遠足の親御らの笑み四十路越へ [散歩日和]
先日の新宿御苑ウォークでのこと。時期なのでしょう、苑内の彼方此方で小学1年生らしき遠足の光景で賑わっていた。ウチの子も小学1年生の遠足は新宿御苑だった。で、ちょっと腰を抜かすほど驚いた。
遠足に付き添う親御さんらと擦れ違えば、なんと云うことでしょう、皆さま、早や中年の容貌です。あたしらが子供だった時分の母親ってぇのは、容姿も貧富もさまざまなれど、誰もが「若くピチピチしたお母さん」だった。それが母のイメージだったが、擦れ違う親御さんらを横目にする度に、そんな概念がグラグラと崩れて行った。
年増なんてもんじゃなく、皆さんすでに立派な中年。今や晩婚の世。30代半ばで結婚して子を産み、子らが小学1年生になれば、既に40代じゃありませんか。アラフォーなんて言葉が流行っていて、皆さん、それぞれおしゃれにしていますが、すでにピチピチの張りは遠い昔で、人生折り返しに入った容貌です。時代は、日本は、かくも変ったかと考え込んでしまった。
ちなみに内閣府2011年6月発表の「子ども・子育て白書」データでは、2010年の女性初婚年齢は28.8歳。第一子出産年齢は29.9歳。これは全国データだから都心ではさらに高齢になっていよう。あたしが産まれた時分の母らの初婚平均年齢は23歳ほど。
内藤といふ唐辛子苗を植ゑ [花と昆虫]
きのう、かかぁが四谷まで出かけて「内藤とうがらし」の苗をいただいてきた。話を聞くと徳川家康の家臣・内藤家が新宿に屋敷を構え(今の新宿御苑)、彼らの地元の唐辛子を栽培。これが江戸野菜となって内藤新宿から大久保辺りまでの畑が一面に真っ赤になったとか。かくして「内藤とうがらし」。八房トウガラシといふ品種らしい。夏に白い花が咲き、秋に赤い唐辛子が天を向いて実るそうな。
かつて伊豆大島の「アオト」を育てたことがある。島暮しの帰りに苗を持ち帰り、ベランダで育てた。やはり三苗で、たわわに実った。これは一つの実の数ミリを刻むだけで、昇天したくなるほどの辛さ。島では必需品(実)で、時期になれば島の野菜即売所で青い実が売り出される。一掴みほどの実を冷凍保存して、小出しに使えば1年はもつ。さて、内藤とうがらしです。かかぁは実がなったら、来年は種から苗作り・・・と張り切っている。
ちなみに芳賀善次郎著「新宿の散歩道」(昭和48年刊)によると・・・内藤屋敷敷内の畑地では「八房とうがらし」が栽培された。それがもとになって宿場付近で盛んに栽培されるようになり、「内藤とうがらし」と呼ばれて有名になった。さかりのころになると宿場周辺から大久保にかけての畑は真っ赤に色どられて美しかったという。文政、天保ころの川柳につぎのようなものがある。~八房をつけた内藤の駒は出る ~四房の数珠八房をさして行き 狂歌では~下枝は紅葉せしかと見ゆるなり 唐からし干す四谷新宿
瀬戸内晴美「遠い声」 [佐藤春夫関連]
「大逆事件」の大石誠之助をテーマに、少女コミックのようなフィクションを重ねてワルツでも踊っているかのように辻原登は「許されざる者」を書いた。しかも事件が起こる前に大石誠之助を渡米させて小説を終えた。比して瀬戸内晴美「遠い声」は、大石と同じく刑死の管野スガを、獄中の彼女の脂汗、冷汗、体液をも舐めとるように彼女になり切って、絞首刑執行まで寄り添って描いていた。瀬戸内晴美48歳、昭和45年発表作。
「まだ夜は明けない。重苦しい目覚め。今日もまた生きていた。いつまでか・・・」。書き出しは入獄して8ヶ月。明治44年1月24日。数え年31。最後の日のモノローグ構成。この日、11名が処刑され、管野スガの処刑だけが明日にのびていた。
5歳の時の母の思い出、容貌コンプレックス。とりとめもない回想。16歳、継母が仕込んだ強姦。17歳で継母の許を離れたくて東京・深川の商家に嫁ぐ。夫と姑が通じていた。飛び出して大阪の宇田川文海(35歳上)と暮らして文章修業。京都で新聞記者になった。取材先の立命館・館長の中川小十郎と、異母兄との関係。泥沼から逃げ出すように紀州・田辺の「牟婁(むろ)新報」へ。主筆・毛利紫庵が入獄中に編集主任になって6歳下・荒畑寒村と同紙を預かる。この地で大石誠之助と出逢う。新宮の遊郭設置問題に切り込んだ寒村を、紀州から身を引かせた。「六大新報」主筆で僧侶の清滝智竜と深間になるも、彼の執着と「牟婁新聞」を紫庵に帰したことで逃げるように京都へ。京に呼んだ寒村とたっぷり情を交わした後に、二人は新宿柏木に所帯を持った。寒村は赤旗事件で千葉監獄へ。管野は幸徳秋水の「自由思想」発行に情熱を注ぐなかで秋水に惹かれる。同紙の罰金が重なって換金刑で入獄。
ここで「寒村自伝」より管野評一部を紹介。・・・彼女は私に六歳の年長で、色こそ白かったがいわゆる磐台面(ばんだいづら)で鼻は低く、どうひいき目に見ても美人というには遠かったが、それにもかかわらず身辺つねに一種の艶治(えんや)な色気を漂わせていた。後日、久津見蕨村が「管野という女はちっとも美人じゃないのだが、それでいてどこかに男をトロリとさせるような魅力をもっている」といったように、実に不思議な魔力をもっていた。
換金刑で入獄の1週間後に「大逆事件」が発覚。彼女は予期せず「大逆事件」重要犯になった。事件にかかわったのは宮下太吉、新村忠雄、古川力作、幸徳秋水、管野スガ。子供だましのような計画だったが、これに検察が待っていましたとばかりに飛びついて全国の社会主義や無政府主義者ら数百人を一斉検挙。24名を強引に「第73条」に結び付けて死刑判決。無関係の人々を死刑、無期に巻き込んで、彼女は個人的なめめしい感傷ではなく、事件の真相を書き遺さねばと二冊目になった獄中日記「死出の道艸」を書き始めた。
その書き出しは「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上る前まで己を飾らず偽らず自ら欺かず極めて率直に記し置かんとするものなれ」。彼女はここで事件の真相と、同志を救えなかった悔しさと権力への走狗となる検事や判事たちを糾弾。社会主義者や無政府主義者の一斉検挙から24名の死刑判決。12名を処刑した後に、陛下の思召しで12名を無期懲役のシナリオを描いたのは山縣有朋、平沼騏一郎か・・・。ちなみに天皇を現人神(あらひとがみ)とした第七十三条は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太子孫ニ対シ危害ヲ加へントシタル者ハ死刑ニ処ス」。
読むのも辛いズシリと重い「遠い声」。実は瀬戸内晴美(寂聴)を読むのは初めてで敬服した。「私も正義感が強いから、これは世のため人のためと思うと命なんか要らないんですね。そういう馬鹿なところがある。管野須賀子も伊藤野枝(大杉栄と共に虐殺された)にしたって非常に単純な女で、しかも情熱があり余っていたんですよ。私はその情熱に感じるものがある。彼女は決して魔女でも妖婦でもなくて、あの時代に一生懸命に生きた結果があの事件につながった立派なひとでした」とどこかで語っていた。瀬戸内晴美は「遠い声」の前に伊藤野枝の生涯を描く長編伝記小説「美は乱調にあり」と「諧調は偽りなり」を書いている。
写真は代々木(西新宿・甲州街道を西参道へ左折する角)の正春寺の管野スガ慰霊碑。「くろかねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮しぬ」(幽月女史獄中作)が刻まれている。裏には「革命の先駆者 管野スガここにねむる」と「大逆事件の真相を明らかにする会」建立と記されていた。誰が手向けたか、赤いスイートピー。
佐藤春夫のランブラー [新宿発ポタリング]
志賀直哉が「切支丹坂」を自転車「ランブラー」で下ったのは有名な話だが、なんと佐藤春夫も「ランブラー」に乗っていた。「わんぱく時代」(昭和33年発表)に、こう書かれていた。明治34年、満9歳。和歌山の新宮第一尋常小学校4年で来年から高等小学校へ。
「僕の父はその二、三年前から、往診に自転車を利用してゐた。(略:橋板にぶつかって故障)。その後、自転車は破損を直したまま、しばらく捨ておいてあったのを、僕は夏休みのたいくつまぎれにひっぱり出した。父の車は<ランブラー>といって車体はエビ茶にぬられてゐた。まだ国産車の広くは出なかったころ、一般には貴重品あつかひされた時代で、町では、めづらしいもの好きな父の一台のほかはなかったと思ふ。もっともほんの二、三年のうちに町でも一般に大流行になった。そのころになっても、父の車は車体こそふるびてしまってゐたが、機械はまだしっかりして、四、五年は僕の愛用にたへるものであった」
ランブラー(Rambler)はアメリカ製。志賀直哉は明治28年頃、10円あれば一ヶ月暮せた時代に、160円のデイトナという自転車を祖父にせがんで、自転車狂になった。それが痛んで、下取りに出してランブラーを買った。明治35年には、そのランブラーで中村春吉が世界無線旅行に出発している。
「はじめは辰吉(車夫)にサドルを持って歩いてもらったが、やがて坂の道でサドルを一押ししてもらふと・・・(略)。足はまだペダルにとどかないが、背のびして無理に踏んでひとりでに乗れるやうになると、坂から広場に出た」
間もなく佐藤少年は満10歳になって高等小学校に入る。身長も伸び、自転車乗りも上達して小学校の一周約100㍍の運動場を50周もできるようになる。サドルの上で中腰で立ったり、ハンドルの方に背中を向けた逆乗りもできるようになった。高等小学校2年を好成績で終了して中学校へ。遠い中学には時に自転車で行った。
