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方丈記27:閑居への愛も執心か~ [鶉衣・方丈記他]

somosomoitigo_1.jpg 抑(そもそも)一期の月影かたふきて、余算山の端(は)にちかし(余命の端も近い)。忽に三途のやみにむかはん時、何のわざをか、かこ(託つ=歎く)たんとする。仏の人を教給ふおこりは(おこりは=始まりは。岩波文庫は〝趣は〟)、事にふれて執心なかれとや。今、草の庵を愛するも科(とが)とす。閑寂に着するも障(さわり)なるべし。いかが用なき楽しみをのべて、むなしくあたら時を過さん。しずかなるあかつき、此のことはり(理)をおもひつづけて、みづからこころにとひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心をおさめて道をとなはん(仏道修行をする)為也。しかるを、汝が姿は聖(ひじり)に似て、心はにごりにしめり。

 『方丈記』が評価される一つが、この「抑一期の~」の文にあると指摘する方が多い。つまり、隠棲の境地に達したかの後で「草庵を愛するのも、静かな生き方に心を休めるのも、執心ではないか。語っている姿は聖に似ているも、それゆえに心が濁っていると云えなくもない。その自戒は、こう続く。

 住家は則(すなはち)浄名居士(浄名=じょうみょう。インドで釈迦の教化を助けた長者。居士=寺に入らず家に居て仏門に入る男子)の跡をけがせりといへども、たもつところは(修行の結果は)、わづかに周sumikaha2_1.jpg梨槃特(しゅうりはんとく=釈迦の弟子で最も愚鈍だった人)が行にだにも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか(前世の報いによる貧しさか)。将又(はたまた)、妄心のいたりてくるはせるか(心が汚れての狂いか)。其時、心、更に答ふることなし。ただ、傍に舌根をやとひて、不請の念仏、両三返を申してやみぬ(二三度唱えるにとどまった)時に、建暦の二とせ弥生の晦日(つごもり)頃、桑門(出家者)蓮胤(れんいん=長明の法名)、外山の庵にして、これをしるす。

 月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな

 最後の文章も難解。「不請の念仏=心に請い望まない念仏」。岩波文庫版では「不請阿弥陀仏」。五味文彦は「不請阿弥陀仏=不請の阿弥陀仏=阿弥陀仏に請わない。安易に頼らない」と言明していると記す。

 現職住職で作家の玄侑宗久は「一生懸命に唱えれば〝自力〟になってしまう。阿弥陀様に挨拶するように自然な調子で二三回唱えるだけでいいという親鸞の教えに近づいている」と解釈していた。

 最後の歌「月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな」は岩波文庫版にはない。「月の光陰が山の端に入る(消える)のは(寿命が絶るようで)辛いこと。絶えぬ光を見るすべがあればいいのになぁ」の意か。辞世歌。これにて『方丈記』おわり。最後に、その後の鴨長明さんについて。

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島田旭彦、広東料理店を潰す(26) [千駄ヶ谷物語]

mizukouzu_1.jpg 嵐山光三郎『おとこくらべ』の「りんごさくさく」に、白秋の同郷・同年の歌人・島田旭彦が千駄ヶ谷で広東料理店「楽々」を出していた、と記されていた。

 52歳の旭彦が(白秋も52.昭和11年ならば成城の白秋宅)訪ね来て、秘書の宮柊二が言う。「ガンジーです。酔っぱらっています」。旭彦は色浅黒く、容貌がガンジーに似ていた。内気だが酔うと始末におけない。旭彦が絡む。

 「最近、あんたらはうとの店になして来んとですか」。旭彦は深川区役所を辞めた退職金で1年前に千駄ヶ谷に「楽々」という広東料理の店を出した。白秋が案内状を書いてくれたが、歌人仲間は一向に来てくれないと文句を言う。

 白秋が「いま戒厳令下ど(2・26事件)。みんな料理店へ行く暇はなかとぞ。そいけん歌人協会の集まりもおいの自宅でやったとぞ。ガンジー、金に困っとっとやろう」と白秋は菊子(三番目の妻)を呼び、五十円を封筒に入れて渡した。

 嵐山光三郎著は、概ね以上の記述。広東料理店「楽々」については川本三郎『白秋望景』にも出てくるが、詳しくは『白秋全集36』が詳しい。島田旭彦は昭和11年11月22日に脳溢血で急死。白秋は荒川三河島の陋巷を訪ね、遺体に接した後に詠んだ「貧窮哀傷」47首について記している。つまり、旭彦が酔って白秋宅を訪ねて間もなくの死だった。

 「あはれさはあふるる涙とどまらず生国も歳も同じこの死びと」「外に遊ぶ末の弟娘が声きけば父死にたりとまだ知らざらし」「人は死に生きたる我は歩きゐて蛤をむく店を見透かす」。白秋は別れた女にもクールだが、友の死にもクールで無常観を詠む。そう云えば「サトウハチロー」も都内警察の留置場すべてを体験のワルで、女性関係もドロドロだったが(佐藤藍子『血脈』)、そういう奴が子供向けの純朴な歌を書く。

 その頃の白秋も糖尿病と腎臓病で視力を失いつつあった。白秋の終焉の家は阿佐ヶ谷で、旭彦急死の5年後の昭和17年、病の床で郷里・柳河(柳川)写真集『水の構図』序文を書き、その1ヶ月の11月2日に亡くなった。57歳だった。写真は同写真集に掲載されたサングラス姿の白秋。(国会図書館デジタルより)

 さて、旭彦の店「楽々」は千駄ヶ谷のどの辺にあったのだろうか。『白秋全集36』の「旭彦覚え書」に~昭和十年の秋、旭彦は千駄ヶ谷の八幡通りに広東料理「楽々」の招牌を掲げた。深川区役所の雇員を辞めた退職金の殆どがこの資金に吐き出された。初めは「おでんや」をはじめるつもりで造作もしたのであるが~(中略)人の甘言に乗せられて「楽々」の店を譲り受けた。主人は老酒の名も知らず、細君は「メニュー」を料理名と思っていた、と余りに無知。高給の広東人コックを雇って、半年経たずにつぶれてしまった~

 白秋は「楽々」のチラシ文も書いたと全文掲載。~名も苅る萱の千駄ヶ谷三丁目に、気も楽々と広東料理の灯をかゞげて、新に荒き波の潮に生を凌がむとする島田旭彦は~。以後は友を悼む文章が10頁に亘っていた。「楽々」は鳩森八幡神社から南西方向へ坂を下る商店街かなと推測するが、いかがだろうか。

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方丈記26:住まずして誰が悟らん [鶉衣・方丈記他]

ohkatawonozu_1.jpg 大かた世をのがれ身を捨てしより、うらみもなく、おそれもなし、命は天運にかませておしまづ、いとはづ(厭はず)身をば浮雲になずらへて(準ふ、疑ふ=準じる、片を並べて)、頼まずまだし(未だし=時期尚早)とせず。一期のたのしみはうたたねの枕の上にきはまり、生涯の望は折り折りの美景に残れり。(ここまでは岩波文庫版にない文章です) それ三界はただ心一つなり。心若安からずは、牛馬・七珍(乗り物の家畜・宝物)も由なく、宮殿望なし。今さびしき住ゐ、一間の庵、みづからこれを愛す。

 をのづから(たまたま)みやこに出ては、乞食となれることをはづといへども、かへりて爰に居る時は、他の俗塵に着することをあはれふ。もし人此いへることをうたがはば(云える事を疑えば)、魚鳥の分野(ありさま)を見よ。魚は水にあかず、うほ(魚)にあらざれば其心をしらず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば其心をしらず。閑居の気味も又かくのごとし。住ずして誰かさとさん。

 ●三界(欲界=淫欲・食欲・色界)。●後半の文は、住まずして誰がわかろうか、と居直っている。『方丈記』次で終わりです。

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白秋と俊子のその後(25) [千駄ヶ谷物語]

hakusyue.jpg_1.jpg テーマは千駄ヶ谷。白秋がこの地を去れば、幾冊もの白秋関連書とも別れることになる。特定地域調べはロードムービーならぬ〝来ては去って行く人々〟を見る定点カメラのようです。

 そうとはわかっているも、白秋・俊子のその後を少しだけ追う。二人は市ヶ谷の未決監に収監され、弟・鐵雄が必死の奔走・金策でようやく示談で2週間後に釈放。示談金300円。鐵雄の保険会社月給15円。300円を手にした夫がニンマリするのもわかる。明治45年7月刊『桐の花』には情念の未練・苦悶の歌や散文が収録されている。

 「君かへす朝の敷石さくさくと雪と林檎の香のごとくふれ」「あだごころ君をたのみて身を滅し媚薬の風に吹かれけるかな」。そして囚人馬車「かなしきは人間のみち牢獄みち馬車の礫満(こいしみち)」。こんな事態に〝みち〟リフレインで遊んでいる。白秋、相当にしたたかです。「編笠をすこしかたむけよき君は紅き花に見入るなりけり」。惚れた人妻の腰と手に縄、編笠の囚人姿を見ている。次は獄中歌。「鳩よ鳩よをかしからずや囚人の〝三八七〟が涙ながせる」。白秋の囚人番号を詠っている。

 釈放された二人は、白秋の両親、弟・妹と共に東京脱出で三浦半島の三崎へ移住。陽光を浴びて再生を図る。「城ヶ島の女子うららに裸となり見れば陰(ほと)出しよく寝たるかも」。気分はゴーギャンです。

