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ジャポニスム4:モネの場合 [スケッチ・美術系]

mondejap1_1.jpg 印象派の「ジャポニスム」を語る上で留意すべきは、伝統的日本画ではなく「浮世絵」ってこと。1883年(明治十六年)、仏国の美術雑誌が余りに北斎を絶賛するので、フェノロサが正統派日本画を紹介したが一蹴されたとか。庶民パワーの浮世絵を見くびってはいけない。

 永井荷風は『浮世絵の鑑賞』でこう記している。~(浮世絵は)圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙りつつしかも能くその発達を遂げたりき。(中略)遠島に流され手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示しその凱歌を奏するものならずや。

 さて馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、今度はモネのお勉強。同著では多数評論家のモネ作品の「ジャポニスム」指摘を北斎、広重版画などと図版対比で詳細説明。ここはブログゆえ要点のみを簡略・箇条書きです。

●モネのジャポニスムは、初期から晩年まで六十年の画歴を通じて見られる。●モネの急速に遠方に退く誇張気味の遠近法も広重に似ている。従来西洋画になかった浮世絵版画の遠近法を採り入れている。

●モネは「空から振る枝」「画面前景に立ちはだかる木」「すだれ効果」「イメージの重なり」「画面の分割構図」「画面に平行な前景の処理」「俯瞰する視点」など北斎、広重に学んだ。

●日本人は自然を彩られた明るさに満ちたものとして捉え、多彩な色調、色彩の明るさで背景を暗くしない。モネは西洋風景画家のなかで最初に色彩の中に溶け込んで行く日本人の大胆な色彩感覚を得た。

●晩年の『睡蓮』連作には、暗示的な芸術性、日本的自然観などを深く理解した結果の現れ。日本美術の自然モティーフを多用した装飾性も認められる。

 この説明に、小生は再び永井荷風の記述を加えたい。●クロード・モネエが四季の時節及朝夕昼夜の時間を異にする光線の下に始終同位置の風景及物体を描きて倦まざりしはこれ北斎より暗示を得たものなりといはる。

m_sanpokasa2_1.jpg モネ作品ことごとくに「ジャパニスム」が認められるならば~。小生が絵を描き始めた2年前秋のこと。モネ展へ行こうとするも余りの大行列で断念し、自室に籠って不透明水彩で簡易模写したこのパラソルの絵だって、浮世絵には傘さす似たような女性絵は沢山ある。これまた「ジャポニスム」と云えなくもない。

 ここで改めて手元のモネ画集をひも解けば「ジャポニスム」の文言一切なし。注目度変遷をネット調べすれば、官邸サイトに辿り着いて興醒めなり。来年の日仏友好160年に「ジャポニスム2018をパリ中心に開催」の推進会議内容らしい。

 また今年十月には国立西洋美術館で「葛飾北斎とジャポニスム」開催とか。馬渕明子著『ジャポニスム』初版が1997年で、最終章が『葛飾北斎とジャポニスム』。それで氏は今、国立西洋美術館館長らしく唸ってしまった。

 写真上はモネ『ラ・ジャポネーズ』(1876年、明治九年)。ホイッスラーの着物立ち姿と似ている。次はゴッホの場合。

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ジャポニスム3:ホイッスラーⅡ [スケッチ・美術系]

whishiro1_1.jpg 野上秀男『日本美術を愛した蝶~ホイッスラーとジャポニスム」を読む。こんな時代(あらゆる意を含み)の今年一月に、十九世紀末の画家ホイッスラーの評伝書が出版とは。まずは冒頭文。

 ~十九世紀後半、日本美術を初めて知った西洋の画家たちは衝撃を受けた。彼らは浮世絵版画の鮮やかな色彩、繊細な線、独創的な形象のとらえ方、構図などに感嘆したのである。西洋美術における日本美術の影響はジャポニスムと呼ばれ、西洋人画家たちは、その手法を自分たちの作品に取り入れようとした。そうした試みに最も早く取り組んだ画家の一人が、パリとロンドンで活躍したアメリカ人画家、ジェイムズ・マクニール・ホイッスラーであった。

 単行本一冊の評伝ゆえ、前回ブログに大量追記したくなるも、ここは「興味ある方は同書をどうぞ」で省略し、破産後のホイッスラー逸話を同書より簡単紹介。

 名を成せば富豪も注文で、画家は金満になる。邸宅装飾を頼まれて、自邸も建てたくなった。「ホワイトハウス」と呼ばれた外観に、意匠を凝らした室内装飾。1878年秋に入居だが、半年後に経済破綻。作品批判のラスキン相手の訴訟費用もあって邸宅、蒐集してきた日本美術品も競売へ。

kyobasihiro1_1.jpg ホイッスラーさん、めげずにベネチア風景のパステル画を百点、エッチング五十点で負債額に近い収入。富豪らの肖像画もセッセと描いた。1885年(明治十八年)、美術思想と主張を語る「十時の講演」ツアー。企画はオペレッタ『ミカド』のプロモーター女史。

 裁判、経済破綻、講演で再び人気上昇。メンペスとショカートが弟子入り。メンペスは師に内緒で来日し、河鍋暁斎に逢った。暁斎の弟子ブリンクリーとコンドルについては弊ブログ「青山・外人墓地」で紹介済。ホイッスラーは帰国したメンペスから、日本人画家らの話を食い入るように聞いたそうな。弟子の二人は後に英国を代表する画家へ。

 1886年、ホイッスラーは英国画家協会・会長に就任。米国人鉄道事業の成功者フリーアがパトロンになって、作品は高値で次々に米国へ渡った。ボストン美術館を無期休職されて生活苦のフェノロサがフリーアの日本古画購入に助言し、自身が持つ蒐集品も彼に買ってもらったそうな。

 ホイッスラーは1903年(明治三十六年)に69歳で病没。彼の「講演」内容も記したいが、「ジャポニスム」は印象派巨匠らも控えているので終わる。写真は『ノクターン:靑と金色~オールド・バターシー・ブリッジ』と歌川広重『京橋竹がし』。似ているでしょ。

 また、永井荷風はこう記している。「ホイスラアが港湾溝渠の風景の如き凡て活動動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたる事僅少ならず。(続く)

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ジャポニスム2:ホイッスラーⅠ [スケッチ・美術系]

whistler1_1.jpg まずは最も早い「ジャポネズリー」とも云うべき絵を描いたホイッスラーについて。参考は小野文子著『美の交流~イギリスのジャポニスム』の第2章「ジェームズ・マックニール・ホイッスラーのジャポニスム」。

 彼は米国マサチューセッツ州生まれ。画家を志して1855年(安政二年)渡仏。四年後に英国移住。日本では吉田松陰が伝馬町入獄の年。

 ホイッスラーは英国の「芸術のための芸術=唯美主義」をリード。彼がオリエンタル・ペインティング『陶磁の國の姫君』を描いたのは1864年(文久四年)。同様作は他に『紫とばら色』(中国服モデルが陶磁器絵付けの図)、『紫と金の狂騒狂:金屏風』(大和絵屏風を背に床に座る着物女性が浮世絵を見る図)。

 著者はホイッスラーが日本美術品を見たのは渡仏時代で、入手はロンドン移住後。1863年(文久三年)のオランダ旅行で日本陶磁を購入し、パリの店へも注文していたと推測。当時のパリはリヴォリ街にドゥゾワ夫妻経営の日本・東洋品を扱う店あり。夫人が1862年に日本在住歴ありで、夫と同店を経営。顧客はマネ、ラトゥール、ボードレール、ゴンクール兄弟ら。またロンドンにも東洋品を売る店があったらしい。

 彼はかくしてオランダ、パリ、ロンドンで東洋品(次第に日本美術品)を蒐集し自邸を飾って、英国の日本美術愛好家の芸術家リーダー的存在に。1870年代に<ノクターン(夜景画)>シリーズを開始。その代表作が『靑と金~オールド・バターシー・ブリッジ』。

