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「大島動物公園」脱走物語 [週末大島暮し]

osimakoen1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」最後は「大島自然公園」。この写真は水鳥らの池だろうか。小生、閑ゆえ<昔の「島の新聞」>から〝動物公園脱走物語〟を記したことがある。

 まずは「熊脱走物語」。昭和11年5月17日早朝。壁に立てかけ忘れた梯子から子熊3頭が脱走(熊は木登りが得意)。警察・消防団が大捜索も同日未発見。18日に公園付近で1頭捕獲。同日夜に公園から3里は離れた御神火茶屋隣接のラクダ小屋で1頭捕獲。20日、野増村の〝かよばあさん〟が大いびきの熊を発見して捕獲。野増から泉津への帰還沿道は拍手喝采。

syowa38kuma3_1.jpg 昭和11年10月4日。再び子熊3頭脱出。19年後の昭和30年12月26日の朝日新聞に大熊目撃の相次ぐの報に、園長は「昭和11年脱走の2頭捕獲も、逃げた1頭だろう」。さらに昭和43年10月、大島猟友会3人が落花生畑の大熊を射殺。昭和11年脱走熊なら35歳。射殺せずも長寿全う間近だった。

 次にタイワンサル。昭和17年の大島公園から数匹脱走。昭和39年の「島の新聞」に7~80頭繁殖か。平成14年の朝日新聞によれば推定2千頭。平成22年1月の「asahi.com」では4千頭に繁殖。

 次はタイワンリス。同じような経緯で脱走・繁殖。現在は計測不能の数万頭とか。林の木が揺れていれば、そこにリスがいる。林の中でガァガァの鳴き声がすればリスだ。平成17年に特定外来種に指定。

 目下はキョンが話題。昭和45年の台風で10数頭が脱出。目下は1万5千頭とも。三原山樹林でも我がロッジからもキョンを見る。今秋に捕獲チーム名「キョンとるず」、ロゴマークも決まったそうな。

simasaru2_1.jpg 別の動物話題を二つ。中西悟堂『定本野鳥記』第1巻「放飼編」を読んでいたら、家や部屋ん中で多数大型野鳥を飼っていたが、同編末に「今は禽舎はガラアキ。ほとんどの鳥を、東京湾汽船の林社長の懇望で伊豆の大島へ移してしまった」の記述。昭和10年記で、同年は動物公園開園。

 さらに驚いたのがWeblio辞書。「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集めらた鷲、鷹、雉などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥と記されていた。本当かしら。これは裏をとっていない。

 最近の動物公園は素敵に楽しく改修・拡充されている。東京都立大島公園は植物縁・椿園/動物園/ハイキングコース/海のふるさと村で構成。同サイト最新ニュースには「レッサーパンダの赤ちゃん公開開始」「ラマの赤ちゃんが産まれました」と楽しそう。

 300円で入手の「昔の絵葉書」だが、たっぷり楽しませていただいき、これにて終了。新聞切り抜きはクリック拡大で本文読めます。

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「長根浜」の象とライオンと羊と [週末大島暮し]

naganehama1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に「長根浜公園から三原山を望む」写真あり。同公園の為朝顕彰碑は紹介済だが、今はゴジラ像、中村彜(つね)像などがあり、水着混浴露天風呂「浜の湯」、道路向こうに食堂・プール併設の「御神火温泉」がある。

 この写真で眼についたのが赤屋根の東屋。公園から野田浜へ向かう「サンセットパームライン」沿いに同じような東屋が幾つかある。同ライン開通は「黒潮小屋」竣工時と同じく「島の新聞」に大仰な見出しで報じられていた。「世界第二の人口を誇る大東京六百万人の健康と行楽のためのハイキングコースとして開通」。なんと昭和12年開通で、昭和38年の大島循環道路開通より26年も前のこと。この絵葉書は昭和25・26年噴火後のもの。その当時からこの東屋は建っていて、前回紹介の縦長写真のアンコさんが寄りかかるのも同東屋の柱だろう。今は「浜の湯」で撤去されている。

 第二に注目は、松林奥の赤い建物。なんだろう。伊豆大島「懐かしの写真集」を見たら「移動動物園を長根浜公園に設置し、象やライオン等、島の人達が普段見ることの出来ない動物を披露した」とあった。ホントかいなぁ。

 調べたら確かにそうで、昭和26年5月に上野動物園「移動動物園」のアジア象「はな子」と雌ライオンが、東海汽船の貨客船「黒潮丸」(昭和22年進水)で大島にやって来て一ヶ月滞在。その間に「はな子」散歩中に脱走騒ぎもあったとか。

 ネットを丹念に探索すると、アンコさんが子象に乗った当時の写真が「東京ズーネット、井之頭自然公園」サイトでヒット。「はな子」は昨年6月末に69歳で長寿全うした。また昭和30年刊の岩波写真文庫「伊豆の大島」に、長根を背景にした草原(公園)に〝羊の群れ〟写真があった。昭和10年の「島の新聞」に動物公園の孔雀と羊の群れの記述があり。動物園から連れて来て撮ったのかも知れない。

 なお「長根浜」の名は、眼下の海に突き出た溶岩岬=長根から。室町幕府成立=1338年噴火熔岩で、当時は先端まで大地で、波に浸食されて熔岩だけ残った形とか。ってことは昔は西海岸一帯が200㍍先まで大地だったということか。話題豊富な長根浜公園です。

 現・長根浜公園と云えば「浜の湯」。昭和61年の大噴火で、元町地区の水源井戸の温度が上昇して温泉になったとか。大規模「御神火温泉」に比して「浜の湯」の常連古老らは〝効きが断然違う〟と絶賛。温泉から望む夕陽は絶景だが、振り向けば三原山で、4年前の土石流の痛々しい傷跡(山肌)が、やっと緑になってきた。

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「アンコさん」とジオパーク [週末大島暮し]

anko1_1.jpg 前回記した坂口安吾『消え失せた沙漠』を読むと、門外漢ながら観光施策を考えてしまう。同随筆は三原山噴火の書き出しだが、島の魅力考察でもあった。

「東京から七時間、伊東から二時間の大島だが、風俗習慣がガラリと変わっている珍しさがある。内地を一昼夜特急で走っても、これほど習慣の差のあるところはない」(原文を圧縮引用)

 つまり「三原山(ジオパーク的関心)+アンコはじめの異風習=大島人気」と分析・指摘していた。アンコ風俗、祭神、遺跡出土品、祖先(ネイティブ)、島言葉、古民家、タメトモさん、水事情、酪農などをそれぞれ考察して結論へ。

 「〝旅〟です。大島にはそれがある。それが味わえる。村のアンコたちと噴煙を見ているだけで、旅行者は〝旅愁〟を味わえる。日本にもそんな島があるということ」

ankoyuhi1_1.jpg その指摘通り、大島観光客は急上昇で昭和48年に83.9万人のピーク。同年オイルショックもあってか急降下を開始。それは昭和61年の三原山噴火まで続いて約40万人。離島ブームで少し上昇した平成3年にミニピーク(約46万人。小生ロッジ建造年)。

 後は現在までダラダラ下降線で今は18万人ほど。推移グラフを見ると内輪山から外輪山、そして海まで下る等高線のようであります。(参考:「伊豆諸島・小笠原諸島観光客入込実態調査報告書」「大島町統計資料」)

 現観光施策を部外者の眼でみれば「補助金頼りの格安展開+ジオパーク展開」は〝下降現状の持続可能展開〟のように見える。〝消え失せた異風習〟に代わるものは何か。答えがないのかも知れない。超アイデアが出るか、はたまた自然変化が起こるか。それまでは観光客減+人口減を併せて、下降線が〝海岸線〟へ迫って行くような気がしないでもない。

 小生は島では外食もせず会食もせず、ただ静かにのんびりと過ごすのが何より。なのに実際はボロロッジのメンテナンス、雑草刈りで疲労困憊になる。ゆえに疲れを癒す夕陽見つつの「浜の湯」がいい。ボロでもマンションにはない木の家の心地よさがいい。静かな夜に見つめる薪ストーブの火がいい。そうか、「昔の絵葉書セット」にはない〝島の三至福〟だなと気付いた。

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「三原山」消え失せた砂漠 [週末大島暮し]

miharayama2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に、二つ折りパノラマ写真「三原山全景」があった。この写真を前に考え込んでしまった。小生が知る風景とはかなり違う。焦げ茶の溶岩、黄色の砂漠。古い絵葉書ゆえの褪色か、はたまた砂漠風に彩色修正が施されたものか。

 本当はどんな色なのかしら。昔の写真を探し見るもモノクロばかり。小生の昭和32年の大島遠足のクラス写真も白黒で、カラー写真は未だ普及していない。

 写真探しを諦めて三原山噴火史を探った。近世では天和4年(1684)~元禄3年(1690)の7年間に渡った噴火。安永6年(1777)噴火。そして260年振りの昭和25,26年(1950~51)大噴火。これで風景が一変した。

miharakako2_1.jpg 当時の様子を坂口安吾『消え失せた沙漠~大島の謎~』(「文藝春秋」昭和26年7月1日号掲載)が書いていた。

 「正月元旦に大島上空を飛行機で通過したとき、内輪山の斜面を溶岩が二本半、黒い飴ン棒のように垂れていただけで、くすんだ銀色の沙漠が広がっていた。(略)いわば海の上へスリバチを伏せたようなケーキを置き、その上に白クリームをかけ、その中央にチョコレートを二本半の線で垂らしたように見えた。火山の凄味はなく、夢の国のオモチャのように美しいものであった」(原文を短くまとめた。以下も同じく)

 「そんな風景が噴火で一変した。三月と四月の大噴火で広い沙漠の半分を熔岩が埋めてしまった。大変なことです。(略)元禄以来二百六十年振りという大爆発。(略)この熔岩が風化して再び沙漠になるには百年か二百年もかかるのだろうか。とにかく三原山といえば沙漠が名物であったが、その沙漠が昭和二十六年(1951)に失われて熔岩原となった。今後は熔岩原が三原山の新名物で、再び沙漠が名物になるには百年もかかるとすれば、これは一つの歴史的爆発に相違ない」 改めで同随筆題名は「消え失せた沙漠」。またこの絵葉書もそれ以後の製作とわかる。

 三原山はその後、昭和32年(1957)に爆発し、昭和61年(1986)11月15日に火口噴火。一週間後に〝割れ目噴火〟で溶岩が元町まで迫って同21日に全島民が島外避難。

 小生が知っている三原山・表風景は平成3年から。平成8年(1996)秋に火口周辺まで開放されて遊歩道が開通。その時に〝陶芸の野焼き〟をし、遊歩道を歩いて火口を覗いた。

 三原山は噴火の度に景色を変えていると改めて知った。15日が全島民避難の大噴火から31年目。噴火は40年周期とも。次に島へ行ったら「火山博物館」を訪ねて、昔の三原山の様子を、また今後の心構えをしておこうと思った。

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「橘丸」船も島も有為転変 [週末大島暮し]

tatibanamaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」より五枚目は「橘丸」。煙突の流線型が特徴か。愛称〝東京湾の女王〟。写真は元町港。昭和十年(1935)霊岸島から初就航。岡田堤防完成(昭和十五年)まで交通船が沖合まで往復。

