So-net無料ブログ作成
前の30件 | -

ジャポニスム18:北斎・遠近法の謎 [北斎・広重他]

mitiwari2_1.jpg 前項で北斎『〝浮絵元祖〟東都歌舞岐大芝居之図』の遠近法が、歌川豊国を真似ただけとわかった。同右画面の透視線が消失点に集中していたのに、左画面の透視線がズレまくっているのは何故だろうか。

 さて、もうひとつ注目の北斎の遠近法が『北斎漫画三編』の見開き頁にあった。右図は「三つわりの法」(写真上)。画面縦横三等分の線と透視線が二本。黄金比に近い矩形で左右対象構図。北斎文字は「ここにて三寸のたかさにかゝんときハ」「二ツを天とすべし」「一ツを地となす」。北斎は後にこの構図で『富嶽三十六景・深川万年橋下』を描いた。

 解せぬが左頁図(写真下)。木が約4:6で左寄り(靑線)、建造物透視線(赤線)、帆船らしき船が浮かぶ水平線(緑線)。北斎文字は「間のすじにあわせてかくべし」「かくのごとし」と読める。この図は明らかに左右非対象を主張しているような気がする。

hokusaihitaisyo.jpg この両図はオールコック『日本の美術と美術産業』(日文研データベースで閲覧)に銅板模写で紹介されていた。同著はロンドンで明治十一年(1878)に刊。北斎とは記されぬまま日本の遠近法として紹介されたか。

 この左右非対象図をよくよく眺めれば、どこか異国風ではないか。沖の帆船、人物の帽子やコート姿はオランダ人のシルエットっぽい。北斎は、この図をオランダ資料を見て描いたような気がしてきた。ならば、その元図はどこにあるのだろうか。

 そしてパリの印象派の画家らは左右対称図には見向きもせず、消失点がズレた左右非対象で奥行きを演出したを風景画を幾作も描いていたような~。

 ならばこの左右非対称図はオランダ~日本~ロンドン~パリ~日本を駆け巡ったように思えて、ちょっと愉しくなってきた。この辺はきっと諏訪春雄著『日本人と遠近法』、岸本和著『江戸の遠近法』(両著未読)などを読めばわかるのかも知れぬが、素人の小生はこの辺の謎は専門家にお任せして、次に北斎のバレ句(艶句)について考えてみる。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム17:北斎が学んだ新画法 [北斎・広重他]

hokusaisibaizu.jpg 「ジャポニスム15」文中、荷風文の「(北斎が学んだ新画法は)司馬江漢が西洋遠近法の応用」を引用した。また「彼が司馬江漢の油絵並に銅板画によりて和蘭画の法式を窺い知りしは寛政八年の頃」なる記述もあった。鍬形薫斎(北尾正美)からも勉強したのだろうか。この辺が詳しく知りたくなった。

 荷風『江戸芸術論』、飯島虚心『葛飾北斎伝』に加え、大久保純一『北斎』、永田生慈の『葛飾北斎』他を読む。

 北斎六歳の明和二年(1765)に鈴木春信が多色摺版画=錦絵を創始。安永七年(1778)、北斎十九歳で勝川春章に入門。翌年に平賀源内が没。天明三年(1783)に司馬江漢が「銅版画」制作に成功。

 平賀源内で「おゝ」と気付く。この時代は蘭学を通じて西洋文化が入っている。十八世紀前期に中国経由で透視画法が日本に入って、奥村政信らが見よう見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を制作。そして同世紀後半に歌川豊国が西洋から輸入された銅板画を学ぶなどして「浮絵」を完全。

 北斎は春章入門後の二十八歳、天明七年(1787)頃に、歌川豊国「浮絵 歌舞伎芝居之図」を参考に左右対称一点透視画『絵浮元祖東都歌舞岐大芝居之図』(写真)を描く。※~と記されているが、小生が両図共に透視線を引いてみれば、右側の透視線は合っているが、画面左側は豊国と北斎同じ間違い線が多々。北斎が浮絵を改善したとは言い難い。それで〝浮絵元祖〟はおこがましい。北斎〝てらい〟性分なりとわかる。彼はこの頃から遠近法強調作を描き始めている。

 次に大きな画法習得は、中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保十六年(1731)に長崎に渡来して始めた南蘋派(江戸では唐画)から、色の濃淡でリアル写実(質感)の描き方を学んだ。

 そして銅版画習得へ。その代表作が『銅板 近江八景』や『阿蘭陀画鑑 江戸八景』(文化八年~十一年頃)。これは本物の銅板画(エッチング)ではなく、その描線(ハッキング)を模した作品群。大久保著では年代的及び普及度から司馬江漢の後の「唖欧堂田善の江戸名所銅版画」から学んだのだろうと推測していた。

 弘化五年(1848)の絵手本『画本彩色通』二編末に、腐食銅板画の説明を記しているそうな。なお司馬江漢は江戸の町屋生まれ。源内の鉱山探しに同行した奇人だそうで、ぜひ調べ知りたい人物です。

 次が油絵のお勉強。文化前期・中期頃に油絵風五作あり。石垣模様の縁取りで、ひらがなを横書きした英語風「ほくさいゑがく くだんうしがふち」。九段坂の急なお濠崖が〝板ぼかし〟で重厚な油絵風に仕上げられた作。銅板画と同じく、これも絵手本『画本彩色通』初編に荏油(えのあぶら)の作り方が絵入りで紹介されている。

 写生力、画題の広範さに加えて、これら北斎の西洋画法の試みもあって、印象派画家らから身近な存在として迎えられたようにも思える。次は『北斎漫画』に描かれた不思議な遠近法の謎について。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム16:北斎の戯作&画 [北斎・広重他]

tokitaro2_1.jpg 今回は〝おまけ〟で、北斎が「時太郎可候」名で戯作者&絵師で仕上げた『竈将軍勘略巻』の巻末「舌代」文と自画像の模写遊び。

 同作の刊は寛政十二年(1800年)。北斎四十一歳。「戯作者&絵師」は山東京伝が絵師・北尾政寅でもあったように当時は特別珍しいことでもなし。この世で隠居中の小生も、現役期はライター&デザイナーだった。以下、参考原画は国会図書館デジタルデータベース。「漢字くずし方辞典」を久々に紐解いての筆写です。

 舌代 不調法なる戯作仕差上申候(つかまつりさしあげもうしそうろう)。是ニ而(にて)、御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々當年評判すこしもよ路しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(早々=急ぎ書き、不具=気持ちを充分に言い表わせていませんがの意の手紙結文) 十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 参考:鈴木重三校注

 作者名「時太郎可候」の時太郎=幼名。可候=かこう(そうべく、そうろうべく)。北斎が勝川派から離脱して「春朗」から琳派「宗理」改名が寛政七年頃。そして「宗理」を捨てて「可候」へ。「北斎」に至る狭間期で未だ前途厳しく、絵一筋の心持に至らずの「戯作&絵」だったのだろうか。未だ馬琴と大喧嘩をしていない。

 だが自画像を見れば、江戸時代の四十歳らしく?すっかりお爺さん姿。しかし本領発揮はこれからで、相当に奥手(大器晩成)だったと再認識です。

 これでシリーズ終了と思ったが、北斎について知りたいことが幾つも出てきた。北斎は〝遠近法〟をはじめの新画法をどのように身に付けてきたのだろうか。次はその辺を探ってみる。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム15:荷風の北斎論Ⅱ [北斎・広重他]

hokusaitera.jpg 荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」の続き。『北斎漫画』については周知多々ゆえ省略し『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』の記述を読む。

 「これら諸作はいづれも文政六年以後の板行せられしものにして、北斎が山水画家としてまた色彩家としてその技量の最頂点を示した傑作品たるのみに非ず、その一は司馬江漢が西洋遠近法の応用、その二は仏国印象派勃興との関係につきて最も注意すべき興味ある制作なりとす」

 北斎の遠近法には快感さえ覚える。またその線は日本画の線を廃し、能ふ限り柔かく細き線を用ひたれば、色彩の濃淡中に混和して分別しがたきものあり。これは浮世絵在来の形式の超越、西洋画の新感化を応用なり、と分析する。

gakyouhaka.jpg 「文政六年歳六十余に初めて富嶽三十六景図の新機軸を出(いだ)せり。北斎は全く大器晩成の人にして、年七十に及んで初めて描く事を知りたりと称せしその述懐は甚だ意味深長なりといふべし」

 次に色彩について。「その色彩は絵画的快感を専らとしたり。天然の色彩を離れて専ら絵画的快感を主にしたるものならずや。(中略)これは色彩板刻から得たものだろうが、仏蘭西印象派の画人らが初めて北斎の板画を一見するや、その簡略明瞭なる色調の諧和を賞するのみならず、あたかも当時彼らが研究しつつありし外光主義の理論と対照して大に得る処ありとなせしものなり」

 それによって印象派の画家は、北斎の山水板画を以て成功したのだろう、とまで言っている。特に富士山の陰影は黒く暗く見ゆるものにあらずの新理論は印象派の主張と一致すると指摘。荷風さん、子供時分から岡不崩に絵を習い、仏語の北斎論も読み込んでいるだろうから、その観察眼・指摘を侮ってはいけない。

 写真は三年前の春、自転車で元浅草・誓教寺の北斎お墓を掃苔して撮ったもの。1893年(明治二十六年)にも書肆・逢枢閣主人で浮世絵商の小林文七が、写真師・小川一真を伴って写させている。飯島虚心『葛飾北斎伝』にも載ってい、また「これを欧州に贈りたる」とあるから、林忠正の手を通してゴンス、ゴンクールの手にも渡ったのだろう。

 写真家・小川一真については「青山・外人墓地」シリーズの「荷風と下水道とバルトン」や「凌雲閣設計と写真とバルトン」に登場済。彼はまたフェノロサや岡倉天心との関係あり。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム14:荷風「泰西人の北斎」 [北斎・広重他]

kafuedo1_1.jpg 今回は永井荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」を読む。荷風はまず日本人による優れた北斎評がないのを歎く。

 「泰西人の北斎に関する著述にして余の知れるものに仏国の文豪ゴンクウルの『北斎伝』。ルヴォンの『北斎研究』あり。独逸人ペルヂンスキイの『北斎』。英吉利人ホルムス『北斎』の著あり。仏蘭西にて夙(つと)に日本美術の大著を出版したるルイ・ゴンスはけだし泰西における北斎称賛中の第一人者なり。ゴンスは北斎を以て日本画中の最大なるものとするのみに非ず、恐らく欧州美術史の最大名家の列に加ふべきものとなし~」