 同作は広重『名所江戸百景/京橋竹がし』からインスピレーション。その構図、情景印象を僅かな色彩と繊細な色使いで静寂を表現。禅画、水墨画にも通じる作品で「ジャポネズリー」(日本趣味)から「ジャポニスム」へ深化。従来西洋画から完全脱皮した新たな西洋画を構築。

 彼はさらに日本画の技法、溜込(たらしこみ)だけで描いた作品(水彩画かしら)も挑戦。同書のそのモノクロ図版を見て、小生思わず「あっ」と叫んでしまった。同書では俵屋宗達『風神雷神』の黒雲を例に説明していたが、小生は同作より緻密かつ完成度の高い溜込作品を見たことがあったからだ。

 以後は余談入りだが、小生は若い時分に画塾通いの時期があって、師はアル中で絵筆持てず、黄色系顔料をスポイトに吸い込んでポタッ・ポタ~リと大キャンバスに垂らし、具象抽象とも云えぬ風景画を描いていた。

 同書のモノクロ図版『バターシー』から、五十年も前に見た画塾先生の作品群が突然甦ってきた。そうか、先生はアル中なんかじゃなくて〝ホイッスラー〟だったんだと知った。

 ホイッスラーは1879年(明治十二年)に経済破綻。贅を凝らした邸宅、蒐集した日本美術品も競売されたとか。(Ⅱへ続く)。

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ジャポニスム1:まずはじめに [スケッチ・美術系]

mabutiakiko2_1.jpg 俄か絵画好き隠居の「ジャポニスム」お勉強です。教科書に馬渕明子著『ジャポニスム 幻想の日本』(著者は現・国立西洋美術館館長?)を選んで、テーマ毎に別参考書も加えて自分流要約。まずは定義から。

 「ジャポニスム」は「ジャポネズリー=日本趣味、エキゾティック趣味」と違って、西洋絵画がルネッサンス以来の遠近法的な空間表現と価値観(キリスト教の)から、現代的表現、価値観を構築すべく日本美術からヒントを得て壁を打破しようとした作品。仏国辞書に「ジャポニスム」登場は1876年(明治九年)。期間は1860年(文久年間)頃から第一次世界大戦前後(1910~20年、明治四十三~大正九年)。

 日本美術の海外進出の経緯。最初は長崎出島のオランダ交易。そしてペリー艦隊と共に来日のドイツ人画家ヴィルヘルム・ハイネ(「ペリー総督横浜上陸の図」を描いた)の日本紹介出版物(ドイツ語版1856年・安政三年。翌年にフランス語版)。続いて各国外交官メンバーらが次々に日本紹介出版物を刊行。日本の風俗・景色紹介に『北斎漫画』や『富嶽百景』が活用された。

 1862年(文久二年)の「ロンドン万博」出品作選択は英国初代駐日総領事オールコック。彼は大著『大君の都』等を出版。蒐集した日本美術品も母国に持ち帰った。以後経緯は枚挙にきりなく省略。 

 過日のブログで「フェノロサはホイッスラーのジャポニスム作品の話題を知って日本に関心を抱き~」と記したが、ホイッスラーが『陶磁の國の姫君』を描いたのが1864年(文久四年)。その二年後にはマネが『エミール・ゾラの肖像』背景に浮世絵版画を描き込んでいた。その頃から日本ブームが始まっていたらしい。

 1867年(慶応三年)に「パリ万博」。パリの「カフェ・ゲルボワ」にマネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、シスレー、モネ、ピサロがたむろっていた。ルノワールは1871年(明治四年)に『花束と団扇のある静物』、翌年に『本を読むモネ夫人』。両作共に団扇入り。マネは1873年(明治六年)に『婦人と扇』。同年に第一回印象派展開催。モネが着物姿の西洋女性が振り向く『ラ・ジャポネーズ』を描いたのは1876年(明治九年)。

 パリ中心の日本ブームに若き印象派画家らが飛びついたが、著者・馬渕氏は「この頃はまだ〝ジャポネズリー(日本趣味)段階。エキゾチック演出に屏風、扇子、団扇、着物、陶器、版画などを描き込んだに過ぎず」と記していた。(続く)

 

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グラフィックデザイナー・藤島武二 [スケッチ・美術系]

mucha2_1.jpg 「生誕150年記念 藤島武二展」は、多彩な描き方のサンプル集みたいで、小生の胸打つ作品はなかった。図録年譜をみると四十三歳、明治四十三年(1910)から四年間の欧州留学(官費)。帰国後に東京美術学校の助教授から教授になって高等官七等とあり、その後の昇進も記されていた。

 ここで気付いた。「あぁ、彼のスタンスは文展・帝展、日本の西洋画アカデミスの教師・官費・官吏ゆえの破綻のなさ、安定感なんだ」と。図版の偉そうな官僚・軍人風の写真と相まって、ゆえに絵に面白さがなかったんだと納得した。

 そのなかでグラフィック・アーティスト=藤島武二のコーナーは「おぉ、いい仕事じゃないか」とちょっと胸が騒いだ。それら仕事は明治三十四年(1901)の東京新詩社(与謝野鉄幹主宰)の『明星』表紙や挿絵、また与謝野晶子『みだれ髪』表紙に端を発したグラフィックデザイナー的な仕事群。

 白馬会や東京美術学校など黒田清輝の世界から離れた土壌で、個性・才能発揮かしらと思った。藤島武二の名や絵を知らぬ方も、与謝野鉄幹・晶子歌集の表紙の絵、といえば多くの方が頷くかもしれない。

 そのなかに明治三十五年『文芸界』表紙もあった。確か永井荷風が同誌懸賞小説に応募し、入選を逸するも単行本化『地獄の花』(荷風処女本)されたはず。森鴎外から〝読みましたよ〟と言われて大感激した青年・荷風がいた。また荷風が慶応義塾文学部教授と『三田文学』を辞めた二年後、与謝野鉄幹が同教授になっての『三田文学』(大正八年)の表紙や『スバル』表紙もあった。

 これら仕事の図録解説を読むと、留学前に欧州に憧れて蒐集していたアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォーの中心人物)、オットー・エックマン(ドイツ・ジャポニスムの先駆者、日本の書からアレンジヒントを得た書体)、スタンラン、ハンス・クリスチャンセン、ヤン・トーロップ、フェリックス・ヴァロットンら「ジャパニスム~アール・ヌーボー」の人々の資料を参考に描かれたもの、と説明されていた。

 ここで、失礼ながら藤島武二の絵への興味は急速に薄れ、彼が模倣(参考にした)した「ジャポニスム~アール・ヌーヴォー」への関心が盛り上がった。

 先日のフェノロサの記事で、彼が〝お雇い外国人〟になったのはホィッスラーのジャポニスム作品から日本への興味を抱いて~と記したばかりゆえ、まずは印象派、後期印象派の画家らの「ジャポニスム」についてお勉強したくなってきた。俄か絵画好き隠居に美術史は無知領域で、お勉強にキリがありません。

 挿絵は若い藤島武二が熱心に模写しただろうアンフォンス・ミュシャ作品から、小生は「自転車パーフェクタ」ポスターの簡易模写(途中まで)。次は「ジャパニスム」のお勉強へ。(藤島武二3おわり)

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『芳蕙』は不明、『鉸剪眉』は油彩 [スケッチ・美術系]

kousenbi2_1.jpgkousenbi5_1.jpg 「行列してまで〇〇したくない」小生に、練馬区立美術館は程好い〝空き〟具合。会場で〝お葉さん〟を探したが、代表作の『芳蕙(ほうけい)』、そして『女官と宝船』もなかった。

 図録に<『芳蕙』は『蝶』と共に行方不明。『芳蕙』は五十年前の展示から足跡が途絶えている>とあった。所有者某が没落後に行方不明。あの中村彝『エロシェンコ氏の像』は、その某氏から東京国立近代美術館へ寄贈されたのだが~とあった。