 しかし生計苦しく、家族らは東京へ戻り、二人はなんと!小笠原・父島へ渡る。同行は三崎で結核療養中だった姉妹二人。だが小笠原はよそ者には厳しかった。「聞いて極楽、住んで地獄」。四か月後に帰京して俊子と離婚。白秋の二番目の妻・章子も凄かったがここで終わる。荷風さんの「素人に手を出しちゃいけませんぜい」の声が聞こえます。

 絵は俊子と離婚後の大正3年(1914)刊の詩集『白金之獨楽』掲載の白秋画。手前に鶴、田畑で働く人々と富士山か。南海の沖に島が聳えて、ペンギンと魚が空を飛んでいる。〝気分はゴーギャン〟と言ったが、白秋の画才やはり凄い。(国会図書館デジタルより)

 次は白秋の同郷・同歳の島田旭彦が、千駄ヶ谷に広東料理店「楽々」を出して失敗した話。白秋は島田のガンジーのような風貌を「よく云えば男の藤陰静枝かな」と評したとか。静枝さんは、荷風の二番目の妻。

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方丈記25:独り気儘の自由 [鶉衣・方丈記他]

imaisyoku_1.jpg 今、一身を分ちて、二の用をなす。手のやつこ、足の乗物(手は召使、足は乗物)よくわが心にかなへり(適へり)。こころ又身のくるしみを知れらば、くるしむ時はやすめつ(つ=完了の助動詞)、まめなる(やる気のある)時はつかふ。つかふとても、たびたび過さず(無理せず)。ものうしとても、心をうごかつ事なし。いかに況や、つねにありき(歩き)、常に動くはこれ養生成べし。何ぞいたづらにやすみをらん(休んでいられようか)。人を苦しめ、人を悩ますは又罪業也。いかが(反語。どうして~あろうか)他の力をかるべき。

 鴨長明、いよいよ解脱の領域です。前項までが〝住宅論〟ならば、今度は〝身体論〟から〝物質・食糧論〟へ。

 衣食のたぐひ、又おなじ。藤の衣(藤や蔦などの皮で作った衣服)、麻のふすま(夜具)、うるに(得るに)したかひて、はだ(肌)人をかくし、野辺のつばな(茅花、ちばな、ちがや)、峯のこのみ(木の実)、命をつぐばかり也。人にまじはらざれば、姿を恥る悔もなし。かてともし(糧乏し)ければ、をろそかなれとも程味をあまくす(自分のおろそかの結果と思えば程甘んじる)。すべてかやうの事たのしく、富る人に対していふにはあらず。ただ我身一にとりて、昔と今とをたくらぶる(た=接頭語+較ぶる)也。

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白秋と俊子の家はどこ?(24) [千駄ヶ谷物語]

suzume.jpg_1.jpg 白秋が千駄ヶ谷原宿へ引っ越して来て、隣家人妻・俊子と深間になった。さて、どの辺に住んでいたのだろうか。

 現代日本文学全集『北原白秋・石川啄木集』巻末付録に、鈴木一郎・文「北原白秋と松下俊子」に住所が記されていた。「明治43年9月、白秋はそれ迄住んでいた牛込区新小川町34番地の仮寓から〝青山〟に居を移した。正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地である」

 川本三郎『白秋望景』には「千駄ヶ谷原宿(現在の千駄ヶ谷駅近く)に引っ越しをした」。瀬戸内晴美の小説『ここ過ぎて』には「靑山原宿、正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地」。作家らは同住所を記すも「千駄ヶ谷駅近く」「青山」「青山原宿」と微妙に異なり、誰もが場所を説明する文章を避けている。住所特定が出来なかったのではなかろうか。

 明治40年(1907)頃の住所を調べてみれば「東京府豊島郡千駄ヶ谷大字原宿」。明治42年地図では仙寿院の南側に「北原宿」「南原宿」あり。昭和12年の明治通り開通後の地図には「北原宿=原宿1丁目」「南原宿=原宿2丁目」、明治通り付近が「原宿3丁目」だが田畑ばかり。そして現在は原宿1~3丁目は「渋谷区神宮前」で「原宿」の名も消えている。

 かつて小生は藤田嗣治がパリ留学前の大久保の新婚旧居を特定したことがある。その資料は大正1年「東京市及接続郡部〝地籍地図〟」で、今回も同地図で探してみた。だが「千駄ヶ谷町大字原宿」は「字竹之下・北原宿」「字南原宿」「字石田」「字灰毛丸」と細分化されてい、「千駄ヶ谷原宿85番地」では特定出来なかった。

 作家らも同住所は記すも、場所の説明文を避けていた。文学者旧居巡りのサイトも多いが誰も手をつけていない。ひょっとして、この住所表記は正確ではなかったのではと推測される。まぁ、当時の地図を見れば「仙寿院」の南側が原宿一帯で、最寄り駅は「千駄ヶ谷駅」(明治37年8月開業)か「原宿駅」(明治39年10月開業)だろう。

 さて、二人の〝姦通〟経緯を簡単に記す。白秋は同地を五ヶ月後に去り、京橋区木挽町の土蔵「二葉館」二階一間に移転。そこは元待合で壁一面に描かれた春画を、いい加減な塗装で隠した部屋。ここが最初の情交場所か。白秋はここから飯田河岸、新富町、浅草と転々としつつ、明治45年5月に越前堀(お岩稲荷のそば。荷風さん関連で同地を訪ねたことがある)に移った時に、夫・長平から告訴。検察局より姦通罪で起訴。かくして二人は囚人馬車の乗せられて市ヶ谷未決監へ送られることになる。

 カットは白秋の二番目の妻・江口章子と過ごした極貧時代に〝雀を友〟として綴った雀観察の『雀の生活』(大正9年刊)の白秋自画。白秋は絵の才能もあり!と感じた。

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方丈記24:自分の為の家とは [鶉衣・方丈記他]

subeteyono_1.jpg すべて世の人の住家を作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子・眷属(けんぞく=一族郎党)の為につくり、或は親昵(しんぢつ=親しい人、昵懇の人)、朋友のために作る。或は主君、師匠及び財宝、馬牛のためにさへこれを作る。我今、身の為にむすべり。人の為につくらず、故いかんとなれば、今の世のならひ。此身の有様。ともなふべき人もなく、たのむべき屋つこ(奴=使用人)もなし。たとひ、ひろくつくれり共、誰をやどし、誰をかすへん(据へん)

 今の言葉で云えば、究極のシンプルライフ、断捨離、ミニマリストの暮し。妙に現代の時流に合っているから面白い。

 それ(夫、そもそも)、人の友たる者は、とめるをたうとみ(富めるを尊み)、ねんごろ(外見上の親切)なるを先とす。かならずしも、情あると直成(すなおなる)とをば愛せず(人情ある者、素直な者を愛せず)。たゞ糸竹(弦管楽器)、花月を友とせんにはしかず。人の奴たるものは、賞罰のはなはだしきをかへりみ、恩のあつきをおもくす。更に、はごくみあはれふといへども、やすく静なるをばながはず(穏やかで静かであることなど願っていない)。

 ただ我身をやつことするにはしかず。もしすべきことあれば、則をのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど(弛からず=だるいわけではないが)、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。若ありくべきことあれば、みづかsorehitonotomo_1.jpgらあゆむ。苦しといへ共、馬・鞍・牛・車と心をなやますには似ず。

 今、都心在住者に、自家用車所有欲がない。車を持つ煩わしさ、経費を嫌っている。『方丈記』が著されたのが1212年。それから806年です。

 五味文彦は、これら長明の〝住宅論〟は、吉田兼好『徒然草』に受け継がれてゆくと記している。「家の作りやうは夏をむねとすべし~」。小生はまた、横井也有『鶉衣』にも引き継がれていると追記したい。也有翁は頭を剃っても「夏をむねとこそと思ひ定めて~」と『徒然草』を引用するほど。次回は長明の〝身体論〟へ。

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北原白秋、姦通罪で囚人馬車へ(23) [千駄ヶ谷物語]

kawahakusyu.jpg 千駄ヶ谷の与謝野夫妻「新詩社」が明治42年1月に千駄ヶ谷を後に、神田・東紅梅町へ去った翌年9月のこと。北原白秋が牛込区新小川町から千駄ヶ谷村大字原宿へ引っ越してきた。「新詩社」の件で千駄ヶ谷に馴染があったゆえだろう。

 以下、川本三郎『白秋望景』、西本秋夫『白秋論資料考~福島俊子と江口章子を中心に~』、藪田義雄『評伝 北原白秋』を参考にする。

 白秋は明治42年(1909)24歳の若さで処女詩集『邪宗門』刊。日露戦争勝利の近代日本ヤングジェネレーションの官能謳歌。2年後に第2詩集『思ひ出』刊。一躍、詩壇の寵児になった。

 さらなる飛躍を期して郊外住宅地・千駄ヶ谷へ移転。だが「好事魔多し」。隣家の人妻・俊子がなんともいい女だった。俊子22歳。前年に松下長平と結婚して長女を出産。短歌を愛し、斉藤茂吉にも師事。夫・長平は国民新聞社の写真部記者。嗜虐性が強く、俊子に生傷絶えず。加えて混血情婦もいた。それゆえの愁い含んだ眼差しで白秋を見つめる。すらりとした肢体、ぬけるような白い肌。坊ちゃん気質で世間知らずの白秋はイチコロだった。

 だが道ならぬ恋ゆえ、人妻ゆえ、姦通罪ゆえに、二人の恋心は抑えれば抑えるほどに燃え上がった。どうやら隣家主人・長平が仕込んだのかもしれない。時代の寵児へのやっかみ、脅せば金にもなろう。やがて思惑通り「姦通罪」で起訴。白秋と俊子は、出頭した裁判所から他の囚人らと共に囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監に送り込まれた。時代の寵児が、一転して姦通罪人。マスコミが喜ぶことよ。