 まぁ、日本人の情けないことよ。日本では1893年(明治二十六年)の書肆・逢枢閣を営む浮世絵商・小林文七から出版の飯島虚心『葛飾北斎伝』くらいか。だが同書を読めば経歴・逸話を集めた書で、北斎絵画評ではなし。同書は鈴木重三校注で岩波文庫刊。原文はARC古典籍ポータルデータベースで読める。

 さて、荷風さん改めて「そもそも何が故に斯くの如く(北斎が)尊崇せられたるや」と分析・考察。北斎称賛要素に「堅実な写生力」と「画題範囲の浩瀚無辺」を挙げた。

 まず写生について。日本画古来の伝統法式ではなく、その円熟の写生が泰西美術の傾向と相似たる所で、その写生力が泰西鑑賞家らにとって「初めて日本画家中最も己に近きものあるを発見し驚愕歓喜のあまり推賞して世界一の名家となせしに外ならざるなり」

hokusaiden1_1.jpg その写生力は観察力の凄さ。印象派と同じく性格の表現に重きを置かんとして、人物禽獣は飛躍せんばかり。彼は浮世絵、琳派、狩野の古法、支那画、司馬江漢に西洋画を学んだが〝写生の精神〟は始終変わらず。老いてなお、観察はさらに鋭敏にその意気いよいよ旺盛。この点において北斎は寔に泰西人の激賞するが如く不覊自由(ふきじゆう)なる独立の画家たりといふべし。

 次に画題範囲の浩瀚無辺について。筆勢の赴く処、縦横無尽に花鳥、山水、人物、神仙、婦女、あらゆる画題を描き尽せしもの古来その例なし「一驚せざるを得ざるべし」と記す。

 さらにその制作は肉筆、板刻の錦絵、摺物、小説類の挿絵、絵本、扇面、短冊、図案等各種に渉りてその数夥しい。そのなかで泰西人称美の第一は『北斎漫画』などの絵本、第二は『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』等の錦絵。第三は肉筆掛物中の鯉魚幽霊または山水。第四は摺物なり。長くなったので区切る。写真は岩波文庫『江戸芸術論』(全集では第十四巻収録)と飯島虚心『葛飾北斎伝』。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム13:荷風の風景画論 [北斎・広重他]

hirosiryogoku1_1.jpg 永井荷風の著作を読むと『絵本江戸土産』や『江戸名所図会』を愛読していたことがわかる。小生の古文書講座の初受講教材が、広重『絵本江戸土産』だった。そこから自習で西村重長版『絵本江戸土産』や長谷川雪旦『江戸名所図会』で〝崩し字〟勉強を続けた。

 池袋古本市でボロボロながら全作揃いの広重『狂歌入東海道五十三次』を入手し、狂歌解読の遊びもした。それらに関する荷風『江戸芸術論』より「浮世絵の山水画と江戸名所」を読む。

 浮世絵は風俗俳優の容姿を描くを以て本領としたが、時代の好尚(趣向・流行)や画工技能の円熟によって背景・遠景図が発達して山水風景画に至った。西洋画も人物背景から風景画へ発展は同じ。かくして葛飾北斎や広重の二大家が現れて江戸平民絵画史の掉尾を飾った、と説明。

 ここで荷風さん、天明年間の江戸に勃興した〝狂歌〟の影響が無視できぬと指摘。「江戸名所を課題とする狂歌の流行は、江戸名所の風景に対する都土人の愛好心を増進した。それと共に画工の風景に対する観察を鋭敏ならしめた。狂歌は絵本と摺物において、よく浮世絵の山水画を完成せしめた。(中略)天明寛政の平民美術についてはその勢力隠然狂歌にありしといふことを得べし」。この辺は「ジャポニスム」には負えぬ江戸の奥深さだな。

 「北斎も狂歌全盛の時代に出で〝浮絵〟の名所絵に写生の技を熟練せしめたる後、寛永八年頃より司馬江漢につきて西洋油絵の画風を研究し、これを自家特有の技術を加えて北斎一流の山水をつくり出せり」※浮絵=西洋の透視画法を用いて遠近法を強調して描いたもの=くぼみ絵、遠視画。奥村政信~歌川豊春にその作品が多い)

 荷風が記す北斎の山水画を制作順に記すと絵本『江都勝景一覧』(1799年・寛政十一年)、『東都遊』(1802年・享和二年)、『山復山』(1804年・文化元年)。次第に腕を磨いて『隅田川両岸一覧』(1806年・文化三年)へ。北斎の名所絵本はいづれも狂歌の賛をなしたるものにして、後年の『富嶽三十六景』(1823年~・文政六年~)、『諸国滝巡り』(1833年~・天保八年~)、『諸国名橋奇覧』(1833年~・天保六年~)へ至ったと説明。

 小生はこれらを所有せぬゆえ「国会図書館デジタルライブラリー」閲覧で確認した。『隅田川両岸一覧』は一作にほぼ二首の狂歌入り。『江都勝景一覧』は一作に四首ほどの狂歌挿入、『山復山』は「絵本狂歌山満多山」で各作に狂歌がびっしり挿入だった。「北斎の精緻なる写生は挿入せしその狂歌と相俟って、見るものをしておのづからその時代の雰囲気中にあるの思をなさしむ」

 一方、広重の山水画は『名所江戸百景』『江戸近郊八景』『東都名所』『江都勝景』『江戸高名会亭尽』『名所江戸坂尽』そして狂歌入りを含む『東海道五十三次』など。絵本は『江戸土産』(十巻)、『狂歌江戸名所図絵』(十六巻)など。広重作品についても詳細解説されているが、ここでは省略。

 荷風さんは北斎と広重の比較を「北斎は美麗なる漢字の形容詞を多く用ひたる紀行文の如く。広重はこまごまとまたなだらかに書流したる戯作者の文章の如し」と評していた。写真は露出が少なかろう広重『東都名所・両国夕すゞみ』三枚続の一枚。

コメント(0) 

ジャポニスム12:荷風の浮世絵鑑賞 [北斎・広重他]

maroawabi1_1.jpg 「ジャポニスム」最後は、やはり浮世絵の復習でしょう。永井荷風『江戸芸術論』より冒頭章「浮世絵の鑑賞」を読む。

 荷風さん、端から歎いていた。「(帰朝して我邦を見れば)西洋文明模倣の状況を窺ひ見るやに、余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり」。広重や北斎の江戸名所絵で都会や近郊の風景を見つつ、専制時代の平民の生活や悲哀の美感を求めようとするも、西洋模倣ばかりになってしまった。日本人の歴史に対する精神を疑う他にないと~。

 浮世絵は政府の迫害(遠島や手鎖)を受けた町絵師らの功績。「木版摺りの紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。(中略)その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし」(ゴッホは浮世絵の何を見ていたのか!)

 油絵の色や筆致に画家の強い意思や主張があるのに比し、木版摺の色彩には専制時代の人心の反映だろう、その頼りなく悲しき色彩に哀訴の旋律が秘められている。絵師は日当たりの悪い横丁の借家で、畳の上で両脚を折り曲げ、火鉢で寒を凌ぎ、廂(ひさし)を打つ夜半の雨を聴きつつ、そんな虫けら同然の町人によって制作されたもの。

 ここで浮世絵技法の歴史を辿り「鈴木春信が初めて精巧なる木版彩色摺の法を発見。その錦絵には板画の優しき色調がある。比して肉筆画は朱、胡粉、墨等の顔料がそのままで生硬(せいこう)なる色彩の乱雑を感じる」 荷風反骨の独壇場へ続く~

 「官営の美術展覧場に厭しき画工ら虚名の鎬(しのぎ)を削れば、猜疑嫉妬の俗論轟々として沸くが如く(中略)~独り窃に浮世絵を取出して眺むれば、あゝ、春章・写楽・豊国は江戸盛期の演劇を眼前に髣髴たらしめ、歌麿・栄之は不夜城の歓楽に人を誘い、北斎・広重は閑雅なる市中の風景に遊ばしむ。予はこれに依って自ら慰むる処なしとせざるなり」

 最後にこう締めくくる。「浮世絵の生命は実に日本の風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外に輸出せられたり。悲しからずや」 これ、大正二年正月の文章。荷風さん三十四歳。慶応義塾大学文科教授で「三田文学」編集の時。その三年後に大逆事件の囚人馬車が走る光景を見て、戯作者にまで身を沈めると隠棲生活に入った。

 ちなみに遠島は英一蝶、手鎖五十日の刑は喜多川歌麿、月麿、勝川春亭、勝川豊国ら。戯作者では山東京伝(絵師名は北尾政寅)と十辺舎一九も手鎖五十日の刑で、恋川春町は自刃し、蔦屋重三郎は身代半減の刑など。

 写真は荷風同著「ゴンクウルの歌麿及北斎伝」でも詳細説明の歌麿「鮑取り」の三枚続の一枚。裸(肉体)輪郭線が墨ではなく薄い朱色がニクイ。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム11:北斎とジャポニスム [北斎・広重他]

hokusaimonet2_1.jpg 馬渕明子著『ジャポニスム』最終章が「葛飾北斎とジャポニスム」。まず著者は、開国後の日本紹介に『北斎漫画』が好んで活用されたと記す。

 当初は北斎の名も知らずに使用だが、その名の初登場は英国人評論家が1865年(慶応元年)の日記に「二冊の北斎の本を買った」の記録あり。そして1868年の新聞各紙の美術記事に詳しく紹介されるようになって、同年記事に「画家クロード・モネは北斎の忠実なライバル」なる記述があったとか。

 北斎の絵がどう使われたか。最初は『北斎漫画』の動植物図(モチーフの宝庫)が、絵付け陶器の装飾に採用。絵画で最も早く北斎をヒントにしたのがドガ。ドガの絵には『北斎漫画』からのポーズ転用が多いと図版比較例多数。

 小生は昨年二月にブログ十四回シリーズで北斎『悪玉踊り』を女性に描き直して全模写遊びをしたが、冒頭のトンビ・ポーズもドガ『カフェ・コンセール「アンバサドゥール」で歌うベガ嬢』になっているとの図版説明には驚いた。ドガ自身は、そこまで活用しながら、北斎の詳細を知らなかったらしい。

 また『富嶽百景』はバカラ・クリスタルが『竹林の不二』を採用。花瓶や皿へ『富嶽三十六景/神奈川沖裏波』の転用など多数例あり。モネの1865年『サン=タドレスのテラス』は『五百羅漢寺さざゑ堂』の構図、他に『蘆中筏の不二』などの構図ヒントになった作品多数。

 そんな十年程を経て「芸術家・北斎」が次第にクローズアップ。その最初が1880年(明治十三年)のエドワード・S・モース『北斎論~近代日本絵画の開祖』。単行本では1896年(明治二十九年)のゴングール『北斎論』(飯島虚心の著作を林忠正が翻訳して提供)、ミシェル・ルヴァン『北斎試論』(東京帝国大フランス法教師として来日)などでやっと巨匠扱い。(欧州の北斎論については荷風『江戸芸術論』に詳しい)