 その代わり、同時期の鉛筆画『婦人像』があった。作品説明に「モデルは〝芳蕙〟と同じ、佐々木カネヨであろう。彼女は藤島モデルとしても知られるが〝お葉〟の名で竹久夢二の恋人、モデルとしてつとに有名である」。だが竹久夢二の前は〝責め絵・伊藤晴雨〟のモデル・愛人だったとは記されていなかった。

 そして『鉸剪眉(こうせんび)』。事前に観ていた現代日本美術全集『青木繁/藤島武二』収録作とは違っていた。全集同作は「紙・パステル・水彩」で、横顔の輪郭線があり、背景との間に白地が残されていた。同画集には「油絵よりも、このパステルと水彩の作品がすぐれている。まさに絶品と言えよう」とあった。展示の油彩は横顔や背景が無筆触単色塗りで、あの味わいが塗り潰されてしまった感じだった。

 同テーマの『東洋振り』や藤島模写のルネッサンス期の横向き婦人像も展示で、作者の模索過程がわかって面白く、それだけに『芳蕙』が観たかった。小生はこの連作を観つつ、狩野芳崖が『悲母観音』で見せた基督教美術と仏教美術の融合、そして藤島武二の「油彩で描いた日本画風仕上げ」を較べていた。

 会場には実に多彩な描き方、筆触の作品が並んでいた。それらはどれも何処かで観たような気がして、作品に魅了されるのではなく「私はこんな風にも描けますよ」というサンプル展示を観ているよう。これが文展・帝展アカデミズムの中心に居続けた画家・教師・官吏のスタンスで、つまらん安定感と思った。俄か絵画好きの素人感想で失礼は承知だが、胸打つ画家なんて、そんなに多くはいない、と改めて認識した。

 写真は『鉸剪眉』の部分。左がパステル・水彩作。右が油彩。次はちょっと胸躍った藤島武二のグラフィックデザイナーとしての仕事について。(藤島武二2)

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〝お葉〟に会いに藤島武二展へ [スケッチ・美術系]

oyoufutatabi.jpg 秋の気配に、閉じ籠もっていた冷房装置の部屋を出て美術鑑賞へ。興味を惹いたのは〝大行列の大美術館〟ではなく、練馬区立美術館「生誕150年記念 藤島武二展」。

 フェノロサ、狩野芳崖、岡倉天心らによる洋画排斥の東京美術学校創立までを勉強したので、その六年後の西洋画科設置からのお勉強。藤島武二は慶応三年、薩摩藩士の子として誕生。十六歳より四条派の画家に学び、十八歳で上京して深川の四条派・川端玉章門下。「玉堂」の名で美人画などを描くも、二十二歳で西洋画に転向。二十九歳で西洋画代表・黒田清輝によって助教授任命。

 三十八歳、明治三十八年に四年間の欧州〝官費留学〟。五十九歳、大正十五年に「油彩で東洋的典型的美」到達の代表作『芳蕙(よしえい)』、翌年に『鉸剪眉(こうせんび)』発表。その代表作も観てみたかった。

 さらにそれら代表作のモデルが、なんと〝責め絵〟伊藤晴雨から竹久夢二へモデル・愛人遍歴を経たお葉さん(本名・佐々木カ子〝ネ〟ヨ、通称嘘つきお兼、〝お葉〟は夢二が名付けた)らしいのだ。この時、お葉さんは二十二歳。どこでこんな知識を得たかと云えば、本棚の金森敦子著『お葉というモデルがいた』。

 以前の弊ブログで「夢二の〝お葉〟は責め絵モデルだった」「夢二・晴雨・お葉」(共に閲覧多い記事)の〝お葉さん調べ〟は図書館資料によったが、その中の一冊の同書を神田古本市で三百三十円で入手。本棚にあったのを引っ張り出して読み直したってワケ。

 藤島武二とお葉さんの関係を同著より要約する。~お葉さんは十三歳から東京美術学校のモデルとして活動。当時の藤島は日本的画題を描く時に彼女をモデルにしていたとか。長女より一つ下のお葉に父親のように接していたそうな。

 やがてお葉さんは責め絵・伊藤晴雨のモデル・愛人。そして竹久夢二のモデル・愛人へ。運命の男たちと愛と性の遍歴を経て、再び藤島武二の前に立ったのが大正十五年。藤島は横浜で中国服をオーダーして、代表作『芳蕙』と『鉸剪眉』を描き、お葉さんにとってもそれが最後のモデル仕事。

 昭和五十二年の「藤島武二回顧展」を訪ねたお葉さんが、こう言ったそうな。~「女官と宝船」もそうですし、先生の代表作「芳蕙」のモデルも私でした。半年間も先生のアトリエに通い詰めましてね」(同著の孫引きで平岡博「藤島武二展での邂逅」より)。お葉さんは、そう述懐した三年後の昭和五十五年に七十六歳で没。

 さぁ、藤島武二展へ〝お葉さん〟に会いに行こう。挿絵は二年目のブログで描いたのを再利用。(藤島武二1)

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芳崖「悲母観音」の秘密 [スケッチ・美術系]

hibokannon_1.jpg 狩野芳崖「悲母観音」の解釈は諸説。吉田亮著の最終章「悲母観音をめぐって」も諸説彷徨。~フェノロサの影響はなかった。米国フリーア美術館蔵「魚籃観音」原画説も違うだろう。では日本の聖母子像か、はたまた裸婦下絵群の意味は~。著者は亡くなった妻に〝理想の母像〟を見たのではと結んでいた。

 それではスッキリしない。芳崖夫妻に子はなく、彼にとっての妻は苦難を支えた伴侶で〝母〟ではなかろう。松本清張『岡倉天心』では「観音像は八歳で失くした母への追慕だろう」と記していた。

 小生は弊ブログの九鬼周造シリーズで、彼の父・隆一と母・初子と岡倉覚三(天心)の濃密な不倫関係を記したゆえに、「悲母観音」の裏にも三角関係ありとする中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』の考察が〝面白い〟と思う。

 以下、同趣旨を要約。~初子は茶屋「山本山」七代目と芸者の子。裕福な暮らしも七代目失踪で絶縁されて芸者へ。そんな十五歳の初子を文部官僚の漁色家・九鬼隆一が落籍(ひい)た。九鬼には常に外に女がいるも、初子は八回妊娠させられ四人の子を産んだ。ワシントン日本公使時代も別の女がいて、その上でまた身籠った。

 この時、フェノロサと岡倉は九ヶ月に及ぶ欧米美術視察旅行。米国視察から欧州へ。覚三はキリスト教絵画の聖母像、聖母子像、受胎告知、アダムの創造などを見て、明治十七年に芳崖が描いた「観音」を想った。彼ならば「キリスト教美術と仏教美術の融合作」が描けると確信した。

 欧州から再び米国に戻って公使館へ。妊娠中の公使夫人・初子が体調不良を理由に覚三と共に帰国を望む。長い船旅の間に二人の心が通った。帰国後の明治二十年秋、覚三・初子・覚三の弟・由三郎が秘かに小川町の芳崖宅を訪問。芳崖は「受胎観音」を描く下絵に初子の(西洋画と同じように)裸体デッサンを重ねた。(この裸婦下絵群は「悲母観音」と共に国指定重要文化財)。

 芳崖は同下絵から「受胎観音」を描けば、九鬼隆一の眼が誤魔化せない。また自身に病魔が襲って時間的余裕がなくなったことで同下絵で「悲母観音」に切り替え、覚三と自身の挑戦「キリスト教美術と仏教美術の融合」かつ「真の芸術は宗教と結びついてこそ」を具現。

 荷風の師・不崩は「しのぶ草」で「悲母菩薩の童子モデルは翁の愛孫(養子の子)、眼下の奇峯は妙義山が参考にされた」と記した。そしてモデルは初子、お腹には九鬼周造。その後の覚三と初子の仲は一段と深まって、幼き周造は覚三が父だと思ったほどの暮しを展開。だが九鬼隆一は頑として離婚を認めず、彼女を精神病院に閉じ込めた。