 「小生は第八監十三室の〝三八七〟というナンバーに名を改められた」。2週間後、弟の北原鐵雄の必死の奔走で示談。相手は300円という大金をせしめてニヤリと笑ったとか。川本三郎著には松永伍一『北原白秋 その青春と風土』よりの引用で「僕に童貞を破らせたのは石川啄木だよ。浅草十二階の魔窟へひっぱって行かれてね」を紹介。白秋は、性の甘い深淵を覗き見たばかりだった。

 そんなことはどうでもいい。川本著には「千駄ヶ谷原宿に引っ越した」と記して、括弧括りで(現在の千駄ヶ谷駅近く)とした。さて、それは一体どの辺りだったか。(続く) 

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方丈記23:草庵、早や五年~ [鶉衣・方丈記他]

hodosemasi_1.jpgokatakototokoro_1.jpg 大かた此所に住初(すみそめ)し時は、白地(あからさま)とおもひしかと、今迄に五とせを経たり。仮の庵もやゝふる屋(岩波文庫は〝ふるさと〟)となりて、軒にはくち葉ふかく、土居苔むせり。

 をのずから事の便に都を聞ば、此山に籠ゐて後、やんごとなき人のかくれ給へるもあまた聞ゆ。まして其数ならぬたぐひ、尽くしてこれをしるべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、又いくそばくそ。たゞかりの庵のみ、のど(長閑)けしくて恐れなし。

 ●白地=あからさま、にわかに、突然、ちょっとの間である、しばらく。●むせり=咽ぶ、噎ぶ。詰まらせる。●おのづから=たまたま、偶然。●やんごとな=やむごとなし=捨てて羽おけない、重大である、はなはだ尊い、別格である。●尽くしてこれしるべからず=知り尽くすことはできない。

 程せばしといへども、夜ふす床あり。昼居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうな(やどかりの古名。岩波文庫は〝かむな〟)は、ちいさきかひをこのむ。これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人をおそるゝによりて也。我又かくのごとし。身をしり世をしれらば、願はず、ましらはず。たゞしづかなるを望とし、愁いなきを楽とす。

 ●ましらはず=ためらわず、不安の念なく。岩波版は〝わしらず〟で校注に「あくせくと奔走しないこと」とある。


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晶子と「おなか団子」(22) [千駄ヶ谷物語]

kimonoakiko.jpg 千駄ヶ谷の「与謝野寛と晶子」編の最後です。夫妻の長男・光氏(医学博士、公衆衛生関連の理事、会長など歴任)90歳の聞き書き『晶子と寛の思い出』には、こんな文もあった。

 「千駄ヶ谷に移って、有名な〝一夜百首会〟が行われた。十時で電車が止まっちゃうから、一晩に一人百首読んで、朝に帰るんです」

 これは「結び字、結字」を入れての作歌会。石川啄木「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きゆれて蟹とたはむる」は「蟹」を結字にした一夜百首会で詠まれた作とか。評伝では〝一夜百首会〟は中渋谷の明治36年頃から始まってい、当時は渋谷も千駄ヶ谷も終電は10時頃ゆえに、徹夜の歌詠み会が行われたのだろう。

 光さんは話をこう続ける。「百首会は長丁場で腹が減りますから、近衛4連隊の下、今は住宅公団のアパート裏あたり、今は暗渠になっている渋谷川沿いに〝おなか団子〟という団子屋さんへ行くんです。僕が三つか四つの頃で、母が団子をたくさん買って大きな袋に入れて、それを背負って帰るんです」

 小生が2年前春に、この周辺を自転車散歩した際には、未だ「都営霞ヶ丘アパート」群が建っていて、団地北東脇の小公園に「近衛歩兵第四連隊(青山練兵場)」の碑が建っていたのを覚えている。今は新国立競技場建設と同時にアパート群も碑も姿を消した。

 「おなか団子」は、千駄ヶ谷シリーズ最初に『江戸名所図会』の「仙寿院」紹介の際に「渋谷川に沿った道を多くの人が歩いていて、そこには明治元年まで〝お仲だんご〟あり。お仲さんは美人で広重も描いたとか」と記した。その「お仲だんご」が与謝野晶子の千駄ヶ谷時代にもあったと語られている。代替わりして存続していたか、同名を名乗った団子屋だったのだろうか。

 そして与謝野光著の最後はこう結ばれていた「やはり思い出すのは、貧乏ではあったが大勢の方々で活気があった千駄ヶ谷時代ですね。裏を返せば、うちの母にとっては、ずいぶん苦労の多い時だったということでしょうけど」 なお、与謝野光氏に関しては、GHQ命による米兵らの性のはけ口場設定と性病予防で後に再び登場です。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より。

 与謝野夫妻と交流のあった石川啄木や北原白秋の関連書を読めば、さらに当時の千駄ヶ谷の様子が記されていそう。手始めに川本三郎著『白秋望景』、嵐山光三郎著『おとこくらべ』を読めば、明治45年に「千駄ヶ谷大字原宿」に引っ越してきた北原白秋が、隣家の人妻・俊子さんと不義密通。姦通罪で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷・未決監房へ運ばれたとあった。

 荷風さんが〝大逆事件〟関係者らを乗せた囚人馬車を自宅前で見て「文学者として何も出来ぬ己は、江戸の戯作者に身を落とす他にない」と自戒したのが明治43,44年だった。白秋と俊子さんも、囚人馬車に乗せられて市ヶ谷監獄へ向かって行く~。さっそく北原白秋・関連書を読むことになる。

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方丈記22:草庵の夜しづかなれば [鶉衣・方丈記他]

mosiyoru_1.jpghojyozu.jpg_1.jpg 日野山の草庵の様子、暮しぶりの記述が続くので、江戸本『方丈記之抄』に挿入された絵を紹介です。

 もし、夜しづかなれば、窓の月に古(故)人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、とをく真木の嶋のかがり火にまがひ、暁の雨は、をのづから木の葉吹嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴を聞て、父か母かとうたがひ、峯のかぜぎの近くなれたるにつけても、世にとをさかる程をしる。或は埋火(うづみび)をかきをこして、老のね覚(寝覚)の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろうの声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけても尽ることなし。いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧(らん)人の為には、これにしてもかぎるべからず。

 「窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす」は『和漢朗詠集』から。窓からの光に旧友や故人をしのば、猿の声が彼らの泣き声にも思えて涙があふれる~そんな意だろう。

 ●真木の嶋=槙島(宇治川と巨椋池の間にあった洲。かがり火をたいて氷魚をとる)。●かせぎ=鹿の古名。●かきおこして=掻き熾す? ●景気=気配、景色(けいしょく、けしき、風景)。

 最後の「いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧人の為には、これにしてもかぎるばからず」の現代文訳は「いうまでもなく、深く考え、知識深き人には、これだけに限らないはずである」

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四角関係、キラ星の文人らが(21) [千駄ヶ谷物語]

yosanohon1_1.jpg 明治37年(1904)に山川登美子、増田雅子が日本女子大に入った翌年1月、登美子、雅子、晶子の合著『恋衣』刊。さっそく千駄ヶ谷で新年会を兼ねた『恋衣』出版記念会が行われた。開業間もない「千駄ヶ谷駅」に降り立つは登美子、雅子。そして錚々たる文人27人ほど。

 盛岡から上京の19歳石川啄木は、新詩社を紹介してくれた先輩・金田一京助にこう報告したとか。「一昨日は新詩社の新年会。めづらしく上田敏、蒲原有明、石井柏亭などの面々出席。女子大学より〝恋衣〟の山川登美子、増田雅子のお二人見え候~」

 鉄幹に晶子、登美子、雅子のめくるめく性愛を読みたい方は、その道の小説家・渡辺淳一『君も雛罌栗われも雛罌栗』でお楽しみ下さい。女性らの嫉妬の火花はさておき、与謝野光『晶子と寛の思い出』の「千駄ヶ谷時代」は、こう続く。

 「千駄ヶ谷時代っていうのは、まだランプなんです。だから朝ね、母を中心にランプ掃除をやるの。僕も手伝ったけど子供にはたいへんだった」。ネットで当時の電化状況を調べてみた。

 ●明治38年9月、日露戦争終結。兵士・武器・弾薬輸送に大変だったので甲武鉄道を国有化。●明治40年(1907)に東京鉄道が千駄ヶ谷、渋谷町、品川町、目黒村などに電灯・電力供給を開始。●戦勝景気で電気事業も好況。水力電力も加わって電燈料金半減。電燈が石油ランプを駆逐。

 啄木が最初の訪問から3年後の春の与謝野家を再訪しての日記に「お馴染みの四畳半の書斎は、机の本棚も火鉢も座布団も三年前と変わりはなかったが(中略)~少なからず驚かされたのは、電灯のついて居る事だ。月一円で却って経済だからと主人は説明したが、然しこれはどうしても此四畳半幅の人と物と趣味とに不調和であった。此不調和はやがて此人の詩に現はれて居ると思った」

 ランプ生活が電灯に変わったが、鉄幹編集の『明星』と彼の詩には、啄木日記からも伺えるように、早くも時代に色褪せてきた。明治41年正月、同人の吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田幹彦ら7名が退会。晶子は「朝の雨さびしうなりぬ紫のからかささして七人去れば」と詠った。

 その後に窪田空穂、相馬御風らも退会。啄木が5月に訪問した日記には「今の新詩社、与謝野家は晶子女史の筆一本で支えられている」。『明星』最盛期5千部から9百部に落ち込んで、明治41年11月の百号で終刊。「わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや」。