 また北斎の『富嶽百景』『富嶽三十六景』など、同一モチーフを多角的に捉える試み(連作)も、従来西洋画にはなく、モネの『サン・ラザール駅』や『睡蓮』などの連作を生んだとか。またジャポニスムに無縁だったようなセザンヌも、1890年代には「サント=ヴィクトワール山」連作を試みている。かく北斎は欧州絵画の堅固な伝統からの脱皮に大いに手を貸した、と著者は同書を結んでいた。

 さて著者・馬渕明子をネット検索すると、現在は国立西洋美術館・館長らしく、この十月二十一日より同館で「北斎とジャポニスム」開催。楽しみです。写真は弊ブログ「狂歌入東海道」シリーズの最初に〝ゴッホ筆致の広重〟を描いたので、今回は英泉描く北斎像模写+モネ睡蓮のコラージュ。次回は永井荷風『江戸芸術論』の再読。

コメント(0) 

ジャポニスム10:クリムトの場合 [北斎・広重他]

klimt2_1.jpg 再び馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、グスタフ・クリムトの場合をお勉強。著者は「ウィーンでのジャポニスムは、パリに比して神話・歴史を題材の歴史様式が圧倒的に続き、日本美術が入ったのも遅かった。パリ万博六年後の1873年(明治六年)にウィーン万博で、絵画より工芸美術品中心だった」と説明。

 ウィーンは〝いわく〟在り気で、同著を離れて「ウィーンの歴史」を覗いてみれば、やはり十九世紀後半~二十世紀初頭に史上稀な〝文化爛熟=世紀末ウィーン〟があった。当時は「オーストリア・ハンガリー帝国」で多彩な民族性融合国家。従来の帝国体制凋落に従ってコスモポリタン要素を含んだ文化爛熟が盛り上がった。

 シュトラウス、ブラームス、マーラーなどの音楽家。グスタフ・クリムトは1862年(文久二年)のウィーン郊外生まれ。フロイトより六歳年下で、カフカより二十一歳年長。前述ウィーン万博の三年後に工芸学校入学。1879年(明治十二年)ころから弟や仲間と建築系装飾の仕事を開始。

 美術史館の中庭、ストゥラーニ宮殿の天井寓意画、皇妃別荘、劇場内装など。1897年(明治三十年)、アカデミックな芸術団体を嫌った人々で「ウィーン分離派」を形成し、三十五歳のクリムトが会長に就いた。

 その頃の彼は、どんな絵を描いていたのだろう。『ジル・ネレー翻訳画集』を見ると、フロイトの影響もあったのだろう、早くも裸体画中心のエロティスム追及。同年の寓意画「悲劇」を見れば、馬渕著には記されていなかったが、女性を囲む幅広額縁に「龍」が描き込まれていた。美術史館の壁画ゆえ、同館の日本コレクションを参考にしたと推測される。また描かれた女性は娼婦風とかで「分離派」ならではの作品。

 馬渕著では、1890年(明治二十三年)頃から後にウィーン分離派になる若い人々は日本文様(水流、渦巻、立湧、唐草模様、鱗模様、靑海波、家紋など)を多用で、平面化が顕著だったと指摘。

 クリムトと云えば〝金箔〟。その平塗りならば伝統的遠近法を覆す象徴。著者は「それぞれの文化で異なった〝ジャポニスム〟が生み出されるところも面白い」と指摘していた。小生はクリムト晩年の素描群を見れば、版画春画の影響大と思うのだが、いかがだろうか。

 写真は背景に東洋系カットが描き込めれたクリムト作品。モネ「ラ・ジャポネーズ」、ゴッホ「タンギー爺さん」と較べたくなる作だが、モネより四十年、ゴッホより二十九年遅い。

 なおアドルフ・ヒトラーはウィーン美術学校受験に失敗し、ヒトラーより一歳下でクリムトを師としたエゴン・シーレは同校入学で、師と同じく「エロス」を追求。世紀末ウィーンはなかなか奥が深そうです。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム8:林忠正とはⅡ [北斎・広重他]

tadamasa1_1.jpg 「忠正の店」「ビングの店」活況で、日本の浮世絵は根こそぎ海外へ流出。「浮世絵の生命は実に風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外へ輸出せられたり。悲しからずや」(荷風)

 当時の日本では浮世絵は庶民のもの。F.ブリンクリーが銀座の夜店で〝紙屑扱い〟の歌麿、師宣らの一枚一銭に十銭払って、店主が腰を抜かしたとか。それがまぁ、パリでは数百フランで飛ぶように売れた。国内価格も跳ね上がって十四、五銭に。

 1888年(明治二十二年)のゴッホの記録では1枚3フラン。それが数年後に250~300フラン。当時のパリの小市民一ヶ月生活費が100~200フラン。それで浮世絵500フランの高値にも。浮世絵バブルだな。

 かくして忠正は巨万の富を得た。一方で浮世絵が欲しいドガ、ルノアールなどには絵と交換か購入で〝印象派コレクション〟を充実。日本で西洋美術館を建てる計画だったとか。

 フェノロサはパリの〝北斎絶賛〟に「彼は町絵師に過ぎず伝統的日本画は~」と寄稿して一蹴された過去あり。しかし1898年(明治三十一年)の小林文七主催「浮世絵展」カタログに「浮世絵は中国の影響を受けた官学派の絵画と違い、純粋に日本の風土から生まれた絵画で、その版画は最古の傑作」と立派な浮世絵解説を記したとか。

 1889年、日本では洋風画家らが「明治美術会」を発足。忠正も賛助会員になって、多額の寄付とコレクションを参考作品として展示。また黒田清輝をラファエル・コランに紹介。黒田は帰朝後に「明治美術会」出品で認められるようになった。

 1891年(明治二十四年)、ゴングール『歌麿~靑楼の画家』を刊。1896年に『北斎~十八世紀の日本美術』を刊。忠正は日本資料の仏語翻訳で協力した。しかし次第にブームは低迷。忠正はシカゴ万博などに参加も不成功。1900年(明治三十三年)のパリ万博の事務官長就任。仏国政府、日本政府から受勲。

 これを機にパリの店仕舞い。「売り立てカタログ」は三冊。1905年に帰国。現・新橋演舞場の二千坪の地に自邸を建てたが、翌年に五十二歳で没。印象派コレクションを帝国博物館で引き取るよう望むが、印象派の価値が認められずニューヨークで競売になる。

 長くなったので荷風『江戸芸術論』の引用で終わる。~林氏は尋常一様の輸出商人にあらざることを知るべし。千九百二年巴里において林忠正はそが所蔵の浮世絵並に古美術品を競売に附するに際し浩瀚なる写真版目録を出版せり。この書今に到るもなほ斯道研究者必須の参考書たり。林氏は維新後日本国内に遺棄せられし江戸の美術を拾ひ取りてこれを欧州人に紹介し以て欧州近世美術の上に多大の影響を及ぼさしめたる主動者たりというべきなり。

コメント(0) 

ジャポニスム7:林忠正とはⅠ [北斎・広重他]

tadamasa2satu_1.jpg 印象派の画家らが「ジャポニスム」熱中のパリで、日本美術品を売る「ビング」と「林忠正」の店~と記した。そこで今回は「林忠正」について。木々康子著『林忠正とその時代~世紀末のパリと日本美術』、定家武敏著『海を渡る浮世絵~林忠正の生涯』両著より、林忠正とは~を要約してみる。

 林忠正は1856年(安政三年)高岡生まれ。生家はオランダ医学を修めた外科医・長崎家。十四歳で林家・養嗣子になって林忠正。上京してフランス語を学び、翌年に貢進生で南校入学。その後に廃藩置県かつ養父失脚で藩費喪失。新川県の給費生で東京開成学校へ。1878年(明治十一年)、大卒直前だったが二十四歳で四度目のパリ万博出店の起立工商会社(政府出資)の通訳募集に応募して渡仏。

 同社背景には、弊ブログの「岡倉天心、フェノロサ」関連で幾度も登場の「瀧池会」の存在あり。「日本美術で輸出増加を図る」趣旨で設立。パリ万博の初参加は1867年(慶応三年)。この時に出品の浮世絵が若い印象派の画家らを虜にした。

 浮世絵はそれ以前に、1856年(安政三年)に日本から送られた陶器の詰め物に「北斎漫画」があって、版画家ブラックモンが注目。それをマネ、ドガ、ホイッスラーらに見せ回った。または1862年(文久二年)にモネがル・アーブル港の着荷の中から日本の色刷り版画を見つけた等々の諸説あり。

 林忠正に話を戻す。パリ万博終了と同時に解雇。フリーの通訳になる。日本からの警察制度調査の大警視一行の欧州視察の通訳、有栖川親王の欧州御巡回の通訳などで存在感を得る。そこに起立工商の副社長・若井兼三郎(瀧池会の主要会員)がパリ支局の立て直しに来て、忠正に共に働くよう要請。立て直しが成功し、本社機構の改革を訴えるが叶わずで若井、忠正共に退社。

 忠正は1883年(明治十六年)にパリの下宿で美術店を開業。経営順調のなか、翌年に若井がパリに戻って「若井・林カンパニー」設立。今度は若井が日本で大量の美術品を仕入れてパリへ発送、忠正が売り捌くシステム。忠正は英国・米国まで販路を拡大しつつ、次第に古美術鑑定眼と知識を増し、各国美術館の顧問も務めるようになった。

 1886年(明治十九年)、林忠正は仏国有力紙「パリ・イリュストレ」の日本特集号の全編を仏文執筆・編集。忠正の存在・評価が高まった。やがて若井とも別れ、独立してパリ都心に店を構えると、たちまちに地下~四階の店舗拡大。忠正が海外で売り捌いた浮世絵はン十万枚とか。他に巻物、絵本、肉筆画、屏風など膨大。日本の浮世絵が根こそぎ海外流失。日本での仕入れは妻・里子はじめの東京陣営が担当したとか。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム6:ゴッホの場合Ⅱ [北斎・広重他]

tanemakuhito2_1.jpg さて、ゴッホの「ジャポネズリー」が「ジャポニスム」へどう深化したか。

 ゴッホが南仏へ旅立ったのは、浮世絵模写の翌年。アルルの明るい色彩=日本のように美しい光溢るる日出ずる国=色彩の饗宴。ゴッホの心は躍った。

 「もう日本の絵は必要ない。僕は日本にいると思っているから。感銘を与える目の前のものを描きさえすればいいんだ」。『黄色い家』『ラ・クロの収穫』『夜のカフェテラス』『郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像』『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』『アルルのゴッホの寝室』『アルルの跳ね橋』『ひまわり』など三百点余。