「父のランブラーはほとんど乗りつぶしてその中古と交換に<ピアス>の総ニッケルといふ最高級の軽快なのを買ってもらつてゐた」。「自転車は小使小屋のわきにおつぽり出しておいたが、それをさへ盗まれる心配のないほど町はまだ純朴であった」。 この<ピアス>もアメリカ製で、明治33年に絹織物などを輸出入する貿易業の石川商会が、横浜本店を新築した時に初めて輸入した自転車。同商会は後に「丸石自転車」になる。
佐藤春夫が新宮中学を卒業して慶応義塾大学予科文学部に入学したのは明治43年。神田須田町で「大逆事件の逆徒判決の号外」で、新宮で父の医者仲間・大石誠之助の死刑に驚愕する。★参考は佐藤春夫「わんぱく時代」、志賀直哉「自転車」、「自転車文化センター」?のサイト。
辻原登「許されざる者」の虚構 [佐藤春夫関連]
久々に「小説」を読んだ。辻原登「許されざる者」(毎日新聞社、2009年刊)。数十頁、スカスカで細い線で描かれた少女コミックのよう。こんな調子で、この長編を読むのはイヤだなぁと思ったが、読み進むと物語が動いて一気に読了。読後感はなんだか虚しかった。
ここに登場するのは「紀州新宮」ではなくて架空の「森宮」で、大石誠之助ではなく虚構の人物「槇隆光」。著者がどこかのマスコミ・インタビューに応えて、こう言っていた。・・・「西村伊作」を「西千春」と「若林勉」の二人に分けて描いたんです」。うひゃ~、小説ってぇのはそういうのがありなんだ。そう思って読めば管野スガも「左巴君江」と「金子スガ」の二人に描き分けられているような気もしないでもない。ゆえに小説家は主人公がアメリカ留学中にジャック・ロンドンと友達になっていて、インドから帰国中の船で中央アジア学術探検隊の大谷光瑞(小説では谷晃之)に逢わせ、淡路島に夢幻の宗教拠点を作ったり・・・。むろん本物の大石誠之助にそんな事実はなく、日露戦争に軍医として戦場にも行ってはいない。大連で森鴎外にも逢っていないし、八甲田山雪中行軍で亡くなった水野忠宣は同家長男で、そのさらに兄が小説で永野忠庸の名で登場したりする。小説ってぇのは、まぁ~「なんでもあり」なんでございますね。読後感の虚しさは、この作り物の虚しさなんだと気が付いた。
同小説があると知ったのは、先に紹介の熊野新聞社編「大逆事件と大石誠之助~熊野100年の目覚め」で、この小説を機に大石誠之助を新宮市の名誉市民にという運動が動き出したらしい。同書から辻原登の散らばったコメントを強引に一つにまとめてみると、こうなる。
・・・僕は、小説家というのは、軽薄でね、何か面白いことがないかといつも探している。最初は西村伊作を書くつもりだった。しかし読めば読むほど伊作は小説の主人公には物足りない。伊作は建築もデザインもできる才人でしたが、本質的に自分が楽しければよいというエピキュリアンだから、叔父さんのほうに鞍替えした。大石誠之助に鞍替えしたが、今度は「大逆事件」が避けられない。「大逆事件」を小説にするのは難しい。加えて大石像は「大逆事件」というフィルターを通した人物像になりがりで、そのフィルターを外して大石誠之助を見ると、大らかで頼まれるとイヤといえない開放的な人物像が出てくる。そこで小説家として、そんな大石を中心に、同時代の人々にはこういう恋もあり、戦争もあり、幸せになる人もあれば・・・と書いた」
さらにこうまで念をおす。「でも、それはあくまで小説の世界ですよ、という考えです」。芥川賞をはじめ各文学賞受賞の作家らしいが、なんてぇ~か、あたしにはこういう小説家、小説はダメだなぁと思った。
長谷寺の刹那教へる牡丹哉 [新宿発ポタリング]
連休は読書三昧だが、飽きたら小一時間ほどのご近所ポタリング。これは下落合の東長谷寺 薬王寺。奈良の長谷寺と同じ舞台作りで、その下の斜面に牡丹が咲き誇っていた。牡丹は鎌倉・長谷寺から拝領の百株が千株に殖えたとか。
フリルのような大輪・牡丹が美しいのは一瞬のこと。水気を失うと、大輪ゆえに無残な姿を晒すことになる。そんな刹那を教えてくれているようでした。
昨日は代々木・正春寺の、管野スガの慰霊碑の掃苔?に自転車を走らせた。彼女は「大逆事件」処刑者12名のうち唯一の女性。30歳で命を絶たれた。管野スガについては後日・・・。
新宮の百年のトゲ今もあり [佐藤春夫関連]
目白台の佐藤春夫邸調べから、和歌山県新宮が妙に身近になってしまった。同市は佐藤春夫の故郷。彼の父・豊太郎は「毒取る=ドクトル大石誠之助」と医者仲間だったし、大石と彼の甥・西村伊作から多大な影響を受けた。明治44年「大逆事件」で12名処刑、12名無期懲役。新宮から6名の犠牲者が出て大石誠之助と成石平四郎が処刑。この時、佐藤春夫19歳。この大石誠之助と西村伊作(のちに文化学院を創設)が実に魅力的な人物なのだ。
新宮市には西村伊作が大正4年設計・建築の「スイスのシャレー風洋館」が保存され、昭和2年に伊作の弟・七分設計の佐藤春夫邸も移築されている。両邸の北側に熊野川。眼を閉じれば、かつて熊野に清新な気を放った「太平洋食堂」が、町全体が恐懼した大逆事件が・・・と時代それぞれに変化した新宮が見えてくる。
同書は「大逆事件から100年。熊野に刺さったトゲを抜くべく大石誠之助を名誉市民に」という運動を報じた「熊野新聞」記事をまとめたドキュメント。「はしがき」に、このような記述。「日の出の帝国主義に非戦、自由、平等を唱える幸徳秋水や大石誠之助らは目の上のたんこぶだった。天皇制国家の完成を目指す藩閥政府は弾圧の機会をうかがっていた。大逆事件は日本の民主化の流れを止め、軍国主義への曲がり角になり、熊野の反骨と自由闊達の精神も失われた。大石誠之助が処刑されて100年。彼を名誉市民にすることで、熊野に刺さった最大のトゲを抜こうという運動を報告する。
詳しくは掛けぬが、昭和36年に市立図書館長が「大石誠之助特集」を組んで辞職に追い込まれている。市には未だ「逆賊」と捉える人々がいて、顕彰ままならぬ。同書は2011年1月発行だが、さて大石誠之助は名誉市民になったのだろうか。今それをネット調べをしたが要領を得ぬ。うむ、小生なら佐藤春夫、西村伊作記念館があるなら、ちょっと立派な「太平洋食堂」を復活させて大石誠之助記念館&熊野文化発信基地にしてみたいが・・・。
ともあれ三者の魅力から次は佐藤春夫の自伝小説「わんぱく時代」(全集5巻に収録)、辻原登「許されざる者」、田中伸尚「大逆事件」、森長英三郎「禄亭大石誠之助」へと読書は続き、さらに新宮に惹かれて行く。
連休は伊豆大島と新宮へ [週末大島暮し]
連休は混雑を避けて家ん中。いや、貧乏で遠出する余裕もない。ってことで読書とご近所ポタリング。図書館には、事前に「新宿区立図書館」所蔵検索をする。読みたい本があれば、それが区内9図書館のどこにあるかがわかる。あの本はこっちで、この本があっちと自転車で各図書館巡り。読む本は概ね古い本だから「閉架」にあって、調べた書籍番号を受け付けに提示する。
この連休は、いつもと違ってフラッと新宿中央図書館に遊びに行った。地域資料を次々閲覧して、開架の本をのんびりと眺め歩いた。秋廣道郎著「波浮の港」と、熊野新聞社編「大逆事件と大石誠之助」が目に止まった。
東京生まれで馴染みの「地方」がないが、ひょんなことで伊豆大島にバンガローを建てた。もう20年余も前。大島関連書はすでに読み漁ったが、「波浮の港」は平成22年刊。近年島に行くと、波浮の彼方此方にやたらと歌碑が建って「波浮の港を愛する会」の名がある。気になっていたが、著者はそのNPO法人の理事長。東京で弁護士をなさっている。名前から伺えるが、波浮港を拓いた秋廣平六さんの子孫で、第一部は波浮の名家の秋廣家の子供が、戦後の波浮でどのように育ち暮したか」が綴られていた。第二部は「私の平六伝」。
伊豆大島は六ヶ村で成り立ち、それぞれ村誌が編纂されている。各村の歴代村長などの名を見ると、現在の島もそれら家系の方々が多いのに気付く。島は否応なく「地縁」の側面を有す。大田南畝は江戸が百万人都市になって「大江戸」「江戸っ子」の意気を吐いたが、今は1300万人都市。地縁どころか江戸っ子は芥子粒みたいな存在になってしまった。あたしが住む大久保はコリアンタウンになった。マンションのゴミ出しルールは、日本語は肩身が狭くハングル文字、英語、中国語が併記されている。東京はもはやコスモポリタン、無国籍の都市。その意では人口2万に至らぬ島の「地縁」は想像を越えた濃さと言えよう。
大久保から大島を思えば、東京都とは云えあまりに遠く、懐かしく、悠久の自然と歴史に満ちている。時にお邪魔する「島暮し」には謙虚が肝心と改めて思った。同書は数時間で読了。おぉ、そう云えば波浮に幾つもの与謝野晶子の歌碑が建っているが、与謝野夫妻は紀州・新宮の常連客で大石誠之助、甥の西村伊作と親交が深く、伊作の文化学院創設にも参加している。そして次に手にしたのは、その新宮の本。最近の佐藤春夫邸調べから、眼を閉じると新宮の明治~大正の風景が浮かび、現在の新宮マップも浮かんでくる。熊野新聞社編「大逆事件と大石誠之助~熊野100年の目覚め」から、新宮の100年を彷徨った。(続く)
春夫と潤一郎その後(佐藤邸付記) [佐藤春夫関連]