 明治42年1月、与謝野夫妻は千駄ヶ谷を後に、神田駿河台ニコライ堂近くの東紅梅町へ去って行った。

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方丈記21:方丈暮らしの充実 [鶉衣・方丈記他]

matafumoto2_1.jpg 日野山、方丈庵生活の充実記が続きます。

 又麓に一の柴の庵あり。則(すなわち)此山守が居るところ也。かしこに小童有。時々来て相訪ふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく(遊び歩く)。かれは十六歳、われは六十。其齢事の外なれど、心をなぐさむる事は、これ同じ。或はつ花を抜き、岩なしを取る。又ぬかごをもり、芹をつむ。或はすそはの田井に至りて、落穂をひろひて、ほぐみ(穂組)をつくる。若日うららかなれば、嶺によぢ上りて遥に故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師(これも地名)を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむる障なし。あゆみ煩なく、志とをくいたる時は、これより峯つゞき、すみ山を越、笠取を過て、石間にまうで、石山をおがむ。若は又栗津の原を分て、蝉丸翁が跡をとふらひ、田上川をわたりて、猿丸太夫が墓をたづぬ、帰るさには、折につけつゝ、桜をかり、紅葉をもとめ、蕨を折、木のみをひろひて、且は仏に奉り、且は家づと(みやげ)にす。

 岩波文庫版では「かれは十歳、これは六十」。江戸本は「かれは十六歳、われは六十」。どちらが正しいのでしょうか。長明のアウトドア暮しが、実に楽しそうです。ここからは植物のお勉強。

 ●つ花=茅花、イネ科の多年草。細い鞘に花穂を包む。この花穂が茅花。初夏にこの鞘をほどき銀色の穂がなびく。茅花の中の穂は僅かな甘みがあって、子らが食べる。●岩梨=ツツジ科。果実は緑色=赤褐色の果皮に包まれて、梨のような甘さがある。●ぬかご=むかご、自然薯の茎にできる実。

 草摘みを愉しめば、嶺に登って故郷を望み、かつ先輩歌人らの足跡に思いを馳せる。●すそはの田井=山裾をめぐる田。●勝地=景勝地。●すみ山=宇治市炭山。他に地名いろいろ。●石山=岩間寺。●蝉丸翁=琴をよくした翁。●猿丸太夫田風=三十六歌仙の一人。

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与謝野夫妻の千駄ヶ谷(20) [千駄ヶ谷物語]

myoujyo.jpg_1.jpg 明治37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「新詩社&明星」共々、千駄ヶ谷村字大通549へ引っ越して来た。現・北参道駅から鳩森八幡神社へ至る、今も〝大通り〟の名を冠する商店街の郵便局近く。現・千駄ヶ谷1-23。「東京新詩社跡」の史跡柱が立っている。

 夫妻の長男・与謝野光『明子と寛の思い出』(思文閣出版)に「千駄ヶ谷時代」の項あり。「明治書院がたくさん借家を造ったんです。で、その借家に移った」。そして、こう続く。「駅からかなり遠かった。今の津田塾のあたりです。今の駅からだと近いけど、その頃は信濃町の駅からでしたからね。今は南の方に出口がありますけれども、北の方にあったんです。それで、よけいにたいへんでした」

 氏の90歳の聞き書きゆえ、多少の記憶違いはあろう。この辺を検証すれば、資料では間違いなく「千駄ヶ谷駅」開業後の移転。ちなみに「信濃町駅」開業は明治27年(1894)。千駄ヶ谷辺りから軍用「青山停車場」へ引き込み線あり。「千駄ヶ谷駅」開業当初の乗降客は1日250人程だったとか。

 与謝野夫妻の足跡を要約してみる。逸見久美著『評伝与謝野寛晶子(明治編)』、青井史著『与謝野鉄幹』、野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』他を参考にする。

tekansi.jpg_1.jpg 鉄幹、明治32年(1899)に浅田信子との間に女児を設けるも40余日で死去。信子と別れて林滝野と同棲し「東京新詩社」設立。明治33年4月『明星』第1号発行。発行所は麹町区上六番。発行人・編集人は林滝野。鉄幹が林家の養子に入る約束、かつ資金も林家。金子薫園、佐々木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、泉鏡花、広津柳浪など錚々たる執筆陣。

 同年、鉄幹は岡山で鳳晶子、山川登美子と会う。滝野との間に男子誕生。明治34年(1901)1月、晶子と京都で遊ぶ。3月、詩歌散文集『鉄幹子』刊。「妻をめとらば才たけて、顔うるはしくなさけある~」の〝人を恋うる歌〟収録。

 『明星』は67頁雑誌に急成長で、歌壇の中心になる。子規派と鉄幹派は平行線で、3月に匿名『文壇照魔鏡』刊。鉄幹は「強姦をし、放火をし、妻を売り、無銭飲食をした」と誹謗。滝野は子供を連れて帰郷。5月に渋谷村中渋谷へ移転。6月、晶子が鉄幹宅へ身を寄せ、8月『みだれ髪』刊。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。10月、晶子・鉄幹挙式。

 明治35年、長男・光誕生。明治37年、鉄幹・晶子『毒草』刊。晶子『明星』に「君死にたまふこと勿れ~」発表。渋谷時代の彼らの住家を見た明治書院社主・三樹一平は日記に「あまりなるあばら屋で驚くの外なしと語り合ひ、さて千駄ヶ谷の地にふさはしき詩堂建てまゐらせむと申さるゝなり」と記す。かくしての千駄ヶ谷移転。

 挿絵は『鉄幹子』巻末の「明星」広告とカット。絵は藤原武二のアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォー中心画家)の模倣図だろう。国会図書館デジタルコレクションより。

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方丈記20:自然と独居の愉しさ [鶉衣・方丈記他]

sonotokoro_1.jpg 方丈の説明、その暮しが記されます。

 其所のさまをいはば(云はば=云ってみれば)みなみにかけひ(南に掛樋)あり。岩をたゝみて(畳む、いじめて? 岩波版は〝岩を立てて〟)水をためたり、林軒(はやしのき。岩波版は〝林の木〟)近ければ、爪木(つまぎ=薪にする小枝)を拾ふにともし(乏し)からず。名を外山(岩波版は〝音羽山〟)といふ。正木のかづら(ツタマサキ)、跡をうづめり。谷しげけれど西は晴たり。観念のたより(山の人的形象?)なきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西の方に匂ふ。夏は時鳥(岩波版は〝郭公〟)をきく。かたらふごとに(鳴くたびに)しで(死出)の山路をちぎる(冥土の山路の道案内を約束する)。秋は日くらしの声みみにみちて、空蝉(うつせみ=現世)の世をかなしむと聞ゆ。冬は雪を憐む。つもりきゆるさま、罰障にたとへつべし。もし念仏ものうく、読経まめならざる時は、みぢからやすみ、みぢからおこたる。さまたくる人もなく、又恥べき人もなし。

 「罪障にたとへつげく=罪障の山に=罪の山に〝例へつげく=たとえることができよう〟。江戸版は古本(岩波版)に逆らうように、様々に言葉を変えています。

 殊更に無言をせざれども、ひとりをれば、口業をおさめつべし。かkotosarani_1.jpgならず禁戒を守としもなけれ共、境界なければ、何に付てかやぶらん。若跡の白波に身をよする(我が身を較べる)朝には、岡の屋に行かふ舟をながめて、満沙弥が風情をぬすみ、もし桂の風ばちをならす夕には、潯陽(じんやう)の江を思ひおもひやりて、源都督のながれをならふ。もしあまり興あれば、しばしば松のひびき秋風の楽をたくへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなければ、人の耳を悦ばしめんとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心をやしなう斗也。

 「口業をおさめつべし=三業のひとつ、妄語、悪口を納むることになろう」。「境界=けいかい(地所の境)」だが「きょうがい=境遇」。ここでは俗悪にまみれた境遇。●岡の屋=宇治の岡屋。●満沙弥=飛鳥~奈良の歌人。出家して、その歌に無常観あり。●桂や潯陽は中国。この文章は漢詩的散文です。「秋風の楽をたくへ」の〝たくへ=たぐふ=添わせる〟。●源都督=源経信。大納言、平安中期の歌人。

 

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徳川邸から与謝野鉄幹・晶子へ(19) [千駄ヶ谷物語]

tokyotaiikukan_1.jpg 家達は昭和13年(1938)ロンドンで開催の赤十字国際会議へ日本赤十字社長として出席すべく米国~カナダ経由で旅立った。ロッキー山脈越えの車中で心臓発作。カナダの病院に入院後に帰国。昭和15年(1940)6月に亡くなった。息子・家正(外交官)が公爵家を襲爵し、貴族院議員になった。

 家正は、天璋院(篤姫、明治16年没)の〝島津家から嫁をもらうように〟の遺言通り、29代藩主・島津忠義の九女・正子と結婚。昭和18年(1943)6月、東京都が紀元2600年事業の一つ「武道館」敷地として家達邸に着目。家正と交渉して譲渡成立。壁に囲まれた本邸敷地1万2千余坪。徳川宗家は東郷神社傍の渋谷区原宿3丁目(1万坪の元三井財閥総帥・團家)へ去って行った。

 徳川邸は都・民生局所管となって「葵館」。鍛錬道場、また出征兵宿舎になった。空襲時は宿泊中の兵士らによって焼夷弾の火が消された。終戦後は進駐軍の将校クラブ「マッジ・ホール」になる。(「マッジ・ホール」については赤坂真理『東京プリズン』に登場するので後述したい)