 ゴッホは従来画家が成し得なかった鮮やかな色彩、色彩の単純化、大胆な構図、素描の早さ、繊細さ、平面的な色面などを掌中にした。

 だが彼はどう解釈を間違えたか? 日本は決して「南仏のように光溢るる国」ではないし、絵師らは作品交換をする「共同生活者」でもない。彼の胸をときめかしたのは〝大いなる幻想の日本〟だった。

 ここで圀府寺司著『ファン・ゴッホ』他を読む。ゴッホの父は牧師。当時のオランダは「ドミノクラシ―」(牧師支配の状況)で聖職者が文化的指導者。彼も牧師になるべく勉強を始めたが、次第に近代化の波が押し寄せて教会離れ。ゴッホも聖職者を諦めて画家を目指した。当初は炭鉱夫、その妻たち、職工、農夫を描いていたが、パリに出て印象派の洗礼を受けた。そこに浮世絵があった。

 小生はやはり、こう思う。ゴッホは「聖職者・伝道師」への〝激しい情熱〟を「浮世絵・日本」への想いに〝すり替え〟た。その結果、彼のジャポニスムは絵画に収まらず、〝幻想の日本〟へ精神丸ごと入れ込んだ。彼は仏僧にも憧れたが〝隠棲〟を知らず、〝陰翳礼讃〟を知らず、〝粋〟を知らず。さらに云えば浮世絵の肉筆画とは違う〝木版画特有の優しき色調〟(荷風)をも知らず。逆に余りに他者との絆を求め過ぎてゴーギャンとも破綻した。

 1890年(明治二十三年)、ゴッホはパリ郊外の旅館滞在中に拳銃自殺?で享年三十七歳。写真は『種まく人』。その構図は彼が模写した広重『江戸百/亀戸梅屋鋪』に似ている。なお、十月二十四日から東京都美術館で「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」開催とか。日本人はなぜにこうもゴッホ好きか。次は「林忠正」について。

コメント(0) 

ジャポニスム5:ゴッホの場合Ⅰ [北斎・広重他]

tangijiisan1_1.jpg ゴッホは1853年(嘉永六年)、オランダ南部生まれ。日本は開国までオランダが唯一の欧州交易国。1837年(天保八年)よりシーボルトの日本資料が民族学博物館に陳列とか。港町には日本からの輸入陶磁器を売る店が随所にあったそうな。

 ゴッホは十六歳より美術商グーピル商会に勤務。二十歳の時に、弟テオが同商会ブリュッセル支店勤務で、ゴッホはロンドン支店からパリ本店勤務へ。やがて大学で神学を学び聖職者を目指そうとするも挫折。伝道活動をするも余りに献身的過ぎて伝道仮免許停止処分。

 1880年(明治十三年)、二十七歳で画家になると決意。1885年(明治十八年)、弟宛の手紙に「大好きな日本の版画コレクションを壁にピンで留めて~」の文言あり。ゴッホがパリの弟の処に転がり込んだのが翌年。折しも日本ブームで、第八回印象派展(最後の開催)を観て仰天した。

 弟は画商仕事で新進画家らとお付き合い。スーラ、ドガ、シスレー、モネ、ピサロを紹介してもらう。交友がロートレック、べルナール、ピサロ、ゴーギャンへと広がる。ゴッホの絵も印象派、後期印象派らの影響を受けて行く。

 カフェ(キャバレー)「ル・タンブラン」の女主人セガトーリを描いた絵には、カフェの壁に浮世絵あり。当時のパリで日本美術品を扱う主な店は、ビングと林忠正(彼の評伝書二冊読了ゆえ後述予定)の店。ゴッホ兄弟はビングの店の版画を委託販売したり、浮世絵展を開催。そして画家仲間との交流の場のひとつが、画材屋のタンギー爺さんの店。

 ゴッホは1887年、林忠正による日本特集の雑誌表紙(英泉『花魁』)を、広重『亀戸梅屋舗』や『大橋 あたけの夕立』を模写。『タンギー爺さんの肖像』もこの頃の作で、背景に多くの浮世絵を描き込んだ。

 タンギー爺さんは、貧乏な印象派の画家らを助ける素朴でユートピア的社会主義者で、ゴッホには日本の僧にも思えた存在。描かれたタンギー爺さんは、仏陀のように正面向きで両手を組んでいる。馬渕明子著では背後の浮世絵を右上が広重五十三次名所図会「石薬師」、右下が英泉「花魁」、頭の後ろが広重の漁網越しの富士山、左上が広重の雪景色、左中が歌川豊国「岩井粂三郎の三浦屋高尾」、左下が伊勢辰「東京名所 以里屋」だろうと解説。長くなったので、ここで区切る。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム4:モネの場合 [北斎・広重他]

mondejap1_1.jpg 印象派の「ジャポニスム」を語る上で留意すべきは、伝統的日本画ではなく「浮世絵」ってこと。1883年(明治十六年)、仏国の美術雑誌が余りに北斎を絶賛するので、フェノロサが正統派日本画を紹介したが一蹴されたとか。庶民パワーの浮世絵を見くびってはいけない。

 永井荷風は『浮世絵の鑑賞』でこう記している。~(浮世絵は)圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙りつつしかも能くその発達を遂げたりき。(中略)遠島に流され手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示しその凱歌を奏するものならずや。

 さて馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、今度はモネのお勉強。同著では多数評論家のモネ作品の「ジャポニスム」指摘を北斎、広重版画などと図版対比で詳細説明。ここはブログゆえ要点のみを簡略・箇条書きです。

●モネのジャポニスムは、初期から晩年まで六十年の画歴を通じて見られる。●モネの急速に遠方に退く誇張気味の遠近法も広重に似ている。従来西洋画になかった浮世絵版画の遠近法を採り入れている。

●モネは「空から振る枝」「画面前景に立ちはだかる木」「すだれ効果」「イメージの重なり」「画面の分割構図」「画面に平行な前景の処理」「俯瞰する視点」など北斎、広重に学んだ。

●日本人は自然を彩られた明るさに満ちたものとして捉え、多彩な色調、色彩の明るさで背景を暗くしない。モネは西洋風景画家のなかで最初に色彩の中に溶け込んで行く日本人の大胆な色彩感覚を得た。

●晩年の『睡蓮』連作には、暗示的な芸術性、日本的自然観などを深く理解した結果の現れ。日本美術の自然モティーフを多用した装飾性も認められる。

 この説明に、小生は再び永井荷風の記述を加えたい。●クロード・モネエが四季の時節及朝夕昼夜の時間を異にする光線の下に始終同位置の風景及物体を描きて倦まざりしはこれ北斎より暗示を得たものなりといはる。

m_sanpokasa2_1.jpg モネ作品ことごとくに「ジャパニスム」が認められるならば~。小生が絵を描き始めた2年前秋のこと。モネ展へ行こうとするも余りの大行列で断念し、自室に籠って不透明水彩で簡易模写したこのパラソルの絵だって、浮世絵には傘さす似たような女性絵は沢山ある。これまた「ジャポニスム」と云えなくもない。

 ここで改めて手元のモネ画集をひも解けば「ジャポニスム」の文言一切なし。注目度変遷をネット調べすれば、官邸サイトに辿り着いて興醒めなり。来年の日仏友好160年に「ジャポニスム2018をパリ中心に開催」の推進会議内容らしい。

 また今年十月には国立西洋美術館で「葛飾北斎とジャポニスム」開催とか。馬渕明子著『ジャポニスム』初版が1997年で、最終章が『葛飾北斎とジャポニスム』。それで氏は今、国立西洋美術館館長らしく唸ってしまった。

 写真上はモネ『ラ・ジャポネーズ』(1876年、明治九年)。ホイッスラーの着物立ち姿と似ている。次はゴッホの場合。

コメント(0) 

ジャポニスム3:ホイッスラーⅡ [北斎・広重他]

whishiro1_1.jpg 野上秀男『日本美術を愛した蝶~ホイッスラーとジャポニスム」を読む。こんな時代(あらゆる意を含み)の今年一月に、十九世紀末の画家ホイッスラーの評伝書が出版とは。まずは冒頭文。

 ~十九世紀後半、日本美術を初めて知った西洋の画家たちは衝撃を受けた。彼らは浮世絵版画の鮮やかな色彩、繊細な線、独創的な形象のとらえ方、構図などに感嘆したのである。西洋美術における日本美術の影響はジャポニスムと呼ばれ、西洋人画家たちは、その手法を自分たちの作品に取り入れようとした。そうした試みに最も早く取り組んだ画家の一人が、パリとロンドンで活躍したアメリカ人画家、ジェイムズ・マクニール・ホイッスラーであった。

 単行本一冊の評伝ゆえ、前回ブログに大量追記したくなるも、ここは「興味ある方は同書をどうぞ」で省略し、破産後のホイッスラー逸話を同書より簡単紹介。

 名を成せば富豪も注文で、画家は金満になる。邸宅装飾を頼まれて、自邸も建てたくなった。「ホワイトハウス」と呼ばれた外観に、意匠を凝らした室内装飾。1878年秋に入居だが、半年後に経済破綻。作品批判のラスキン相手の訴訟費用もあって邸宅、蒐集してきた日本美術品も競売へ。

kyobasihiro1_1.jpg ホイッスラーさん、めげずにベネチア風景のパステル画を百点、エッチング五十点で負債額に近い収入。富豪らの肖像画もセッセと描いた。1885年(明治十八年)、美術思想と主張を語る「十時の講演」ツアー。企画はオペレッタ『ミカド』のプロモーター女史。

 裁判、経済破綻、講演で再び人気上昇。メンペスとショカートが弟子入り。メンペスは師に内緒で来日し、河鍋暁斎に逢った。暁斎の弟子ブリンクリーとコンドルについては弊ブログ「青山・外人墓地」で紹介済。ホイッスラーは帰国したメンペスから、日本人画家らの話を食い入るように聞いたそうな。弟子の二人は後に英国を代表する画家へ。

 1886年、ホイッスラーは英国画家協会・会長に就任。米国人鉄道事業の成功者フリーアがパトロンになって、作品は高値で次々に米国へ渡った。ボストン美術館を無期休職されて生活苦のフェノロサがフリーアの日本古画購入に助言し、自身が持つ蒐集品も彼に買ってもらったそうな。

 ホイッスラーは1903年(明治三十六年)に69歳で病没。彼の「講演」内容も記したいが、「ジャポニスム」は印象派巨匠らも控えているので終わる。写真は『ノクターン:靑と金色~オールド・バターシー・ブリッジ』と歌川広重『京橋竹がし』。似ているでしょ。