 長くなったので、この〝お遊び〟を終わらなくていけない。最後に長じた九鬼周造は、永井荷風の「いき」に憧れて、「いき」を哲学した、と小生の独断で締めくくって終わる。(荷風の絵心7で完)

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岡倉覚三と狩野芳崖と初子 [スケッチ・美術系]

okakurahatuko2_1.jpg フェノロサと狩野芳崖の出会いに比し、岡倉覚三と狩野芳崖の出会いを重視する説も多い。岡倉覚三(天心)については、今年春の「九鬼周造」の項、松本清張「岡倉天心」の項で紹介済も改めてお勉強。

 岡倉の父は、横浜で福井藩交易所支配人。福井の生糸・絹を外国貿易商に売っていた。覚三は同家次男で文久二年(1863)生まれ。長男早逝で、父は覚三を英才教育。八歳で母を亡くした頃から漢籍、英語の勉強。英語は横浜の教会塾。

 明治四年、十一歳で廃藩置県。一家は東京・蛎殻町で宿屋兼越前物産取次所を経営。覚三は南画、漢詩、琴、茶道を習いつつ東京外国語学校から開成学校へ。学制改正で同校は東大。文学部で英米文学を読み漁った。弟。由三郎は後の英語学者だが、彼にして兄の英語力には遠く及ばなかったとか。

 そして東大の政治学、経済学教授がフェノロサだった。彼の古美術蒐集・研究に英語堪能かつ漢文が読めて古書・古文書が解読出来る覚三の存在は欠かせない。

 東大卒から文部省官吏。最初は音楽取調掛(後の東京音楽学校。掛=かかり=係)も上司と合わず内記課へ。明治十六年、文部官僚実力者・九鬼隆一が「龍池会」副会頭になり九鬼~岡倉~フェノロサの日本美術復興体制を固めた。

 明治十六年春、第二回内国絵画共進会開催で、フェノロサが芳崖作品に驚嘆。芳崖を訪ねたフェノロサの同行者・通訳が覚三だった。明治十七年、九鬼によって覚三とフェノロサを京都・奈良へ三度派遣。法隆寺・夢殿の秘仏(救世観音)が初めて姿を現した。明治十八年、図書取調掛(美術学校設置準備)が小石川植物園内に設けられて覚三が掛員に就任。明治十九年、覚三とフェノロサが約九ヶ月の欧米美術視察へ。

 明治二十二年〈1889)、帝国博物館総長に九鬼隆一が、翌年に東京美術学校初代校長に覚三が就任。翌年に狩野芳崖が絵画科主任教授に就任。開校直前の十一月、芳崖急死。その絶筆が近代日本画の代表作「悲母観音」(一方、当時の油彩代表作は高橋由一「鮭」)だった。「悲母観音」には、覚三と芳崖の秘めた想いが込められていたらしいのだが、長くなったので次回へ。(荷風絵心6)

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狩野芳崖とフェノロサの出会い [スケッチ・美術系]

fenollosa2_1.jpg フェノロサについては前述の吉田亮、中村愿の両著に加え栗原信一著『フェノロサと明治文化』も参考にする。フェノロサはハーバード大(当時は有名大とも言えず)で哲学、経済学、政治学を学ぶ。卒業が明治七年(1874)。二年後、二十四歳でボストン美術館附属の美術学校(米国最初の)でデッサンと油絵を学ぶ。

 当時のフェノロサ家にはいち早く北斎版画あり。またジェームズ・ホィッスラーのジャポニスム作品(金屏風前の着物女性など)の話題も米国にも届いて日本へ興味を抱くようになっていた。そこに東大〝お雇い外国人・モールス〟(大森貝塚発掘のモース)〟が一時帰国。モールスに東大哲学講師を誘われて明治十一年(1878)に来日。

 当時の日本は廃仏毀釈で、日本美術の宝庫=諸寺が瀕死状態。上流階級も疲弊。世をあげた文明開化で西洋かぶれ。明治九年、伊藤博文進言の工部美術学校設立でイタリア講師を招聘。お雇い外国人月給が数百円で、芳崖はじめの日本画家らは一円にも困る生活。古美術は二束三文で骨董屋に溢れていた。

 当時の外国人の多くがそうだったようにフェノロサも古美術を蒐集。多くの偽物も買い込んだ。黒田侯爵家の立派なコレクションに衝撃を受け、本格的な古美術研究を開始。日本語を読めぬ話せぬ彼の古美術蒐集・研究の手助け(通訳)を、東大の教え子で英語力抜群の有賀長雄(後の法学・社会学者)と漢籍も学び古書も翻訳できる岡倉覚三がした。狩野友信や狩野永悳(えいとく)など日本画の人脈も広げて、彼の古美術研究が進み、明治十五年(1882)に「日本美術工芸は果たして欧米の需要適するや否や」を講演。これが『美術真説』と題して刊。

 これに、押し寄せる西洋文明に危惧・反感を覚え、伝統的日本美術を保護・育成、かつそれらを海外輸出の殖産興業にと画策した「龍池会」メンバーらが乗った(利用した)。彼らは今までの鬱憤を晴らす勢いで洋画排斥、日本美術ムーブメント興しに立ち上がった。

 フェノロサは日本古美術を救った恩人か、単に利用された存在か、はたまた日本美術品の海外流出の罪ある存在か~。この辺も諸説ありで、興味ある方は膨大なフェノロサ関連書でお勉強をどうぞ。

 かくして「龍池会」の活動で、洋画科なしの東京美術学校開設(初代校長は岡倉覚三、副校長がフェノロサ)。ちなみに西洋画科設置は明治二十九年(1896)。この辺は政治がらみの複雑さゆえ省略。(松本清張『岡倉天心~その内なる敵』に詳しい)

 さてフェノロサと狩野芳崖の出会いは何時か。明治十五年(1882)の第一回内国絵画共進会でフェノロサが芳崖作品を激賞。友信に誘われて芳崖がフェノロサを訪問。(栗原信一著では、フェノロサが岡倉覚三と共に芝公園の芳崖宅を訪ねた)。以後、フェノロサが月々二十円で、芳崖に画を描く環境を整えたとか。(荷風絵心5)

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狩野芳崖:狩野派の厳しい修行 [スケッチ・美術系]

hougai1_1.jpg 荷風の絵の先生・岡不崩の大師匠は近代日本画の礎・狩野芳崖。彼は高橋由一、冬崖と同じ文政十一年(1828)生まれ。以下、吉田亮著『狩野芳崖・高橋由一』、中村愿著『狩野芳崖 受胎観音への軌跡』を参考にまとめる。

 狩野芳崖は長府藩のお抱え絵師・狩野晴皐の四子(長男)。本名・幸太郎。藩校で四書五経を学び、父から狩野派画法を学ぶ。元服十五歳、菩提寺で参禅開始。仏教体験を深化。十九歳、弘化三年(1846)に長府藩より十年間の江戸遊学を許可され、父と同じ木挽町狩野家で修業。塾生五、六十人余。弟子一人二畳の割り当てで絵具と箪笥と一枚の板張り。稽古が終わればそこに布団を敷いて寝た。

 最初は花鳥山水人物のお手本をまとめた三巻物の複写(臨写)。次に五巻の「御貸し画帖」(当時は狩野常信の山水人物六十枚)の原画模写、模写からまた模写の稽古書き。この期間が一年半。次が半年かけて花鳥十二枚。次に「一枚もの」。これは狩野派名手らの作品模写。修業は朝七時から夜十時まで職務と臨書で自由時間なし。狩野派の修行恐るべしです。全教程七、八年だが、芳崖はその半分期間で終了とか。

 その後、芳崖は弟子頭(塾頭)となって後輩を指導。この期間に道一本隔てた佐久間象山の塾に通った。象山は彼を〝今に人物になる〟と気に入り、彼も象山塾に毎日通った。狩野派の修行に加え、象山から東洋思想、西洋知識も吸収。

