな描き方を模索中。いや、迷って悶々としている。この際に改めて「不透明水彩(ガッシュ)」も使ってみようすれば、暫く使わなかった幾色もが凝固して使えなくなっていた。世界堂へ行けば2号(5ml)の単体販売はなしで、プロ仕様のような大きなチューブだけで頭を抱えてしまった。

 筆のコーナーを見る。「これは使い易そう」と選んだ筆をレジへ持って行こうとしたら4千円で、慌てて商品棚に戻した。それでも千円の水彩筆を2本買った。えらく彩色し易い。水をたっぷり含んだ描き方には、それなりの筆がある。ン万円も有りで驚いた。 

 今回は仕切り直して、チューブから出した「透明水彩パレット」を作り直し、色見本も作り直して壁に貼ってみた。初心者ながら、描き方の試行錯誤や迷いは限りなく続くのだろう。ブログ挿絵は「絵日記」のようなものゆえに、最も簡単な「鉛筆+淡彩」がいいのだろうが、悶々の日々は続く~。 

コメント(0) 

薪燃やす愉しみ残す五月哉〈1017‐4〉 [週末大島暮し]

stove1_1.jpg ライフライン顛末記の次は〝良かった事〟も記す。まず海沿いの道(サンセットパームライン)から防風林を抜ける凸凹道が26年を経て、ついに舗装された。友人のブログアップ写真で飛行場際まで続く舗装かと思っていたが、我がロッジ際までだった(下写真、まるで藪トンネル。右側が次第に深い谷になっているが、少し先まで行けば飛行場脇からの舗装路が来ている)。いずれ全舗装を期待です。

 今回はライフライン修繕ばかりで、かかぁには「面白くない大島暮し」と思えど、「あらっ、楽しかったよ。東京でこんなトラブルは絶対に体験出来ないもの。家の中からキジを、キョンを、リスも見た。一日中〝ホーホケキョ〟の声に包まれ、ホオジロやコジュケイも盛んに鳴いていた。〝ぶらっとはうす〟で買った自然薯も美味しかったし~」。

 さらに〝良き哉〟は、東京出発まで真夏日だったが、島は天候不順で朝・夜が寒くて存分に「薪ストーブ」が愉しめたこと。〝島の朝は早い〟と記したいが、実際は我がロッジの朝は〝遅く・寒かった〟。

 東京はマンション7階で東向き。4時半頃に昇る朝日は、早くも恐ろしいほど真っ赤で、昇り切ると白熱で、灼熱の陽が部屋に射し込む。遮熱・遮光カーテンが必需品。

hosouroend_1_1.jpg 比して島ロッジは西向きで、東側に他家ロッジと雑木林で、太陽が斜め上まで昇らぬと陽が射し込まぬ。建物の立地環境で、こうも違いがあると痛感。そこでもう一句。「明六に独り暖炉や島の初夏」

 次回島暮しは、秋に備えて久々にチェーンソーで「薪作り」と「煙突に接触の朽ち気味の桜の木を伐採」。

 倒したい方向に三角の切り込み(角度30~45°、受け口)を作り、反対側に受け口の少し上にチェーンソーで(追い口)。チェーンソ―が挟まれないように(くさび)を打ち込む~だよね。倒す方向を間違えると大ごとになる。島暮しは次から次へと、都会では出来ぬ〝仕事〟が迫ってくる。

コメント(0) 

島ロッジ1年放置の無残かな〈2017‐3〉 [週末大島暮し]

lifeline1_1.jpg 大島のボロ小屋を1年間放置すれば、尋常であるワケがない。庭の雑草繁茂は覚悟だが、まずは「あぁ、水が出ねぇ」。役場に電話をする。「検査をしたら漏水疑惑で元栓を閉じてあります」。次にプロパンも出ぬ。これも「長期留守のために定期点検が出来ず止めています」。

 次に「トイレの水の塩梅も良くない」。プロパン調整を終えたS青年が「ちょっと見てあげよう」。仕事外の親切に、かかぁと共に感涙す。この時点で水道漏水はトイレの垂れ流しが原因かと判断した。

 そこに「おぉ、久し振りに来たかぁ」とM氏。「草刈機の2サイクル燃料はこれを使ってくれ」とポリタンク。かくも皆さんの親切に支えられての島暮しです。

 翌日、家裏で水音がする。裏へ回って腰を抜かした。石油給湯器の裏側下部の水道菅とのジョイント部が腐食し、そこから水がジャージャーと勢いよく洩れ流れているじゃないか。慌てて「水道元栓(量水器)」を止めた。

 これは昨日、役場の方が雑草に埋もれていた元栓を操作するのを見ていて出来たこと。そして役場の方が教えてくれた近所の業者さんへ電話。やっとN氏の会社が電話に出てくれた。「どんな具合か夕方に見て、明日直してあげよう」。