 また、永井荷風はこう記している。「ホイスラアが港湾溝渠の風景の如き凡て活動動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたる事僅少ならず。(続く)

コメント(0) 

ジャポニスム2:ホイッスラーⅠ [北斎・広重他]

whistler1_1.jpg まずは最も早い「ジャポネズリー」とも云うべき絵を描いたホイッスラーについて。参考は小野文子著『美の交流~イギリスのジャポニスム』の第2章「ジェームズ・マックニール・ホイッスラーのジャポニスム」。

 彼は米国マサチューセッツ州生まれ。画家を志して1855年(安政二年)渡仏。四年後に英国移住。日本では吉田松陰が伝馬町入獄の年。

 ホイッスラーは英国の「芸術のための芸術=唯美主義」をリード。彼がオリエンタル・ペインティング『陶磁の國の姫君』を描いたのは1864年(文久四年)。同様作は他に『紫とばら色』(中国服モデルが陶磁器絵付けの図)、『紫と金の狂騒狂:金屏風』(大和絵屏風を背に床に座る着物女性が浮世絵を見る図)。

 著者はホイッスラーが日本美術品を見たのは渡仏時代で、入手はロンドン移住後。1863年(文久三年)のオランダ旅行で日本陶磁を購入し、パリの店へも注文していたと推測。当時のパリはリヴォリ街にドゥゾワ夫妻経営の日本・東洋品を扱う店あり。夫人が1862年に日本在住歴ありで、夫と同店を経営。顧客はマネ、ラトゥール、ボードレール、ゴンクール兄弟ら。またロンドンにも東洋品を売る店があったらしい。

 彼はかくしてオランダ、パリ、ロンドンで東洋品(次第に日本美術品)を蒐集し自邸を飾って、英国の日本美術愛好家の芸術家リーダー的存在に。1870年代に<ノクターン(夜景画)>シリーズを開始。その代表作が『靑と金~オールド・バターシー・ブリッジ』。

 同作は広重『名所江戸百景/京橋竹がし』からインスピレーション。その構図、情景印象を僅かな色彩と繊細な色使いで静寂を表現。禅画、水墨画にも通じる作品で「ジャポネズリー」(日本趣味)から「ジャポニスム」へ深化。従来西洋画から完全脱皮した新たな西洋画を構築。

 彼はさらに日本画の技法、溜込(たらしこみ)だけで描いた作品(水彩画かしら)も挑戦。同書のそのモノクロ図版を見て、小生思わず「あっ」と叫んでしまった。同書では俵屋宗達『風神雷神』の黒雲を例に説明していたが、小生は同作より緻密かつ完成度の高い溜込作品を見たことがあったからだ。

 以後は余談入りだが、小生は若い時分に画塾通いの時期があって、師はアル中で絵筆持てず、黄色系顔料をスポイトに吸い込んでポタッ・ポタ~リと大キャンバスに垂らし、具象抽象とも云えぬ風景画を描いていた。

 同書のモノクロ図版『バターシー』から、五十年も前に見た画塾先生の作品群が突然甦ってきた。そうか、先生はアル中なんかじゃなくて〝ホイッスラー〟だったんだと知った。

 ホイッスラーは1879年(明治十二年)に経済破綻。贅を凝らした邸宅、蒐集した日本美術品も競売されたとか。(Ⅱへ続く)。

コメント(0) 

ジャポニスム1:まずはじめに [北斎・広重他]

mabutiakiko2_1.jpg 俄か絵画好き隠居の「ジャポニスム」お勉強です。教科書に馬渕明子著『ジャポニスム 幻想の日本』(著者は現・国立西洋美術館館長?)を選んで、テーマ毎に別参考書も加えて自分流要約。まずは定義から。

 「ジャポニスム」は「ジャポネズリー=日本趣味、エキゾティック趣味」と違って、西洋絵画がルネッサンス以来の遠近法的な空間表現と価値観(キリスト教の)から、現代的表現、価値観を構築すべく日本美術からヒントを得て壁を打破しようとした作品。仏国辞書に「ジャポニスム」登場は1876年(明治九年)。期間は1860年(文久年間)頃から第一次世界大戦前後(1910~20年、明治四十三~大正九年)。

 日本美術の海外進出の経緯。最初は長崎出島のオランダ交易。そしてペリー艦隊と共に来日のドイツ人画家ヴィルヘルム・ハイネ(「ペリー総督横浜上陸の図」を描いた)の日本紹介出版物(ドイツ語版1856年・安政三年。翌年にフランス語版)。続いて各国外交官メンバーらが次々に日本紹介出版物を刊行。日本の風俗・景色紹介に『北斎漫画』や『富嶽百景』が活用された。

 1862年(文久二年)の「ロンドン万博」出品作選択は英国初代駐日総領事オールコック。彼は大著『大君の都』等を出版。蒐集した日本美術品も母国に持ち帰った。以後経緯は枚挙にきりなく省略。 

 過日のブログで「フェノロサはホイッスラーのジャポニスム作品の話題を知って日本に関心を抱き~」と記したが、ホイッスラーが『陶磁の國の姫君』を描いたのが1864年(文久四年)。その二年後にはマネが『エミール・ゾラの肖像』背景に浮世絵版画を描き込んでいた。その頃から日本ブームが始まっていたらしい。

 1867年(慶応三年)に「パリ万博」。パリの「カフェ・ゲルボワ」にマネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、シスレー、モネ、ピサロがたむろっていた。ルノワールは1871年(明治四年)に『花束と団扇のある静物』、翌年に『本を読むモネ夫人』。両作共に団扇入り。マネは1873年(明治六年)に『婦人と扇』。同年に第一回印象派展開催。モネが着物姿の西洋女性が振り向く『ラ・ジャポネーズ』を描いたのは1876年(明治九年)。

 パリ中心の日本ブームに若き印象派画家らが飛びついたが、著者・馬渕氏は「この頃はまだ〝ジャポネズリー(日本趣味)段階。エキゾチック演出に屏風、扇子、団扇、着物、陶器、版画などを描き込んだに過ぎず」と記していた。(続く)

 

コメント(0) 

グラフィックデザイナー・藤島武二 [スケッチ・美術系]

mucha2_1.jpg 「生誕150年記念 藤島武二展」は、多彩な描き方のサンプル集みたいで、小生の胸打つ作品はなかった。図録年譜をみると四十三歳、明治四十三年(1910)から四年間の欧州留学(官費)。帰国後に東京美術学校の助教授から教授になって高等官七等とあり、その後の昇進も記されていた。

 ここで気付いた。「あぁ、彼のスタンスは文展・帝展、日本の西洋画アカデミスの教師・官費・官吏ゆえの破綻のなさ、安定感なんだ」と。図版の偉そうな官僚・軍人風の写真と相まって、ゆえに絵に面白さがなかったんだと納得した。

 そのなかでグラフィック・アーティスト=藤島武二のコーナーは「おぉ、いい仕事じゃないか」とちょっと胸が騒いだ。それら仕事は明治三十四年(1901)の東京新詩社(与謝野鉄幹主宰)の『明星』表紙や挿絵、また与謝野晶子『みだれ髪』表紙に端を発したグラフィックデザイナー的な仕事群。

 白馬会や東京美術学校など黒田清輝の世界から離れた土壌で、個性・才能発揮かしらと思った。藤島武二の名や絵を知らぬ方も、与謝野鉄幹・晶子歌集の表紙の絵、といえば多くの方が頷くかもしれない。

 そのなかに明治三十五年『文芸界』表紙もあった。確か永井荷風が同誌懸賞小説に応募し、入選を逸するも単行本化『地獄の花』(荷風処女本)されたはず。森鴎外から〝読みましたよ〟と言われて大感激した青年・荷風がいた。また荷風が慶応義塾文学部教授と『三田文学』を辞めた二年後、与謝野鉄幹が同教授になっての『三田文学』(大正八年)の表紙や『スバル』表紙もあった。

 これら仕事の図録解説を読むと、留学前に欧州に憧れて蒐集していたアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォーの中心人物)、オットー・エックマン(ドイツ・ジャポニスムの先駆者、日本の書からアレンジヒントを得た書体)、スタンラン、ハンス・クリスチャンセン、ヤン・トーロップ、フェリックス・ヴァロットンら「ジャパニスム~アール・ヌーボー」の人々の資料を参考に描かれたもの、と説明されていた。

 ここで、失礼ながら藤島武二の絵への興味は急速に薄れ、彼が模倣(参考にした)した「ジャポニスム~アール・ヌーヴォー」への関心が盛り上がった。

 先日のフェノロサの記事で、彼が〝お雇い外国人〟になったのはホィッスラーのジャポニスム作品から日本への興味を抱いて~と記したばかりゆえ、まずは印象派、後期印象派の画家らの「ジャポニスム」についてお勉強したくなってきた。俄か絵画好き隠居に美術史は無知領域で、お勉強にキリがありません。

 挿絵は若い藤島武二が熱心に模写しただろうアンフォンス・ミュシャ作品から、小生は「自転車パーフェクタ」ポスターの簡易模写(途中まで)。次は「ジャパニスム」のお勉強へ。(藤島武二3おわり)

コメント(0) 

『芳蕙』は不明、『鉸剪眉』は油彩 [スケッチ・美術系]

kousenbi2_1.jpgkousenbi5_1.jpg 「行列してまで〇〇したくない」小生に、練馬区立美術館は程好い〝空き〟具合。会場で〝お葉さん〟を探したが、代表作の『芳蕙(ほうけい)』、そして『女官と宝船』もなかった。

 図録に<『芳蕙』は『蝶』と共に行方不明。『芳蕙』は五十年前の展示から足跡が途絶えている>とあった。所有者某が没落後に行方不明。あの中村彝『エロシェンコ氏の像』は、その某氏から東京国立近代美術館へ寄贈されたのだが~とあった。

 その代わり、同時期の鉛筆画『婦人像』があった。作品説明に「モデルは〝芳蕙〟と同じ、佐々木カネヨであろう。彼女は藤島モデルとしても知られるが〝お葉〟の名で竹久夢二の恋人、モデルとしてつとに有名である」。だが竹久夢二の前は〝責め絵・伊藤晴雨〟のモデル・愛人だったとは記されていなかった。

 そして『鉸剪眉(こうせんび)』。事前に観ていた現代日本美術全集『青木繁/藤島武二』収録作とは違っていた。全集同作は「紙・パステル・水彩」で、横顔の輪郭線があり、背景との間に白地が残されていた。同画集には「油絵よりも、このパステルと水彩の作品がすぐれている。まさに絶品と言えよう」とあった。展示の油彩は横顔や背景が無筆触単色塗りで、あの味わいが塗り潰されてしまった感じだった。