 安政四年に風景スケッチをしつつ帰郷。八歳若い医者の娘よしと結婚。藩のお抱え絵師になる。その後も長府と江戸を行き来するも、長州はじめの攘夷運動が過激化して江戸滞在ならず。明治四年、廃藩置県。御用絵師の扶持を失って生活苦へ。世は文明開化。〝西洋〟だけがもてはやされて日本画では食って行けない。極貧生活を妻が支えた。

 明治十年(1877)、五十歳で上京。生活苦は続くも二年後に薩摩・旧藩主島津公が伝統の家臣鍛錬行事「犬追物」の記録を絵で残すべく芳崖を月俸三十円で雇った。やがて若き岡倉天心、フェノロサと出会って近代日本画の雄として活躍。挿絵は狩野芳崖に妊婦モデルを添えた。さて、その女性とお腹の子は誰?(荷風の絵心4)

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岡不崩の師・狩野友信 [スケッチ・美術系]

wirgman3_1.jpg 「芳崖先生逸事」より、荷風の絵の先生・岡不崩がどんな先生だったかを知りたく「(五)先生と予の関係」を読む。冒頭にこう記されていた。

 「予が初めて(芳崖)先生に会ったのは明治十七年で、其時分、予は狩野友信翁の門に洋画を習って居った。最も其頃は画家に成るつもりでやって居たのではなかった。(小文字は省略)或る時、友信翁が一緒に来いと言はれるから、従って行ってみると、老人揃の集会である~」

 端から注目記述。まず岡不崩が「狩野友信から〝洋画〟を習っていた」こと。さらに老人揃の集会が東京美術学校設立を内包した「鑑画会」だろうこと。まずは「狩野友信」を調べてみる。

 狩野友信は天保十四年(1843)、江戸築地の御用絵師・浜町狩野家の長男として誕生。狩野派の修行後に将軍家茂の奥絵師。その傍ら文久三年(1863)から開成所(後の東大)へ洋画修業に二年間通う。慶応元年(1865)に川上冬崖に水彩画を三年、ワーグマンに油彩画を二年学ぶ。明治六年に開成学校勤務。明治十四年(1881)に東京大学予備門の助教諭。この頃にフェノロサと交流。

 これで岡不崩が狩野友信から〝洋画を習った〟に納得です。改めて岡不崩の経歴を振り返る。明治二年〈1869)福井生まれ。明治十三年(1880)に上京して番町小学校へ。十六歳で狩野友信に入門。友信翁に従って鑑画会創立当初から参加。これを機に狩野芳崖から日本画を本格的に習った。

 明治十九年〈1886)、小石川植物園内に設置された図画取調掛の事務所(画塾)に通って修業。明治二十一年十一月、東京美術学校開校直前に芳崖が没。岡倉天心の勧めで東京美術学校入試を受けて第一回生になる。明治二十三年に高等師範学校講師に抜擢されて同校を退学。そして永井荷風、井上唖々の(さらに荷風弟・威三郎や藤田嗣治の)東京高等師範学校付属尋常中学校で図画を教えた。

 『しのぶ草』第五章では、友信翁の使いで芳崖宅に膠を貰いに行ったのを機に日本画の教えを直接受け始めたこと、芳崖から教えられた心得の数々、また妙義山スケッチに同行した思い出などが記されていた。

 永井荷風と云えば日本画、版画への造詣ばかりが注目だが、荷風の眼は不崩によって西洋画へも向けられていたと推測される。荷風のフランス滞在期(明治四十、一年:1907・8)は、ピカソがアトリエ〝洗濯船〟で「アヴィニョンの娘たち」完成の年。

 なお川上冬崖(寛)の明治四年刊「西画指南」は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。挿絵は狩野友信の顔資料なしゆえ五姓田義松、高橋由一、狩野友信に洋画を教えたチャールズ・ワーグマンを描いた。彼は文久元年(1861)に「イラストレイテッド・ロンドンニュース」特派員で来日。髭の有無両資料から髯ありを描いた。(荷風の絵心3)

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岡不崩は朝顔権威、考現学へ [スケッチ・美術系]

okafuhou1_1_1.jpg 秋庭太郎著『考証永井荷風』で、著者は永井威三郎博士(荷風の弟)にも取材。博士談で「(家には)荷風が若い頃に描いた絵巻物もあった。荷風が絵事を好んだのは南画を能くした外祖父(鷲津)毅堂の血筋を受け継いだものであろう」を紹介。続いて~

 「因みに威三郎も同じく高師附属中学時代は、同級生の藤田嗣治と倶に〝図画は永井か藤田か〟と謂はれたくらゐに巧みであった。博士が昭和三十五年に欧州に旅した際に、巴里で藤田に逢ひ、その描くところの少女像を額入のまゝ贈られて帰朝。博士邸応接間に掲げられてあるその絵をわたしも見たことがあるが、兄弟揃って絵心があったのである」。(図画教師が荷風と同じ岡不崩との明記はないが、そうだとすれば不崩は藤田嗣治も育てたことになる)

 ここで藤田嗣治がらみ余談。八月中旬のこと、前日のブログ閲覧が通常の三倍余。藤田嗣治シリーズの「高田馬場でマドレーヌ夫人急死」記事の閲覧数が膨らんでいた。

 ややして気付いた。前夜の某テレビで「迎賓館でフジタの幻の天井壁画六点初公開」が紹介され、同作は〝藤田のマドレーヌヘの愛の表現〟のような説明から小生ブログ記事に辿り着いたらしい。

 だが弊ブログでは、マドレーヌが薬物使用疑惑で急死、藤田はすでに日本女性と交際開始。彼女の急死が闇に葬られたのは、同アトリエが高田馬場の陸軍軍医総監・中村緑野(ろくや。嗣治の二番目の姉の嫁ぎ先)宅内で、陸軍の闇が動いたせいだろうとの記事。テレビの〝愛の物語〟からアクセスされた方々を裏切る内容で申し訳なく思っている。

 さて、岡不崩は関東大震災後に小石川久堅町八十一番地(『しのぶ草』奥付に著者住所あり。金剛坂の荷風生家近く、春日通りと小石川植物園の間辺り)から、下落合(淀橋区下落合1980)に移住。この移転先は落合道人氏のブログ「考現学的アプローチの岡不崩」に詳しい。

 同ブログでは不崩宅を特定(中井駅北側の〝二の坂〟から分岐する階段坂の右側)し、不崩は大震災の復興具合を店舗詳細地図(挿絵、看板写生を含め)で記録。その『帝都復興一覧』は出版なし和綴じ二巻で国会図書館蔵。落合氏はその内容を詳細紹介。今和次郎と同じ考現学的仕事をしていたと紹介。小生は不崩の絵画から離れて朝顔栽培や復興地図などへの熱中は、明治画壇のゴタゴタに愛想尽きたゆえと推測するが、いかがだろうか。

 さて他人ブログに頼らず、自らも調べなければいけませんから国会図書館デジタルコレクションの岡不崩『しのぶ草』を読むことにした。これは狩野芳崖二十三回忌の明治四十三年十二月刊で、副題は「芳崖先生逸事」。(一)翁の絶筆 慈(悲?)母観音に就いて (二)翁の持論と美術学校の創立 (三)芳崖翁と大蒜 (四)翁の女子教育 (五)先生と予との関係。まずは不崩を知るべく(五)を読んでみる。

 挿絵は岡不崩。資料写真が落合氏紹介の一点のみ。やや不鮮明で髯の有無がはっきりせぬが髭ありで描いてみた。(荷風の絵心2)

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荷風の絵の師・岡不崩とは [スケッチ・美術系]

kafusketch2_1.jpg 永井荷風の俳句が好きで、ブログ記事の題名を十七文字にしてみた。荷風「断腸亭日乗」をひも解くと、時に荷風スケッチが掲載。小生も絵が描けたらいいなぁ~で、ブログの写真を絵に替えてみた。

 先日、荷風の友・井上唖々調べの記事で、荷風も唖々も図画を岡不崩(ふほう)に習ったと記した。不崩の師は狩野友信、狩野芳崖。その名が出てくればフェノロサ、岡倉天心、九鬼隆一につながる。