 昭和十三年に海軍徴傭で病院船に。同年に中国軍襲撃で浅瀬座礁・横転。仮修理後に日本で本格修理。翌年解傭で東京湾汽船に復帰。だが観光客少なく日清汽船へ傭船も、「葵丸」が乳ヶ崎で座礁・沈没(昭和十四年十二月)で、再び大島航路に復帰。

 昭和十八年、陸軍徴傭で病院船。「橘丸事件」(病院船ながら部隊、武器輸送で千五百人捕虜)。戦後は復員船。昭和二十五年二月に東海汽船・大島航路に復帰。昭和四十四年「かとれあ丸」就航で神津島・式根島航路へ。昭和四十八年「さるびあ丸」就航で引退。

ensoku.gif なんと波乱の〝船歴〟よ。小生は昭和三十二年(1957)に中1の秋の大島遠足で「橘丸」に乗っている。記憶皆無も背景は三原山、両脇にアンコさんのクラス全員写真。

 町史をみれば第一回椿まつり、小涌園ゴルフ場完成、波浮港大火(十六戸焼失)の翌年。遠足年の十月に三原山噴火で火山弾で一名死亡、重軽傷五十三名。そして遠足翌年が三原山・山津波(狩野川台風)で元町五十五戸全壊。本当にそんな時期の災害の間隙をぬった遠足だったかと首をひねるも写真記録に間違いはなかろう。

 船のみではなく、大島も波乱の連続だな。〝自殺名所〟という変な要素を含んだ三原山人気、離島ブーム、元町大火も凄く、全島避難を含む幾度の三原山噴火、土石流などの大災害など。今は観光客減、人口減に直面しているか。小生もフリーランス人生で仕事は荒波サーフィンの如しも、平成三年に島ロッジを建てるとは思ってもいなかった。

 振り返れば島へのアクセスも激変だった。羽田発YS-11、ジェット機B737-500、双発機DHC8-300。調布発のアイランダー機。船は夜発の大型船「かとれあ丸」「さるびあ丸」。それでは愛犬同伴が厳しく車で熱海発「シーガル」へ。今はジェットフォイル艇。空便はジェット機に備え空港大拡張も、利用者少なく羽田便消滅。

 船史、島史、アクセス史、ついでに我が人生も「有為転変」。明日のことは誰にも分らず。今をそれなりに一生懸命生きること~。

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「行者窟」伝説に満ち満ちて~ [週末大島暮し]

bakinbun1_1.jpggyoujyakutu2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」から、次は「行者窟」。小生、島通い27年も未だ訪ねず。この機会に〝役小角〟も少しお勉強。

 まず馬琴『椿説月張月』を読んでいたら、「行者堂」言及の一節あり。江戸の読本なれど楷書版字で実に読み易い。その一節を原書通りに筆写してみた。

 伊豆國は、いにしへより罪人を流さるゝ地なれど、大嶋へは文武天皇元年、役小角を配流されし、これはじめ歟(か)。その以前の事傳らず。今も小角が往ける嵒窟(いはや)、泉津といふ村にあり。嶋人これを行者堂と称して、常に詣るとなん。

 役小角(えんのおづぬ)のお勉強に藤巻一保著『役小角読本』を読む。信頼できる史料は死後百年後の797年刊『続日本紀』と822年『日本霊異記』のみとか。その『続日本紀』も史実は一節。

 丁丑(ひのとうし、文武三年〝699〟五月二十四日)、役君小角、伊豆嶋に流される。初め小角、葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師なりき。後にその能を害(ねた)みて、讒(しこ)づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に配(なが)さる。

 次から早くも伝聞。「小角能く鬼神を使役して、水を汲み薪を採らしむ、若し命を用いずは、即ち呪を以て縛る」 史実はそれだけ。しかも亡くなって百年後の記述で、どこまで信用していいのやら。史実はこれにて終了。折角ゆえ〝虚構〟も少し遊んでみる。

 没後、約八百年の室町末期に、一冊にまとめられた最古の小角伝『役行者本記』あり。著者は同記より経歴を要約。舒明六年(634)、葛木上郡茅原(現・奈良県御所市)生まれ。父は高賀茂十十寸呂(たかかもとときまろ)、母・白専女(そらとうめ)。賀茂氏の氏神・賀茂大神の祭祀、呪術を司祭する家系。

 十代、二十代は家職の知識習得。その合間に山に籠って修行。三十代に入ると人間界の一切を捨て、山中籠居で過酷な仙人修行。日本最初の神仙道家になる。山に籠って三十年余の文武二年(698)、朝廷が全国各地に鉱物資源調査を命じる。朝廷のお膝下の大和國調査に小角に白羽の矢が立った。小角は命を断って朝廷の怒りを買った。捕縛の内通者が弟子の韓国連広足。かくして文武三年(699)に伊豆大島へ配流。

 絵葉書の「行者窟」で昼は修業し、夜は富士山へ飛んだそうな。二年後の大赦で故郷・茅原に帰り、以後は諸国の峰々を巡ったので、各地の霊山幽谷に行者の足跡が残された。著者は巻末に全国99カ所の霊地を紹介。小生自宅近くの高田馬場「穴八幡」の別当「放生寺」にも、子犬が潜れるほどの窟に〝役行者〟由来が記されていたりするから、窟=役小角と思っても過言ではないかも。

 さて島の「行者窟」は間口16m、奥行24目m。本人作と伝わる像もあり。都指定旧跡。毎年6月15日の「行者祭」は無形民俗文化財。島内外の信者が「護摩供養」をし、十年ほど前までは洞窟手前の浜で地元・泉津小の子供らの奉納相撲もあったとか。平成三年より落石危険で行者窟への道は交通止とか。

 今、行者窟へ行けば、配流699年から現2017年までの1318年の時空を一気に飛ぶことになる。そう、ここから富士山へ飛ぶなんぞは朝飯前のこと。大島は伝説の島と改めて認識です。

 追記:「大島公園」から下って海岸遊歩道へ。「サンドスキー場」跡の先が行者浜で、平成6年(1994)に「行者海岸トンネル」(500㍍)が開通。トンネルを抜けると「海のふるさと村」。緊急時や職員用トンネルらしいが、車は通れぬも自転車走行の写真が幾点もアップされていた。自転車は可らしい。島は狭いが、知らない場所も多い。

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「源為朝」を神田の茶店で~ [週末大島暮し]

hatimanjinjya_1.jpg 前回の続き。「神田古本市で『保元物語』を探そう」と思った。岩波書店刊の日本古典文学大系『保元物語 平治物語』を200円で入手。近くのタリーズ店でコーヒーを飲みつつ頁をひも解いた。

 「此為朝をば首を刎らるべきか、禁獄せらるべきか、如何有べきと様々也けるに~」。「遠流にてこそあらめ」とて、伊豆の大嶋へ流しつかはさる」。そして「以後弓を引せぬ様に相計べし」。かくして左右の腕をのみにて打放てぞ抜たりける。 

 「伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人共せず。思様に振舞ければ、預(あづかり)伊豆国大介、狩野工藤茂光もてあつかひていかゞせんとそ思ひける」 ここで終わっていた。何度も読み返したが、為朝の記述はここで終わっていた。

 同書は「金毘羅宮所蔵本」で、後に多くの流布本が出た。同書には小活字で付録「宮内庁書陵部蔵本『古活字本 保元物語』も収録。それを読むと、為朝が湯屋で真裸のところを捕まって「伊豆大島へながされけり」と出てきた。すでにフィクションが膨らんでいる。まぁ、そこから読んでみる。

 「我清和天皇の後胤として八幡太郎の孫なり」と大島を菅領し、五島をうちしたがへし。十年過ぎ、白鷺が飛んで行くのを見てはや船をだして鬼ヶ島へ。彼らを配下に。これを聞いた後白河院がおどろいて茂光に命じ五百余騎、兵舟二十余を率いて大島へ討伐に」

 だが為朝は、無駄な殺生を嫌って念仏を唱えるが、そこに一陣の舟が迫ってきて矢を射った。沈む舟から兵らが他の舟に移るなどを見て「保元の時は一矢でおほくの兵をころした。あぁ、南無阿弥陀仏」と唱えながら家の柱を後ろに腹をかき切った。「つゐに本意をとげず三十三にして自害して、名を一天にひろめけれ」で終わっていた。

tokyokokurituhaku_1.jpg そして『保元物語』から587年後、江戸は文化4年に馬琴『椿説弓張月』。「保元物語」の優れた武将・為朝の末路が甚だ悲惨だとして、大島で死なず琉球に渡って大活躍の椿説=珍説物語を創作。これが大当たり。浄瑠璃、歌舞伎、簡易読物、錦絵などになって大普及。馬琴の勧善懲悪、道義心、士気高揚を為政者らも利用したりで、大島の「為朝顕彰碑」もその一つかも。

 なお馬琴『椿説弓張月』最後に「為朝神社并南嶋地名辨畧」の項あり。全国の為朝神社が挙げられていた。大島に関しては~「和漢三才図会絵巻の六十七、伊豆国の條下に云(いわく)為朝社は大嶋にあり、祭神鎭西八郎為朝云々。大嶋の為朝の社あること、いまだ詳ならず」と記されていた。

 大島・元町の「為朝神社」(頭殿神社)は藤井家の氏神で神事は十月。岡田港の村に「八幡神社」(写真上)あり。同神社の御神体は為朝が配流の際に奉じた「九重の巻物」。「開かずのお箱」に収められ、開けたら眼がつぶれる。毎年1月15日に正月祭。為朝がテコ(梃子)で溶岩を取り除いた縁起から「天古舞」が奉納されている。

 写真下は『椿説弓張月』より国芳描く「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(東京国立博物館蔵/研究情報アーカイブスより)は、為朝が清盛を討つべく水俣の浦から船出をするも、荒天で転覆瞬間に讃岐院使者と称する天狗らに救われ、紀平治が抱く舜天丸(すてまる、後に琉球王)も沙魚(わにざめ)に救われる図。

 史実(現実)はさておき、戯作者も絵師も長屋の庶民も〝想像力豊かな世界〟を共有して愉しんでいる。これを〝飛んでいる〟と解釈すれば、次の絵葉書「行者窟」へ入りやすい。

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「源為朝碑」伝説の大島 [週末大島暮し]

tametomohi2_1.jpg 興味や出会いなしだと、スルーして無知のままの例も多い。昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットに「源為朝碑」と「行者屈」あり。無関心だったが、いい機会ゆえお勉強。まずは「源為朝」から。

 源為朝は保元1年(1156)「保元の乱」の登場人物。後白河天皇方の平清盛、源義朝らが、崇徳上皇の白河殿を襲った乱。上皇方の源為義・為朝父子は、父が打首で為朝は大島に配流。史実としては概ねそこまでか。

 鎌倉時代の承久2年(1220)頃(年代不詳)に作者不詳の軍記物語『保元物語』が刊。「保元の乱」はじめの武勇は詳細記述も、捉えられた後は、弓が引けぬように肘を鑿で抜かれた。「為朝は伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人ともせず」で、伊豆国を預かる狩野工藤茂光も「あつかひかねる」で終わっている。島での暮し、鬼ヶ島などの詳細は記されていないとか。(次回に『保元物語』を読み、この辺を改めて記す)