 接収期間は昭和20年(1945)12月~昭和27年(1952)5月。返還年の末、体育館建設で木造建築物を除去、鉄筋コンクリート造りの洋館2階建ては位置を移動して、翌年10月に東京体育館着工。昭和29年(1954)落成。昭和32年5月、屋内水泳場建設で遺されたいた洋館も解体。徳川邸は完全に姿を消した(東京体育館HPより)。この際、日本間の大広間「鶴の間」は鶴見の総持寺の客殿へ、他にも移築された部分があるらしい。

 昭和61年(1986)、老朽化で閉鎖。槙文彦設計で平成2年(1990)に現・東京体育館として全面改築。以後、幾度かのリニューアルが行われ、今年7月から2020年の東京オリンピックに向けての改修工事が始まるらしい。カットは現在の東京体育館図で、この全敷地が徳川宗家新邸だった。

 これにて千駄ヶ谷の徳川家関連を終えるが、他に明治・大正時代の千駄ヶ谷に特筆すべきことはなかっただろうか~。徳川家達が貴族院議長になったのが明治36年12月。その翌年37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。それに併せたのだろうか、同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「東京新詩社&明星」共々、渋谷から千駄ヶ谷へ引っ越してきた。約5年間の千駄ヶ谷暮し。その時期はちょうど永井荷風のアメリカ・フランス時代。与謝野鉄幹・晶子夫妻にとって、この時期の「新詩社・明星」はどうだったのだろうか。『明星』が最も輝き、そして凋落した激動期。次回から与謝野夫妻の「千駄ヶ谷物語」です。

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方丈記19:日野山に方丈の庵 [鶉衣・方丈記他]

kokoni60no_1.jpg 爰に六十(むそぢ)の露きえがた(消え方=消えかけるころ)にをよびて、更に末葉のやどり(晩年の住居)をむすべること有。いはば狩人(岩波文庫版は〝旅人〟)の一夜の宿を作り、老たるかいこの眉(蚕の繭)をいとなむがごとし。これを中頃のすみかになずらふ(準ふ・疑ふ=較べる)れば、又、百分の一にも及ばず。とかくいふ程に齢はとしとしにかたぶき(衰え)、すみかは折々にせばし(狭し)。其家の有様よのつねならず。ひろさはわづかに方丈。たかさは七尺がうち也。所をおもひさだめざるがゆへに、地をしめて作らず。土居をくみ、打おほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へ移さんが為也。其改め造る時いくばくの煩か有。つむ所わづかに二両也。車の力をむくふる外は更に用途いらず。

 いよいよ方丈の庵の説明です。「爰」に馴染なく毎回戸惑う。=ここに、エン、オン、ひく、かえる。(爰許=ここもと)。高さ七尺=2mほど。広さは五畳ほど。しかも組み立て式で、二両あれば移動運搬可能。

 いま、日野山の奥に跡をかくして、南に仮の日がくしをさimahinoyamano_1.jpgし出して、竹のすのこをしき、其西に閼伽棚(あかだな=仏に供える物を置く棚)を作り、中には西の垣に添て阿弥陀の畫像を安置し奉りて、落日を請(うけ)て眉間の光とす。彼帳のとびらに普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上にちいさきたなをかまへて、くろき皮籠三四合を置。すなはち和歌、管弦、往生要集ごときの抄物(抜き書きしたもの)をいれたり。傍に箏、琵琶をのをの一張をたつ。いはゆるおりごと(折琴)、つぎ琵琶これ也。

 ●眉間の光=仏の眉間の白毫から放つ光。 

 東にそへえてわらびのほとろ(蕨の穂の伸び過ぎてほうけたもの)をしき、つかなみ(束並み=藁を畳の広さに編んだ敷物)を敷て、夜の床とす。東の垣に窓をあけて、爰にふつくゑ(文机)をつくり出せり。枕のかたに、すびつ(炭櫃)あり。これを柴折くぶるよすが(手段)とす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。則(すなはち)諸(もろもろ)の薬草を載(うへ)たり。仮の庵の有様かくのごとし。

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徳川家達の「鶏姦と妾同伴」事件(18) [千駄ヶ谷物語]

rokumeikan.jpg 徳川家達が貴族院議員ならば、佐野眞一著は『枢密院議長の日記』。日記を書くことに生涯を捧げた男・倉富勇三郎。実に297冊の日記帳を遺した。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。

 倉富議長は「書いて書いて書きまくった」が、残念ながら判読不能のミミズ文字で解読者なし。佐野眞一はスタッフ5名による読書会を5年間も続けて、やっと大正10年、11年分を解読。その第一級資料の中に「柳田国男との宿縁」と「徳川家達の秘め事」の項あり。家達と柳田国男の確執は前回に記したので、今回は〝秘め事〟のほう~。

 「実名をあげたとびっきりのスキャンダルは、大正十一年二月七日の日記出に出てくる。俎上にあがっているのは、公爵にして従一位勲位、貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、日本赤十字社社長などの要職を歴任した徳川宗家十六代当主の徳川家達である」

gicyounonikki_1.jpg こんな書き出しで「宮内大臣・牧野伸顕が倉富にこう語った」と会話文で記されていると紹介。要約すると、徳川は華族会館(元鹿鳴館)に宿泊する多々なり。四五年目前(大正6、7年)のことなりし様なり。会館の給仕を〝鶏姦〟し、其事が度重なって給仕より荒立てられて、一万円を出金して落着したることあり。然るに本人は左程之を悪事と思わず、改むる模様なし。先年、徳川を学習院(男女の)総裁と為すの内儀を定めたる処、松浦某が強硬に反対し〝若し之を遂行するならば鶏姦の事実を訐く〟とまで主張したる為め、終り其儘に為りたりとのことなり。此事は自分より当時の宮内大臣波多野敬直に問ひたるに、〝事実なり〟と云へり。徳川頼輪抔(など)も〝兄は恥を知らずで、今尚公職を執り隠退の考なきには困る〟と云ひたることあり」

 まぁ、家達公はいつどこで、男同士で愛するなんてことを覚えたのでしょうか。それにしても〝鶏姦〟とは凄い言葉です。今でも男好きの男たちは、そんな言葉を使っているのでしょうか。当時の1万円って、1円=2千円とすれば2千万円になるのかなぁ。

 一方、同著では『中央公論』(明治44年4月号)が徳川家達の人物論を特集していて、錚々たる顔ぶれが執筆で「家達はいつも〝威望堂々〟として〝品行厳正〟な人物」という内容だったとフォローされていた。

 樋口雄彦著には宮内省総裁・木戸幸一の日記に「困ったものだ」との記述があると紹介されていた。それは昭和8年から翌年にかけての渡欧に女性を同行したることが新聞沙汰になったとある。前述の牧野伸顕の日記にも「家達公、洋行に妾を携帯したる由に、関係者が徳川家の浮沈に関わるスキャンダルに発展するのではと膝痛して、その女性だけを先に帰国させるようにした」の記述があると紹介されていた。

 他人の日記は怖いですねぇ。そして決して有名人になってはいけません。写真は鶏姦の舞台となった華族会館・元鹿鳴館(国会図書館「写真の中の明治・大正」より)と佐野眞一著『枢密院議長の日記』。

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方丈記18:大原移住の理由 [鶉衣・方丈記他]

cyoumeizou.jpg_1.jpg 『方丈記』が大原隠棲に入ったので、前回に続き長明の人生を探る。参考は五味文彦『鴨長明伝』。

 長明は河原近くに家を建てると同時に、俊恵に師事して歌の道に精進。師の後継者に認められつつあった。長明没時期に成立と思われる歌論集『無名抄』には、全編に俊恵の教えが記されているとか。

 文治3年(1187)、院宣による藤原俊成選集『千載和歌集』に長明の一首が入った。健久2年(1191)の「六条若宮歌会」に出詠。この時、すでに俊恵は亡く、翌年に後白河法皇も没。

 政治が鎌倉の将軍頼朝と京・九条兼実の両輪で展開し、九条家が文化拠点になる。建久9年(1197)、後鳥羽院政の開始。翌年に頼朝没。この間に九条家の浮沈あるも、正治2年(1200)になると九条家復活。『石清水若宮歌会』へ長明も復帰。建仁元年(1201)に「和歌所」設置で、毎月の歌会開催。長明は「和歌所の寄人」に選出されてトップランナーへ。

 彼は寂蓮や定家にも学び、さらに腕と地位を固めるが、建仁3年(1203)頃から朝廷の歌会活動が消えた。五味著には、この頃に大原隠棲して、建永元年(1206)春頃に出家、ではないかと推測されていた。

 大原隠棲は、こんな理由もあってだろうと記す。上皇が長明の「昼夜奉公怠らず」に報い、下鴨社の摂社・河合社で空席になった禰宜(かつて父親がそうだったように)に就かせようとしたが、下鴨の祐兼が猛反対。上皇は、ならば他社を官社に格上げし、その禰宜に就かせようとした。これを長明が辞したことによるだろうと推測。

 『方丈記』の ~すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をやなませることは三十余年なり。其間、折々のたがひめに、をのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかえて、家を出て世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし、身に官禄あらず、何に付てか執(しう)をとゞめん。空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる。

 禰宜になれると喜んだ自分が恥ずかしい、それが叶わず、今度は別社の禰宜の座を~という上皇の心遣いにいたたまれない、という思いがあったのだろうと推測。長明の隠棲については、家長日記の「けちえんなる心」を〝未練で頑なになった心〟と解釈する向きが多いので、小生もこれを辞書で引けば「=掲焉、結縁」両意あり。結縁なる心=仏道に入る縁を結ぶ、の意が正しいのではないかと思った。

 隠棲した長明だが『新古今和歌集』に10首が入った。その一首が「秋かぜのいたりいたらぬ袖はあらじ ただわれからの露のゆふくれ」。挿絵は同歌挿入の「新古今集入り肖像画」(国会図書館デジタルコレクションより)。次回から『方丈記』筆写に戻ります。