 『「いき」の構造』九鬼周造シリーズで、彼の父・九鬼隆一と母・初子(波津)と岡倉天心の凄まじい三角関係を知った。今回は「荷風~岡不崩~狩野友信~狩野芳崖~フェノロサ」の流れをお勉強してみたい。

 井上唖々の項と重複するが、秋庭太郎著『考証永井荷風』より、岡不崩についての記述を長めに引用する。「岡不崩、名は吉壽、はじめは蒼石と号した。加州金沢の人である。狩野芳崖の高弟にして横山大観、下村観山等と倶に東京美術学校第一期の入学者であったが、不崩は業半に抜擢せられ高等師範学校講師兼附属中学校教師として教鞭を執った。附属中学に於て壯吉は同級生の親友井上精一(唖々)と倶に図画を蒼石に教へられた」

kafusketch1_1.jpg 唖々は先生が入ってくる前、黒板に岡蒼石の墓に柳と幽霊を描き、蒼石先生を憤激、顔色〝蒼石〟にさせる悪戯をしたそうだが、荷風は唖々と違って絵事を好み、不崩の寓居に至って学び、不崩に連れられて上野東照宮拝殿の探幽の絵を模写しに通ったそうな。

 秋庭太郎の文はこう続く。「不崩は花鳥山水画に長じたが、後年は本草学者として知られ、特に牽牛花(けんぎゅうか=うしひくばな=あさがお)の研究栽培の権威であった。荷風は不崩先生の晩年まで交際があり、荷風が後年日本画を能くしたのは、兎にも角にも師に就いて学んだからである」。そして師の朝顔関連著作八作を紹介。

 これらの幾冊かは古書ネット販売で数千円でアップされていた。そして不崩著の狩野芳崖先生逸話集『しのぶ草』は、国会図書館デジタルコレクションで読むことができた。

 挿絵(上)は「断腸亭日乗」昭和七年一月の砂町八幡宮の荷風スケッチ。挿絵(下)は同年一月十八日の、堀切端から四木橋を望むスケッチ。(荷風の絵心1)

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所ジョージの〝喉仏ファン〟 [スケッチ・美術系]

tokoronodo1_1.jpg 新しいマルマン「sketch帖」で何を描きましょうか。先日、幾人かの若い女性の〝首〟を描くも、男性の首は未だ描いていない。その時に「所ジョージの喉仏、胸鎖乳突筋、頸切痕などがクッリキ出ていて面白い」と記したので、改めて彼の番組を観て描くことにした。

 喉仏が実に良く動き、首皮膚の下に〝元気な独楽ネズミ〟がいるかのようで見飽きない。願わくは頸切痕、鎖骨切痕までがよくわかるシャツで、カメラは頸全貌がわかるローアングルで撮っていただきたかった。

 喉仏左右は「胸鎖乳突筋」。血管は「頸静脈」。その後ろは「中斜角筋」で、縦筋の多くは「広頸筋」だろうか。ネットに満ちる「首の図解」だが、いまいちハッキリしない部分も多く、画学生たちはどんな教材で勉強しているのだろうか。

 新しい挿絵帖「マルマンsketch 100sheets B5 soho501」の描き心地やいかに。う~ん、小生には慣れ親しんだ「クロッキー帖+淡彩」の方が描き易かったなぁ。「クロッキー帖」は水を含むと紙が細かく波打ったが、この「sketch帖」は僅かな水気で大きく強靭に波打った。

 紙が波打つのを嫌うなら、水彩紙を水張りしてから描けばいいのだろうが、そこまでやれば〝挿絵領域〟を越える。「いいなぁ~」と思ったのは「白地がきれい」。これは「クロッキー帖」と比べれば当然のこと。クロッキー帖は次頁の絵が透けるワケで、透けないゆえの〝白さ〟が新鮮だった。

 この「sketch帖」も100枚綴りを描き切った頃には慣れて来るだろうが、目下は連日猛暑で頭の回転停止状態に陥った。次に記すブログ内容も絵もまったく浮かんでこない。

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挿絵をクロッキー帖から昇格? [スケッチ・美術系]

sketchbook2_1.jpg ブログ挿絵を、マルマン「クロッキー帖」に描き続けて2冊目が残り僅か。次の「クロッキー帖」を用意すべく世界堂へ行った。

 同じのを1冊買った後に、クロッキー帖より厚く、画用紙より薄いB5サイズ100枚綴りのマルマン「sketch 100sheets B5 soho501 」を見つけた。従来クロッキー帖はコピー紙ほどの薄さで〝淡彩〟と云えども、紙は波打った。

 最近では新宿御苑スケッチ、船の絵などは、紙は嵐に遭ったかのように波打った。それでも「クロッキー帖」に固執は〝挿絵=絵日記の絵〟ゆえ〝1点1枚もの〟ではなく〝綴りもの〟が相応しいと思うから。

 同時に、目下は紙が水彩を吸っても波打たぬ程度の〝アッサリ淡彩〟、つまり〝薄い紙でも波立たぬほどの淡彩〟が目標。だが幾ら何でもコピー紙程度のクロッキー帖に水彩はなかろう、そんな紙では水彩が紙に染み込む味も、滲みの味も出ないだろう~という指摘もあって、少し気にしていたんです。

 そこで見付けたのが、このマルマン「sketch 100 sheets B5 soho501」。クロッキー帖と同じ100枚綴りも気に入った。ネットの商品評を見れば「このスケッチブックで水彩は無理」なぁ~んて投稿もあるが「てやんでぇ~、こちとら、今までクロッキー帖で水彩をやって来たんだ。人それぞれ、余計なことを記すな」である。

 さて、ブログ挿絵を従来通りのクロッキー帖で描き続けるか、新しいスケッチ帖に切り替えるか思案中です。

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大腸内視鏡検査の告白(2) [暮らしの手帖]

naisikyou2_1.jpg 最初の大腸内視鏡検査(ポリープ切除)一ヶ月後にポリープの組織分析結果を聞く。「良性ポリープでした。取り残しがありますから来月にまた検査(切除)しましょう」。

 翌月の再検査(切除)は、スコープ挿入部がS字結腸から下行結腸への曲がりを緩やかにすべく難儀していたのだろうか、脇腹下にグリグリとした痛みを感じた。

 その一か月後に再び分析結果を聞く。大腸内映像を見つつ切除したポリープを映し、その細胞分析結果を聞く。「直腸辺りにあったやや大きなポリープも切除したから、これで安心です。また来年に定期検査を受けて下さい」。下剤で大腸をきれいにするなんてことも初めてだったし、ポリープも全切除。ホッと安心です。

 その一年後の定期検査日に仕事が重なってキャンセル。再予約すべく病院へ。そこで前回記した同年配の不安を抱く御仁に話し掛けられたってわけ。すでに二回の検査体験で先輩面でこう言ったものだ。「心配するこたぁねぇよ。ケツから突っ込むたって痛くもねぇ。とにかくやっちまえばスッキリ安心ですぜ。どうぞ心配せずにケツから突っ込まれて下さい」。

 御仁をそう励ました後に、小生が再予約すべく診療室へ入れば、前任医師から新人医師に代わってい、彼がこう言ったから腰を抜かすほど驚いた。「前回切除のやや大きなポリープが〝癌〟でしたから~」「ええっ、そんなこたぁ~聞いていねぇよ」。小生の荒げた声に、新人医師の表情がこわばって、慌てて組織分析の難しそうな説明を展開した。

 ここで何となく医者の裏側をチラッと垣間みた。前任医師は「切除したから心配なし。だが来年も検査を~」の言葉の奥には〝判断に少し不安もありますので、来年も検査をして~〟の意を含む患者の気持ちを配慮した〝こなれた説明〟だったように思った。比して新人医師の〝癌があったから〟は教科書通り直球の、なんだか〝青臭い〟弁のように感じた。