 それからは水なし生活。風呂場に溜めた水をバケツに汲んでのトイレ流し。あぁ、被災地のライフライン崩壊の辛い生活一端を知ったり、です。翌日、水道N氏が石油給湯器の水漏れを修理し、トイレも応急処理。これでやっと湯が出た、風呂に入れた。

 そこに再びM氏登場。再びトイレを調整。おぉ、何と云うことでしょう。勢い良くジャーと水が流れでピタッと止まる。こんなに歯切れの良い水洗トイレは久し振り。島で生活するには、こうした技術と経験がなければ生きては行けない。都会暮らしの軟弱さ痛感です。

 そして、いよいよ草刈り。不安と緊張でリコイルロープを引く。「おぉ、な・なんだ!一発始動だ」。これは前回の島暮しでMK商会さんに〝上手な仕舞い方〟を教わった結果だろう。腰痛ベルトを締めて、腰まで伸びた雑草と格闘開始です。その姿を見た水道N氏が笑ったね。「貧乏老人の別荘持ちは地獄だねぇ、ふふっ」

 <メモ>1年間放置でもプロパン・水道・電気料金の請求書は毎月来る。電気はブレーカーを落とせばいいが、それが冷蔵庫の故障原因、また浄化槽ポンプ(ブロウ)は止めない方がいいのアドバイスで今までは電源は入れっぱなし。今回は思い切ってブレーカーを落として帰った。

 水道は26年目にして、役場で「別荘扱い」手続きで、使用時のみの請求になるのを知った。同じくプロパンも電話連絡で停止をしてもらえば、これまた使用時だけの請求になるらしい。今頃知っても、老いた身であと何回ロッジ通いができますでしょうか。

コメント(0) 

東京ベイを経て島へ〈2017‐2〉 [週末大島暮し]

takesibax_1.jpg 前回、汐留を含む浜松町地区の近代高層ビル化を再確認したので、次は東京ベイゾーン(臨海部)も知っておこうと思う。

 まずは竹芝桟橋対岸の(勝どき地区)の特異な外観のビル2棟が気になる。これは平成20年(2008)竣工の58階建て分譲マンション「THE TOKYO TOWERS」。あの外観はヨットの帆をイメージとか。竹芝より海に出てから、この絵のビル右角から両面を見れば、確かに三角形のセールが膨らんだ形になっている。

 その左は「勝どき東地区再開発」中のA1棟だろうか。他にA2棟、B棟も建築中らしい。勝どき地区の北側は「月島~佃島」で巨大高層マンション群林立風景は有名。ついでに記せば、佃島の対岸が東京湾汽船当時の霊岸島発着場。東海汽船はそこから芝浦桟橋、月島桟橋を経て現在の竹芝桟橋に至った。

 勝どきの沖側が晴海埠頭。現在確認出来るのは「晴海客船ターミナル」だけで、目下はオリンピック選手村は基礎作り段階か。その先が混迷深める豊洲市場。小生の記憶が正しければ、平成3年ロッジ建設時の七島海運は、この豊洲埠頭にあったように思う。

 さらに先は「有明コロシアム」が写真で確認できるゆえ有明地区。ここに有明アリーナ(バレーボール等の屋内競技場、竣工費360億)、アクアティックセンター(水泳等、竣工帆470億円)が建設らしい。東京ゲートブリッジ際では揉めに揉めたカヌー競技他。お台場がトライアスロンやビーチバレー。東京ビッグサイトでは各種室内競技、夢の島葉バトミントン、バスケ、アーチェリー、馬術など。

toukyobey2_1.jpg 昭和39年(1964)の東京オリンピックの時は小生二十歳。〝東京がうるさくなってきたから〟と友人と伊豆へ遊びに行った。そんな小生ゆえ「よくもまぁ、巨費(税金2兆円?)を投じて、とんでもないことをしてくれるなぁ」の感が否めない。

 それだけの金があればアレもコレもできように。厳しい格差社会になって最新建造物、高層ビル街にまったく無縁の取り残された人々は膨大で、対策遅れが山積みだろうに。

 さて、レインボーブリッジ(平成5年開通)下から東京ベイゾーンを過ぎ、東京湾を出れば、伊豆大島は目の前。1年間放置したロッジは「ライフライン」全滅で、スケッチをする余裕もなかった。帰京後、竹芝桟橋の写真から、島通いの友人からいただいた「Cotoman Travellers24」(固形水彩24色、筆入れ、スケッチブック収納の旅行スケッチセット)でお絵描きに相成候。