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徳川家達と柳田国男の確執(17) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0916_1.JPG 徳川家達調べで「柳田国男との確執」なる記述に出会って、ちょっと驚いた。柳田国男と云えば民俗学者で、大著『柳田国男全集』一部を小生も蔵書。

 彼はそもそも農務官僚で、大正3年から退職する大正8年(1919)12月まで徳川家達の下で貴族院書記官長。家達との確執で退職し、それによって偉大な民俗学者誕生、いや日本民俗学が確立とか。

 家達の貴族院議員時代は前述通り、日本激動の明治36年12月~昭和8年。これに重なる柳田国男の書記官長時代を探ってみる。参考は前述の樋口雄彦著に、佐野眞一『枢密院議長の日記』を加える。

 二人が同じ職場になる前の柳田は、明治42年に遠野を含む東北旅行。大正2年に「郷土研究」刊。すでに民俗学に足を踏み込んでいた。本業より民俗学に情熱を注いでいたこと、家達にその理解がなかったこと、はたまた別の問題があったかで、家達は執拗に柳田の転出裏工作を展開したらしい。柳田は面と向かって言わず裏工作の家達に憤慨して、二人の仲はこじれにこじれた。

 家達は旧幕臣官僚に止まらず、裏工作に首相・原敬や西園寺公望まで巻き込んだから、二人の確執は周知の事態になった。結局は家達が柳田に謝罪し、柳田が辞職した。

 樋口著には、ここまで二人の仲がこじれたのには「家達の〝私行〟」ゆえという説、柳田が家達系静岡人らが興した〝報復運動〟へ違和感を持っていたという説も紹介。真相は定かではないも、結果的に二人の確執、柳田の官庁辞職によって「日本民俗学」が確立へ至ったことに間違いはない。

 小生、ここまで調べるまで迂闊にも、柳田国男が〝新宿在住〟とは知らなかった。さっそく市ヶ谷加賀町2-4-13の旧居跡を訪ねてみた。現・大妻女子大加賀寮の地に、岩手県遠野市設置の立派な史跡案内板があった。柳田は同地に明治34年(1901)から27年間在住。『遠野物語』の話者・佐々木喜善が早大在学中で、毎日のように柳田邸を訪れて〝遠野の話〟を語ったゆえ案内板には両者の在住地図が表示、さらには九百九十坪の柳田邸図面、『遠野物語』初版本、若き柳田の写真までが紹介されていた。(写真は同史跡案内板より)

 さて〝家達の私行〟とは何だったのだろう。これが女性問題のみならず、男色(鶏姦)も盛んだったとか。佐野眞一のノンフィクション好きの小生は、佐野眞一著『枢密院議長の日記』を読んでみた。

 メモ:4月10日、新宿でツバメ初認。早かった。桜も葉桜。

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徳川家達の業績(16) [千駄ヶ谷物語]

iesatogiin_1.jpg 家達のイギリス留学は、ロンドン郊外の半分私塾のイートン・カレッジ。明治15年(1882)10月、19歳で帰国。帰国翌月、天璋院采配による近衛忠房の長女・泰子と結婚。明治17年、長男・家正誕生。同年の華族令で公爵になる。

 明治20年(1887)秋、明治天皇が徳川家達邸に行幸。皇族や徳川一門、さらに勝海舟、山岡鉄舟、明治政府閣僚らも陪席。行幸の際の建物が「日香苑」として保存。明治23年(1890)、帝国議会開設と同時に貴族院議員(公爵・侯釈は満25歳で貴族院終身議員になる)。

 明治29年(1896)、文部大臣就任を打診されるも〝経験浅く〟と辞退。勝海舟「良い心がけだ」と褒めた。明治31年(1898)、東京市長に勧められるも辞退。勝海舟「そんな事は人に任せなさい」。明治32年、勝海舟没。明治36年12月から昭和8年(1933)まで貴族院議長。

 大正2年(1913)、徳川慶喜没。徳川家の上野寛永寺ではなく、谷中の墓地は神式で正室と多くの子を産んだ側室二人と共に眠っている。家達は常々「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を立てた人」と言っていた。生前の勝海舟は両者にかなり神経を使っていたらしい。

 さて、家達の貴族院議長時代は、激動の時代だった。日露戦争(明治37年)、伊藤博文が中国で暗殺死(同42年)、大逆事件(同43年)、柳田国男「郷土研究」発行(大正2年)、第一次世界大戦(同3年)、関東大震災(同12年)、満州事変(昭和6年)、国連脱退(同8年)~

 家達の働き振りはどうだったか。「政治家にあらずして無色透明。何の政団にも当たり障りなく理想的議長の態度」。貴族院議長として適任だったらしい。各議員の姓名・経歴・性格まで知悉し、かつ勉強家。威厳も身に付けていたらしい。

 かくして大正3年(家達51歳)に、門閥のない中正の人ということで首相に白羽の矢が立つも「その器にあらず」と辞退し、大熊重信内閣が成立。

 相当に〝デキた人物〟と思われるが、そんな人は滅多にいない。家達にも幾つかのスキャンダルがあったらしい。柳田国男との確執、議員会館の給仕との〝鶏姦事件〟、渡欧に〝妾同伴の困ったもんだ事件〟など。その辺は佐野眞一『枢密院議長の日記』にも詳しいとかで、さっそく同書も読んでみた。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より貴族院議長の徳川家達。

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方丈記17:歌人・長明の人生 [鶉衣・方丈記他]

kamo.jpg_1.jpg 『方丈記』は第一段が序、第二段が体験した災害の数々、そして第三段が日野山に〝方丈の庵〟を結ぶまで。ここで養和の大飢餓・大地震当時の「歌人・鴨長明」の状況を把握しておきたい。参考は五味文彦『鴨長明伝』。

 養和2年、30歳。大飢餓~大地震の頃に、どんな理由でか祖母の家に住めなくなった。河原近くに十分の一程ほどの家を建てた。同時期の下賀茂社記録には、長明はすでに禰宜継承の流れから外れた下位役職。歌人として生きる他にない。上賀茂神社の歌人・賀茂重保の企画による『月詣和歌集』が養和飢餓の年に成立で、長明の4首が入った。

 その一首が「住み詫びぬいざさはこえむ死出の山 さてだに親のあとをふむやと」。無教養の小生は、分解しないと解釈できない。●住み侘びぬ=生きて行くのが辛い、嫌になった。●いざさは=いざ(さぁ)+さは(然は、そうならば)。●死出の山=死者が越える冥土の山。●さてだに=さて(そのまま、その状況で)+だに(せめて~だけでも)。●やむやと=や(詠嘆)+と(変化の結果)。(父のように、禰宜になる道はすでになく、生きて行くのが嫌になってしまった。そうならば(父のように)死出の山を越えて行こうか~。

 小生、俳句は少し勉強も、和歌への興味希薄。理由は(1)貴族中心。(2)恋歌が多い。(3)歴史的に遡るのはせいぜい江戸まで~等々。自分のことより本題へ戻ろう。

 長明は自分の家を構えると同時に、俊恵(しゅんえ、法師)に師事して本格的な歌の修行に入った。文治3年(1187)院宣(後白河院の命)による藤原俊成の選集『千載和歌集』に一首が入る。「思ひあまりうちぬる宵の幻も 浪路を分けてゆき通ひけり」。恋歌だな。

 琵琶の師・有安は長明に常々こう忠告していたそうな。「所々にへつらひありき、人にならされ」るゆえ〝歌詠み〟になるなと。今流に言えば、狭い貴族の歌人サークルに入れば〝忖度〟する生き方が身についてしまうよ、という忠告だろう。だが長明は『千載和歌集』に載ったことで、琵琶の継承者にならず、歌人の道を選んだ。挿絵は国会図書館デジタルコレクション「肖像」(明治13年刊)より鴨長明の肖像。

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徳川家達邸の変遷(15) [千駄ヶ谷物語]

meijitokugawa1_1.jpg 千駄ヶ谷の明治43年地図(上)を見る。徳川邸はJR線路から鳩森八幡神社まで、西は現・国立能楽堂辺り、西は渋谷川(現・外苑西通り)までの広大敷地。保科著には、こう記されていた。

 「(東京体育館)あそこはね、茶畑だったのよ。段々になってね、点々とお百姓さんの家があって。その下の川に観音橋があった。旧邸南が八幡様で、その向こうに南邸、里様(徳川慶喜4男・厚夫人)がいらっしゃった」

 徳川旧邸は「まだ遠慮があって」平屋建ての質素な家屋。天璋院、本寿院、実成院と所帯が多く、継ぎ足しで広がっていたとか。そして大正6年の地図が面白い。徳川邸はふたつ。以下、保科著を要約。

 「元の徳川邸は増築を重ねて住みにくい屋敷だった。大正3年に工事を始め、大正6年末に新邸が落成。敷地は1万数千坪。人造石壁90余間、中央に花崗岩の柱の檜扉の表門。砂利を踏んで中央の植え込みを回って洋館玄関まで約半町。御殿建坪900坪に附属家。庭の一部に総檜白木造り・銅葺の15坪ほどの東照宮(神殿)。江戸城紅葉山にあった家康の等身大木像を安置。以後、毎年正月に旧幕臣と子弟が集い、家康命日の9月17日にも園遊会が開催された」

taisyotokugawa_1.jpg 大正15年(下)地図には縮小された旧邸が認められる。これは明治20年に明治天皇が行幸された際の家を「日香苑」として保存していたもの。大正14年(1925)9月未明の不審火で旧邸母屋焼失。放火犯は翌年逮捕で懲役15年の判決。被差別者らの運動組織・全九州水平社委員長らが「いわれなき差別の原因は徳川幕府の歴史的責任」と主張し、直談判すべくも面会出来ず。抗議文にも未回答ゆえ、同志らがピストル、刀を用意で逮捕。そんな放火背景があったらしい。