昨日の続き。「関口フランスパン」で買ったサンドイッチとフランスパンを食べながら机に向かえば、今度は佐藤春夫・谷崎潤一郎家その後の「ハッピーとアンハッピー」の重なりに、ちょっと驚いてしまった。まずお目出度は、昭和14年に66歳の泉鏡花夫妻の晩酌で、鮎子さん(24歳)と佐藤春夫の甥・竹田龍児さん(姉の子、31歳、東洋史家)が結婚。佐藤、谷崎の両家がめでたく結ばれ、錚々たる文学者が華燭の宴に列席。
鮎子さんが生まれるまでを簡単に振り返る。谷崎潤一郎は学生時代に伝法肌の芸者・初子と深間になった。しかし初子は自分に旦那がいることから、妹の石川千代さんを彼に勧めて二人は結婚。その子が鮎子さん。潤一郎は、千代さんと鮎子さんを実家に預けて、自分は千代さんの妹で、15歳のせい子さんと同棲。「痴人の愛」のナオミはせい子さんがモデル。潤一郎は姉妹や母娘を愛す変態癖があって、彼の女性関係は頭がクラクラするほど複雑だ。
写真は神田駿河台「文化学院」のアーチ校舎一部。佐藤・谷崎家の華燭の宴が行われた頃の佐藤春夫は、文化学院(西村伊作が大正10年に創立)の文学部長に就任(昭和11年~)してい、その就任年に、このアーチ校舎が完成。アーチ状が多い佐藤邸と同じく、古い建物ってどこか惹かれますね。
さて、佐藤・谷崎両家を現代(平成19年~)になって突然の不幸が襲う。潤一郎の次女(松子夫人の連れ子)恵美子さんは能楽師の観世栄夫さんと結婚していたが、平成19年に観世さん(79歳)が中央高速・八王子辺りで交通事故。助手席の女性マネージャー(73歳)が死去。観世さんは逮捕されるも体調不良で釈放されて同年死去。
一方、佐藤家では平成22年に長男・佐藤方哉さん(慶応義塾大名誉教授、77歳。名付け親は谷崎潤一郎)が京王線新宿駅ホームで酔った男にぶつけられて電車とホームに挟まれて死去。このご不孝から、現代日本で事故、事件、災害から生き抜くのはまさにサバイバルと思い知らせれた。間もなく5月6日「春夫忌」です。★参考:野村尚吾「伝記 谷崎潤一郎」(六興出版)、「鑑賞日本現代文學 谷崎潤一郎」他。
春夫と潤一郎の最晩年(佐藤邸付記) [佐藤春夫関連]
佐藤春夫邸を拝見した時に、道路を渡った向こう側に目白台アパート(現・目白台ハイツ)があった。ここに谷崎潤一郎が約10ヶ月の仮住まいをしたのが昭和38年、78歳の時だった。眼の前の佐藤邸では亡くなる1年前の71歳の佐藤春夫がいた。33年前の谷崎・佐藤・千代子の三人連名による挨拶状(細君譲渡事件・昭和5年)を「あまりに可笑しければ」と荷風さんが「断腸亭日乗」に書き写している。さっそく、その日記をひもといてみた。
「拝啓。炎暑之候尊堂益(ますます)御清栄奉慶賀候。陳者(のぶれば)、我ら三人この度合議を以て千代ハ潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成、潤一郎娘鮎子ハ母と同居致すべく、素(もと)より双方交際の儀ハ従前の通につき右御諒承の上一層のご厚誼を賜たく、何(いず)れ相当仲人を立て御披露に可及(およぶべく)候へども不取敢以寸楮(とりあえずすんちょをもって)御通知申上候。敬具。昭和五年八月」
さて、潤一郎は目白台アパートに来る前年に「瘋癲老人日記」を完成。同作は狭心症と老いに蝕まれた老人が、息子の嫁の颯子の足を舐めまわすなど痴呆化した異常性欲を晒す内容で、まさに変態・潤一郎の真骨頂発揮作。同作を仕上げ、自身の心臓発作予防に全冷暖房の家(湯河原)を着工。その家が完成するまでの約10ヵ月の目白台暮し。このアパートに決めたのは、昭和35年に次女・恵美子(松子夫人の連れ子)が、観世栄夫と結婚して、ここに暮していたため。
目白台では一日30分ほどの散歩が体にも呆け防止にもいいってことで、潤一郎は毎日のようにすぐ傍の江戸川公園、新江戸川公園を散歩した。元気がいい時は孫と、調子が悪ければ車に乗って公園まで通ったらしい。同アパートに住んでいた瀬戸内晴美(寂聴)が、雑誌対談で「すごい大きな自動車が毎朝お迎えにきて、谷崎先生と奥さんを乗せて、目白台のすぐ下が江戸川公園で歩いても一分とかからない。それを公園まで自動車でわざわざ遠まわりなさってお二人でそこらを散歩して、また自動車に乗って帰ってくる」と語っている。
翌年5月6日。目白台の佐藤邸では、72歳の佐藤春夫が心筋梗塞で死去。その二ヶ月後に、潤一郎は目白台アパートを去り、完成した湯河原「湘碧山房」に移った。彼もまた、その1年後、昭和40年7月30日、80歳で死去。共に葬儀は青山斎場。
あたしにとって江戸川公園は散歩圏内。しかも公園沿い神田川のちょい上流(写真のマンションの15畳程のルームバルコニー付き〇号室)に住んでいたこともあり、最晩年のお二人がこの辺を散歩していたかと思うと、ちょっと身近に感じてしまった。目白台から坂を下る途中の「関口フランスパン」に寄って家に帰った。(続く)
巣落としの創痍カラスや今朝も啼き [私の探鳥記]
佐藤春夫邸調べをしている間のこと。ベランダから鳥を見ていると、昨年も同時期に営巣して「巣落し」されたカラスが、また営巣を始めた。このカラス、昨年に「創痍カラス」と名付けた羽抜けカラス。疥癬だろうか、羽が抜けて羽軸(うじく)だけが残るスケスケ翼の♀カラス。
あっちのハリエンジュに針金ハンガーが集まり出したら、産座も出来ぬ前に素早い「巣落し」。造園業者だろう。ついで?に見事に剪定もした。
ややして、今度はこっちの欅に針金ハンガーが集められた。今どき針金ハンガーは少なかろうに、どこから集めてくるのか。そう思って見ていれば、またも「巣落し」で、ついでに欅も丸ハダカの剪定。いずれも産卵前の素早い撤去。見ていると目下は三度目の巣作り中。疥癬?がうつったか、♂カラスの翼もボロボロになってきて、この番カラスが飛んでいると悲壮感が漂っている。
3年前には雛が孵った。昨年はこの辺に「オナガ」が居付いて営巣しかけたが、このカラスが追い払った。うむ、コヤツとは3年越しの付き合いか。佐藤春夫邸の長い歴史を探ったが、このカラスにも物語はある。今朝も5時に彼らの哀しげな啼き声が響き渡って眼が覚めた。吉原の都都逸じゃないが「三千世界のカラスを殺し~ぬしと朝寝がしてみたい」。写真下の右が羽抜け♀カラス。
佐藤春夫邸の謎、その答はFOU(佐藤邸9) [佐藤春夫関連]
前回、佐藤春夫邸の設計者・大石七分の横顔を探ってみた。七分は関東大震災のすぐ後にフランスから帰国して、兄・伊作が借りた麹町の家に落ち着いた。この時期に、佐藤春夫は七分からフランス滞在談をたっぷり聞き、その話を「F・O・U」(大正15年発表)に仕上げた。翌年11月に目白台に七分設計・佐藤春夫邸が完成ゆえ、二人は何度も逢って話し合っていたと思われる。井上靖は「端倪すべからざる氏の才筆。いま読んでもみても新しい。氏は一度もパリには行っていないが、幻想が幻想として、それなりに定着して、現実感を持って迫ってくることは驚くべきことである」と同作を激賞しているが、これは七分の実話がベースにあったワケで、その評価の半分は七分に向けたくなってくる。
その「F・O・U」を要約する。舞台はパリ。マキ(七分)がレストランから出ると、自分のシトレインのそばに美しいロオルス・ロイスがあった。乗ってみたい。マキはハンドルを握るとコンコルド広場からボア・ド・ブウロニュへ走った。ここで悪ガキが言う。「この車は君のかね」「いや、おれの車の横にあったから、ちょっと乗ってみたかったんだ」「持ち主に返した方がよさそうだね」「おれもそう思う」。
ロオルス・ロイスの持ち主は、車から降りる彼の笑顔に何事もなかったように走り去った。近藤富枝「本郷菊富士ホテル」に掲載された七分の写真から、彼の天使のような笑顔が浮かんでくる。車は走り去ったが、彼は警官に腕を掴まれ、署に連行された。「あなたに知り合いのフランス人がいますか」に、彼はフロオランスの名をあげた。彼女が来て「わたしの可愛いマキ」と微笑む。そして署長にそっと指で「Fou」(狂人)と書いて見せる。マキは問われて、自身のことを語る。「私の一家は、きっと日本に客で来ているらしく(兄・伊作も日本人離れした風貌をしている)、日本政府から嫌われて、私の叔父は殺されてしまった(大逆事件で叔父・大石誠之介が刑死)。それで兄にフランスに行こうと言ったが、わたしだけがこの国にきた」
かくして13日間、精神病院暮し。退院後にマキとフロオランスの甘い同棲生活が始まった。マキは日本に残した妻(いそ)と子(窓九)の写真を見せる。「まぁ、可愛い。わたしたちの子にしましょう」。マキは妻に手紙を書く。「今、シャトーを持つフランス女性と同棲している。子供の母親になりたいと言うから、お前がこっちに来れば乳母になります。兄貴にお金を送ってくるように言って下さい」。無邪気が残酷な手紙になる。これを読んだ兄(伊作)は「また病気が始まったようだ」と弟の妻を慰める。
話が長くなりそうなので、結末だけ記す。最後はマキが描いた31枚のフロオランス、仙女の絵の<遺作>展が開催されるところでEND。天使のように純真無垢な夢想家は、現実に生きる者には時に残酷になり、遺せるのは作品と甘美な死。佐藤春夫はそんな事を書きたかったのだろう。文化学院を創立した伊作に比し、デキはわるいが弟・七分に通じる自分を見たか。そんな七分が設計した佐藤邸。現在の現実離れしたユニークな佐藤邸もまた七分設計だろうと勝手に納得。その現実離れの謎の答えは・・・「F・O・U」。