 同テーマの『東洋振り』や藤島模写のルネッサンス期の横向き婦人像も展示で、作者の模索過程がわかって面白く、それだけに『芳蕙』が観たかった。小生はこの連作を観つつ、狩野芳崖が『悲母観音』で見せた基督教美術と仏教美術の融合、そして藤島武二の「油彩で描いた日本画風仕上げ」を較べていた。

 会場には実に多彩な描き方、筆触の作品が並んでいた。それらはどれも何処かで観たような気がして、作品に魅了されるのではなく「私はこんな風にも描けますよ」というサンプル展示を観ているよう。これが文展・帝展アカデミズムの中心に居続けた画家・教師・官吏のスタンスで、つまらん安定感と思った。俄か絵画好きの素人感想で失礼は承知だが、胸打つ画家なんて、そんなに多くはいない、と改めて認識した。

 写真は『鉸剪眉』の部分。左がパステル・水彩作。右が油彩。次はちょっと胸躍った藤島武二のグラフィックデザイナーとしての仕事について。(藤島武二2)

コメント(0) 

〝お葉〟に会いに藤島武二展へ [スケッチ・美術系]

oyoufutatabi.jpg 秋の気配に、閉じ籠もっていた冷房装置の部屋を出て美術鑑賞へ。興味を惹いたのは〝大行列の大美術館〟ではなく、練馬区立美術館「生誕150年記念 藤島武二展」。

 フェノロサ、狩野芳崖、岡倉天心らによる洋画排斥の東京美術学校創立までを勉強したので、その六年後の西洋画科設置からのお勉強。藤島武二は慶応三年、薩摩藩士の子として誕生。十六歳より四条派の画家に学び、十八歳で上京して深川の四条派・川端玉章門下。「玉堂」の名で美人画などを描くも、二十二歳で西洋画に転向。二十九歳で西洋画代表・黒田清輝によって助教授任命。

 三十八歳、明治三十八年に四年間の欧州〝官費留学〟。五十九歳、大正十五年に「油彩で東洋的典型的美」到達の代表作『芳蕙(よしえい)』、翌年に『鉸剪眉(こうせんび)』発表。その代表作も観てみたかった。

 さらにそれら代表作のモデルが、なんと〝責め絵〟伊藤晴雨から竹久夢二へモデル・愛人遍歴を経たお葉さん(本名・佐々木カ子〝ネ〟ヨ、通称嘘つきお兼、〝お葉〟は夢二が名付けた)らしいのだ。この時、お葉さんは二十二歳。どこでこんな知識を得たかと云えば、本棚の金森敦子著『お葉というモデルがいた』。

 以前の弊ブログで「夢二の〝お葉〟は責め絵モデルだった」「夢二・晴雨・お葉」(共に閲覧多い記事)の〝お葉さん調べ〟は図書館資料によったが、その中の一冊の同書を神田古本市で三百三十円で入手。本棚にあったのを引っ張り出して読み直したってワケ。

 藤島武二とお葉さんの関係を同著より要約する。~お葉さんは十三歳から東京美術学校のモデルとして活動。当時の藤島は日本的画題を描く時に彼女をモデルにしていたとか。長女より一つ下のお葉に父親のように接していたそうな。

 やがてお葉さんは責め絵・伊藤晴雨のモデル・愛人。そして竹久夢二のモデル・愛人へ。運命の男たちと愛と性の遍歴を経て、再び藤島武二の前に立ったのが大正十五年。藤島は横浜で中国服をオーダーして、代表作『芳蕙』と『鉸剪眉』を描き、お葉さんにとってもそれが最後のモデル仕事。

 昭和五十二年の「藤島武二回顧展」を訪ねたお葉さんが、こう言ったそうな。~「女官と宝船」もそうですし、先生の代表作「芳蕙」のモデルも私でした。半年間も先生のアトリエに通い詰めましてね」(同著の孫引きで平岡博「藤島武二展での邂逅」より)。お葉さんは、そう述懐した三年後の昭和五十五年に七十六歳で没。

 さぁ、藤島武二展へ〝お葉さん〟に会いに行こう。挿絵は二年目のブログで描いたのを再利用。(藤島武二1)

コメント(0) 

芳崖「悲母観音」の秘密 [スケッチ・美術系]

hibokannon_1.jpg 狩野芳崖「悲母観音」の解釈は諸説。吉田亮著の最終章「悲母観音をめぐって」も諸説彷徨。~フェノロサの影響はなかった。米国フリーア美術館蔵「魚籃観音」原画説も違うだろう。では日本の聖母子像か、はたまた裸婦下絵群の意味は~。著者は亡くなった妻に〝理想の母像〟を見たのではと結んでいた。

 それではスッキリしない。芳崖夫妻に子はなく、彼にとっての妻は苦難を支えた伴侶で〝母〟ではなかろう。松本清張『岡倉天心』では「観音像は八歳で失くした母への追慕だろう」と記していた。

 小生は弊ブログの九鬼周造シリーズで、彼の父・隆一と母・初子と岡倉覚三(天心)の濃密な不倫関係を記したゆえに、「悲母観音」の裏にも三角関係ありとする中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』の考察が〝面白い〟と思う。

 以下、同趣旨を要約。~初子は茶屋「山本山」七代目と芸者の子。裕福な暮らしも七代目失踪で絶縁されて芸者へ。そんな十五歳の初子を文部官僚の漁色家・九鬼隆一が落籍(ひい)た。九鬼には常に外に女がいるも、初子は八回妊娠させられ四人の子を産んだ。ワシントン日本公使時代も別の女がいて、その上でまた身籠った。

 この時、フェノロサと岡倉は九ヶ月に及ぶ欧米美術視察旅行。米国視察から欧州へ。覚三はキリスト教絵画の聖母像、聖母子像、受胎告知、アダムの創造などを見て、明治十七年に芳崖が描いた「観音」を想った。彼ならば「キリスト教美術と仏教美術の融合作」が描けると確信した。

 欧州から再び米国に戻って公使館へ。妊娠中の公使夫人・初子が体調不良を理由に覚三と共に帰国を望む。長い船旅の間に二人の心が通った。帰国後の明治二十年秋、覚三・初子・覚三の弟・由三郎が秘かに小川町の芳崖宅を訪問。芳崖は「受胎観音」を描く下絵に初子の(西洋画と同じように)裸体デッサンを重ねた。(この裸婦下絵群は「悲母観音」と共に国指定重要文化財)。

 芳崖は同下絵から「受胎観音」を描けば、九鬼隆一の眼が誤魔化せない。また自身に病魔が襲って時間的余裕がなくなったことで同下絵で「悲母観音」に切り替え、覚三と自身の挑戦「キリスト教美術と仏教美術の融合」かつ「真の芸術は宗教と結びついてこそ」を具現。

 荷風の師・不崩は「しのぶ草」で「悲母菩薩の童子モデルは翁の愛孫(養子の子)、眼下の奇峯は妙義山が参考にされた」と記した。そしてモデルは初子、お腹には九鬼周造。その後の覚三と初子の仲は一段と深まって、幼き周造は覚三が父だと思ったほどの暮しを展開。だが九鬼隆一は頑として離婚を認めず、彼女を精神病院に閉じ込めた。

 長くなったので、この〝お遊び〟を終わらなくていけない。最後に長じた九鬼周造は、永井荷風の「いき」に憧れて、「いき」を哲学した、と小生の独断で締めくくって終わる。(荷風の絵心7で完)

コメント(0) 

岡倉覚三と狩野芳崖と初子 [スケッチ・美術系]

okakurahatuko2_1.jpg フェノロサと狩野芳崖の出会いに比し、岡倉覚三と狩野芳崖の出会いを重視する説も多い。岡倉覚三(天心)については、今年春の「九鬼周造」の項、松本清張「岡倉天心」の項で紹介済も改めてお勉強。

 岡倉の父は、横浜で福井藩交易所支配人。福井の生糸・絹を外国貿易商に売っていた。覚三は同家次男で文久二年(1863)生まれ。長男早逝で、父は覚三を英才教育。八歳で母を亡くした頃から漢籍、英語の勉強。英語は横浜の教会塾。

 明治四年、十一歳で廃藩置県。一家は東京・蛎殻町で宿屋兼越前物産取次所を経営。覚三は南画、漢詩、琴、茶道を習いつつ東京外国語学校から開成学校へ。学制改正で同校は東大。文学部で英米文学を読み漁った。弟。由三郎は後の英語学者だが、彼にして兄の英語力には遠く及ばなかったとか。

 そして東大の政治学、経済学教授がフェノロサだった。彼の古美術蒐集・研究に英語堪能かつ漢文が読めて古書・古文書が解読出来る覚三の存在は欠かせない。

 東大卒から文部省官吏。最初は音楽取調掛(後の東京音楽学校。掛=かかり=係)も上司と合わず内記課へ。明治十六年、文部官僚実力者・九鬼隆一が「龍池会」副会頭になり九鬼~岡倉~フェノロサの日本美術復興体制を固めた。

 明治十六年春、第二回内国絵画共進会開催で、フェノロサが芳崖作品に驚嘆。芳崖を訪ねたフェノロサの同行者・通訳が覚三だった。明治十七年、九鬼によって覚三とフェノロサを京都・奈良へ三度派遣。法隆寺・夢殿の秘仏(救世観音)が初めて姿を現した。明治十八年、図書取調掛(美術学校設置準備)が小石川植物園内に設けられて覚三が掛員に就任。明治十九年、覚三とフェノロサが約九ヶ月の欧米美術視察へ。

 明治二十二年〈1889)、帝国博物館総長に九鬼隆一が、翌年に東京美術学校初代校長に覚三が就任。翌年に狩野芳崖が絵画科主任教授に就任。開校直前の十一月、芳崖急死。その絶筆が近代日本画の代表作「悲母観音」(一方、当時の油彩代表作は高橋由一「鮭」)だった。「悲母観音」には、覚三と芳崖の秘めた想いが込められていたらしいのだが、長くなったので次回へ。(荷風絵心6)

コメント(0) 

狩野芳崖とフェノロサの出会い [スケッチ・美術系]

fenollosa2_1.jpg フェノロサについては前述の吉田亮、中村愿の両著に加え栗原信一著『フェノロサと明治文化』も参考にする。フェノロサはハーバード大(当時は有名大とも言えず)で哲学、経済学、政治学を学ぶ。卒業が明治七年(1874)。二年後、二十四歳でボストン美術館附属の美術学校(米国最初の)でデッサンと油絵を学ぶ。