 江戸は文化4年(1807)になって曲亭馬琴が、武将末路がそれでは気の毒だと、万巻の書を看破して膨らませた『鎭西八郎為朝外伝 椿説弓張月』(挿絵は葛飾北斎)の前篇を刊。計5編29冊。琉球でも大活躍の椿説=珍説、為朝外伝=正史外の物語に仕上げた。

tametomoya2_1.jpg さて、絵葉書「為朝顕彰碑」(現在は露天風呂〝浜の湯〟管理棟前にある)には、何が記されているのだろうか。「町史」によると大正8年建立だが、摩耗して解読できぬが「為朝公の事蹟を世に伝え、英雄の霊を慰め、更には島の男子の雄心を鼓舞するため」の碑文とか。

 島には為朝が祭神の岡田八幡神社、為朝神社あり。その神事を含め椿説・為朝が満ち満ちている。また島の娘と所帯を持った男性を〝為朝さん〟と云うそうな。加えて「役小角」他にも伝説があって、島民はそれらを上手に語れなくてはいけない。

 写真下は北斎の挿絵。為朝が射った一本の矢が、先陣・忠重の討伐船を撃沈する場面。島民にこの画を見せれば、血沸き肉躍る説得力で語ってくれよう。島民は〝大嘘上手〟で誰もが馬琴さん、北斎さんなのだ。(と記し、そうだ神田古本市で『保元物語』入手を、と思い立った)。

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「菊丸」月島桟橋と投身事件 [週末大島暮し]

kikumaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セットの「黒潮小屋」の次は船です。船マニアではないから自信なしも、煙突とマーク、その後ろのアーチ状柱などから「菊丸」と推測した。写真は岡田港で、手前のドロップ(涙)状堤防の内側は漁港かな。

 「菊丸」は昭和4年に就航の759トン。霊岸島~大島~下田、房総航路など。昭和10年に木更津港外で座礁。昭和13年頃に傭船で陸軍船として中国へ。昭和17年より機密津軽防備部隊船として室蘭方面で活動。昭和21年に東海汽船復帰。昭和44年に解体。昭和初期と昭和21~44年に大島航路に就いていたらしい。

 「菊丸」をネット検索したら、小生の記事「辻まこと(3)西木版:もく星号のダイヤ」がヒット。西木正明『夢幻の山脈』で、昭和27年の「もく星号墜落」後に辻まこと・西常雄の両名が、宝石回収に東海汽船・菊丸で竹芝桟橋から大島へ向かった、の記述に、それは間違いだろうと記していた。

 竹芝桟橋船客待合所竣工は昭和28年7月。松本清張著の「遺体は東海汽船の〝菊丸で月島桟橋〟へ帰ってきた」とある。また野口富士男『耳のなかの風の音』は、大島より〝月島桟橋へ帰港途中のK丸〟から実父が身投げした事件の顛末記。辻と西は「月島桟橋」から大島へ向かった、が正しい。

 霊岸島から芝浦桟橋に移ったのが昭和11年。昭和23年3月から月島桟橋で、昭和28年7月に竹芝桟橋になる。昭和初期に霊岸島発「菊丸」で大島へ渡った林夫美子、与謝野晶子、漫画家集団ら多くの文化人が記録を残している。「葵丸」が昭和14年12月に乳ヶ崎海岸で座礁沈没ゆえ、当時のメイン船は「菊丸」。

 時代は遡るが野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』を読むと、同家繁栄を築いたのが母方の祖父・久右衛門で、長男が二代目を継いだが女道楽。東京湾汽船の社長・桜井亀二の娘「菊」と結婚も芸者を落籍。「菊」は離婚し、二代目は信用を失って放浪生活へ。

 その後を潤一郎の伯父(先代の長女の養子婿)が引き受けて手堅く商売していたが、長男が無茶な相場で大損。伯父は大正4年(1915)に、息子の責を負って大島通いの船から三崎沖で投身自殺とか。「菊丸」の前の「豆相丸」だったろうか。

 船は乗客それぞれの悲しく辛い人生も運んでいる。そう思うと、船ってちょっと悲しく重い感じもする。

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黒潮小屋とナチスと三原山人気 [週末大島暮し]

kurosiokoya1_1.jpg 池袋西口「古本まつり」で「ジャポニスム」関連書の他に、面白い絵葉書を入手した。「黒潮に浮かぶ伊豆大島」15枚セット300円也。

 制作年の印字なし。何時頃のものだろうか。紙袋に「第五種郵便」。そこから昭和26年~五種廃止の昭和41年までの間と推測した。

 15枚の中で、小生まったくわからぬ「黒潮小屋」(写真)があった。これは何だろうか。島関連のネットで、大島公園の現・椿資料館が「元黒潮小屋」と知った。昔の「島の新聞」をひも解く。昭和十三年八月五日号に「太平洋を望む〝黒潮小屋〟大島公園に新登場」の見出し。

 今では想像もできぬ大仰なリード文に思わず笑った。「世界第二位の人口を誇る大東京六百三十万市民の健康・厚生のための近距離〝海の公園〟として~(中略)~面目も一新しやうと昨年から着々工事を急ぎつゝあったが、三年計画第一期工事中の王座たる山小屋が此のほど竣工したので、その一般的開放披露をかねた落成修祓式が去る一日同所で執行された」

 式次第レポート後に施設説明。「落成したロッジは木造平屋建百五十坪、赤瓦のモダンなコッテージ風の建物で、宿泊料は三十銭、休憩料十銭という大衆向きであるが、ベランダに出れば太平洋の黒潮が一望の彼方に見渡せる雄大な気分をそのまゝに『黒潮小屋』と井上公園課長が命名した御自慢のもの(以下略)」。

 同月廿五日発行号にも注目すべき記事。吉阪正隆氏『(大火の)元町復興計画』の項で記した「日独伊三国同盟でヒトラー・ユーゲント(ナチスの少年組織)一行三十名が、東京聯合少年団数百人と共に九月十八日に来島」の報。この東京少年団のなかに語学堪能の吉阪少年もいたのだろう。

 次に同年三月に大島人口の発表。「大島人口は一萬五百人。女性の方が百三十人多く〝女護の島〟の観を呈していると分析。大島の明日は限りなく輝いていた。

 それを裏付けるように、同記事隣に「春は大島へ、来るぞ!一萬人~」。「六日の日曜日に二千人、八日に東京のデパートガールが押しかけ、十日に東京の理髪業五、六十人を混えた四百名。その他に平日ながら四、五百人づつ流れ込む三原山ゴールドラッシュ。島内はまさにあふれるような超景気」とあった。

 昔の絵葉書「黒潮小屋」からのアレコレでした。島は今も輝き続けているだろうか。

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ジャポニスム22:印象派の政経事情 [北斎・広重他]

 目下、日本ではお粗末政治話題で喧しいが、印象派の裏の政経状況を記した吉川節子著『巴里・印象派・日本』を読んだ。「通説の印象派=官展サロンに対抗、落選画家らの独自展覧会の出品者。批評家がモネ『印象‐日の出』を揶揄して〝印象派〟と命名」。

 著者はその「通説」は大違いと記して当時の状況説明へ。小生も同著を離れて当時のフランス状況をお勉強した。1789年フランス革命。絶対王政から共和制へ。(同年の日本は寛政元年。寛政の改革で浮世絵、戯作、狂歌が締められた。山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦重が財産半分没収、恋川春町は自刃か、大田南畝は狂歌を辞めた)

 だが約十年後に共和制から再び王制復活。以後は紛争続き、1870年(明治三年)に普仏戦争(普=普盧西=プロシア=ドイツ)敗北。第二帝政崩壊で第三共和制へ。ドイツへの賠償金や財政赤字を克服後、1873年に王制派マクマオン元帥が大統領。1879年まで王制志向。未曽有の好景気を迎えるも、美術界は保守派画家中心。

 その最中、1874年(明治七年)四月に印象派第一回開催、会場はパリ・キャプシーヌ街三十五番。モネが前年に同地移住で「キャプシーヌ大通り」を描いて同展に出品。大繁華街での開催だった。

 第一回参加者は三十人。出品作は百七十点。三十人のうち十二人が、なんと官制サロンに同時出品。サロン無監査の年配実力者もいたし、モネは二十四歳で、ルノワールは二十三歳で、シスレーは二十六歳で、女性画家モリゾは二十三歳ですでに「官制サロン」入選済。

 第一回印象派展は通説「官制サロン」反抗・落選組の展覧会ではなかったらしいのだ。しかも好景気に少しでも高く多くを売りたい狙いがあったようで、正式名称も「画家、彫刻家、版画家など美術家による共同出資会社第一回展」。

 入場料1フラン(現在の千~千二百円)。全入場者数三千五百人。悪くない数字。モネ『印象‐日の出』は八百フラン(約百万円)売約など、どの作も高額売値。若く貧しい画家のイメージもない。

 だが翌年にフランス大不況。1879年1月に共和派大統領で共和制確立も金融大恐慌。第一回印象派のお買い上げ作品も暴落。株仲買人ゴーガンは年収三千万の生活を失って画家へ。高額所得者・画家らも低所得者へ。若き印象派の画家らは天才ゆえの貧乏ではなく、実際はバブル崩壊による貧乏画家へ。

 画家らはその後もフランス景気に、また王党派VS共和派(町絵師・北斎好き)に揺れつつ生きる宿命~。詳しくは同著をどうぞ。物事は両面を見ないと真実を見誤るらしい。

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ジャポニスム21:古本市で関連書入手 [北斎・広重他]

boston3_1.jpg 池袋西口・古本まつり初日が十八日だった。以後は連日雨予報で初日に行った。かつて同まつりで全作揃いの広重『狂歌入東海道五十三次』を入手。書道系書棚下に文鎮を見つけてから骨董市で文鎮探しも始めた。

 今回はブログ「ジャポニスム」シリーズ中ゆえに、二十九年前の日仏共同企画でパリと国立西洋美術館共催『JAPONISME』展図録を千円で入手した。ジャポニスム資料として貴重な四百頁。片手で持つも辛い重さ。

 次に三年前のボストン美術館浮世絵名品展『北斎』図録を千五百円で入手。すでに所有のボストン美術館所蔵・肉筆画浮世絵展『江戸の誘惑』図録と併せ揃ったことになる。

 以上が物語る通り、浮世絵名作はことごとく海外美術館が所蔵。当時の日本では浮世絵(錦絵)は紙屑同然扱いで、屑屋から紙漉き所へ運ばれる束一貫目(四キロ)が十銭。それらを林忠正がせっせと欧米で売り捌いた。「ジャパニスム12」掲載の歌麿『鮑取り』三枚続が1050フラン(パリ小市民一ヶ月生活費150フランほど)とか。かくして日本の浮世絵は底をついたが、流失先で画家や工芸家らに大影響を与え、かつ大事にされて海外美術館に収まった。

 永井荷風『江戸美術論』執筆が大正二年だった。欧州の浮世絵人気に、日本画や西洋画を真似した日本油絵作をもってパリ展を開催したのが大正十一年。酷評。振り向く人は皆無。大きな〝勘違い〟。反省もなく、荷風没の二十一年後、昭和五十五年(1980)になって、やっと『ジャポニスム(=浮世絵の影響)」に注目した。日本の画家や美術界は相当に惚けていたと言って過言ではない。