これにて、佐藤邸シリーズ終わり。最後に参考にした本は以下です。川本三郎「大正幻影」、佐藤春夫「小説永井荷風伝」、日本文学全集「佐藤春夫集」(集英社版と新潮社版)、「佐藤春夫全集」第11巻、加藤百合「大正の夢の設計~西村伊作と文化学院」、黒川創「きれいな風貌~西村伊作伝」、「愉快な家~西村伊作の建築」、近藤富枝「文壇資料 本郷菊富士ホテル」、「ドキュメント日本人2~悲劇の先駆者」収録の西村伊作「我に益あり」、芳賀善次郎「新宿の散歩道」、野田宇太郎「改稿東京文学散歩」、新宿区「新宿文化絵図」など。
佐藤邸設計・大石七分の横顔(佐藤邸8) [佐藤春夫関連]
<佐藤春夫邸>も8回目で、やっと設計者・大石七分に辿り着いた。七分(しちぶん)はいかなる人物か。加藤百合と黒川創の両著より、西村伊作の末弟・七分について記された部分をピックアップしてみた。
明治24年、濃尾大地震で両親が亡くなった。「伊作・真子・七分」の三兄弟はどうなったか。父の弟・誠之助が米国から帰国し、伊作を手許に引き取り、七分を余平姉・くわの家に預けた。明治36年、叔母くわと共に真子・七分は京都に移って同志社普通学校に入学。この時期に伊作は、米国に帰る宣教師から紀伊・山田で自転車を買い取り、その足で京都に弟たちに逢うべく走った。往復300キロ。明治に凄いサイクリストがいた。
明治39年、真子がロサンゼルスに留学。翌40年、七分はマサチューセッツ州のハイスクールに留学。明治42年、伊作はヨーロッパ各国を巡って太平洋を渡り東海岸へ。ボストンで七分に逢い、彼が通う郊外の小さな町の高校・校長と面談。伊作はさらに西海岸へ移動して真子と逢う。真子と彼が内緒で買ったオートバイ(家一軒が買える価格)共に船で帰国。明治44年、叔父・大石誠之助が「大逆事件」で処刑。
大正3年、七分帰国。大正5年、七分は本郷「菊富士ホテル」で、「いそ」(カフェ女給)との生活を開始。同ホテルは大正3年に帝国ホテル、日比谷ホテルに次ぐ3番目のホテルとして開業。地下1階・地上3階で30室。七分は気が合う友人、大杉栄と伊藤野枝のカップルを隣の部屋に呼んだ。しかし、この時に大杉・神近市子の「日陰茶屋事件」が起きた。サザンが「鎌倉物語」で♪~砂にまみれた 夏の日は言葉もいらない 日影茶屋では~ の「日陰茶屋」。これは大杉を巡る妻・愛人・野枝・神近の四角関係のもつれ。同ホテルから遊びに行った神奈川・葉山「日陰茶屋」で、神近市子は言葉も発せず大杉の喉を短刀で切った。絶えず警察の尾行が付いた大杉栄、しかも四角関係のもつれとなれば、マスコミが放っておかぬ。常に伊作の影にいて表に出ぬ七分だが、この時ばかりはマスコミに注目された。二人を同ホテルに呼び寄せた大石七分もまた、「いそ」をピストルで撃つなどの騒動を起こしたりして話題は膨らむばかり。結局、大杉・野枝はホテル代を一文も払わぬまま他の下宿屋へ。その全滞在費を七分が払ったそうな。
この事件で同ホテルは一躍有名になり、以後は文壇ホテルの呈をなして行く。この辺は近藤富枝著「文壇資料 本郷菊富士ホテル」(写真)に詳しい。西村伊作関連書ではお目にかかれなかった七分と、妻「いそ」の写真が、なんと同書に掲載されていて、初めてその風貌に接することが出来た。兄・西村伊作に似て日本人離れしたクールな美男。同ホテル滞在の文人らのほとんだがだらしない着物姿だが、彼だけが洒落たスーツでピンホールのシャツでビシッと決めている。本文中には粗い写真ながら、お腹が大きくなった妻「いそ」と共に立つ二人の写真も掲載されていた。
そんな七分だが黒田創著「西村伊作伝」には、こんな記述があった。「七分は絵がうまく、建築の設計も上手にこなすので、伊作はそうした腕前を買っていた。だが、アナキストの大杉栄らと付き合いながらも、金持ちの末弟としての自分を持てあましていたのか、彼は派手な暮らしを好み、金が尽きるて窮まると、気がふれたような言動も現われて、病院に入ったりする」
大正7年7月~11月、雑誌「民衆の芸術」の編集・発行人となる。
関東大震災後しばらくして、伊作が麹町に日本家屋を借りた。そこに2年ほど滞在していたフランスから七分が米国経由で帰国し、この麹町の家に腰を落ち着かせた。彼がフランスで同棲の女性を妻にすると言うも、伊作が彼にフランスに戻る金を与えず。七分は諦めて妻・いそ、子・窓九を麹町の家に連れてきて一緒に暮した。
震災から3年後、大正15年に伊作は阿佐ヶ谷に土地を借りて、七分の設計・監督による一家が揃って住める家を建てた。昭和34年12月、七分は満69歳で長男夫婦、孫たちに最期を看取られて死去。晩年まで家の設計図をよく描き、絵も描いたという。七分でわかったことは、これだけ。(続く)
伊作邸から生まれた春夫作品(佐藤邸7) [佐藤春夫関連]
「西村記念館」見学を終えて熊野速玉大社へ行くと、そこに明治2年築・昭和60年移築の佐藤春夫邸がある。ここでは加藤百合著「大正の夢の設計家~西村伊作と文化学院」より、佐藤春夫の小説がいかに伊作からインスパイアーされたかの記述を拾ってみる。著者はそもそも佐藤春夫「田園の憂鬱」を調べる過程で西村伊作を知った、と「あとがき」で書いてい、佐藤作品もよく分析している。
まず、こう断言する。「佐藤春夫の初期作品に、建築家・伊作の影は無視できないほど大きい。伊作から知識を得、また着想を得ることなくして、作家・佐藤春夫の開花はなかった」。
「西班牙犬の家」の「入口は家全體のつり合ひから考へてひどく贅澤にも立派な階段が丁度四級(段?)もついて居るのであった」は、これまさに伊作邸玄関だと指摘。洋館が少ない時代に、いくつもの小説にそんな家を設計する男が登場している。これは西村伊作の姿、及び彼の建築関連書などのディテールが参考になったに違いないとも記す。
佐藤の初期代表作「美しい町」もまた、伊作が大正8年に西村家の遺産を相続して「小田原に二千坪の購入して芸術家が住む田園都市を作る」と熱く語る伊作からヒントを得たのだろうと記す。伊作は実際に谷崎潤一郎や北原白秋らと土地探しをしている。ちなみに谷崎は小田原時代に妻の妹・せい子に夢中で、妻・千代子を冷遇。見かねた佐藤春夫が夫人をもらうと約束。そう決まってから手放すのが惜しくなって潤一郎が「離婚中止宣言」。これに佐藤が激怒して谷崎と絶交。この騒動がかの「小田原事件」。
佐藤春夫は、そんな悶着の中で、伊作の「田園計画」を、夢想家三人の「美しい町」に仕上げた。夢が現実化することより夢想を純化させて「夢想家である自分が芸術家として如何に現実の中で生きたらよいか」という姿勢を探った作品。佐藤春夫にとって、谷崎の妻・千代子もまた夢想で純化されたきらいがないでもなかろう・・・とはあたしの推測。夢想家・佐藤に比して、西村伊作は夢の実現に積極的に動くが、これが「文化学院」創立にすり替わって具現する。夢想家(小説家)と現実を生きる両者比較に絶好のテーマ。
また加藤百合は佐藤の「F・O・U」は、諸資料から伊作の弟・七分の実話そっくりで、聞いた話をそのまま書いたのではないかと記す。同小説を読めば、佐藤春夫邸設計の大石七分の天真爛漫かつ自由な天使のような人柄が浮かんできて、移築された佐藤邸、現在のちょっと妙な佐藤邸も彼ならではと思えてくる。どうやら結論が見えてきたようです。(続く)
紀伊新宮と大久保の糸(佐藤邸6) [佐藤春夫関連]

明治38年、伊作はシンガポール半年の滞在から帰国すると、新宮の丘に日本初の「バンガロー風の家」を建てた。その写真を「愉快な家~西村伊作の建築」より(田中修司氏所蔵の「美しき住宅」の表紙に添えられたバンガロー住宅」。※無断転載ごめんなさい。)で見ると、これが、まぁ、あたしの伊豆大島の海小屋(写真下)にそっくりで、思わず笑ってしまった。
伊作が日本初のバンガローを建てた翌年10月、伊作の叔父・誠之助が大久保・百人町の幸徳秋水宅を訪ねている。「ありゃ、また大久保だ!」。幸徳は同年6月に米国から帰国し、9月20日から百人町1-8-24で「平民新聞」の準備に入っていた(芳賀善次郎著「新宿の散歩道」)。同地は旧職安通りのコリアンタウン外れの長光寺脇。ちなみに同寺は島崎藤村が生活苦で三人の子を失い(明治38・39年)、また夫人を葬った(明治43年)墓地で、お墓は大正期に故郷・長野に移葬。昭和26年に野田宇太郎が「新東京文学散歩」執筆時に同寺を訪ね、住職が島崎藤村を知らぬも、過去帳をひもといて三人の子、妻の埋葬記録を探り出している。
明治40年1月には堺利彦が「平民新聞」創刊号の編集を終えると、刷り上がりを待たず二日を要して新宮の誠之助を訪ねた。きっと印刷代の金策らしく、誠之助は100円を渡している。そして幸徳秋水は同年10月に高知県中村町に帰郷し、翌41年7月末の上京途中で新宮・誠之助宅に半月滞在。8月15日から大久保は北新宿1-30-25(大久保駅から小滝橋通りを越え、さらに直進して右側辺り)に住んだ。後に佐藤春夫も大久保に住んだことを含めて、紀伊・新宮と大久保には、なにやら見えない糸がありそうな。
この頃だろうか、佐藤春夫は新宮中学五年生で、誠之助の助力で与謝野寛、石井柏亭、生田長江らを招いて夏休みに「学術演説会」を開催。春夫は演説で“虚無思想”や“教育の害”などを口走って、社会主義者とみなされて「無期停学」通知。これは不当弾圧だと誠之助はじめが猛抗議して、無事に卒業している。誠之助が幸徳らと危険な親交を深めるなか、伊作は明治40年に津越光恵と結婚。コテージを丘から移築し、二階建てに直して欧米風家庭生活を開始。