 当時のフェノロサ家にはいち早く北斎版画あり。またジェームズ・ホィッスラーのジャポニスム作品(金屏風前の着物女性など)の話題も米国にも届いて日本へ興味を抱くようになっていた。そこに東大〝お雇い外国人・モールス〟(大森貝塚発掘のモース)〟が一時帰国。モールスに東大哲学講師を誘われて明治十一年(1878)に来日。

 当時の日本は廃仏毀釈で、日本美術の宝庫=諸寺が瀕死状態。上流階級も疲弊。世をあげた文明開化で西洋かぶれ。明治九年、伊藤博文進言の工部美術学校設立でイタリア講師を招聘。お雇い外国人月給が数百円で、芳崖はじめの日本画家らは一円にも困る生活。古美術は二束三文で骨董屋に溢れていた。

 当時の外国人の多くがそうだったようにフェノロサも古美術を蒐集。多くの偽物も買い込んだ。黒田侯爵家の立派なコレクションに衝撃を受け、本格的な古美術研究を開始。日本語を読めぬ話せぬ彼の古美術蒐集・研究の手助け(通訳)を、東大の教え子で英語力抜群の有賀長雄(後の法学・社会学者)と漢籍も学び古書も翻訳できる岡倉覚三がした。狩野友信や狩野永悳(えいとく)など日本画の人脈も広げて、彼の古美術研究が進み、明治十五年(1882)に「日本美術工芸は果たして欧米の需要適するや否や」を講演。これが『美術真説』と題して刊。

 これに、押し寄せる西洋文明に危惧・反感を覚え、伝統的日本美術を保護・育成、かつそれらを海外輸出の殖産興業にと画策した「龍池会」メンバーらが乗った(利用した)。彼らは今までの鬱憤を晴らす勢いで洋画排斥、日本美術ムーブメント興しに立ち上がった。

 フェノロサは日本古美術を救った恩人か、単に利用された存在か、はたまた日本美術品の海外流出の罪ある存在か~。この辺も諸説ありで、興味ある方は膨大なフェノロサ関連書でお勉強をどうぞ。

 かくして「龍池会」の活動で、洋画科なしの東京美術学校開設(初代校長は岡倉覚三、副校長がフェノロサ)。ちなみに西洋画科設置は明治二十九年(1896)。この辺は政治がらみの複雑さゆえ省略。(松本清張『岡倉天心~その内なる敵』に詳しい)

 さてフェノロサと狩野芳崖の出会いは何時か。明治十五年(1882)の第一回内国絵画共進会でフェノロサが芳崖作品を激賞。友信に誘われて芳崖がフェノロサを訪問。(栗原信一著では、フェノロサが岡倉覚三と共に芝公園の芳崖宅を訪ねた)。以後、フェノロサが月々二十円で、芳崖に画を描く環境を整えたとか。(荷風絵心5)

コメント(0) 

狩野芳崖:狩野派の厳しい修行 [スケッチ・美術系]

hougai1_1.jpg 荷風の絵の先生・岡不崩の大師匠は近代日本画の礎・狩野芳崖。彼は高橋由一、冬崖と同じ文政十一年(1828)生まれ。以下、吉田亮著『狩野芳崖・高橋由一』、中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』を参考にまとめる。

 狩野芳崖は長府藩のお抱え絵師・狩野晴皐の四子(長男)。本名・幸太郎。藩校で四書五経を学び、父から狩野派画法を学ぶ。元服十五歳、菩提寺で参禅開始。仏教体験を深化。十九歳、弘化三年(1846)に長府藩より十年間の江戸遊学を許可され、父と同じ木挽町狩野家で修業。塾生五、六十人余。弟子一人二畳の割り当てで絵具と箪笥と一枚の板張り。稽古が終わればそこに布団を敷いて寝た。

 最初は花鳥山水人物のお手本をまとめた三巻物の複写(臨写)。次に五巻の「御貸し画帖」(当時は狩野常信の山水人物六十枚)の原画模写、模写からまた模写の稽古書き。この期間が一年半。次が半年かけて花鳥十二枚。次に「一枚もの」。これは狩野派名手らの作品模写。修業は朝七時から夜十時まで職務と臨書で自由時間なし。狩野派の修行恐るべしです。全教程七、八年だが、芳崖はその半分期間で終了とか。

 その後、芳崖は弟子頭(塾頭)となって後輩を指導。この期間に道一本隔てた佐久間象山の塾に通った。象山は彼を〝今に人物になる〟と気に入り、彼も象山塾に毎日通った。狩野派の修行に加え、象山から東洋思想、西洋知識も吸収。

 安政四年に風景スケッチをしつつ帰郷。八歳若い医者の娘よしと結婚。藩のお抱え絵師になる。その後も長府と江戸を行き来するも、長州はじめの攘夷運動が過激化して江戸滞在ならず。明治四年、廃藩置県。御用絵師の扶持を失って生活苦へ。世は文明開化。〝西洋〟だけがもてはやされて日本画では食って行けない。極貧生活を妻が支えた。

 明治十年(1877)、五十歳で上京。生活苦は続くも二年後に薩摩・旧藩主島津公が伝統の家臣鍛錬行事「犬追物」の記録を絵で残すべく芳崖を月俸三十円で雇った。やがて若き岡倉天心、フェノロサと出会って近代日本画の雄として活躍。挿絵は狩野芳崖に妊婦モデルを添えた。さて、その女性とお腹の子は誰?(荷風の絵心4)

コメント(0) 

岡不崩の師・狩野友信 [スケッチ・美術系]

wirgman3_1.jpg 「芳崖先生逸事」より、荷風の絵の先生・岡不崩がどんな先生だったかを知りたく「(五)先生と予の関係」を読む。冒頭にこう記されていた。

 「予が初めて(芳崖)先生に会ったのは明治十七年で、其時分、予は狩野友信翁の門に洋画を習って居った。最も其頃は画家に成るつもりでやって居たのではなかった。(小文字は省略)或る時、友信翁が一緒に来いと言はれるから、従って行ってみると、老人揃の集会である~」

 端から注目記述。まず岡不崩が「狩野友信から〝洋画〟を習っていた」こと。さらに老人揃の集会が東京美術学校設立を内包した「鑑画会」だろうこと。まずは「狩野友信」を調べてみる。

 狩野友信は天保十四年(1843)、江戸築地の御用絵師・浜町狩野家の長男として誕生。狩野派の修行後に将軍家茂の奥絵師。その傍ら文久三年(1863)から開成所(後の東大)へ洋画修業に二年間通う。慶応元年(1865)に川上冬崖に水彩画を三年、ワーグマンに油彩画を二年学ぶ。明治六年に開成学校勤務。明治十四年(1881)に東京大学予備門の助教諭。この頃にフェノロサと交流。

 これで岡不崩が狩野友信から〝洋画を習った〟に納得です。改めて岡不崩の経歴を振り返る。明治二年〈1869)福井生まれ。明治十三年(1880)に上京して番町小学校へ。十六歳で狩野友信に入門。友信翁に従って鑑画会創立当初から参加。これを機に狩野芳崖から日本画を本格的に習った。

 明治十九年〈1886)、小石川植物園内に設置された図画取調掛の事務所(画塾)に通って修業。明治二十一年十一月、東京美術学校開校直前に芳崖が没。岡倉天心の勧めで東京美術学校入試を受けて第一回生になる。明治二十三年に高等師範学校講師に抜擢されて同校を退学。そして永井荷風、井上唖々の(さらに荷風弟・威三郎や藤田嗣治の)東京高等師範学校付属尋常中学校で図画を教えた。

 『しのぶ草』第五章では、友信翁の使いで芳崖宅に膠を貰いに行ったのを機に日本画の教えを直接受け始めたこと、芳崖から教えられた心得の数々、また妙義山スケッチに同行した思い出などが記されていた。

 永井荷風と云えば日本画、版画への造詣ばかりが注目だが、荷風の眼は不崩によって西洋画へも向けられていたと推測される。荷風のフランス滞在期(明治四十、一年:1907・8)は、ピカソがアトリエ〝洗濯船〟で「アヴィニョンの娘たち」完成の年。

 なお川上冬崖(寛)の明治四年刊「西画指南」は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。挿絵は狩野友信の顔資料なしゆえ五姓田義松、高橋由一、狩野友信に洋画を教えたチャールズ・ワーグマンを描いた。彼は文久元年(1861)に「イラストレイテッド・ロンドンニュース」特派員で来日。髭の有無両資料から髯ありを描いた。(荷風の絵心3)

コメント(0) 

岡不崩は朝顔権威、考現学へ [スケッチ・美術系]

okafuhou1_1_1.jpg 秋庭太郎著『考証永井荷風』で、著者は永井威三郎博士(荷風の弟)にも取材。博士談で「(家には)荷風が若い頃に描いた絵巻物もあった。荷風が絵事を好んだのは南画を能くした外祖父(鷲津)毅堂の血筋を受け継いだものであろう」を紹介。続いて~

 「因みに威三郎も同じく高師附属中学時代は、同級生の藤田嗣治と倶に〝図画は永井か藤田か〟と謂はれたくらゐに巧みであった。博士が昭和三十五年に欧州に旅した際に、巴里で藤田に逢ひ、その描くところの少女像を額入のまゝ贈られて帰朝。博士邸応接間に掲げられてあるその絵をわたしも見たことがあるが、兄弟揃って絵心があったのである」。(図画教師が荷風と同じ岡不崩との明記はないが、そうだとすれば不崩は藤田嗣治も育てたことになる)

 ここで藤田嗣治がらみ余談。八月中旬のこと、前日のブログ閲覧が通常の三倍余。藤田嗣治シリーズの「高田馬場でマドレーヌ夫人急死」記事の閲覧数が膨らんでいた。

 ややして気付いた。前夜の某テレビで「迎賓館でフジタの幻の天井壁画六点初公開」が紹介され、同作は〝藤田のマドレーヌヘの愛の表現〟のような説明から小生ブログ記事に辿り着いたらしい。

 だが弊ブログでは、マドレーヌが薬物使用疑惑で急死、藤田はすでに日本女性と交際開始。彼女の急死が闇に葬られたのは、同アトリエが高田馬場の陸軍軍医総監・中村緑野(ろくや。嗣治の二番目の姉の嫁ぎ先)宅内で、陸軍の闇が動いたせいだろうとの記事。テレビの〝愛の物語〟からアクセスされた方々を裏切る内容で申し訳なく思っている。

 さて、岡不崩は関東大震災後に小石川久堅町八十一番地(『しのぶ草』奥付に著者住所あり。金剛坂の荷風生家近く、春日通りと小石川植物園の間辺り)から、下落合(淀橋区下落合1980)に移住。この移転先は落合道人氏のブログ「考現学的アプローチの岡不崩」に詳しい。