 そんな新人医師に検査されるのはイヤだなぁ。案の定、検査室での内視鏡操作はぎこちない気が充ち、それをベテラン看護婦が支える雰囲気だった。「まだ終わらねぇの」と焦れた頃にやっと終了。

 翌月、今月上旬に検査結果を聞いた。「すべて良性ポリープでした。ポリープが出来やすい体質かもしれませんので、当センターの医師としては二年後の検査をお薦め致します」。新人医師の弁が親切・丁寧になって急成長をしている感なり。当方はこれで大腸癌の心配は消えたが、この歳ではいつあの世に召されるかは分からない。

 なお、大腸のクネクネと曲がった形に沿って内視鏡挿入部が入って行くかと思っていたが、小生ネット調べでは、腸の複雑な曲がりを緩やかな湾曲に直しつつ内視鏡を盲腸まで入れて行くらしいと知った。図らずも「首のお勉強」から「大腸のお勉強」へとボディ・フィジカル面の関心が続いた。

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大腸内視鏡検査の告白(1) [暮らしの手帖]

naisikyoukensa1_1.jpg 昨年、大腸内視鏡検査(ポリープ切除)を二度受けた。今年の定期検査日に仕事があり、再予約で大病院へ行った。待合席に座っていると、同年輩の男性がオズオズと話しかけてきた。

 「あのぅ、すでに内視鏡検査をお受けになったご様子で~。私はそれがイヤでイヤで逃げ回っていたんですが、家内がうるさくて」「そりゃ、誰だってイヤですよ。ケツから何かを突っ込んで調べるなんざぁ~」「そう、そうなんです」。彼は小生の検査体験を聞きたく擦り寄って来た。

 そんなことがあったゆえ「大腸内視鏡検査体験」を記すことにした。それは数年前のこと。新宿区の高齢者健康診断で「便潜血・陽性」。女医さん「大病院で内視鏡検査を受けて下さい」。「てやんでぇ~、その血とやらは痔のせいよ。でぇいち、ケツから何かを突っ込まれるような検査なんぞ、真っ平御免でぇ~」

 女医さん、その後も会う度に内視鏡検査を勧める。ふとした機会に息子にそれを話せば、会社の健康診断から内視鏡検査でポリープ切除したとサラッと言いやがった。ふ~ん、それが今の世の〝当たり前〟かと気付いた。ケツから突っ込まれることが大ごとで嫌悪を覚えるのは、古い人間ってぇことらしい。かくして半年後にやっと受ける気になった。

 当日の朝、「ニフレック」なる下剤薬を2リットルの水に溶かし、2時間で飲み切れと。1時間1リットルほどで便意。何度目かで便は水になり、小便のようにジャージャーと勢いよく排出。便器の溜まりが透明になった。

 下剤のイヤな味に、最後は吐きそうになったが、2リットルを飲み切った。大病院は近いゆえ、漏らさぬようゆっくりと歩いて行く。ケツが裂けた検査着で検査室ベッドに横たわる。痛みを感じぬ鎮痛剤(注射?)のせいかで、ケツから何かを突っ込まれる〝苦痛・屈辱感〟もなく、大腸内で何かがモゾモゾと蠢いている感じ。

 小1時間も横たわっていただろうか。ポリープを幾つも切除し終わって、看護婦がつぶやくのを耳にした。「数は多かったけれど、小さかったから大丈夫そうね」(大腸癌ではないの意らしい)。検査とは云え、ポリープ切除だから簡易手術と言ったほうがいいかも。検査・切除後は安静室で1時間ほど過ごして帰宅。(長くなったので、続きは次回~)

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モディリアーニの首、永井龍雲 [スケッチ・美術系]

ryuun1_1.jpg 細く長い首ならばモディリアーニだと検索すれば、YouTube『モジリアーニの絵のようなシュールな女の存在』がひっかかった。永井龍雲のアルバム『カトレア』(1994)収録曲。オフィシャルかファンが作ったかはわからぬが、モディリアーニの絵が次々に入れ替わって、あの龍雲の伸びやかな歌声が流れていた。

 永井龍雲のデビュー時は「ポニーキャニオン」で、小生は同社プロモーションペーパーの編集・執筆をしていたから、彼の原稿を随分と書いた。彼の出身地・博多まで取材に行ったとも記憶する。

 デビュー曲は『想い』で21歳か。小生30代半ば。彼のオフィシャルサイトを拝見したら、ちょっといい彼のエッセーが掲載されていたので、以下、簡単に紹介する。

 海外の大学に留学中の娘2人が夏の帰省中(龍雲は福岡出身も沖縄在住)。日本状況に疎い彼女らに、彼はテレビを観つつ「この首相を守るためにみんなで苦しい嘘をついているんだよ」と説明。そして留学先へ戻る彼女らを成田まで見送る。

 まず那覇空港で〝良くない人〟が、前沖縄知事の県民葬出席で来沖の混雑に遭遇。長女がiPhoneでその人を撮ろうと前に出たら、握手の手が差し出されて思わず「こんにちは」と握手。それを喜ぶ娘の姿に「邪心なく素直な良い子に育ってくれた我が子よ」と彼は記す。そして成田へ。それまではしゃいでいたが、ゲートに入る瞬間に三人の眼に別れの涙。「こんな親子の夏はいつまで続くのだろうか」と締め括っていた。

 小生が知っている龍雲は20代前半で「あの龍雲が大学生の二人の娘の、いいお父さんをしている」、「おぉ、今年でデビュー40周年」かとしばし感慨。写真を見ればデビュー当初のアフロヘアではないも、あの頃に音楽評論家・三橋一夫さんからいただい原稿に「(あの声は)神様からの授かり物です」と記されていた喉は、今も健在だった。「首の構造・筋肉のお勉強~細く長い首~モディリアーニ~永井龍雲」と辿り着いたお話でした。

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首美人?首上手の絵描き? [スケッチ・美術系]

kubiiroiro1_1.jpg 首の骨格・筋肉お勉強後に、若い女性の首を幾つか描いてみた。まぁ、難しい!と再認識した。男はさらに筋肉質で甲状軟骨(喉仏・アダムのリンゴ)も逞しく突き出ていよう。

 眠れぬ夜にテレビを観たら、所ジョージの喉仏が大きく飛び出てい、彼のおしゃべりに従って忙しく上下する様に釘づけになった。桑田佳祐の喉仏はそんなに飛び出してはいなかった。さて子供らの首は? 爺婆の首はやはり皺だらけなのだろうか? 興味は次々に膨らんで行く。

 ここに描いた絵では「肩甲舌骨筋」も頸静脈や首動脈も確認できなかった。また多くの縦筋は「広頸筋」らしい。いずれにせよ肥った方・痩せた方・首の短い方・長い方。細い方・太く短かければ猪首で、鍛錬された屈強な首もある。それぞれに胸鎖乳突筋をはじめ鎖骨切痕、頸切痕などの見え方が違ってこよう。

 ついでに〝首美人〟と検索したらgooランキング「スラリと長い首が美しい!有名人ランキング」てぇのがヒットして1位は菜々緒、2位は杏、3位はダルビッシュ有とか。ホントかいなぁと思った。

 浮世絵は胸鎖乳突筋など細部省略で、それがいいように感じた。漫画も首の筋肉・喉仏などをしっかり描き込んだ作もあったが、ちょっと煩いと思った。首の描写は細部に拘ると、それが〝首枷〟にもなるらしい。日本の〝首〟については言わぬが華だろう。

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首〝相〟が不安定 [スケッチ・美術系]

kubikouzou1_1.jpg 人物を繰り返し描くも、恥ずかしながら〝首ってどんな構造なんだろう〟と思っていた。手足は自分で観ることも容易だが、自分で自分の〝首〟を観ることは叶わない。爺さんゆえ、自分のツラを鏡で観るのは髯を剃る時ぐらい。大げさに言えば、手前の顔がどんなツラなのかも知らない。