そして明治43年、大石誠之助は「大逆事件」で「紀州グループ」首魁(しゅかい)者として逮捕、東京に連行。伊作は弟・真子が米国から持ち帰ったバイクを神戸まで運んで、ここから毛皮のコート姿でバイク激走で上京。しかしピストル所持で29日間も拘置されている。翌44年、「大逆事件」の12名処刑。佐藤春夫は「スバル」に「愚者の死」と題する風刺詩で「新宮の町は恐懼(きょうく:おそれかしこまる)した」と書いた。
大正4年、伊作は「スイスのシャレ―風」本格洋館を完成。この伊作邸は、やがて東京からの文化人も集うサロンとして活況を呈し、若い佐藤春夫は毎日のように伊作邸の食卓の一員になって彼らの話に耳を傾けていたという。ここで聞いた話や体験が「西班牙犬の家」「美しい町」「F・O・U」などの小説に昇華。伊作もまた大正8年の初著作「楽しい住家」で脚光を浴びる。やっと奇妙な佐藤邸の謎に近づいて来たような気がする。(続く)
佐藤に影響を与えた西村伊作(佐藤邸5) [佐藤春夫関連]
目白台の奇妙な佐藤春夫邸を語るには、彼が育った明治末から大正初期の和歌山県新宮まで遡る必要がありそう。いったい、そこで何があったのだろう。川本三郎「大正幻影」を置いて、今度は加藤百合「大正の夢の設計家~西村伊作と文化学院」(1990年刊)と、黒川創「きれいな風貌~西村伊作伝」を持って、いざ、紀州・新宮へ。
東京8:10発「のぞみ15号」に乗って、名古屋9:51着。ここから「特急ワイドビュー南紀3号」で13:25に新宮駅に着。紀伊半島は「熊野」と「紀伊勝浦」の間。大正2年に勝浦からの鉄道が敷かれるまでは「陸の孤島」。だが熊野川河口で紀州木材の集散地ゆえ海運が発達。海から「ハイカラ」が入って、アメリカ移民も多かった。駅を降りて新宮城跡方向に歩いてすぐ右側に、大正4年築の「スイスのシャレ―風洋館」が見える。ここが西村伊作記念館。
今も斬新さを失わない伊作邸を見学しつつ、兩著より、まずは伊作の父・余平の人生から探ってみよう。彼は大石家の長男で、末弟が大石誠之助。余平がに新宮に教会を建てたのが明治17年。余平夫妻の三人の息子が「伊作・真子・七分」。子らは端から洋服で西洋風(宗教的)に育てられた。余平は、その熱心な信心ゆえ、全財産を喜捨しかねないと親族に見放され、一家は名古屋へ移住。明治24年の濃尾大震災でチャペルの煉瓦煙突が崩落して夫妻共に死亡。
遺された子らの波乱が始まった。7歳の伊作は母方の下北山の山林王・西山家を継ぐべく祖母のもとで山村暮し。明治28年、余平の弟・大石誠之助がアメリカ暮しから5年振りに帰国して医者になった。28歳の彼が伊作が呼び寄せた。彼はカレーライスなど旨い料理が出来ると屋根に旗を揚げた。これを見て、佐藤春夫の父・豊太郎が大石家の食卓を加わった。春夫の父は、誠之助より5歳年長で、明治19年から医者をしていたが、医院経営が安定すると北海道・十勝に百町歩の土地を借りて農場経営を企てて開拓に着手。北海道と新宮を行き来する生活だったとか。
当時の新宮には中学がなく、伊作は広島の叔母に預けられた。中学の5年間、誠之助もしばしインド・インドネシアへ。伊作が中学を卒業して戻ってくる頃には、誠之助は再び新宮で医院を再開。堺利彦らの社会主義啓蒙の「家庭雑誌」に洋食に関する原稿を書き始めていた。明治37年、日露戦争開始の年、誠之助と20歳になった伊作、沖野牧師で「太平洋食堂」を開業。写真で見ると西部劇に出てくるしゃれた建物風の洋食レストラン。伊作が英文字で「パシフィック・リフレッシュメント・ルーム」と書いた。社会主義とキリスト教の啓蒙誌などを閲覧するコーナーもあり。佐藤春夫は、このレストランを「一種清新な気」と感じ入った。だが同レストランは誠之助の厳しいテーブルマナーなどで、一般町民になじまず2年を経ずに閉鎖。ちなみに東京で洋食レストランが身近になるのは大正時代で、西村伊作らの「太平洋食堂」はいかにも早過ぎた。
明治38年、伊作に召集令状が来て日本脱出。シンガポールに約半年滞在。写真の「きれいな風貌」表紙写真はシンガポールで撮られた21歳の伊作。(続く)
「美しい町」の幻影(佐藤邸4) [佐藤春夫関連]
川本三郎「大正幻影」に戻ってみよう。同書で川本はこう記している。「佐藤春夫は建築が好きだった。自分で図面を書き、家を建てることを考えるのが好きだった。よく原稿用紙を方眼紙に見立て家のデッサンをした。佐藤春夫はそれを“普請道楽”と呼んだ」。
彼の“普請道楽”は、洋館風住宅とみていいだろう。彼の小説には、そうした非現実系の家の小説が多いとか。小生は今まで永井荷風がらみ、谷崎潤一郎がらもで佐藤春夫を読んできたので、彼の小説は詳しくないのだが、年代順に洋館登場の小説は「薔薇」「西班牙犬の家」「指紋」「田園の憂鬱」「美しい町」「海邊の望楼にて」「更生記」などらしい。これに庭、植物、調度品などの微細表現が蔦のようにまつわるのだろう。とりわけ27歳の作「美しい町」が秀逸とか。読めば、あの佐藤邸が建ったワケが探れるかも知れぬゆえ再読した。物語を要約してみれば・・・
画家Eの回想仕立て。なんと、この画家は大久保在住だった。Eは幼少時代の友人で米国で暮していたハーフの川崎君にSホテルに呼び出される。彼はテオドオル・ブレンタノと名乗っている。彼は父の遺産を投じて、百ほどの家を作って「美しい町」を作りたいと言う。Eが設計図から完成画を描く。まずは五千坪ほどの土地探し。二ヶ月を経て、司馬江漢の銅版画「東京中州之景」に出逢う。「Lucky idea!」。「美しい町」は隅田川中州に決定した。そして建築技師募集。20名ほどの応募者のなかで白羽の矢が立ったのは、最後に来た老建築家だった。彼は鹿鳴館時代の建築を学ぶべく巴里に留学し、帰国してみれば欧化時代は去って仕事がない。依頼主のいない夢の家を一軒一軒づつ紙上設計して、気付けば老人になっていた。老技師が設計、Eが完成図、彼が模型を作る。三人はホテルの一室で、夢中になって夢の「美しい町」作りに没頭した。
この町の住人は商人ではなく、役人でもなく、軍人でもなく、それぞれが最も好きな職業を選んで、それで身を立てていて、犬か猫か小鳥を飼っている人。住人設定もされた。三人それぞれが今まで夢想していた家作りに熱中した。そんな幸せな日々が3年続いて、ついに模型が完成。その夜、テーブルにシャンパンが用意されてEが言った。「実は僕に遺された財産は僅かで、僕にはこの夢の町を現実にするお金がない。もう明日にでも日本を去らねばならない」。しかしEも老技師も、心の中ではどこかに「美しい町」が現実になることを望まなかったような気がする。幸せだった3年の日々を胸にホテルを出て行く。
以上があたし風の物語要約。佐藤春夫はここで、夢想家は現実のなかに生きるのに憂鬱を抱き、それがまた文学者の道・・・と言っているようである。川本三郎は「美しい町」をこう総括している。・・・彼の「普請道楽」はあくまで家を作る過程を楽しむ。いわば夢の行為。形としてあらわれた建築よりも、その背後にある夢のほうが重要なのだ。佐藤春夫にとって家を作ることは現実的行為というより、あくまでも詩的行為なのだ。だから自分の住む家を南欧風の桃色の家というおよそ浮世離れした、現実と調和しない家を作ってしまうのである。 そして「大正幻影」をこう結ぶ。・・・現実より虚構、内実より見せかけのほうに美しさや意味を見ようとする態度・趣味が私のいう「大正幻影」である。
これで、なんとなく佐藤邸の謎が少しわかってきた。だが、佐藤春夫は何故に洋風住宅だったのか。日本の洋館風住宅の歴史を探ってみると、なんと、また「西村伊作」が浮上してきたではないか。佐藤春夫が育った明治末から大正初期の和歌山県新宮市に何があったのだろう。(続く)
写真は川本三郎「大正幻影」表紙。隅田川中州の「美しい町」を彷彿させて、なかなか愉しいイラスト。このカバー装画は森英二郎とあった。
大久保の佐藤春夫と大杉栄(佐藤邸3) [佐藤春夫関連]
佐藤春夫邸の設計者・大石七分の叔父は大逆事件で処刑された。七分もまた憲兵大尉・甘粕正彦に殺害された大杉栄と生活を共にしたことがあったとか。佐藤春夫はそうした危険で勇気ある男たち(当時の社会主義者、無政府主義者)に眼を逸らして、夢想の世界だけに生きてきたのだろうか。
そう思って佐藤春夫全集・第11巻をひもとけば「吾が回想する大杉栄」なる随筆があった。「新家庭を大久保に移したころのこと」の書き出し。これを調べてみれば、彼は大正4年8月から翌5年5月まで「大久保町大字西大久保403」に住んだとあった。現・大久保2、3丁目辺り。女優・川路歌子と同棲中で、神奈川・中里村へ移るまでの時期だろう。
大杉栄は伊藤野枝と甥の橘宗一(6歳)と共に憲兵・甘粕に連行されて殺害されたが、連行された地が新宿・柏木の自宅近くは周知のこと。だが佐藤春夫の同文によれば、大杉もまた大久保に住んでいたと書いてあった。これも調べれば、柏木の自宅はフランスから帰国後のことで、1912年(明治45年・大正元年)に鎌倉より大久保百人町353番地(現在の百人町)で暮していたらしい。共にご近所同士。ははっ、あたしんチの近所だぁ。