 同ブログでは不崩宅を特定(中井駅北側の〝二の坂〟から分岐する階段坂の右側)し、不崩は大震災の復興具合を店舗詳細地図(挿絵、看板写生を含め)で記録。その『帝都復興一覧』は出版なし和綴じ二巻で国会図書館蔵。落合氏はその内容を詳細紹介。今和次郎と同じ考現学的仕事をしていたと紹介。小生は不崩の絵画から離れて朝顔栽培や復興地図などへの熱中は、明治画壇のゴタゴタに愛想尽きたゆえと推測するが、いかがだろうか。

 さて他人ブログに頼らず、自らも調べなければいけませんから国会図書館デジタルコレクションの岡不崩『しのぶ草』を読むことにした。これは狩野芳崖二十三回忌の明治四十三年十二月刊で、副題は「芳崖先生逸事」。(一)翁の絶筆 慈(悲?)母観音に就いて (二)翁の持論と美術学校の創立 (三)芳崖翁と大蒜 (四)翁の女子教育 (五)先生と予との関係。まずは不崩を知るべく(五)を読んでみる。

 挿絵は岡不崩。資料写真が落合氏紹介の一点のみ。やや不鮮明で髯の有無がはっきりせぬが髭ありで描いてみた。(荷風の絵心2)

コメント(0) 

荷風の絵の師・岡不崩とは [スケッチ・美術系]

kafusketch2_1.jpg 永井荷風の俳句が好きで、ブログ記事の題名を十七文字にしてみた。荷風「断腸亭日乗」をひも解くと、時に荷風スケッチが掲載。小生も絵が描けたらいいなぁ~で、ブログの写真を絵に替えてみた。

 先日、荷風の友・井上唖々調べの記事で、荷風も唖々も図画を岡不崩(ふほう)に習ったと記した。不崩の師は狩野友信、狩野芳崖。その名が出てくればフェノロサ、岡倉天心、九鬼隆一につながる。

 『「いき」の構造』九鬼周造シリーズで、彼の父・九鬼隆一と母・初子(波津)と岡倉天心の凄まじい三角関係を知った。今回は「荷風~岡不崩~狩野友信~狩野芳崖~フェノロサ」の流れをお勉強してみたい。

 井上唖々の項と重複するが、秋庭太郎著『考証永井荷風』より、岡不崩についての記述を長めに引用する。「岡不崩、名は吉壽、はじめは蒼石と号した。加州金沢の人である。狩野芳崖の高弟にして横山大観、下村観山等と倶に東京美術学校第一期の入学者であったが、不崩は業半に抜擢せられ高等師範学校講師兼附属中学校教師として教鞭を執った。附属中学に於て壯吉は同級生の親友井上精一(唖々)と倶に図画を蒼石に教へられた」

kafusketch1_1.jpg 唖々は先生が入ってくる前、黒板に岡蒼石の墓に柳と幽霊を描き、蒼石先生を憤激、顔色〝蒼石〟にさせる悪戯をしたそうだが、荷風は唖々と違って絵事を好み、不崩の寓居に至って学び、不崩に連れられて上野東照宮拝殿の探幽の絵を模写しに通ったそうな。

 秋庭太郎の文はこう続く。「不崩は花鳥山水画に長じたが、後年は本草学者として知られ、特に牽牛花(けんぎゅうか=うしひくばな=あさがお)の研究栽培の権威であった。荷風は不崩先生の晩年まで交際があり、荷風が後年日本画を能くしたのは、兎にも角にも師に就いて学んだからである」。そして師の朝顔関連著作八作を紹介。

 これらの幾冊かは古書ネット販売で数千円でアップされていた。そして不崩著の狩野芳崖先生逸話集『しのぶ草』は、国会図書館デジタルコレクションで読むことができた。

 挿絵(上)は「断腸亭日乗」昭和七年一月の砂町八幡宮の荷風スケッチ。挿絵(下)は同年一月十八日の、堀切端から四木橋を望むスケッチ。(荷風の絵心1)

コメント(0) 

所ジョージの〝喉仏ファン〟 [スケッチ・美術系]

tokoronodo1_1.jpg 新しいマルマン「sketch帖」で何を描きましょうか。先日、幾人かの若い女性の〝首〟を描くも、男性の首は未だ描いていない。その時に「所ジョージの喉仏、胸鎖乳突筋、頸切痕などがクッリキ出ていて面白い」と記したので、改めて彼の番組を観て描くことにした。

 喉仏が実に良く動き、首皮膚の下に〝元気な独楽ネズミ〟がいるかのようで見飽きない。願わくは頸切痕、鎖骨切痕までがよくわかるシャツで、カメラは頸全貌がわかるローアングルで撮っていただきたかった。

 喉仏左右は「胸鎖乳突筋」。血管は「頸静脈」。その後ろは「中斜角筋」で、縦筋の多くは「広頸筋」だろうか。ネットに満ちる「首の図解」だが、いまいちハッキリしない部分も多く、画学生たちはどんな教材で勉強しているのだろうか。

 新しい挿絵帖「マルマンsketch 100sheets B5 soho501」の描き心地やいかに。う~ん、小生には慣れ親しんだ「クロッキー帖+淡彩」の方が描き易かったなぁ。「クロッキー帖」は水を含むと紙が細かく波打ったが、この「sketch帖」は僅かな水気で大きく強靭に波打った。

 紙が波打つのを嫌うなら、水彩紙を水張りしてから描けばいいのだろうが、そこまでやれば〝挿絵領域〟を越える。「いいなぁ~」と思ったのは「白地がきれい」。これは「クロッキー帖」と比べれば当然のこと。クロッキー帖は次頁の絵が透けるワケで、透けないゆえの〝白さ〟が新鮮だった。

 この「sketch帖」も100枚綴りを描き切った頃には慣れて来るだろうが、目下は連日猛暑で頭の回転停止状態に陥った。次に記すブログ内容も絵もまったく浮かんでこない。

コメント(0) 

挿絵をクロッキー帖から昇格? [スケッチ・美術系]

sketchbook2_1.jpg ブログ挿絵を、マルマン「クロッキー帖」に描き続けて2冊目が残り僅か。次の「クロッキー帖」を用意すべく世界堂へ行った。

 同じのを1冊買った後に、クロッキー帖より厚く、画用紙より薄いB5サイズ100枚綴りのマルマン「sketch 100sheets B5 soho501 」を見つけた。従来クロッキー帖はコピー紙ほどの薄さで〝淡彩〟と云えども、紙は波打った。

 最近では新宿御苑スケッチ、船の絵などは、紙は嵐に遭ったかのように波打った。それでも「クロッキー帖」に固執は〝挿絵=絵日記の絵〟ゆえ〝1点1枚もの〟ではなく〝綴りもの〟が相応しいと思うから。

 同時に、目下は紙が水彩を吸っても波打たぬ程度の〝アッサリ淡彩〟、つまり〝薄い紙でも波立たぬほどの淡彩〟が目標。だが幾ら何でもコピー紙程度のクロッキー帖に水彩はなかろう、そんな紙では水彩が紙に染み込む味も、滲みの味も出ないだろう~という指摘もあって、少し気にしていたんです。

 そこで見付けたのが、このマルマン「sketch 100 sheets B5 soho501」。クロッキー帖と同じ100枚綴りも気に入った。ネットの商品評を見れば「このスケッチブックで水彩は無理」なぁ~んて投稿もあるが「てやんでぇ~、こちとら、今までクロッキー帖で水彩をやって来たんだ。人それぞれ、余計なことを記すな」である。

 さて、ブログ挿絵を従来通りのクロッキー帖で描き続けるか、新しいスケッチ帖に切り替えるか思案中です。

コメント(0) 

大腸内視鏡検査の告白(2) [暮らしの手帖]

naisikyou2_1.jpg 最初の大腸内視鏡検査(ポリープ切除)一ヶ月後にポリープの組織分析結果を聞く。「良性ポリープでした。取り残しがありますから来月にまた検査(切除)しましょう」。

 翌月の再検査(切除)は、スコープ挿入部がS字結腸から下行結腸への曲がりを緩やかにすべく難儀していたのだろうか、脇腹下にグリグリとした痛みを感じた。

 その一か月後に再び分析結果を聞く。大腸内映像を見つつ切除したポリープを映し、その細胞分析結果を聞く。「直腸辺りにあったやや大きなポリープも切除したから、これで安心です。また来年に定期検査を受けて下さい」。下剤で大腸をきれいにするなんてことも初めてだったし、ポリープも全切除。ホッと安心です。

 その一年後の定期検査日に仕事が重なってキャンセル。再予約すべく病院へ。そこで前回記した同年配の不安を抱く御仁に話し掛けられたってわけ。すでに二回の検査体験で先輩面でこう言ったものだ。「心配するこたぁねぇよ。ケツから突っ込むたって痛くもねぇ。とにかくやっちまえばスッキリ安心ですぜ。どうぞ心配せずにケツから突っ込まれて下さい」。

 御仁をそう励ました後に、小生が再予約すべく診療室へ入れば、前任医師から新人医師に代わってい、彼がこう言ったから腰を抜かすほど驚いた。「前回切除のやや大きなポリープが〝癌〟でしたから~」「ええっ、そんなこたぁ~聞いていねぇよ」。小生の荒げた声に、新人医師の表情がこわばって、慌てて組織分析の難しそうな説明を展開した。

 ここで何となく医者の裏側をチラッと垣間みた。前任医師は「切除したから心配なし。だが来年も検査を~」の言葉の奥には〝判断に少し不安もありますので、来年も検査をして~〟の意を含む患者の気持ちを配慮した〝こなれた説明〟だったように思った。比して新人医師の〝癌があったから〟は教科書通り直球の、なんだか〝青臭い〟弁のように感じた。

 そんな新人医師に検査されるのはイヤだなぁ。案の定、検査室での内視鏡操作はぎこちない気が充ち、それをベテラン看護婦が支える雰囲気だった。「まだ終わらねぇの」と焦れた頃にやっと終了。

 翌月、今月上旬に検査結果を聞いた。「すべて良性ポリープでした。ポリープが出来やすい体質かもしれませんので、当センターの医師としては二年後の検査をお薦め致します」。新人医師の弁が親切・丁寧になって急成長をしている感なり。当方はこれで大腸癌の心配は消えたが、この歳ではいつあの世に召されるかは分からない。

 なお、大腸のクネクネと曲がった形に沿って内視鏡挿入部が入って行くかと思っていたが、小生ネット調べでは、腸の複雑な曲がりを緩やかな湾曲に直しつつ内視鏡を盲腸まで入れて行くらしいと知った。図らずも「首のお勉強」から「大腸のお勉強」へとボディ・フィジカル面の関心が続いた。

コメント(0) 
前の30件 | -
メッセージを送る