 風景画は苦手だなぁ。美大出の友人は「クロッキー帖(コピー用紙風の紙)に水彩画は無茶だよ。ヘロヘロに波打っちゃうだろ。ちゃんと水張りした水彩用紙に描きなさい」

 下写真は「世界貿易センタービル・最上階展望台」から東京ベイゾーンを撮ったもの。午前中は都心部が順光で、臨海は午後が順光。観覧料大人620円(高齢者500円)。次はロッジ1年間放置が、いかに無残なことになるかのご報告。 

コメント(0) 

島への玄関、竹芝の高層ビル群(2017‐1) [週末大島暮し]

bunkahousou_1.jpg 伊豆大島の1週間暮しから戻った2日後、19日の東京新聞にJR浜松町駅隣接「世界貿易センタービル」最上階展望台が紹介されていた。同ビルは昭和45年(1970)竣工。当時は霞が関ビルに次ぐ都心の超高層ビルだったが、東京オリンピック翌年に建て替えとか。

 小生昨今の大島経路は、大江戸線「大門」下車で竹芝桟橋まで徒歩。「大門」で地上へ出れば同ビル前。この辺りは平成12年(2000)から次々と高層ビルが建ち並び。今や近代高層ビル街に変貌した。

 同ビル前「浜松町スクエア」(写真上中央、下が賃貸オフィス、上が賃貸住宅)が平成16年(2004)竣工。右隣「文化放送ビル」が翌々年竣工、JRを渡った先の「〝芝〟離宮庭園」前の「汐留芝離宮ビルディング」(オフィスビル兼複合商業施設)も平成18年(2006)竣工で、デッキで繋がった隣の「汐留ビルディング」(2Fが25店の飲食街、4~24Fがオフィス)がその翌年竣工(下写真の右下の2棟)。その後ろの「〝浜〟離宮」際に建つのが「アクティ汐留」(下写真中央のビル。58階の賃貸住宅、平成16年・2004)、また最近では竹芝桟橋前に「浜離宮インターシティ」(平成23年・2011)が建った。

 その背後が〝虎の門・汐留地区〟だ。「東京汐留ビルディング」(ホテル・コンラッド東京、ソフトバンクが入る。平成17年・2005竣工)。その裏に「電通本社ビル」(平成14年・2002)、「ロイヤルパーク汐留タワー」(平成15年・2003)、「日本テレビタワー」(平成16年・2004)、「汐留メディアタワー」(共同通信社、平成15年・2003)等々が見える。

tenbou1_1.jpg そして今回は「芝離宮庭園」隣が巨大敷地になって工事中だった。東急不動産・鹿島建設2社共同「竹芝地区開発計画」。全体延べ面積20万㎡の国際ビジネス拠点を創出とか。業務棟は地上39階地下2階。竣工は2020年。ますます高層ビル街になる。

 かつて威容を誇った「世界貿易センタービル」に老舗感が漂うも、その最上階展望台からは360度の抜群の眺望が見える。眼下竹芝の近代高層ビル群も手に取るようにわかる。「竹芝地区開発計画」工事が進めば、竹芝桟橋は視界から消えよう。

 かく記すのも、小生「世界貿易センタービル」に多少の思い出あり。昭和52年(1977)頃か、30代半ばの頃に同ビル入居の音楽会社PCの仕事をし始め、同社は昭和53年秋に市ヶ谷・一口坂に移転。その頃が同社隆盛期で、同社は市ヶ谷から移転後に次第に凋落して行った。まぁ、そこでの仕事収入をもって平成3年(1991)に大島ロッジを建てた次第。つまり平成3年からの島通いの度に、竹芝周辺の変化を眼にしてきたことになる。

tenbou2_1.jpg PCはフジサンケイグループ。フジテレビは東新宿の自宅から徒歩圏内の河田町をあとに、お台場へ移ったのが平成9年(1997)。四谷の文化放送も前述通り浜松町へ移転、系列違いだが市ヶ谷の日本テレビも汐留自社ビルへ移転。

 かくして大島の玄関口ともいうべき浜松町~竹芝桟橋を歩くと、若き頃の仕事、我がフリーランス前半のあれこれが甦る。それにしても同地区の昼間人口は、かつての数倍増だろう。島通いの旅人らが大きな荷物を持ってゾロゾロと歩く程度だった道が、今はこれら高層ビル群の勤め人雑踏で、旅行荷物を持って歩くのが困難になってきた。

 浜松町、汐留地区が、かくも近代高層ビル街化して、そこが過疎化進む大島の玄関口とは何とも皮肉なり。いや、年々そのギャップが大きくなって、同地からジェットフォイル艇90分で〝東京のジオパーク・大島〟へが面白くなっている。このギャップ堪能で大島人気が復活すればいいのだが、と思ってしまう。

コメント(0) 
前の30件 | -
メッセージを送る