 そんな事も記す瀬木慎一『浮世絵 世界をめぐる』も六百円で入手した。浮世絵全般を要約の函入り吉田暎ニ『浮世絵入門』(昭和三十六年刊)を千円で入手。他に北斎川柳の理解に中野栄三『江戸秘語事典』(昭和三十六年刊)も六百円で入手。

 これだけで相当に重かったが、帰宅後に自転車を駆って四谷図書館で岸文和著『江戸の遠近法~浮絵の視覚』、成瀬不二雄著『司馬江漢』(本文編・作品編)を借りた。「ジャポニスム」シリーズ20回で終了と思ったが、新資料入手であちこちに補足追記遊びに相成候。

 国立西洋美術館「北斎とジャポニスム」展が始まった。入場料1600円で図録が3000円らしい。新たな資料展開があるとは余り思えぬのだが~。貧乏隠居には古本と図書館本相手がお似合いかも。

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ジャポニスム20:北斎の艶本 [北斎・広重他]

hokusaiwa2_1.jpg 〝浮世絵=春画〟イメージ&概念は根強い。小生、内緒だが幾年も前の「池袋西口古本まつり」で絵師別春画(林美一&リチャード・レイン共同監修)を五冊入手。北斎は『東にしき』と『縁結出雲杉(いつも好き)』。

 さて「ジャパニスム7:林忠正とは」で木々康子著『林忠正とその時代』を紹介したが、今回は同著者の『春画と印象派』を読んだ。著者の義祖父が林忠正で〝春画流出の国賊〟を払拭すべくの著作。冒頭「はじめに」を要約する。

 ~春画を欠いて浮世絵は在り得ず、つまり春画を欠いて印象派も在り得ず。なのに〝春画〟は常に隠されてきた。欧州の巨大文化(キリスト教文化)による伝統絵画から脱皮せんと闘っていた若き印象派の芸術家らが、江戸の小市民=町絵師が描いた浮世絵の画力、また大らかな庶民の姿や春画からも、人間性回復の勇気を得たのではないか~、その推理を解き明かしたい、と記して検証・分析に入っている。

 本文紹介はブログ一回分で足らぬゆえ小生の経験を記す。「ヰタ・セクスアリス」? いやそんな秘め事ではない。東京オリンピックを二十歳で迎えた。東京がうるせぇ~ってんで、友人と東伊豆に脱出した。食堂の空き部屋で一週間ほど滞在。店主紹介の村営浴場に通った。納屋ほどの小浴場だが、なんと老若男女で賑わう混浴だった。

 なんとまぁ、大らかだったことよ。昭和四十年の東伊豆から江戸時代を想像すれば、まさに浮世絵で描かれる庶民の光景が展開と思われる。働く男らは褌姿で、夏の女性は下着なしの薄着物。古典落語では庶民長屋の壁が板一枚で、屁さえ隣に筒抜けの滑稽を語っている。弥次喜多が東海道の宿に泊れば、隣部屋の新婚を覗いて襖ごと倒れ込む。春画に襖、障子からの覗き絵が実に多い。武家屋敷裏口からは奥女中相手に〝張形売り〟の行商が出入りした。この辺は法政大総長・田中優子先生の著作に詳しい。まぁ、大らかだった。

 欧州絵画の女性像は〝女神〟限定。宗教神話中心ゆえ花鳥風月は最下位の価値領域。だが産業革命の都市荒廃で自然復興に目覚めれば浮世絵の花鳥風月、江戸庶民のイキイキとした姿があった。美術工芸品は『北斎漫画』の花鳥風月を先を争うように取り込んだ。

 著者は「ジャポニスム12」掲載の歌麿『鮑取り』同ポーズで、ミレーが裸の『鵞鳥番の少女』を描いたと指摘。またゴングール「日記」より「今朝、ロダンとブラックモンと食事。ロダンは全く獣じみた様子で、私のエロティックな日本の作品を見たいと頼んだ」。その絵の細部ひとつ一つに感嘆の声をあげた~の記述を紹介。

 浮世絵は西洋から遠近法(浮絵)を学んだが、春画の局部拡大図法に腰を抜かしたに違いない。眼を剥いたロダンのように。そうか、もっと自由に描いていいんだと。著者は「外叔父・林忠正は浮世絵の画法・画力のみならず、パリの芸術家に花鳥風月を愛でる心、人間の本質の素晴らしさを伝えたかったのではないか」と結んでいた。

 写真は北斎『東にしき』一部。「あれサ、こぞうがおきますよ。そんなにせわしなくせずとも、いいじゃねへかナ」。ちなみに、これら絵や絵本を称して和印、読み和、笑い本、笑い絵、独り笑い、あぶな絵、秘画、秘本、写し絵、鏡絵、勝絵、避火図、会本(えほん)、艶本、猥本、エロ本、好色本、色本、春本、籠底書、埒外本など。(続く)

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ジャポニスム19:北斎のバレ句 [北斎・広重他]

hokusaisenryu.jpg かつて宿六心配著『北斎川柳』を読んだ。上品に育った小生は、余りの下劣さに、こりゃ~眉唾だぁとブログに記すのを躊躇した。いい機会ゆえに確認してみよう。

 永田生慈監修の図版本を読めば、巻末に『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』収録の北斎川柳が二百句ほど掲載。飯島虚心『葛飾北斎伝』にもこんな一文あり。「北斎翁、嘗て川柳風の狂句を好み、名を百姓といひ、秀吟頗多し。実に葛飾連の棟梁たり」。

 永田著『葛飾北斎』(吉川弘文館)にも「北斎は文政六年頃から弘化三年(1823~1846)にかけて娘・栄と共に川柳の『誹風柳多留』に投句し、句選も行うなど本格的に活動。お栄も評を行う力量で発表句は七十四句」。さらにボストン美術館浮世絵名品展「北斎」図版のコラム(鏡味千佳)にも、北斎の川柳号は「卍」句が百八十二句、「万字」句が四句、「百姓・百性」句が二十八句。「カツシカ」句が二句。計二百二十五句と記されていた。

 これで宿六心配著は本当のことと納得した。「宿六さん、疑ってすみませんでした」。ちなみに幾つかの句を紹介してみる。~いゝのいゝのを尻で書く大年増/其腰で夜も竿さす筏乗り/まじまじと馬の見て居る麦畑/立ちながらこそ細布はおつぱづれ/擂粉木をきぬたに寺の秋牛房/指人形も居敷から手を入れる/この翁とうとうたらり水っ鼻/無理口説き大根おろしで引きこすり/間のわるさ月の影さす夜蛤/弱よく強を刺レマア寝なんしょ/婚礼を蜆ですます急養子~などなど。

 宿六著の解説をうろ覚えで記せば「立ながら~」は立ってイタす時の滑稽姿。「寺の秋牛房~」は坊主の逸物。「夜蛤」は夜鷹のこと。「馬の見て居る~」は麦畑でイタしている時の光景。性を大らかに笑っているエロ川柳=バレ句=破礼句=艶句ばかり。小生も読み解こうとしたが「江戸の秘語・隠語事典」なくしては解釈できなかった。

 画業には厳しい集中力が求められる。北斎と娘・お栄は、こんなバカ川柳を作っては笑い合って息を抜いていたのだろう。偶然だがお栄さん(応為)の肉筆画に素晴らしい『月下砧打図』あり。北斎の〝わ印〟も、そんな川柳に通じていたのだろう。

 北斎艶本の林美一&リチャード・レイン共同監修の解説を読むと「彼の艶本は文化十一年~文政四年(1814~1821)制作で、欧州で話題騒然の〝タコに犯された海女〟も文化十一年『喜能會之故真通(きのえのこまつ)』の一作、と解説。

 艶本制作期が北斎五十四~六十一歳の頃で、バレ句は六十四歳~八十七歳頃。まぁ、北斎の絶頂期じゃないか。こうなってくると北斎の〝わ印〟にも注目しなければいけないだろう。「ジャパニスム」とは関係なさそうだが浮世絵は町絵師=庶民(北斎は特に貧乏だった)の体制への反抗心、自由、自然生活感があってこそ。それが欧州画家らに強固だったキリスト教伝統文化から脱皮する勇気を促した。(続く)

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ジャポニスム18:北斎・遠近法の謎 [北斎・広重他]

mitiwari2_1.jpg 前項で北斎『〝浮絵元祖〟東都歌舞岐大芝居之図』の遠近法が、歌川豊国を真似ただけとわかった。同右画面の透視線が消失点に集中していたのに、左画面の透視線がズレて(消失領域)いるのは何故だろうか。

 さて、もうひとつ注目の北斎の遠近法が『北斎漫画(三編)』の見開き頁にあった。右図は「三つわりの法」(写真上)。画面縦横三等分の線と透視線が二本。黄金比に近い矩形で左右対象構図。北斎文字は「ここにて三寸のたかさにかゝんときハ」「二ツを天とすべし」「一ツを地となす」。北斎は後にこの構図で『富嶽三十六景・深川万年橋下』を描いた。

 解せぬが左頁図(写真下)。木が約4:6で左寄り(靑線)、建造物透視線(赤線)、帆船らしき船が浮かぶ水平線(緑線)。北斎文字は「間のすじにあわせてかくべし」「かくのごとし」と読める。この図は明らかに左右非対象を主張しているような気がする。

hokusaihitaisyo.jpg この両図はオールコック『日本の美術と美術産業』(日文研データベースで閲覧)に銅板模写で紹介されていた。同著はロンドンで明治十一年(1878)に刊。北斎とは記されぬまま日本の遠近法として紹介されたか。

 この左右非対象図をよくよく眺めれば、どこか異国風ではないか。沖の帆船、人物の帽子やコート姿はオランダ人のシルエットっぽい。北斎は、この図をオランダ資料を見て描いたような気がしてきた。ならば、その元図はどこにあるのだろうか。

 そしてパリの印象派の画家らは左右対称図には見向きもせず、消失点がズレた左右非対象で奥行きを演出したを風景画を幾作も描いていたような~。

 ならばこの左右非対称図はオランダ~日本~ロンドン~パリ~日本を駆け巡ったように思えて、ちょっと愉しくなってきた。次が北斎のバレ句(艶句)について考えてみる。(続く)

 ★なお、岸本和著『江戸の遠近法』を読んだので、その内容を前項「ジャポニスム17」に大幅追記した。同著は多数の歌舞伎座内図に小生と同じく透視線を引いて詳細考察されていた。

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ジャポニスム17:北斎が学んだ新画法 [北斎・広重他]

hokusaisibaizu.jpg 「ジャポニスム15」文中、荷風文の「(北斎が学んだ新画法は)司馬江漢が西洋遠近法の応用」を引用した。また「彼が司馬江漢の油絵並に銅板画によりて和蘭画の法式を窺い知りしは寛政八年の頃」なる記述もあった。鍬形薫斎(北尾正美)からも勉強したのだろうか。この辺が詳しく知りたくなった。