 家達一家は旧邸に残された「日香苑」を建て増して仮寓し、西洋館の落成を待ったとか。そして昭和18年(1943)、東京都が紀元2600年事業一つ「武道館」建設敷地として徳川邸に着目。長子・家正との交渉で譲渡が成立。徳川宗家は渋谷区原宿3丁目(東郷神社側)へ移住。

 なお同地譲渡後は戦争で「武道館」建設は中断。戦争中は出征兵宿舎に。戦後は接収されて将校クラブ「マッジ・ホール」になる。同ホールに関しては、赤坂真理『東京プリズン』登場で後述予定。次はイギリス留学から戻った徳川家達について。

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方丈記16:30で家を建て、50で隠棲 [鶉衣・方丈記他]

wagamititikata_1.jpg ここから自身の〝家遍歴〟が記される。

 わが身、父方の祖母の家を伝へて久しく彼所(かのところ)にすむ。その後縁かれ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかは、つゐに跡とむること得ずして三十餘にして、更に我心と一の庵を結ぶ。是を有し住居になすらふるに十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を作るに及ばず。わづかについひぢをつくりけりといへ共、門たつるにたつき(費用)なし。竹を柱として車やどりとせり。雪ふり風吹ごとに、あやうからずもあらず。所は河原ちかければ、水の難ふかく、白波の恐もさはがし。すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませることは三十餘年なり。

 〝父方の祖母の家〟が、いまひとつ理解できなかったが、玄侑宗久『無常という力』に、こう説明されていた。~当時は妻間婚(つままこん)で旦那が通ってくる形で、女性が家を持っていた。これで納得です。しかし30年余を経て、なにがあったか、祖母の家を出ることになって、その十分の一の家を建てた。建てた場所は鴨川の河原近く。内乱や飢餓が襲えば、死体が捨てられたりの地だ。

 「しのびかたがたしけかりしかど」がややこしい。●偲び(懐かしむ)方々(あれやこれや)しけかり(茂し=多い、いっぱいの連用形sonoaidaoriori_1.jpg=しげかり)しか(過去〝ぎ〟の已然形+と)。「~かりしかど」はよく出てくる。丸暗記がよろしいようです。この意は「思い出があれこれ多かった」。続く文●つねに跡とむること=常に跡泊むる事。岩波文庫版は「つひに屋とどむる事」になっている。●なすらふる=準ふる、疑ふる=比較するには。

 其間、折り折りのたがひめに、をのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家を出世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすが(縁、ゆかり)もなし。身に官禄あらず、何に付けか執(しう)をとゞめん。空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる。

 ●たがひめに=不本意なこと、意に反すること。●いくそばく=数多く。河原の側に建てた家に50歳の春を迎えるまでくらして、大原に隠棲したと記している。次回は『方丈記』から離れて、長明の歌人としての歩みを探ってみたい。

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勝海舟と天璋院とクララ(14) [千駄ヶ谷物語]

15saiiesato_1.jpg 徳川家達についての続きです。徳川宗家となった家達は、駿河府中城主(70万石の殿様)になった。明治元年に〝五稜郭討伐〟を命じられるも幼過ぎて免除されて駿河に戻った。和宮も明治2年に京へ戻った。同年の「版籍奉還」で静岡藩知事。明治4年の「廃藩置県」で東京へ。

 保科著にこう記されていた。「天璋院は千代田城開城後、いったん一橋家に落ち着いたが、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、尾州下屋敷の戸山邸(小生自宅前の現・戸山公園)と替わり、(明治5年に)赤坂の福吉町の旧相良越前守邸に移った。ここで静岡から戻った家達と暮すことになる」

 家達は、華族の身分と家禄を得て赤坂暮し。家従6名を残して全免職。樋口著には、同邸購入代金3800両と『勝海舟全集』にありと紹介。小生、この辺は少し詳しい。2011年の弊ブログ「勝海舟旧居巡り」で赤坂氷川町の勝海舟邸を訪ねている。勝は土地売買が自由になった明治5年に、大旗本から2500坪の邸を土地500両、改修500両で終の棲家にした。

 当時の地図もブログアップゆえ、改めて見れば勝が買った柴田邸の北側隣接地が「相良越前守」。元人吉藩主=相良氏ゆえ、ここが家達邸だろう。勝邸と同時期購入で、購入金額も勝が記録ということから、勝の手配と推測して間違いない。

 同屋敷で母代わりの天璋院(篤姫、第13代将軍家定の正室)の他、本寿院m_sibatatei.jpg(家定の実母)、実成院(紀州藩主から14代将軍家茂の実母、和宮の姑)らが家達を迎え育てた。また勝邸敷地内にはホイットニー家も居住。主人ウイリアムは一橋大の前身「商法講習所」から津田仙が設立「銀座簿記夜学校」教師。再来日途中のロンドンで病没し、アンナ夫人が一家を率いて日本に戻った。

 同夫人は49歳で病没。これも「青山外人墓地シリーズ」で、勝の墓誌で眠るアンナ夫人の墓を紹介済。また明治19年、医学を修めた息子が再来日して赤坂病院を開設。娘クララは勝の三男・梅太郎と結婚した。『クララの日記』には明治10年に家達邸に招かれた時のことが記されているそうな。侍のお辞儀で迎えられ、客間はテーブルにブリュッセル絨毯。美しい庭園。老婦人3人が住む家には28人の侍女と~。

 家達はそうした環境で、天璋院の薫風(多分に勝の忠告を受けつつと推測)を受けて勉学。かくして明治10年(1877)に赤坂から千駄ヶ谷へ移住。この時、家達14歳、千駄ヶ谷旧邸で暮す間もなく、イギリス留学へ旅立った。写真は赤坂邸に移った頃だろう幼少・徳川家達(国会図書館「近代日本人の肖像」より)。

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方丈記15:我身と栖の徒なる様 [鶉衣・方丈記他]

subeteyono1_1.jpg 長明は、五大災害を記した後で、こうまとめている。

 すべて世の有にくき(在り難き=生きて行くのが辛い)事、我身と栖(すみか)とのはかなくあだなる(儚く徒なる)様、かくのごとし。いはんや所により、身の程にしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしをのづから身かなはずして権門のかたはらに居る者は、ふかくよろこふ事はあれども、大にたのしふにあたはず(能はず=できない)。歎ある時も声をあげて泣事なし。進退やすからず。立居につけて、恐れをののく。たとへば雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もしまづくして、富め家の隣にをるものは、朝夕しぼき姿を恥てへつらひつゝ、出入妻子僮僕のうらやめるさまを見るにも、富め家の人のなひがしろなるけしきを聞にも心念々にうごきて、ときとしてやすからず。

 五災害のまとめゆえ、ここは気持ちを引き締めて一語一語音読し、意を頭に叩き込みながら筆写です。依ってメモも多くなった。●世の有にくき=世の在り難き=生きて行くのが辛い。●徒なる=はかない、むだ。●いはんや=況んや=いはむや=言うまでもなく、まして。●身かなはずして=身叶はずして=望まずに、適合せず。(岩波文庫版は「身数ならずして」で意が違う)。●進退やすからず=行動がしにくい。●すぼき=岝き=みすぼらしき、肩身がせまい、ほっそりして。●僮僕=しもべ、召使の少年。●けしき=ようす、そぶり、顔色、態度。●念々=仏教語。一刹那一刹那、いろいろの思い。

mosisebakiti_1.jpg もしせばき地に居れば、近く炎上する時其害をのがるゝことなし。もし辺地にあれば往反わづらひおほく、盗賊の難はなれがたし。いきほひ有者は貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかるしめらる。宝あればおそれおほく、貧しければ歎切也。人をたのめば、身他のやつことなり。人をはごくめば、恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。又したがはねば狂へるに似たり。いづれのところをしめ、いかなるわざをしてか、しばしも此身をやどし、玉ゆらも心をなぐさむべき。

 ●往反=わうばん、往復すること。●切=せち、せつ。しきりに、ひたすら、はなはだしいさま。●身他のやつごと=注釈によって「身、他」と読点、「身他」がある。やつ=奴もある。「身、他の奴事」と解釈した。●はごくめば=はぐくねば。●玉ゆら=しばし、少しの間。古文に日頃から親しんでいれば、辞書をひかずもよいのだが。

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十万坪の徳川宗家邸(13) [千駄ヶ谷物語]

tokugawajisyo_1.jpg 千駄ヶ谷は明治になると、現・千駄ヶ谷駅前の東京体育館、津田塾大から鳩森八幡神社まで、西は国立能楽堂辺り、さらに飛び地で原宿駅辺りまでが徳川宗家・家達(いえさと)邸敷地となる。約10万坪(東京ドーム7個分?)とか。

 寛永4年の「江戸切絵図」を見ると「紀州殿下屋敷」と記された2ヵ所と松平肥前守下屋敷を中心にして、周辺拡大して行ったらしい。現地図に徳川宗家敷地の凡そ図を示せば赤色が旧邸、水色が新邸、鳩森八幡の南側が徳川慶喜の四男・厚邸。

 徳川邸で育った保科順子著『花葵~徳川邸おもいで話』(1998年、毎日新聞社刊。表紙は新邸イラスト)を読んだが、庶民とは縁遠いおば様方の思い出話構成で検証・資料僅少ゆえ、樋口雄彦著『第十六代徳川家達』(祥伝社新書)やネット情報も交えて、徳川家達(邸)の概要を探ってみた。