佐藤春夫の大久保の家には、新進作家・荒川義央が居候してい、彼は堺利彦を「おやぢ」と言い、大杉栄に心酔していた。荒川が毎日のように大杉宅に寄っていたことで、佐藤も大杉も互いの家を行き来した。そんな或る日、同じく大久保在住の加藤朝鳥(翻訳・文芸評論家)と共に大杉宅で文学論を交わした。加藤が「日本の小説はもっと社会的意識を覚醒させねばならぬ」と言い、佐藤はこう反論した。「四十五十になってつぶさに世相を見てこそ、社会的の観察も正確になる。普通の境涯の青年作家に出来ることは、先づ詩人的なロマンティシズムの情熱か、一人の主人公を取扱った心理的なものであるのが当然である。社会的意識から生れるいい小説といふのものは結局もう少し気永く待たないでは、反ってつけ焼刃にすぎないだらう」。彼にそう思わせた教訓的な何かがあったような気がしてならない。この時、大杉は「うむ」とだけ言った、と書いている。
この年、佐藤春夫は二科展に「自画像」「静物」が入選。その2年後に、あの「西班牙犬の家」を発表。内面的な自己批判の心理小説ではなく、まずは絵を描くように夢想の洋館を細部描写して新たな小説をものにした。その前年に書いた「薔薇」も洋館登場とかで、彼のなにやら尋常ではない洋館的住宅へのこだわりが垣間見える。(続く)
とまれ、明治末から大正時代に社会主義、無政府主義、アジア主義の男たち、そして若き作家らの多くが大久保在住だったことも再確認できた。写真は大杉栄が憲兵・甘粕に連行された新宿・柏木の自宅辺り。隣に文芸評論の内田魯庵が住んでい、その日、魯庵夫人は大杉栄と伊藤野枝が外出する姿を裏庭から見ていた。また大杉・魯庵宅の西側が西条八十旧宅。八十の父はこの辺の大地主で、百人町の撮影所付き梅屋庄吉邸も西条八十の父から土地を買っている。
佐藤邸大逆事件の翳も秘め(佐藤邸2) [佐藤春夫関連]
川本三郎「大正幻影」は、佐藤春夫論といっても過言ではないだろう。「佐藤春夫が大逆事件に衝撃を受けなかった筈はない。刑死した大石誠之助は同郷(和歌山)の先輩だったのだから。佐藤春夫は大石誠之助を唱った詩「愚者の死」を書いてアイロニカルに強権への憤りを表明したが、しかしその憤りはついにストレートな形をとることなく、やがて視線をビーダーマイヤー的な小宇宙へと移していった」
川本は見逃したか、気付かなかったか。佐藤邸の設計は、文化学院の創立者にして建築家、画家、陶芸家の西村伊作の弟・大石七分である。伊作・七分兄弟の叔父が大石誠之助。叔父は米国から帰国後にクリスチャンの“赤ひげ先生”的医者で、生活改善などを訴える過程で社会主義者への弾圧「大逆事件」に巻き込まれ、明治44年に処刑された12名の一人。和歌山県の小さな田舎町から刑死者が出て、佐藤春夫は同郷どころか、肌も震える怖さを感じていたはず。この時、春夫、19歳。彼の父もまた医者で親同士の交流もあったろう。伊作・七分の兩兄弟からも強い影響を受けつつ青年期を過ごしていたのではなかろうか。
川本三郎が記す「ビーダーマイヤー的」を簡単に説明すれば、歴史の動きに眼をそむけ、身近な微細なものをとらえようとすることらしい。川本は「佐藤春夫は強権、官憲に眼をそむけて建物、調度品、植物に関心を注ぎ、幻影の世界に分け入ったのではないか」と指摘する。同じ世代の谷崎潤一郎も芥川龍之介も現実世界とは別の幻影の世界を夢みようとしていたと記す。大正幻影、大正ロマン、大正モダンなる言葉がチラつく。
「世に眼をそむける」という意では佐藤春夫、芥川龍之介より13歳上、谷崎潤一郎より4歳上の永井荷風も同じだ。彼は32歳の時に自宅・余丁町から慶応義塾へ出勤途中に、目の先の市ヶ谷刑務所(東京監獄)を出入りする大逆事件の囚人馬車を見ていたし、間近の刑務所で12名の処刑が執行された。荷風は、文学者でありながら何も発言できぬことを恥じて「花火」にこう書いた。
「自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた」。
その荷風が谷崎潤一郎を激賞し、佐藤春夫は荷風を師と仰いだ。川本三郎が指摘するように、佐藤春夫は現実から眼をそむけて建築、調度品、花に没頭して、かくなる家を建てたのか。いや、まだそれでは説明が足らぬだろう。(続く)
★写真下は、抜弁天から曙橋へ下る「余丁町通り」。写真右の木々が「余丁町児童公園」の入口で、その奥続きの「富久町児童公園」の片隅に「東京監獄 市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔」(冒頭写真)が、忘れ去られたようにひっそり建っていた。この碑には説明文が一切なく、ただ「昭和三十九年七月十五日建立 日本弁護士連合会」とあるだけ。野田宇太郎著「改稿東京文学散歩」には「これでは一般の刑死者慰霊塔としか思えないが、それが幸徳事件の処刑者の慰霊塔であることはいうまでもない。そのことを何故刻まなかったのだろうか」と記し、「幸徳秋水をはじめ、大石誠之助その他は社会主義というだけで、事件とは直接関係がなかったのも事実である。ただ社会主義は天皇制を危くする思想として、その指導的人物が理不尽にも無実の罪名を被せられて殺された恐怖的事件であった」と結んでいる。写真の「余丁町通り」先方左側に永井荷風旧居がある。(続く)
佐藤邸西班牙犬の家のまゝ(佐藤邸1) [佐藤春夫関連]
白蓮が暮した宮崎滔天邸から目白通りに戻って、東に走る。椿山荘辺りで左の路地へ。或いはキングレコード・スタジオの反対側の路地を入った所に、写真のユニークな佐藤春夫旧居跡在り。佐藤春夫は昭和2年から終焉の昭和39年までここで暮した。当時の邸(やしき)は昭和60年に生地・和歌山県新宮市に移築・保存。その移築邸をネットで見れば、アーチ状の門と窓、塔、桃茶色の壁。現在の家も旧邸と同コンセプトで建てられていることがわかる。
当時の邸の様子を知るべく、まずは日本文学全集「佐藤春夫集」の井上靖の解説文より佐藤邸説明文より・・・。「関口町のお宅は朱色の塀の廻った中国風ともスペイン風とも見える、なかなかしゃれた邸宅であった。(略)。暖炉のある洋間の暖炉ぎわに畳が敷かれた小区域があり、主人は客にそこで応接するようになっている。その部屋の調度品は(略)異国趣味、ハイカラ趣味というと厭味に聞こえるが、それは氏一流の気難しい鑑定を経たものばかりで、(略)洗練された調和を作り上げていた。(略)。短編の傑作「西班牙犬(スペインいぬ)の家」の作者の応接間なのである」
川本三郎「大正幻影」には西脇順三郎が記した佐藤邸の文が紹介されている。「目白台に南欧風のすばらしい家をたて、三田山上(慶応大)にあった文学部の課業をやったヴィカス・ホールの壁をおおっていた黄赤色の『のうぜんかずら』を家にはわせ、巴里のマロニエを前庭に植えたり、日時計や噴水を作った。家は伊太利の田舎によくみられるような濃い桃色にぬられていた」。(佐藤春夫は永井荷風が亡くなった時に、庭のマロニエの花を手向けている)
川本三郎「大正幻影」には・・・「『更生記』のなかに、避雷針のある八角形の屋根のある洋館が出てくるが、この家は、大正十四年以来、佐藤春夫が住んだ小石川区音羽町(現在の文京区関口町)の家をモデルにしている」なる文があるが、これは大きな間違い。大正14年から住んだのは音羽通りから小日向台に向かう小石川区音羽町9丁目18番地。その家のことは随筆「吾が新居の事」(佐藤春夫全集・第十一巻)に書かれている。そして昭和2年から住んだのが写真の旧邸跡で、音羽通りより目白台の地で住所は文京区関口町。東京散歩の達人とは思えぬ間違い。
それはさておき、このユニークな建物を見ていると、佐藤春夫は何故にかくなる家を建てたのだろうかと考え込んでしまった。(続く)
白蓮の筆一本で冬を耐へ(白蓮4) [読書・言葉備忘録]
佐藤春夫邸に行く前に、宮崎邸に逃げ込んだ吉原・長金花の春駒こと森光子の「春駒日記」を読んだので、(白蓮4)として同著「廓を脱出して白蓮夫人に救わるるまで」の章を紹介。
春駒は「苦界=生地獄」の日々に、白蓮が次々に発表する歌や原稿に希望と励みを抱いていた。梅毒と肺病と心臓病で吉原病院に二ヶ月半入院。母の危篤で故郷に戻るも、娼妓の身ゆえ葬儀に出ることままならず。再び廓の日々から遂に脱出決行。吉原病院での隔日注射の際に龍泉寺通り~路面電車~上野~省線で目白駅下車。五、六人に道を尋ねて白蓮邸へ走った。
対応に戸惑った宮崎夫妻だったが、居合わせた岩内が「労働運動のつらさにくらべたら、あなたを救うことは何でもありません」と助け舟。同書には当時の新聞切り抜きも掲載で、以下は大正15年4月27日の東京朝日新聞より。
「二十六日の午前十時半頃、折からのしう雨(驟雨)をついて一台のほろを深くした車が突然宮崎家の門に着いた」。本人記述は徒歩だが、新聞は人力車。大阪の朝日新聞は「東京目黒の~」。当時の新聞の信ぴょう性を疑うが、先を続ける。「来合せたのが龍介の友人で労働総同盟の紡績組合長・岩内善作氏であった。夫妻の打ち明け話と春駒の涙ながらの話を聞いた岩内氏はよし僕が立派に廃業させてやらうと引き受け即座に春駒に命じて日本堤警察署あての自由廃業届と楼主あての手紙を書かせ~」
また昭和2年1月15日の東京朝日新聞も掲載。これは春駒にならって今度は「千代駒」が吉原を脱走し、芝公園の日本労働合同組合本部で重要会議中の岩内氏のもとに助けを求めた記事。
話をちょっと戻す。白蓮は蟄居先で関東大震災に遭った。その避難先に宮崎滔天の門下生が火のなかをくぐり抜けて握り飯と衣類を持って参上。白蓮を預かる中野家はこれに感動し、白蓮を龍介の許に帰した。この頃の龍介は結核再発で病臥。白蓮はひたすら原稿を書きまくって生活を支えた。この大量露出の原稿が、廓の春駒にも届いたのだろう。当時の宮崎邸には官憲から逃げた運動家や、自由廃業を目指す吉原の娼妓たち大勢の食客がいて、白蓮の筆一本で支えられていたとか。白蓮の項これにて終わり。★参考は永畑道子「恋の華」(藤原書店)、80年振りの復刻で朝日文庫刊の森光子「春駒日記」より。