 荷風『江戸芸術論』、飯島虚心『葛飾北斎伝』に加え、大久保純一『北斎』、永田生慈の『葛飾北斎』他を読む。

 北斎六歳の明和二年(1765)に鈴木春信が多色摺版画=錦絵を創始。この年、司馬江漢が十九歳で春信門下になる。神田の春信の借家に平賀源内が入居。近所の杉田玄白、宋紫石らも在住。錦絵は源内の発案との説がある。安永七年(1778)、北斎十九歳で勝川春章に入門。翌年に平賀源内が没。天明三年(1783)に司馬江漢が「銅版画」制作に成功。

 平賀源内で「おゝ」と気付く。この時代は蘭学を通じて西洋文化が入っている。十八世紀前期に中国経由で透視画法が日本に入って「奥村政信」が見よう見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を制作したのが寛保三年(1743)。

 難しく云えば「平行遠近法」から視点を軸にした「幾何学的遠近法」へ。これには江戸中がびっくり仰天で、当時の事件簿に載っているそうな。但し遠景は日本の伝統的絵画の「平行遠近法」が残されていて「共存型」。これは芝居内容を伝えるために意図的なこと。

 そして同世紀後半(明和四年~寛政年間・1767~1801)に歌川豊春、豊国、北尾重政、北尾政美らの浮絵第二世代が西洋から輸入された銅板画を学ぶなどして「浮絵」を改善。具体的には写真のように透視線が消失点ならぬ「消失領域」に集約されるようになった。また遠近法強調に視線を後ろにして遠近空間を広くしている。

 北斎は春章入門後の二十八歳、天明七年(1787)頃に、歌川豊国「浮絵 歌舞伎芝居之図」を参考に左右対称一点透視画『絵浮元祖東都歌舞岐大芝居之図』(写真)を描く。※~と記されているが、小生が両図共に透視線を引いてみれば、目線は二階席の高さで、右側透視線は消失点に集中しているが、画面左側は豊国と同じく「消失領域」で視線がやや彷徨っている。北斎が「浮絵を改善」とは言い難く、それで〝浮絵元祖〟はおこがましい。彼の〝てらい〟性なりとわかる。北斎はこの頃から遠近法強調作を描き始めている。

 次に大きな画法習得は、中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保十六年(1731)に長崎に渡来して始めた南蘋派(江戸では唐画)から、色の濃淡でリアル写実(質感)の描き方を学んだ。

 そして銅版画習得へ。その代表作が『銅板 近江八景』や『阿蘭陀画鑑 江戸八景』(文化八年~十一年頃)。これは本物の銅板画(エッチング)ではなく、その描線(ハッキング)を模した作品群。大久保著では年代的及び普及度から司馬江漢の後の「唖欧堂田善の江戸名所銅版画」から学んだのだろうと推測していた。

 ★岸文和著では「(こうした経緯をもって)北斎や広重は〝浮絵という風俗画領域〟から、浮世絵を〝風景画領域〟へ進めた」と記していた。また同著では北斎の弟子・昇亭北寿「東都両国之風景」について、豊春とも春朗(北斎)とも趣を異にしていると注目。これは同著の81年前の荷風『浮世絵の山水画と江戸名所』で「空と水の大なる空間を設けたること(中略)山水画に光線を表示せんと企てたる事なり」と記していた。81年前の荷風洞察の鋭さをまた認識です。

 北斎は弘化五年(1848)の絵手本『画本彩色通』二編末に、腐食銅板画の説明を記しているそうな。なお司馬江漢は江戸の町屋生まれ。源内の鉱山探しに同行した奇人だそうで、ぜひ調べ知りたい人物です。

 次が油絵のお勉強。文化前期・中期頃に油絵風五作あり。石垣模様の縁取りで、ひらがなを横書きした英語風「ほくさいゑがく くだんうしがふち」。九段坂の急なお濠崖が〝板ぼかし〟で重厚な油絵風に仕上げられた作。銅板画と同じく、これも絵手本『画本彩色通』初編に荏油(えのあぶら)の作り方が絵入りで紹介されている。

 写生力、画題の広範さに加えて、これら北斎の西洋画法の試みもあって、印象派画家らから身近な存在として迎えられたようにも思える。次は『北斎漫画』に描かれた不思議な遠近法の謎について。(続く)

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ジャポニスム16:北斎の戯作&画 [北斎・広重他]

tokitaro2_1.jpg 今回は〝おまけ〟で、北斎が「時太郎可候」名で戯作者&絵師で仕上げた『竈将軍勘略巻』の巻末「舌代」文と自画像の模写遊び。

 同作の刊は寛政十二年(1800年)。北斎四十一歳。「戯作者&絵師」は山東京伝が絵師・北尾政寅でもあったように当時は特別珍しいことでもなし。この世で隠居中の小生も、現役期はライター&デザイナーだった。以下、参考原画は国会図書館デジタルデータベース。「漢字くずし方辞典」を久々に紐解いての筆写です。

 舌代 不調法なる戯作仕差上申候(つかまつりさしあげもうしそうろう)。是ニ而(にて)、御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々當年評判すこしもよ路しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(早々=急ぎ書き、不具=気持ちを充分に言い表わせていませんがの意の手紙結文) 十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 参考:鈴木重三校注

 作者名「時太郎可候」の時太郎=幼名。可候=かこう(そうべく、そうろうべく)。北斎が勝川派から離脱して「春朗」から琳派「宗理」改名が寛政七年頃。そして「宗理」を捨てて「可候」へ。「北斎」に至る狭間期で未だ前途厳しく、絵一筋の心持に至らずの「戯作&絵」だったのだろうか。未だ馬琴と大喧嘩をしていない。

 だが自画像を見れば、江戸時代の四十歳らしく?すっかりお爺さん姿。しかし本領発揮はこれからで、相当に奥手(大器晩成)だったと再認識です。

 これでシリーズ終了と思ったが、北斎について知りたいことが幾つも出てきた。北斎は〝遠近法〟をはじめの新画法をどのように身に付けてきたのだろうか。次はその辺を探ってみる。(続く)

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ジャポニスム15:荷風の北斎論Ⅱ [北斎・広重他]

hokusaitera.jpg 荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」の続き。『北斎漫画』については周知多々ゆえ省略し『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』の記述を読む。

 「これら諸作はいづれも文政六年以後の板行せられしものにして、北斎が山水画家としてまた色彩家としてその技量の最頂点を示した傑作品たるのみに非ず、その一は司馬江漢が西洋遠近法の応用、その二は仏国印象派勃興との関係につきて最も注意すべき興味ある制作なりとす」

 北斎の遠近法には快感さえ覚える。またその線は日本画の線を廃し、能ふ限り柔かく細き線を用ひたれば、色彩の濃淡中に混和して分別しがたきものあり。これは浮世絵在来の形式の超越、西洋画の新感化を応用なり、と分析する。

gakyouhaka.jpg 「文政六年歳六十余に初めて富嶽三十六景図の新機軸を出(いだ)せり。北斎は全く大器晩成の人にして、年七十に及んで初めて描く事を知りたりと称せしその述懐は甚だ意味深長なりといふべし」

 次に色彩について。「その色彩は絵画的快感を専らとしたり。天然の色彩を離れて専ら絵画的快感を主にしたるものならずや。(中略)これは色彩板刻から得たものだろうが、仏蘭西印象派の画人らが初めて北斎の板画を一見するや、その簡略明瞭なる色調の諧和を賞するのみならず、あたかも当時彼らが研究しつつありし外光主義の理論と対照して大に得る処ありとなせしものなり」

 それによって印象派の画家は、北斎の山水板画を以て成功したのだろう、とまで言っている。特に富士山の陰影は黒く暗く見ゆるものにあらずの新理論は印象派の主張と一致すると指摘。荷風さん、子供時分から岡不崩に絵を習い、仏語の北斎論も読み込んでいるだろうから、その観察眼・指摘を侮ってはいけない。

 写真は三年前の春、自転車で元浅草・誓教寺の北斎お墓を掃苔して撮ったもの。1893年(明治二十六年)にも書肆・逢枢閣主人で浮世絵商の小林文七が、写真師・小川一真を伴って写させている。飯島虚心『葛飾北斎伝』にも載ってい、また「これを欧州に贈りたる」とあるから、林忠正の手を通してゴンス、ゴンクールの手にも渡ったのだろう。

 写真家・小川一真については「青山・外人墓地」シリーズの「荷風と下水道とバルトン」や「凌雲閣設計と写真とバルトン」に登場済。彼はまたフェノロサや岡倉天心との関係あり。(続く)

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ジャポニスム14:荷風「泰西人の北斎」 [北斎・広重他]

kafuedo1_1.jpg 今回は永井荷風『江戸芸術論』の「泰西人の見たる葛飾北斎」を読む。荷風はまず日本人による優れた北斎評がないのを歎く。

 「泰西人の北斎に関する著述にして余の知れるものに仏国の文豪ゴンクウルの『北斎伝』。ルヴォンの『北斎研究』あり。独逸人ペルヂンスキイの『北斎』。英吉利人ホルムス『北斎』の著あり。仏蘭西にて夙(つと)に日本美術の大著を出版したるルイ・ゴンスはけだし泰西における北斎称賛中の第一人者なり。ゴンスは北斎を以て日本画中の最大なるものとするのみに非ず、恐らく欧州美術史の最大名家の列に加ふべきものとなし~」

 まぁ、日本人の情けないことよ。日本では1893年(明治二十六年)の書肆・逢枢閣を営む浮世絵商・小林文七から出版の飯島虚心『葛飾北斎伝』くらいか。だが同書を読めば経歴・逸話を集めた書で、北斎絵画評ではなし。同書は鈴木重三校注で岩波文庫刊。原文はARC古典籍ポータルデータベースで読める。

 ★追記:荷風さんが同著執筆は大正二年(1913)、没年は昭和三十四年(1959)。日本の美術関係者が「ジャポニスム」に注目して執筆開始は昭和五十五年(1980)前後から。日本の画家はじめ美術関係者の眼と頭は相当に惚けていたと言っても過言ではなさそうです。

 さて、荷風さん改めて「そもそも何が故に斯くの如く(北斎が)尊崇せられたるや」と分析・考察。北斎称賛要素に「堅実な写生力」と「画題範囲の浩瀚無辺」を挙げた。

 まず写生について。日本画古来の伝統法式ではなく、その円熟の写生が泰西美術の傾向と相似たる所で、その写生力が泰西鑑賞家らにとって「初めて日本画家中最も己に近きものあるを発見し驚愕歓喜のあまり推賞して世界一の名家となせしに外ならざるなり」

hokusaiden1_1.jpg その写生力は観察力の凄さ。印象派と同じく性格の表現に重きを置かんとして、人物禽獣は飛躍せんばかり。彼は浮世絵、琳派、狩野の古法、支那画、司馬江漢に西洋画を学んだが〝写生の精神〟は始終変わらず。老いてなお、観察はさらに鋭敏にその意気いよいよ旺盛。この点において北斎は寔に泰西人の激賞するが如く不覊自由(ふきじゆう)なる独立の画家たりといふべし。

 次に画題範囲の浩瀚無辺について。筆勢の赴く処、縦横無尽に花鳥、山水、人物、神仙、婦女、あらゆる画題を描き尽せしもの古来その例なし「一驚せざるを得ざるべし」と記す。