 まずは「徳川宗家・家家とは?」。徳川〝御三家〟は、家康の子から別れた尾張・紀伊・水戸藩大名。将軍が倒れたら即御三家の誰かが継ぐシステム。一方、徳川〝御三卿〟もあり。これは御三家が各藩主となって疎遠気味になったゆえ、8代将軍吉宗が次男に田安家を、四男に一橋家を、九代将軍家重の次男に清水家を立たせ、江戸城内堀前に予備後継家として設けたもの。家達は田安家。

hanaaoi1_1.jpg 家達は、田安家5代目慶頼の子。文久3年(1863)生まれ。実母は幕臣・津田栄七の娘。つまり家達と津田梅子(津田塾大創立者)は従兄妹同士。かつ家達次女が鷹司公爵夫人に。その関係なのだろう、同地が鷹司家地になって「津田英語会」校舎がここに完成。うむっ、早くも千駄ヶ谷駅前に津田塾がある所以が解けた。

 次は徳川家達が徳川宗家に至った経緯のお勉強。皇室から和宮が嫁いだ第14代将軍・家茂(元紀州藩第13代藩主)は、慶応2年(1866)に長州征伐途中の大阪城で病没。享年20歳。

 さて、次の将軍選びに13代将軍・家定正室だった天璋院(薩摩藩島津本家養女~篤姫)が田安家達(亀之助)を推すも、和宮はお家大事の時に〝亀さん〟では幼過ぎると一橋慶喜を推して、第15代将軍に徳川慶喜が決定。

 慶応3年、徳川慶喜は大政奉還・王制復古。上野寛永寺で謹慎生活に入り、江戸無血開城。当初は「嫁対姑、皇室対武家」で不仲だった静寛院宮(和宮)と天璋院(篤姫)は、徳川存続のために共闘。勝海舟の力もあって慶応4年、新政府より4歳の田安亀之助(家達)が目出度く徳川宗家と認可。家達は天璋院の下で屋敷を構えて育てられることになる。長くなったので次回へ。

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方丈記14:水火風そして地震 [鶉衣・方丈記他]

mononofu1_1.jpg 前回の京の大地震の続きで、岩波文庫版にない部分です。

 其中に或武士のひとり子の六七ばかりに侍へりしが、ついひぢのおほひの下に小家を作りて、はかなげなる跡なしこと(あとなし事=たわいもない事)をしてあそび侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二の目など一寸ばかりうち出されたるを父母かゝへて、声をおしまず、かなしみあひて侍りしこそ、あはれにかなしく見侍りしか。子のかなしみには、たけきものも恥をわすれけりと覚えて、いとおしく理(ことはり)かなとぞ見侍りし。(岩波文庫版は、次につながる)かく、おびたゝしくふることは、しばしにてやみにしが、其名残しばしは絶ず。

 長明は、子を抱き泣く武士の姿を実際に見たのだろう。「跡なしことは」は「跡無し」ではなく「あとなしごと」で〝跡〟は当て字か。「見侍りしか=見るの丁寧語+しか(過去の助動詞)=見ました」だろう。

 よのつねに、驚くほどの地震二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過にしかば、やふやふ間どを(間遠、まどほ)になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かた其名残三月ばかりや侍けん。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる変をなさず。むかし斉衡の比とよに、大地震ふりて、東大寺の仏のみくし(御首)落などして、いみしき事とも侍りけれど、猶此たびにはしかずとぞ。則(その時)人みなあぢきなきこと(どうにもならない事)を述て、聊(いささかの)こころのにごりもうすらぐかとみし程に、月日かさまり年越しらば、後は言の葉にかけてくいひ出る人だになし。

yonotuneni2_1.jpg 7月9日京都直下型地震の余震の恐さが三ヶ月ほど続き、やがて忘れてゆく様が綴られている。「しかず=及かず=及ばす」、「とぞ=文末に用いて~ということだ」。

 北村優季著『平安京の災害史』に京の地震が列挙。平安京遷都間もない延暦16年(797)8月に地震と暴風。斉衡2年(855)に地震頻発。大仏の首が落ちた。元慶4年(880)の大地震で大極殿に亀裂。宮城の大垣や京内の家屋損壊。仁和3年(887)の京大地震。津波で溺死者多数。承平8年(938)4・5月に地震。天延4年(976)の地震では多数寺院損壊。清水寺も崩壊で50人圧死。嘉保3年(1096)平安京に再び大臣。堀河天皇は寝殿造り池に船を浮かべて避難。文治元年(1185)長明33歳。壇ノ浦合戦の4ヶ月後にこの地震に遭遇。

 ※昨日の新宿「花園神社骨董市」で〝古硯〟を入手。伊勢丹前の歩行者天国で「安倍政権批判の抗議集会」が行われていた。

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滝沢馬琴終焉の地(12) [千駄ヶ谷物語]

bakin.jpg_1.JPG 江戸の千駄ヶ谷から、明治の千駄ヶ谷へ進む前に、建築中の国立競技場、明治神宮外苑前の信濃町駅歩道橋下の「滝沢馬琴終焉の地」についても記しておきたい。

 小生の千駄ヶ谷散歩にかかぁが同行した。鳩森八幡神社近くのマンションアパレル社の店頭売りで、かかぁはショールを買い、あたしはマークなし無地の野球帽を買った。国立競技場を一周して絵画館辺りで「疲れた」で、信濃町駅歩道橋脇のカフェで休憩。

 屋外テラスもあるおしゃれな店内。かかぁはジンジャーティとドルチェ。店名は「カフェ・シェーキ―ズ外苑信濃町」。同じ建物内の反対側に日高屋がある。その店先に新宿区指定史跡看板「滝沢馬琴終焉の地」がある。看板には史跡指定年月・平成25年3月。

 小生、4年前の弊ブログ「馬琴旧居巡り」(計7回)で、ここへ辿り着いている。「馬琴終焉の地」は従来研究者らが探すも特定できず。小生も幾度となく一行院辺りを彷徨ったが、新宿の郷土史家・鈴木貞夫氏が、百人町で自身のルーツ調べをしている篠原氏に逢うと、なんと「曾祖父の家が馬琴住居跡でした」であっけなく判明。鈴木氏は「唖然として二の句が継げなかった」と。氏は江戸時代の「沽券図」と明治7年の「東京大小区分絵図」と明治17年測量の「東京実測図」を同一スケールにして検証し、この地を「馬琴終焉の地」と特定した。

 かくして平成25年の新宿区指定史跡になった次第。馬琴の生誕地は深川。元飯田(九段下辺り)の履物屋の寡婦〝お百さん〟へ入夫し、武士を捨て町人読み物作家へ。息子が大名抱医師になって一代士族。神田明神下同明町へ。息子病死後は、孫を士族にすべく御家人株を売りたい信濃町の同心屋敷地と権利を買って転居した。

 『馬琴日記』を読むと、この辺りで暮した江戸人の暮しが伺える。千駄ヶ谷散歩や国立競技場への最寄り駅を信濃町駅にする場合もあろう。そんな時の休憩に「カフェ・シェーキーズ」か「日高屋」に寄った際は、滝沢馬琴や馬琴と喧嘩しつつ挿絵を描いた北斎らに想いを馳せるのもいいかもです。

 写真は日高屋前の史跡看板掲載の馬琴さん。次回の「千駄ヶ谷物語」は、明治時代に千駄ヶ谷に十万坪を有した徳川宗家・家達邸について。

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方丈記13:飢餓、そして大地震 [鶉衣・方丈記他]

genryaku2_1.jpg 元暦2年(1185、文治元年)3月に壇ノ浦の決戦。そして7月9日、大地震が京を襲います。

 又元暦二年の比、大なるふる(大なる震る=大地震)こと侍りき。其様つねならず。山くづれて川をうづみ(埋み)、海かたぶきて陸(くが)をひたせり。土さけて水わきあがり、いわほわれて谷にまろび(まろぶ=転ぶ)入、渚こぐ船は波にただよひ、道行駒は足の立ど(立ち所=足場)をまどはせり。況や都のほとりには存々所々(至る所)、堂舎(大きい家と小さい家)塔廟(仏舎利を納めたり死者供養の建物)一(ひとつ)として全(また)からず(完全でない)。或はくづれ、或はたふれたる間、塵灰立上りて盛成、煙のごとし。地の震ひ、家の破ふるる音いかづち(雷)にことならず。家の中にをれば、忽に打ひしげなんとす。はしり出れば、又地われさく。羽なければ、空へもあがるべからず。龍ならねば、雲にのぼらんこと難し。をそれの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとぞ覚侍りし。

 「海は傾きて陸をひたせり=津波」(震源地は琵琶湖。同湖の水で京都水没)、「土さけて水わきあがり=液状化」だろう。「羽なければ空をも飛ぶばからず」に、3.11の恐ろしい津波に、カモメらが飛んでいる映像を思い出します。

 「陸」のルビは「くが」。くずし字辞典に「陸(リク、ロク、おか、くが)」。古語辞典にも広辞苑にも「陸(くが)」がちゃんと載っている。この歳まで日本語で生きてきたのに、未だ知らぬ〝読み〟に出会って少々慌てます。同じように「うづみ=うづむ=埋む」。「まろび=まろぶ=転ぶ」。「立ど=立ち所、足場」。「いかづち=雷」。古語辞典が手放せない。旧仮名、歴史的仮名遣も手ごわいです。例えば「堂舎塔廟(だうしゃたふめう)」。

 この地震記述は『平家物語』巻十二に、そっくり引用されています。またここで筆写の江戸本には、岩波文庫版にはない文章が続きますが、それは次回~。

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