白蓮の終焉の家春うらら(白蓮3) [新宿発ポタリング]
品川ポタリングで白蓮が乳母に育てられた立会川辺りを巡り、今度はご近所、目白通りから池袋方向に入って、白蓮終焉の宮崎邸に走ってみた
大久保の映画撮影所併設の広大な梅屋庄吉邸は当時の面影を残していないが、梅屋が資金援助をしていたという宮崎滔天の邸は閑静な住宅地に残っていた。隣にマンションと別棟を並築で現存。白蓮は大騒動から柳原家に蟄居の身になって竜介の子を産み、大正12年に晴れて宮崎家の人になった。この閑静な屋敷から、その後の白蓮の落ち着いた生活が伺えた。
白蓮と竜介が初めて逢ったのは大正8年。白蓮が書いた詩劇「指鬘外道(しまんげどう)」が雑誌「解放」に掲載され、上演希望が殺到して単行本化へ。それにあたって「解放」の責任編集だった竜介が「序文」を求めて福岡に白蓮を訪ねた。この詩劇は間もなく那枝完二の演出で上演されて、白蓮も上京した。この頃から二人の逢瀬が始まって700通もの恋文が交わされたとか。
この時、那枝完二は大久保・百人町に移住の3年前で、帝国劇場文芸部に入った年。那枝演出は間違いなかろう。宮崎竜介と白蓮のその後の人生は省略するが、白蓮は昭和42年・81歳で、竜介はその4年後に78歳で亡くなるまで、この宮崎邸で暮らしていた。
永畑道子「恋の華」の藤原書店版の解説(尾形明子)に興味深い一文があった。尾形は日本橋高島屋で開催「柳原白蓮展」の展示資料を見るために平成20年に宮崎邸に向かいつつ、かつて三人の女性が同じように歩いていた姿を想う。一人は大正12年の白蓮。一人は翌13年に足早に歩いていた森光子。最後の一人は昭和56年に白蓮の取材で宮崎邸を訪ねた永畑道子。この森光子はあの女優ではなく、吉原の花魁・春駒。苦界・吉原を脱出して宮崎邸に逃げ込んだ。竜介は弁護士、白蓮は婦人運動に尽力で、苦界の女性たちの駆け込み寺にもなっていたらしい。森光子「春駒日記~吉原花魁の日々」が朝日文庫から出版されているので、これも読んでみたい。
さて、あたしは宮崎邸から目白通りに戻って、椿山荘近くの佐藤春夫旧居跡にペタルを向けた。
ペダルこぎ品川宿の河岸の花(白蓮2) [新宿発ポタリング]
過日の品川ポタリング写真を見ていたら、かつて某の撮影に帯同し、そのスタジオ脇の路地に井戸があり、路地を抜けると品川宿だったことを思い出した。妙に懐かしい風景が甦って、また品川を走ってみたくなった。
新宿から外苑東通りで田町、品川から旧東海道・品川宿に入った。あの井戸は、荏原神社脇の目黒川河口寄りの路地にあった。旧東海道を新馬場駅~青物横町~鮫洲~立会川と辿って鈴ヶ森刑場跡辺りまで走って引き返した。 立会川には若き坂本竜馬が詰めた土佐藩の砲台があった。それは写真の「勝島運河」辺り。埋め立て前は海。この河岸に佇めば、先日読んだ永畑道子著「恋の華 白蓮事件」に、白蓮=柳原燁子(あきこ)が子供時分にこの辺で暮していたとあった。
燁子の父は華族柳原前光。妹・愛子が明治天皇に見初められ大正天皇の母になった。愛子の従女に美貌の「梅」がい、前光は「梅」を本邸に呼んで妻妾同居。次に前光が伊藤博文と競って得たのが柳橋芸者「おりょう」。この時分に女ったらし・伊藤博文は葭町「濱田屋」の貞奴を水揚げ。4月8日に明治座で石川さゆり「貞奴 世界を翔る」(脚本・なかにし礼)を拝見したが、冒頭舞台が「濱田屋」前で貞奴が伊藤博文に水揚げされる報に歓ぶシーンだった。
話を戻す。で、「おりょう」さんが燁子の生母。生後七日で引き離されて柳原家の子になった。正妻初子は立会川のほとりの種物屋・増山くにを燁子の乳母として7歳まで預けた。燁子は柳原家に戻ると、今度は9歳で北小路家の養女に。北小路随光が女中に産ませた資武と夫婦にさせられた。資武の好色にさらされ15歳で結婚。男児を産んで二十歳で離婚。26歳で福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚。気に入った娘がいれば従女にしてから伝右衛門の妾にした。そして自分は36歳で帝大生・宮崎竜介の許に出奔。まぁ、どこもかしこも妾妻同居の乱れよう。晩年の白蓮は、7歳まで過ごした品川での暮らしが最も懐かしいと訪ねている。
品川への再度ポタリングが、ひょんなことで白蓮の幼児期訪ねにすり替わった。往復40㎞。両脚に乳酸を貯めてやっと新宿に帰還。これで白蓮も終わりと思いきや、今度は白蓮が宮崎竜介と過ごした終焉の地・西池袋の宮崎滔天宅が今もあると知った驚いた。行かねばなるまい。
頬掠め鳴き声残し遠ツバメ [私の探鳥記]
4月4日のツバメ初認から、ベランダに立ち、ツバメのシャープな飛翔を眺める愉しみが増えた。換わっていつまでもベランダのミカンを求め来ていたメジロが、やっと姿を消した。満開の桜に場所換えしたのだろう。
ツバメの飛翔は素早く、なかなか目で追えぬ。見失った瞬間に、頬を掠め飛び、彼方上空で鮮やかなターンをして見せる。時に「キチキチッ」という鳴き声を耳元に残して、彼方で鮮やかに飛んでいる。
例年、二軒隣マンションの地下駐車場入口の天井で営巣していたが、車に糞が落ちたのを嫌った奴が巣を落としたそうな。もう、この街にはツバメが戻ってくるのを歓迎する人は少なく、今日の稼ぎが気になる異国の言葉が飛び交っている。今年のツバメはどこで営巣するのだろう。
妖艶な白蓮の恋乱れ揺れ(白蓮1) [花と昆虫]
新宿御苑で「白木蓮」の白い妖艶な花が咲き誇り、風に揺れていた。「白木蓮」は中国原産で20㍍に達する高樹。同じ科の「木蓮」は同じく中国原産で暗紅紫色の花。「コブシ」は日本種で高さ8~10㍍。
先日、大久保の梅屋庄吉夫妻が、大正の世を騒がせた「白蓮」の恋を陰で支えていたと記したので、簡単に説明を・・・。白蓮の本名は柳原燁子(あきこ)。伯爵柳原前光の次女。父の妹・愛子は大正天皇の生母。16歳で北小路子爵に嫁(か)すも、男児を産んで21歳で離婚。27歳で52歳の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚。豪勢な暮らしと歌集「踏絵」などで筑紫の女王。大正10年、出奔して帝大生・宮崎竜介の許に走った。この時、白蓮36歳、竜介29歳、伝右衛門への絶縁状が新聞に載って、世は大騒ぎになった。
この恋の陰に大久保の梅屋庄吉がいた。竜介は辛亥革命の仲間・宮崎滔天(とうてん)の息子で、親子共に資金援助し続けてきた縁で、手助けしたらしい。身のまわりのことも人任せだった白蓮を、梅屋の妻トクが別荘で一ヶ月の花嫁修業をさせたとか。(小坂文乃「革命をプロデュースした男」)。 なお、竜介は結核で伏せ、白蓮が筆一本で生活を支えた時期もあったそうだが、後に竜介は弁護士で活躍。池袋の宮崎滔天宅で夫妻仲良く暮らし、戦後は婦人運動、平和運動に尽力した。昭和42年、81歳で没。
昭和6年に夫婦で中国旅行なる記述。「もしや」と思って、車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」をひもとけば、梅屋の備忘録に中国から帰国して関西滞在中に「昭和6年8月、宮崎竜介・燁子夫婦来る」があった。白蓮の恋は著述業者の絶好ネタ。同時代の長谷川時雨をはじめ、今も多くの作家が書いている。
永畑道子「恋の華 白蓮事件」を読んだ。新事実を次々に掘り起こし、白蓮の人間象を浮き彫りにして一気読了。読み応えのある本だった。白蓮の略年譜、生母奥津家・柳原家・北小路家・伊藤家・宮崎家の略系図付き。藤原書店2008年刊だが、これは1982年に新評論より刊行された版とか。小坂文乃や車田譲治の梅屋本はまだ世に出ていなかったのだろう、梅屋庄吉への言及は一切なかった。
ツバメ来てツリーとサンの逢瀬かな [東京スカイツリー]
昨日、東京スカイツリーの後ろに朝日が昇った。昨年も同時期に同じような写真を撮った。頭が悪いゆえ、よくわからぬが朝陽は夏至(6月21日)が最も北寄りで、冬至(12月22日)が最も南寄りから昇る。約60度の移動。南から北に寄り、元の南寄りに戻って1年。その中間が春分の日(3月21日)と秋分の日(9月23日)で真東から朝陽が昇る。夕陽が沈む方位は、この逆になる。
かくして我が家から見て東京スカイツリーと朝陽が交わるのは往復の二回で、今と秋は9月10日頃。年に二回の交わり。昨年は4月6日に撮って<入学日ツリー真上に朝日祝>と詠んだ。今年も明日が公立学校の入学式だが、もうひとつ、愉しいことがあった。
かかぁの「おまいさん、ツバメが来たよう」の声にベランダに立てば、4羽のツバメがあのシャープな飛翔を展開していた。自宅からのツバメ初認は09年が4月11日、10年が14日、11年が19日だった。今年のツバメは一昨日の「爆弾暴風」の南風に乗ってきたか、えらく元気がいい。<ツバメ来てツリーとサンの逢瀬かな>
勝西郷日本の春を拾い上げ [新宿発ポタリング]
昨日の続き。・・・人生初の東京タワーを諦めたら、増上寺は「徳川家霊廟公開日」。畏れ多くも徳川家のお墓を掃苔後、第一京浜を走った。ややして田町・薩摩屋敷跡(現・三菱自動車本社前)に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見之地」の碑。