 さらにその制作は肉筆、板刻の錦絵、摺物、小説類の挿絵、絵本、扇面、短冊、図案等各種に渉りてその数夥しい。そのなかで泰西人称美の第一は『北斎漫画』などの絵本、第二は『富嶽三十六景』『諸国瀧巡り』『諸国名橋奇覧』等の錦絵。第三は肉筆掛物中の鯉魚幽霊または山水。第四は摺物なり。長くなったので区切る。写真は岩波文庫『江戸芸術論』(全集では第十四巻収録)と飯島虚心『葛飾北斎伝』。(続く)

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ジャポニスム13:荷風の風景画論 [北斎・広重他]

hirosiryogoku1_1.jpg 永井荷風の著作を読むと『絵本江戸土産』や『江戸名所図会』を愛読していたことがわかる。小生の古文書講座の初受講教材が、広重『絵本江戸土産』だった。そこから自習で西村重長版『絵本江戸土産』や長谷川雪旦『江戸名所図会』で〝崩し字〟勉強を続けた。

 池袋古本市でボロボロながら全作揃いの広重『狂歌入東海道五十三次』を入手し、狂歌解読の遊びもした。それらに関する荷風『江戸芸術論』より「浮世絵の山水画と江戸名所」を読む。

 浮世絵は風俗俳優の容姿を描くを以て本領としたが、時代の好尚(趣向・流行)や画工技能の円熟によって背景・遠景図が発達して山水風景画に至った。西洋画も人物背景から風景画へ発展は同じ。かくして葛飾北斎や広重の二大家が現れて江戸平民絵画史の掉尾を飾った、と説明。

 ここで荷風さん、天明年間の江戸に勃興した〝狂歌〟の影響が無視できぬと指摘。「江戸名所を課題とする狂歌の流行は、江戸名所の風景に対する都土人の愛好心を増進した。それと共に画工の風景に対する観察を鋭敏ならしめた。狂歌は絵本と摺物において、よく浮世絵の山水画を完成せしめた。(中略)天明寛政の平民美術についてはその勢力隠然狂歌にありしといふことを得べし」。この辺は「ジャポニスム」には負えぬ江戸の奥深さだな。

 「北斎も狂歌全盛の時代に出で〝浮絵〟の名所絵に写生の技を熟練せしめたる後、寛永八年頃より司馬江漢につきて西洋油絵の画風を研究し、これを自家特有の技術を加えて北斎一流の山水をつくり出せり」※浮絵=西洋の透視画法を用いて遠近法を強調して描いたもの=くぼみ絵、遠視画。奥村政信~歌川豊春にその作品が多い)

 荷風が記す北斎の山水画を制作順に記すと絵本『江都勝景一覧』(1799年・寛政十一年)、『東都遊』(1802年・享和二年)、『山復山』(1804年・文化元年)。次第に腕を磨いて『隅田川両岸一覧』(1806年・文化三年)へ。北斎の名所絵本はいづれも狂歌の賛をなしたるものにして、後年の『富嶽三十六景』(1823年~・文政六年~)、『諸国滝巡り』(1833年~・天保八年~)、『諸国名橋奇覧』(1833年~・天保六年~)へ至ったと説明。

 小生はこれらを所有せぬゆえ「国会図書館デジタルライブラリー」閲覧で確認した。『隅田川両岸一覧』は一作にほぼ二首の狂歌入り。『江都勝景一覧』は一作に四首ほどの狂歌挿入、『山復山』は「絵本狂歌山満多山」で各作に狂歌がびっしり挿入だった。「北斎の精緻なる写生は挿入せしその狂歌と相俟って、見るものをしておのづからその時代の雰囲気中にあるの思をなさしむ」

 一方、広重の山水画は『名所江戸百景』『江戸近郊八景』『東都名所』『江都勝景』『江戸高名会亭尽』『名所江戸坂尽』そして狂歌入りを含む『東海道五十三次』など。絵本は『江戸土産』(十巻)、『狂歌江戸名所図絵』(十六巻)など。広重作品についても詳細解説されているが、ここでは省略。

 荷風さんは北斎と広重の比較を「北斎は美麗なる漢字の形容詞を多く用ひたる紀行文の如く。広重はこまごまとまたなだらかに書流したる戯作者の文章の如し」と評していた。写真は露出が少なかろう広重『東都名所・両国夕すゞみ』三枚続の一枚。

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ジャポニスム12:荷風の浮世絵鑑賞 [北斎・広重他]

maroawabi1_1.jpg 「ジャポニスム」最後は、やはり浮世絵の復習でしょう。永井荷風『江戸芸術論』より冒頭章「浮世絵の鑑賞」を読む。

 荷風さん、端から歎いていた。「(帰朝して我邦を見れば)西洋文明模倣の状況を窺ひ見るやに、余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり」。広重や北斎の江戸名所絵で都会や近郊の風景を見つつ、専制時代の平民の生活や悲哀の美感を求めようとするも、西洋模倣ばかりになってしまった。日本人の歴史に対する精神を疑う他にないと~。

 浮世絵は政府の迫害(遠島や手鎖)を受けた町絵師らの功績。「木版摺りの紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。(中略)その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし」(ゴッホは浮世絵の何を見ていたのか!)

 油絵の色や筆致に画家の強い意思や主張があるのに比し、木版摺の色彩には専制時代の人心の反映だろう、その頼りなく悲しき色彩に哀訴の旋律が秘められている。絵師は日当たりの悪い横丁の借家で、畳の上で両脚を折り曲げ、火鉢で寒を凌ぎ、廂(ひさし)を打つ夜半の雨を聴きつつ、そんな虫けら同然の町人によって制作されたもの。

 ここで浮世絵技法の歴史を辿り「鈴木春信が初めて精巧なる木版彩色摺の法を発見。その錦絵には板画の優しき色調がある。比して肉筆画は朱、胡粉、墨等の顔料がそのままで生硬(せいこう)なる色彩の乱雑を感じる」 荷風反骨の独壇場へ続く~

 「官営の美術展覧場に厭しき画工ら虚名の鎬(しのぎ)を削れば、猜疑嫉妬の俗論轟々として沸くが如く(中略)~独り窃に浮世絵を取出して眺むれば、あゝ、春章・写楽・豊国は江戸盛期の演劇を眼前に髣髴たらしめ、歌麿・栄之は不夜城の歓楽に人を誘い、北斎・広重は閑雅なる市中の風景に遊ばしむ。予はこれに依って自ら慰むる処なしとせざるなり」

 最後にこう締めくくる。「浮世絵の生命は実に日本の風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外に輸出せられたり。悲しからずや」 これ、大正二年正月の文章。荷風さん三十四歳。慶応義塾大学文科教授で「三田文学」編集の時。その三年後に大逆事件の囚人馬車が走る光景を見て、戯作者にまで身を沈めると隠棲生活に入った。

 ちなみに遠島は英一蝶、手鎖五十日の刑は喜多川歌麿、月麿、勝川春亭、勝川豊国ら。戯作者では山東京伝(絵師名は北尾政寅)と十辺舎一九も手鎖五十日の刑で、恋川春町は自刃し、蔦屋重三郎は身代半減の刑など。

 写真は荷風同著「ゴンクウルの歌麿及北斎伝」でも詳細説明の歌麿「鮑取り」の三枚続の一枚。裸(肉体)輪郭線が墨ではなく薄い朱色がニクイ。(続く)

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ジャポニスム11:北斎とジャポニスム [北斎・広重他]

hokusaimonet2_1.jpg 馬渕明子著『ジャポニスム』最終章が「葛飾北斎とジャポニスム」。まず著者は、開国後の日本紹介に『北斎漫画』が好んで活用されたと記す。

 当初は北斎の名も知らずに使用だが、その名の初登場は英国人評論家が1865年(慶応元年)の日記に「二冊の北斎の本を買った」の記録あり。そして1868年の新聞各紙の美術記事に詳しく紹介されるようになって、同年記事に「画家クロード・モネは北斎の忠実なライバル」なる記述があったとか。

 北斎の絵がどう使われたか。最初は『北斎漫画』の動植物図(モチーフの宝庫)が、絵付け陶器の装飾に採用。絵画で最も早く北斎をヒントにしたのがドガ。ドガの絵には『北斎漫画』からのポーズ転用が多いと図版比較例多数。

 小生は昨年二月にブログ十四回シリーズで北斎『悪玉踊り』を女性に描き直して全模写遊びをしたが、冒頭のトンビ・ポーズもドガ『カフェ・コンセール「アンバサドゥール」で歌うベガ嬢』になっているとの図版説明には驚いた。ドガ自身は、そこまで活用しながら、北斎の詳細を知らなかったらしい。

 また『富嶽百景』はバカラ・クリスタルが『竹林の不二』を採用。花瓶や皿へ『富嶽三十六景/神奈川沖裏波』の転用など多数例あり。モネの1865年『サン=タドレスのテラス』は『五百羅漢寺さざゑ堂』の構図、他に『蘆中筏の不二』などの構図ヒントになった作品多数。

 そんな十年程を経て「芸術家・北斎」が次第にクローズアップ。その最初が1880年(明治十三年)のエドワード・S・モース『北斎論~近代日本絵画の開祖』。単行本では1896年(明治二十九年)のゴングール『北斎論』(飯島虚心の著作を林忠正が翻訳して提供)、ミシェル・ルヴァン『北斎試論』(東京帝国大フランス法教師として来日)などでやっと巨匠扱い。(欧州の北斎論については荷風『江戸芸術論』に詳しい)

 また北斎の『富嶽百景』『富嶽三十六景』など、同一モチーフを多角的に捉える試み(連作)も、従来西洋画にはなく、モネの『サン・ラザール駅』や『睡蓮』などの連作を生んだとか。またジャポニスムに無縁だったようなセザンヌも、1890年代には「サント=ヴィクトワール山」連作を試みている。かく北斎は欧州絵画の堅固な伝統からの脱皮に大いに手を貸した、と著者は同書を結んでいた。

 さて著者・馬渕明子をネット検索すると、現在は国立西洋美術館・館長らしく、この十月二十一日より同館で「北斎とジャポニスム」開催。楽しみです。写真は弊ブログ「狂歌入東海道」シリーズの最初に〝ゴッホ筆致の広重〟を描いたので、今回は英泉描く北斎像模写+モネ睡蓮のコラージュ。次回は永井荷風『江戸芸術論』の再読。

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ジャポニスム10:クリムトの場合 [北斎・広重他]

klimt2_1.jpg 再び馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、グスタフ・クリムトの場合をお勉強。著者は「ウィーンでのジャポニスムは、パリに比して神話・歴史を題材の歴史様式が圧倒的に続き、日本美術が入ったのも遅かった。パリ万博六年後の1873年(明治六年)にウィーン万博で、絵画より工芸美術品中心だった」と説明。

 ウィーンは〝いわく〟在り気で、同著を離れて「ウィーンの歴史」を覗いてみれば、やはり十九世紀後半~二十世紀初頭に史上稀な〝文化爛熟=世紀末ウィーン〟があった。当時は「オーストリア・ハンガリー帝国」で多彩な民族性融合国家。従来の帝国体制凋落に従ってコスモポリタン要素を含んだ文化爛熟が盛り上がった。

 シュトラウス、ブラームス、マーラーなどの音楽家。グスタフ・クリムトは1862年(文久二年)のウィーン郊外生まれ。フロイトより六歳年下で、カフカより二十一歳年長。前述ウィーン万博の三年後に工芸学校入学。1879年(明治十二年)ころから弟や仲間と建築系装飾の仕事を開始。

 美術史館の中庭、ストゥラーニ宮殿の天井寓意画、皇妃別荘、劇場内装など。1897年(明治三十年)、アカデミックな芸術団体を嫌った人々で「ウィーン分離派」を形成し、三十五歳のクリムトが会長に就いた。

 その頃の彼は、どんな絵を描いていたのだろう。『ジル・ネレー翻訳画集』を見ると、フロイトの影響もあったのだろう、早くも裸体画中心のエロティスム追及。同年の寓意画「悲劇」を見れば、馬渕著には記されていなかったが、女性を囲む幅広額縁に「龍」が描き込まれていた。美術史館の壁画ゆえ、同館の日本コレクションを参考にしたと推測される。また描かれた女性は娼婦風とかで「分離派」ならではの作品。

 馬渕著では、1890年(明治二十三年)頃から後にウィーン分離派になる若い人々は日本文様(水流、渦巻、立湧、唐草模様、鱗模様、靑海波、家紋など)を多用で、平面化が顕著だったと指摘。

 クリムトと云えば〝金箔〟。その平塗りならば伝統的遠近法を覆す象徴。著者は「それぞれの文化で異なった〝ジャポニスム〟が生み出されるところも面白い」と指摘していた。小生はクリムト晩年の素描群を見れば、版画春画の影響大と思うのだが、いかがだろうか。

 写真は背景に東洋系カットが描き込めれたクリムト作品。モネ「ラ・ジャポネーズ」、ゴッホ「タンギー爺さん」と較べたくなる作だが、モネより四十年、ゴッホより二十九年遅い。

 なおアドルフ・ヒトラーはウィーン美術学校受験に失敗し、ヒトラーより一歳下でクリムトを師としたエゴン・シーレは同校入学で、師と同じく「エロス」を追求。世紀末ウィーンはなかなか奥が深そうです。(続く)

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ジャポニスム8:林忠正とはⅡ [北斎・広重他]

tadamasa1_1.jpg 「忠正の店」「ビングの店」活況で、日本の浮世絵は根こそぎ海外へ流出。「浮世絵の生命は実に風土と共に永劫なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙げて尽く海外へ輸出せられたり。悲しからずや」(荷風)

 当時の日本では浮世絵は庶民のもの。F.ブリンクリーが銀座の夜店で〝紙屑扱い〟の歌麿、師宣らの一枚一銭に十銭払って、店主が腰を抜かしたとか。それがまぁ、パリでは数百フランで飛ぶように売れた。国内価格も跳ね上がって十四、五銭に。

 1888年(明治二十二年)のゴッホの記録では1枚3フラン。それが数年後に250~300フラン。当時のパリの小市民一ヶ月生活費が100~200フラン。それで浮世絵500フランの高値にも。浮世絵バブルだな。

 かくして忠正は巨万の富を得た。一方で浮世絵が欲しいドガ、ルノアールなどには絵と交換か購入で〝印象派コレクション〟を充実。日本で西洋美術館を建てる計画だったとか。

 フェノロサはパリの〝北斎絶賛〟に「彼は町絵師に過ぎず伝統的日本画は~」と寄稿して一蹴された過去あり。しかし1898年(明治三十一年)の小林文七主催「浮世絵展」カタログに「浮世絵は中国の影響を受けた官学派の絵画と違い、純粋に日本の風土から生まれた絵画で、その版画は最古の傑作」と立派な浮世絵解説を記したとか。

 1889年、日本では洋風画家らが「明治美術会」を発足。忠正も賛助会員になって、多額の寄付とコレクションを参考作品として展示。また黒田清輝をラファエル・コランに紹介。黒田は帰朝後に「明治美術会」出品で認められるようになった。

 1891年(明治二十四年)、ゴングール『歌麿~靑楼の画家』を刊。1896年に『北斎~十八世紀の日本美術』を刊。忠正は日本資料の仏語翻訳で協力した。しかし次第にブームは低迷。忠正はシカゴ万博などに参加も不成功。1900年(明治三十三年)のパリ万博の事務官長就任。仏国政府、日本政府から受勲。

 これを機にパリの店仕舞い。「売り立てカタログ」は三冊。1905年に帰国。現・新橋演舞場の二千坪の地に自邸を建てたが、翌年に五十二歳で没。印象派コレクションを帝国博物館で引き取るよう望むが、印象派の価値が認められずニューヨークで競売になる。

 長くなったので荷風『江戸芸術論』の引用で終わる。~林氏は尋常一様の輸出商人にあらざることを知るべし。千九百二年巴里において林忠正はそが所蔵の浮世絵並に古美術品を競売に附するに際し浩瀚なる写真版目録を出版せり。この書今に到るもなほ斯道研究者必須の参考書たり。林氏は維新後日本国内に遺棄せられし江戸の美術を拾ひ取りてこれを欧州人に紹介し以て欧州近世美術の上に多大の影響を及ぼさしめたる主動者たりというべきなり。

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ジャポニスム7:林忠正とはⅠ [北斎・広重他]

tadamasa2satu_1.jpg 印象派の画家らが「ジャポニスム」熱中のパリで、日本美術品を売る「ビング」と「林忠正」の店~と記した。そこで今回は「林忠正」について。木々康子著『林忠正とその時代~世紀末のパリと日本美術』、定家武敏著『海を渡る浮世絵~林忠正の生涯』両著より、林忠正とは~を要約してみる。

 林忠正は1856年(安政三年)高岡生まれ。生家はオランダ医学を修めた外科医・長崎家。十四歳で林家・養嗣子になって林忠正。上京してフランス語を学び、翌年に貢進生で南校入学。その後に廃藩置県かつ養父失脚で藩費喪失。新川県の給費生で東京開成学校へ。1878年(明治十一年)、大卒直前だったが二十四歳で四度目のパリ万博出店の起立工商会社(政府出資)の通訳募集に応募して渡仏。

 同社背景には、弊ブログの「岡倉天心、フェノロサ」関連で幾度も登場の「瀧池会」の存在あり。「日本美術で輸出増加を図る」趣旨で設立。パリ万博の初参加は1867年(慶応三年)。この時に出品の浮世絵が若い印象派の画家らを虜にした。

 浮世絵はそれ以前に、1856年(安政三年)に日本から送られた陶器の詰め物に「北斎漫画」があって、版画家ブラックモンが注目。それをマネ、ドガ、ホイッスラーらに見せ回った。または1862年(文久二年)にモネがル・アーブル港の着荷の中から日本の色刷り版画を見つけた等々の諸説あり。

 林忠正に話を戻す。パリ万博終了と同時に解雇。フリーの通訳になる。日本からの警察制度調査の大警視一行の欧州視察の通訳、有栖川親王の欧州御巡回の通訳などで存在感を得る。そこに起立工商の副社長・若井兼三郎(瀧池会の主要会員)がパリ支局の立て直しに来て、忠正に共に働くよう要請。立て直しが成功し、本社機構の改革を訴えるが叶わずで若井、忠正共に退社。

 忠正は1883年(明治十六年)にパリの下宿で美術店を開業。経営順調のなか、翌年に若井がパリに戻って「若井・林カンパニー」設立。今度は若井が日本で大量の美術品を仕入れてパリへ発送、忠正が売り捌くシステム。忠正は英国・米国まで販路を拡大しつつ、次第に古美術鑑定眼と知識を増し、各国美術館の顧問も務めるようになった。

 1886年(明治十九年)、林忠正は仏国有力紙「パリ・イリュストレ」の日本特集号の全編を仏文執筆・編集。忠正の存在・評価が高まった。やがて若井とも別れ、独立してパリ都心に店を構えると、たちまちに地下~四階の店舗拡大。忠正が海外で売り捌いた浮世絵はン十万枚とか。他に巻物、絵本、肉筆画、屏風など膨大。日本の浮世絵が根こそぎ海外流失。日本での仕入れは妻・里子はじめの東京陣営が担当したとか。(続く)

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ジャポニスム6:ゴッホの場合Ⅱ [北斎・広重他]

tanemakuhito2_1.jpg さて、ゴッホの「ジャポネズリー」が「ジャポニスム」へどう深化したか。

 ゴッホが南仏へ旅立ったのは、浮世絵模写の翌年。アルルの明るい色彩=日本のように美しい光溢るる日出ずる国=色彩の饗宴。ゴッホの心は躍った。

 「もう日本の絵は必要ない。僕は日本にいると思っているから。感銘を与える目の前のものを描きさえすればいいんだ」。『黄色い家』『ラ・クロの収穫』『夜のカフェテラス』『郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像』『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』『アルルのゴッホの寝室』『アルルの跳ね橋』『ひまわり』など三百点余。

 ゴッホは従来画家が成し得なかった鮮やかな色彩、色彩の単純化、大胆な構図、素描の早さ、繊細さ、平面的な色面などを掌中にした。

 だが彼はどう解釈を間違えたか? 日本は決して「南仏のように光溢るる国」ではないし、絵師らは作品交換をする「共同生活者」でもない。彼の胸をときめかしたのは〝大いなる幻想の日本〟だった。

 ここで圀府寺司著『ファン・ゴッホ』他を読む。ゴッホの父は牧師。当時のオランダは「ドミノクラシ―」(牧師支配の状況)で聖職者が文化的指導者。彼も牧師になるべく勉強を始めたが、次第に近代化の波が押し寄せて教会離れ。ゴッホも聖職者を諦めて画家を目指した。当初は炭鉱夫、その妻たち、職工、農夫を描いていたが、パリに出て印象派の洗礼を受けた。そこに浮世絵があった。

 小生はやはり、こう思う。ゴッホは「聖職者・伝道師」への〝激しい情熱〟を「浮世絵・日本」への想いに〝すり替え〟た。その結果、彼のジャポニスムは絵画に収まらず、〝幻想の日本〟へ精神丸ごと入れ込んだ。彼は仏僧にも憧れたが〝隠棲〟を知らず、〝陰翳礼讃〟を知らず、〝粋〟を知らず。さらに云えば浮世絵の肉筆画とは違う〝木版画特有の優しき色調〟(荷風)をも知らず。逆に余りに他者との絆を求め過ぎてゴーギャンとも破綻した。

 1890年(明治二十三年)、ゴッホはパリ郊外の旅館滞在中に拳銃自殺?で享年三十七歳。写真は『種まく人』。その構図は彼が模写した広重『江戸百/亀戸梅屋鋪』に似ている。なお、十月二十四日から東京都美術館で「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」開催とか。日本人はなぜにこうもゴッホ好きか。次は「林忠正」について。

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ジャポニスム5:ゴッホの場合Ⅰ [北斎・広重他]

tangijiisan1_1.jpg ゴッホは1853年(嘉永六年)、オランダ南部生まれ。日本は開国までオランダが唯一の欧州交易国。1837年(天保八年)よりシーボルトの日本資料が民族学博物館に陳列とか。港町には日本からの輸入陶磁器を売る店が随所にあったそうな。

 ゴッホは十六歳より美術商グーピル商会に勤務。二十歳の時に、弟テオが同商会ブリュッセル支店勤務で、ゴッホはロンドン支店からパリ本店勤務へ。やがて大学で神学を学び聖職者を目指そうとするも挫折。伝道活動をするも余りに献身的過ぎて伝道仮免許停止処分。