「この屋敷裏の海岸は、落語<芝浜>で革の財布を拾った舞台です」なる説明文。400字にも満たぬ碑文に勝・西郷会談の説明を割いても、碑文の書き手は<芝浜>を加えたかったらしい。ったくもう、この会談をなんと心得るかと呆れたが、あたしも「芝浜」は大好きだ。志ん朝の「芝浜」を聴くってぇと、棒手振(ぼてふ)りの魚屋・熊さんが五十兩拾ったシーンが目に浮かんでくる。しゃ~ない、こっちも勝海舟・西郷隆盛の会談と「芝浜」をごっちゃにした一句。 <勝西郷日本の春を拾い上げ>
「勝・西郷の会談地」からちょい先が忠臣蔵「泉岳寺」。義士のお墓がずらっと並んでいたが、「オヤッ」と思ったのが「首洗井戸」。「吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う」と書かれた井戸をよくよく見れば、囲い石に「川上音二郎建立」の文字。先日の大久保・梅屋庄吉の項で、梅屋が音二郎一座の「本郷座・大楠公」の芝居を本郷座裏の空地で撮ったと記したばかり。石川さゆりも目下「貞奴」を明治座で熱演中。なぜか「音二郎」とキーボードを叩きづいている。
で、品川駅は港区なんですね。駅周辺を散策してUターン。皇居辺りに戻れば、例のランナー群は男女共にファッショナブルなタイツ姿。自動車禁止の車道はこれまた自慢のロード+レーサーファッションのサイクリストたちが華やかに競い走っていた。安物自転車+ボロジーンズ+老体のあたしは、彼らの邪魔にならぬよう脇をそっと走って新宿に戻った。初めて尽くしの愉しい24㌔ポタリングこれにて終了。
春めきて寺とタワーの風を切り [新宿発ポタリング]
「おまいさん、死ぬ前に東京タワーに昇ってみるんじゃなかったのかえ。いい陽気だよ」
って声で、自転車を駆った。あたしは東京生まれだが、東京タワーに昇ったことがない。東京生まれなんて、そんなもんだ。加えて東京は城北生まれで、城南方面が疎い。城南の入り口が芝、高輪辺りだろう。まずは、これも初めて「愛宕山」に登った(写真上)。あの急階段を下りると、こんな写真が撮れた。「青松寺と愛宕フォレストタワー」。
新旧象徴の図も、青松寺は慶長5年(1600)に当地に移ったそうだが関東大震災で焼失し、昭和4年に鉄筋コンクリートになったとか。この辺りの大きな寺院は概ね同じで、震災か空襲で焼失して鉄筋コンクリート造りで再建。増上寺もそうで、ちょっと味わいに欠ける。ここで一句。<春めきて寺とタワーの風を切り> ふふっ、いい句だね。深みも重さもなく薄っぺら。隠居の身じゃなきゃ詠めぬ風のように軽い句だ。
東京タワー下の録音スタジオを某がよく利用していたので、何度も取材で通ったが、東京タワーは見上げるだけだった。さぁ、いよいよ我が人生初の東京タワーだ。おっと、そうは問屋が卸さなかった。春休みとタワー人気でか、家族連れが長蛇の列。
まだ死ぬまで多少の時間はあろうからと東京タワーを諦め、あたしは品川に向かってペタルをこいだ。(続く)
大正13年、戸山アパッチゴルファー現る [大久保・戸山ヶ原伝説]
大正12年9月1日に関東大震災が襲った翌年の1月、岡本綺堂が越して来る数ヶ月前の「東京日日新聞」に左記の記事が載った。世に言われる「戸山アパッチゴルファー」の報。題して「戸山ヶ原のゴルフ老人」。写真は「戸山ゴルフクラブの花形・明石雷一氏の夫人」。本文はこうだ。
この十数年間、雨が降らうが雪が降らうが一日として戸山ヶ原に姿を見せぬことのない鳥羽老人は、わがゴルフ界の先覚者として且運動精神を眞に體得した人として稱されてゐる。老人がゴルフに親しみ出したのは持病の心臓病で餘命幾ばくもないと医師から宣告された明治四十年の春であつた。職業柄洋服仕立ての見本に送られた写真で外人がゴルフに親しんでゐるのを見て自分も一つやつて見ようと思ひ立ち苦心の末やつとクラブと球を手に入れ病身を運んで戸山ヶ原に立つた。無論クラブのにぎり方も打球方法も知らう筈がなく、数葉の写真を参考に兎も角球を打つことを練習した。姿勢の不恰好は當時から評判もので更に~」
この新聞コピーは、あたしが有栖川公園の都立中央図書館でマイクロフィルムをコピーしてもらったもの。全文読む機会は滅多になかろうから全部引用です。ただしコピー不鮮明にて旧字、誤字はご諒承下されたし。
「奇妙なのは手の握り方が普通の人と全然反體に左手を前にして握る。恐らく寫眞で見た打球後の姿勢を打球前の姿勢と感(勘)ちがへして手の入れちがつたままを真似た為であらうが、癖になってしまつた氏は今に自説を固執し決して握りをかへようとはしない元々運動に素養がないから技術は遅々として進まず長年間の研究で得た結果はドライブの最長距離が三十ヤードから四十ヤード程度で、若手の後進が二三百ヤードを平気で飛ばすのにくらべると十分の一にも及ばない。ただ草中に見失はれた球を逸早くさがし出すことが大の得意でこゝとにらんだ場所には百発百中決して球から五インチと離れたことがない。併し氏の目的は技術の進歩ではなく、短命を宣告された健康状態を運動によって回復して見せようとするにあり、この目的は見事に達せられた。心臓病は一年足らずのうちに奇麗に回復して医師をおどろかせた。併しそれにもまさるよろこびは従前の悲観的な気分があかるい世界にかはり仕事の能率が倍にも三倍にも上つたことだ。斯うして運動の有難味を体験した氏は十数年間一日も欠かさず起き抜けに原野に現れあけの烏や早起きの茶屋の婆さんをおどろかせながら日に三時間野原のかなたこなたと球を打ちまはった。最近この老運動家を中心に新しいゴルフ倶楽部が生まれたが、保土ヶ谷や駒沢のリンクが五百圓から千圓の入會金を〇しブルジョア気分をほこつてゐるに對しこの倶楽部は何こまでも地味に運動愛好の初心者を集めゴルフをもつと一般的なものにしようとしてゐる。なお入會希望者は市外戸塚町諏訪〇〇方ゴルフ倶楽部へ連絡すれば誰でも歓迎するとのこと。」
なお、井上勝純著「ゴルフ、その神秘な起源」によると、鳥羽老人の姿を認めた洋行帰りの同好の士らが次々に加わって、次第にシュートコースが出来たとか。また球拾い名人は鳥羽老人ではなく原老人で、当時のボールは新品で1個2円(今日の1万円)也。ここで生まれた「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」の発会式は同月13日に行なわれ、会員80名が参加したとある。陸軍練兵場の兵隊がいない時間にもぐり込んでプレイする訳で、称して戸山ヶ原のアパッチゴルファー。しかし人数が多く、かつ大っぴらにやられるようになって、陸軍もついに黙認できずにゴルフ禁止と相成った。締め出された同倶楽部員たちは、やがて「武蔵野カンツリー倶楽部」設立に動き出すことになる・・・と書かれていた。
大久保・戸山ヶ原は大衆ゴルフ発祥の地でもあったんですねぇ。多くの画家がスケッチをし、文士が散歩をし、時に梅屋庄吉の映画会社が野外撮影をした大正時代の戸山ヶ原でした。
百人町上空ツェッペリン低飛行す [大久保・戸山ヶ原伝説]
岡本綺堂は関東大震災で麹町を焼け出され、1年3ヶ月の大久保暮しだったが、同じく麹町から移って約7年を百人町で過ごしたのが邦枝完ニだった。永井荷風に私淑し、荷風推薦で処女作「廓の子」が「三田文学」に掲載。同誌編集にも携わった。江戸の風情・情緒を主にした娯楽小説で人気作家へ。彼の長女で、俳優・木村功と結婚した木村梢が、少女時代を回想した「東京山の手昔がたり」(世界文化社刊)で「大久保時代」を書いている。
麹町三宅坂で新婚生活を送った邦枝完二だが、母(姑)と嫁の仲が悪く、嫁と二人で大久保に移転。関東大震災の約半年前のこと。寂しくなった母は、嫁いびりをあやまって大久保に押しかけてきたとか。場所は大久保百人町で岡本綺堂宅の隣と書いてある。邦枝が先だから、後から岡本綺堂が引っ越してきたってことだろう。隣とは東西南北のどっち隣だったのだろう。「すぐ裏は陸軍練兵場の戸山ヶ原が見渡す限り広くあり、江戸の頃より躑躅の名所と言われただけあって、何処の家にも躑躅の花が美しく咲き競う町であったという」。
大震災は「大揺れに揺れた家は壁に隙間が出来たり、茶棚のもの全てが落ちて割れたりはしたが、誰も怪我もなく無事であった」そうな。梅屋庄吉邸の震災被害も少なく、この辺は地盤が固いのかも。そのうちに襲って来るという大地震に、ちょっと安心なり。さて、著者はそこで大正15年11月に生まれた。産まれたのは市ヶ谷・一口坂の産院。梅屋庄吉といい、なぜか「市ヶ谷・一口坂~大久保」の縁が重なる。
著者が大久保暮しではっきり思い出せるのは、ツェッペリン(235mの飛行船)だと書いてあった。「近所におせんべ屋があり、そこの娘さんが私を可愛がってくれて、その日も遊びに行っていた。二階から物干台に出ていた時、私たちの真上を大きな灰色のものが空一面を覆うようにゆっくりゆっくりと横切って行った」。余りの驚きでひきつけを起こして、母に抱きかかえられて医者に行ったとか。昭和4年の夏、世界一周の途中で霞ヶ浦飛行場に降りたツェッペリイ伯号だろう。
なお邦枝家の先祖は、徳川慶喜公と共に駿府に行き、江戸は麹町平河町に戻ってきた旗本らしい。昭和5年に平河町に戻った国枝完二は昭和6年「歌麿をめぐる女達」をはじめで流行作家へ。永井荷風全集には彼の「おせん」の序文や、「偏奇館雑談」(荷風・邦枝)が収録されている。
次回は邦枝完二が大久保に越してきた数ヶ月前の「東京日日新聞」に載った「戸山アパッチゴルファー」の記事を紹介。