 1880年(明治十三年)、二十七歳で画家になると決意。1885年(明治十八年)、弟宛の手紙に「大好きな日本の版画コレクションを壁にピンで留めて~」の文言あり。ゴッホがパリの弟の処に転がり込んだのが翌年。折しも日本ブームで、第八回印象派展(最後の開催)を観て仰天した。

 弟は画商仕事で新進画家らとお付き合い。スーラ、ドガ、シスレー、モネ、ピサロを紹介してもらう。交友がロートレック、べルナール、ピサロ、ゴーギャンへと広がる。ゴッホの絵も印象派、後期印象派らの影響を受けて行く。

 カフェ(キャバレー)「ル・タンブラン」の女主人セガトーリを描いた絵には、カフェの壁に浮世絵あり。当時のパリで日本美術品を扱う主な店は、ビングと林忠正(彼の評伝書二冊読了ゆえ後述予定)の店。ゴッホ兄弟はビングの店の版画を委託販売したり、浮世絵展を開催。そして画家仲間との交流の場のひとつが、画材屋のタンギー爺さんの店。

 ゴッホは1887年、林忠正による日本特集の雑誌表紙(英泉『花魁』)を、広重『亀戸梅屋舗』や『大橋 あたけの夕立』を模写。『タンギー爺さんの肖像』もこの頃の作で、背景に多くの浮世絵を描き込んだ。

 タンギー爺さんは、貧乏な印象派の画家らを助ける素朴でユートピア的社会主義者で、ゴッホには日本の僧にも思えた存在。描かれたタンギー爺さんは、仏陀のように正面向きで両手を組んでいる。馬渕明子著では背後の浮世絵を右上が広重五十三次名所図会「石薬師」、右下が英泉「花魁」、頭の後ろが広重の漁網越しの富士山、左上が広重の雪景色、左中が歌川豊国「岩井粂三郎の三浦屋高尾」、左下が伊勢辰「東京名所 以里屋」だろうと解説。長くなったので、ここで区切る。(続く)

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ジャポニスム4:モネの場合 [北斎・広重他]

mondejap1_1.jpg 印象派の「ジャポニスム」を語る上で留意すべきは、伝統的日本画ではなく「浮世絵」ってこと。1883年(明治十六年)、仏国の美術雑誌が余りに北斎を絶賛するので、フェノロサが正統派日本画を紹介したが一蹴されたとか。庶民パワーの浮世絵を見くびってはいけない。

 永井荷風は『浮世絵の鑑賞』でこう記している。~(浮世絵は)圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙りつつしかも能くその発達を遂げたりき。(中略)遠島に流され手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示しその凱歌を奏するものならずや。

 さて馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、今度はモネのお勉強。同著では多数評論家のモネ作品の「ジャポニスム」指摘を北斎、広重版画などと図版対比で詳細説明。ここはブログゆえ要点のみを簡略・箇条書きです。

●モネのジャポニスムは、初期から晩年まで六十年の画歴を通じて見られる。●モネの急速に遠方に退く誇張気味の遠近法も広重に似ている。従来西洋画になかった浮世絵版画の遠近法を採り入れている。

●モネは「空から振る枝」「画面前景に立ちはだかる木」「すだれ効果」「イメージの重なり」「画面の分割構図」「画面に平行な前景の処理」「俯瞰する視点」など北斎、広重に学んだ。

●日本人は自然を彩られた明るさに満ちたものとして捉え、多彩な色調、色彩の明るさで背景を暗くしない。モネは西洋風景画家のなかで最初に色彩の中に溶け込んで行く日本人の大胆な色彩感覚を得た。

●晩年の『睡蓮』連作には、暗示的な芸術性、日本的自然観などを深く理解した結果の現れ。日本美術の自然モティーフを多用した装飾性も認められる。

 この説明に、小生は再び永井荷風の記述を加えたい。●クロード・モネエが四季の時節及朝夕昼夜の時間を異にする光線の下に始終同位置の風景及物体を描きて倦まざりしはこれ北斎より暗示を得たものなりといはる。

m_sanpokasa2_1.jpg モネ作品ことごとくに「ジャパニスム」が認められるならば~。小生が絵を描き始めた2年前秋のこと。モネ展へ行こうとするも余りの大行列で断念し、自室に籠って不透明水彩で簡易模写したこのパラソルの絵だって、浮世絵には傘さす似たような女性絵は沢山ある。これまた「ジャポニスム」と云えなくもない。

 ここで改めて手元のモネ画集をひも解けば「ジャポニスム」の文言一切なし。注目度変遷をネット調べすれば、官邸サイトに辿り着いて興醒めなり。来年の日仏友好160年に「ジャポニスム2018をパリ中心に開催」の推進会議内容らしい。

 また今年十月には国立西洋美術館で「葛飾北斎とジャポニスム」開催とか。馬渕明子著『ジャポニスム』初版が1997年で、最終章が『葛飾北斎とジャポニスム』。それで氏は今、国立西洋美術館館長らしく唸ってしまった。

 写真上はモネ『ラ・ジャポネーズ』(1876年、明治九年)。ホイッスラーの着物立ち姿と似ている。次はゴッホの場合。

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ジャポニスム3:ホイッスラーⅡ [北斎・広重他]

whishiro1_1.jpg 野上秀男『日本美術を愛した蝶~ホイッスラーとジャポニスム」を読む。こんな時代(あらゆる意を含み)の今年一月に、十九世紀末の画家ホイッスラーの評伝書が出版とは。まずは冒頭文。

 ~十九世紀後半、日本美術を初めて知った西洋の画家たちは衝撃を受けた。彼らは浮世絵版画の鮮やかな色彩、繊細な線、独創的な形象のとらえ方、構図などに感嘆したのである。西洋美術における日本美術の影響はジャポニスムと呼ばれ、西洋人画家たちは、その手法を自分たちの作品に取り入れようとした。そうした試みに最も早く取り組んだ画家の一人が、パリとロンドンで活躍したアメリカ人画家、ジェイムズ・マクニール・ホイッスラーであった。

 単行本一冊の評伝ゆえ、前回ブログに大量追記したくなるも、ここは「興味ある方は同書をどうぞ」で省略し、破産後のホイッスラー逸話を同書より簡単紹介。

 名を成せば富豪も注文で、画家は金満になる。邸宅装飾を頼まれて、自邸も建てたくなった。「ホワイトハウス」と呼ばれた外観に、意匠を凝らした室内装飾。1878年秋に入居だが、半年後に経済破綻。作品批判のラスキン相手の訴訟費用もあって邸宅、蒐集してきた日本美術品も競売へ。

kyobasihiro1_1.jpg ホイッスラーさん、めげずにベネチア風景のパステル画を百点、エッチング五十点で負債額に近い収入。富豪らの肖像画もセッセと描いた。1885年(明治十八年)、美術思想と主張を語る「十時の講演」ツアー。企画はオペレッタ『ミカド』のプロモーター女史。

 裁判、経済破綻、講演で再び人気上昇。メンペスとショカートが弟子入り。メンペスは師に内緒で来日し、河鍋暁斎に逢った。暁斎の弟子ブリンクリーとコンドルについては弊ブログ「青山・外人墓地」で紹介済。ホイッスラーは帰国したメンペスから、日本人画家らの話を食い入るように聞いたそうな。弟子の二人は後に英国を代表する画家へ。

 1886年、ホイッスラーは英国画家協会・会長に就任。米国人鉄道事業の成功者フリーアがパトロンになって、作品は高値で次々に米国へ渡った。ボストン美術館を無期休職されて生活苦のフェノロサがフリーアの日本古画購入に助言し、自身が持つ蒐集品も彼に買ってもらったそうな。

 ホイッスラーは1903年(明治三十六年)に69歳で病没。彼の「講演」内容も記したいが、「ジャポニスム」は印象派巨匠らも控えているので終わる。写真は『ノクターン:靑と金色~オールド・バターシー・ブリッジ』と歌川広重『京橋竹がし』。似ているでしょ。

 また、永井荷風はこう記している。「ホイスラアが港湾溝渠の風景の如き凡て活動動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたる事僅少ならず。(続く)

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ジャポニスム2:ホイッスラーⅠ [北斎・広重他]

whistler1_1.jpg まずは最も早い「ジャポネズリー」とも云うべき絵を描いたホイッスラーについて。参考は小野文子著『美の交流~イギリスのジャポニスム』の第2章「ジェームズ・マックニール・ホイッスラーのジャポニスム」。

 彼は米国マサチューセッツ州生まれ。画家を志して1855年(安政二年)渡仏。四年後に英国移住。日本では吉田松陰が伝馬町入獄の年。

 ホイッスラーは英国の「芸術のための芸術=唯美主義」をリード。彼がオリエンタル・ペインティング『陶磁の國の姫君』を描いたのは1864年(文久四年)。同様作は他に『紫とばら色』(中国服モデルが陶磁器絵付けの図)、『紫と金の狂騒狂:金屏風』(大和絵屏風を背に床に座る着物女性が浮世絵を見る図)。

 著者はホイッスラーが日本美術品を見たのは渡仏時代で、入手はロンドン移住後。1863年(文久三年)のオランダ旅行で日本陶磁を購入し、パリの店へも注文していたと推測。当時のパリはリヴォリ街にドゥゾワ夫妻経営の日本・東洋品を扱う店あり。夫人が1862年に日本在住歴ありで、夫と同店を経営。顧客はマネ、ラトゥール、ボードレール、ゴンクール兄弟ら。またロンドンにも東洋品を売る店があったらしい。

 彼はかくしてオランダ、パリ、ロンドンで東洋品(次第に日本美術品)を蒐集し自邸を飾って、英国の日本美術愛好家の芸術家リーダー的存在に。1870年代に<ノクターン(夜景画)>シリーズを開始。その代表作が『靑と金~オールド・バターシー・ブリッジ』。

 同作は広重『名所江戸百景/京橋竹がし』からインスピレーション。その構図、情景印象を僅かな色彩と繊細な色使いで静寂を表現。禅画、水墨画にも通じる作品で「ジャポネズリー」(日本趣味)から「ジャポニスム」へ深化。従来西洋画から完全脱皮した新たな西洋画を構築。

 彼はさらに日本画の技法、溜込(たらしこみ)だけで描いた作品(水彩画かしら)も挑戦。同書のそのモノクロ図版を見て、小生思わず「あっ」と叫んでしまった。同書では俵屋宗達『風神雷神』の黒雲を例に説明していたが、小生は同作より緻密かつ完成度の高い溜込作品を見たことがあったからだ。

 以後は余談入りだが、小生は若い時分に画塾通いの時期があって、師はアル中で絵筆持てず、黄色系顔料をスポイトに吸い込んでポタッ・ポタ~リと大キャンバスに垂らし、具象抽象とも云えぬ風景画を描いていた。

 同書のモノクロ図版『バターシー』から、五十年も前に見た画塾先生の作品群が突然甦ってきた。そうか、先生はアル中なんかじゃなくて〝ホイッスラー〟だったんだと知った。

 ホイッスラーは1879年(明治十二年)に経済破綻。贅を凝らした邸宅、蒐集した日本美術品も競売されたとか。(Ⅱへ続く)。

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