 男なのに自分の顔をしげしげと観るのは〝ナルシスト・芸人・自画像を描く画家・鏡を観る商売の方々〟だろうか。と思っていたら3歳の孫が「スマホ〝自撮り〟」を当然と思っているのに驚いた。その意では〝スマホ世代=従来世代より自分の顔を最も知っている世代〟なのかも知れない。

 前段はこのくらいにして「首の骨格・筋肉」について無知で、遅まきながら初お勉強。フ~ン、首のあの大きな筋は「胸鎖乳突筋(胸骨と鎖骨についている)で、首下の小さな凹部は「頸切痕」で、左右鎖骨内側の凹部は「鎖骨切痕」などを初めて知った。

 かくして首を少しは上手に描けるようになりそうだが、日本の首相は大統領選と違って国民が直接選べないから〝おぼっちゃま〟が成ったりする。〝お坊ちゃま育ち〟はややもすれば「見栄っ張り・エエ格好しい・嘘もつく・特権意識・上から目線・考えの偏狭・性格に幼稚性」が指摘されるそうな。そんなのに、いいようにやられたら、たまったものじゃない。

 隠居や主婦は昼間の国会中継などを観て〝人となり〟を感じるが、働き盛りの方々はテレビを観る時間も少なく、気になるのは〝経済〟だろうから、なかなか化けの皮が剥がれなかった。やっとここに来て信用できぬ人物だとわかってきたらしい。なぜこんなことを記すかと云えば、絵を描き始めて最初に描いた似顔絵が「2015年9月」(安全保障関連法・可決)のその人だったんです。その時は〝頸切痕〟なんて物騒な名は知らなかった。

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草かぶれ・アレルギー [週末大島暮し]

okadakou3_1.jpg 島暮しの初告白。実は20年も前から、島で草刈り・庭仕事をした後で、決まって腕に〝草かぶれ〟症状が出ていたんだ。帰京後1週間も経てば自然に治るので、皮膚科を訪ねたことなし。それが今回は脛に出て酷くなった。

 そもそも〝脛のかぶれ〟は十年ほどのキャリアがある。最初は鳥撮りで藪や干潟に踏み込むことが多かったので、ちょっと良い長靴を買った。ピタッと足に吸い付くようで誠に歩き易かったが、何が悪かったか、同長靴を履いた後に〝脛にかぶれ〟が出た。

 次は明らかに歳のせいだろうが、冬の乾燥肌で脛が痒くなり、掻けばかぶれた。爺さんなのに、娘さんのように入浴後に保湿乳剤を塗り始めたら治った。

 今回〝脛のかぶれ〟が酷くなったのは、5月の1年振りの島暮しで、腰までの雑草と闘って出来た際の脛のかぶれが完治せぬまま、再び草と戯れたせいかも知れない。帰京翌朝、初めて皮膚科を訪ねた。「こりゃ酷い。よく我慢したねぇ。これは間違いなく草かぶれアレルギーです」。塗り薬2種、飲み薬1種を出されてピタッと治った。

 上記に関係あろうか。若い時分から髭剃りは剃刀派で、数年前に小さな傷をつくった。茶飯事なれど、顔全体が赤くなった。その後は髯を温かい湯で柔らかくして、シェービングクリームの泡をつけ、終わった後はスキンコンディション液でお肌の手入れ。爺さんになって面の皮も〝したたか〟になったと思いきや、抵抗力を失って弱くなったらしい。

 さて、島の草木かぶれの原因は~。かぶれる草木は無数で、草に棲息する虫もいる。島は椿が多く茶毒蛾の毒も飛散しているかも。今後は肌露出なしの完全防具で草刈り・庭仕事になろう。「都会育ちはヤワで情けねぇ」と呟けば、かかぁが「おまいさんのブログには〝老い病〟のカテゴリーがない。そこが今は肝心じゃないか」と云いやがった。

 挿絵に「草かぶれ」は絵にならず、連日酷暑にクーラー部屋に籠って暇ゆえに、また岡田港漁船を描いた。船の絵は5回目。50回も描けばうまく描けるようになるだろう。(これにて6月下旬~7月上旬の島暮らしの思い出10で完)

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船を描き、船の思い出を~ [週末大島暮し]

okadafune4_1.jpg 絵を描き始めて、船は難しそうで敬遠していたが成り行きでジェットフォイル艇、さるびあ丸、橘丸を、そして岡田村で3年間漁師として暮した〝不染鉄〟にあやかって岡田港の漁船を描くに至った。いつかは手慣れた感じで〝船〟が描けるようになりましょうか。

 この絵を描きつつ〝船の思い出〟が巡った。まず中1秋の遠足が「橘丸」で大島へ。社会人4年後にフリーになって最初がレジャー企業のPR誌編集だった。社長が江ノ島ヨットハーバーに大型クルーザーを係留していて(当時は加山雄三〝光進丸〟の隣)、毎週末にクルー召集。その時期に波浮港までクル―ジングしたことがあった。

 某ヨット教室のテキストを作ったことがあって、お礼に24フィートのボロヨットをくれた。係留費がなく、真鶴(港)の青年らにヨットを預けた。その頃が確か小型船舶免許制開始で、あたしは裸眼視力がダメでかかぁに免許を取ってもらった。漁師達に混じっての受験で小型船舶免許を取得。その後に小型免許が細分化され、彼女の免許は「一級」(航行区域無制限)に昇格した。

 自動車免許を持たぬ彼女は「小型船舶一級免許」を身分証明証替わりに使っていた。その後、矯正視力が認められて小生も三級(現・二級?)取得も、ヨットやクルーザー所有には至らなかった。

 そうだ、子供時分の最初の夢が「外国航路の船員」で、それは祖父が外国航路の「大洋丸」に乗っていた時もあって、素敵な写真をみていたからだ。だが小4年頃からの眼鏡人生で、船員学校には裸眼審査ありと知って断念した。この歳では新たな船の思い出はつくれまい。船の絵を描くことぐらいだろうな。(6月下旬の島暮しの思い出9)

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岡田暮し3年の様子:不染鉄3 [週末大島暮し]

okadamoide1_1.jpg 最後に不染鉄の岡田村暮しをもう少しクローズアップしてみたい。前述「思い出の岡田村」の解説にこんな記述あり。~岡田村では「ネギどんの家」といわれる家に泊まり、漁師とともに漁をして、3年間暮らした。村人たちと親しく交流し「ふぜんさん、ふぜんさん」と呼ばれた~。

 同作には八幡神社下に軒を連ねる草屋根の一軒に、不染らしき人物が囲炉裏に向かっている姿が描かれている。雄大な自然に囲まれ、情の深い村民たちと過ごした大島での生活は、彼には欠くべからざる思い出・経験だったのだろう。

 また昭和44年の絵葉書「お正月」(写真)には、こんな文章が書き込まれていた。「私が三十ぐらいの時(正確には23~27歳)、伊豆大島で漁師をしていた時、いつも乗っていた小さな舟である。今は皆キカイ船で二人舟はあるまい。大浪の時、風の時、大きな魚をとった時、色々なつかしき思出はつきない。お正月は松かざりをつける。お前と別れて、今は都会に何不自由なく倖せだよ。七十九のお正月だよ。お前を思ひ出して年始にかいて皆んなにお前の話をするよ。あの時は楽しかったなぁ。これをかいていると涙がでそうになってくるよ。悲しいのではないよ。なつかしさの涙だよ。浪の静かなお正月の日出のころにしようねえ」。〝お前〟とは妻のことだろうか。

fusentetu2_1.jpg 読み間違いもあろうが、凡そこんな文章。また昭和初期の作「海辺の村」の解説には~ 「茅葺屋根の住まいには、一間の部屋にいろりがあり、潮風が吹き、波音が聞こえ、海草の香る生活だった。干潮時には、かにや小魚が岩場に姿を見せ、周囲に牛やにわとりを飼う家も多かった」で、そんな抒情的な絵が描かれている。

 また奈良に移った後も、可愛いミニチュア風の岡田村「草屋根の家や舟」と題した作陶を多数創り、思い出の家を板型にして着色したり、魚達の木彫・絵も多い。さらに「思い出の岡田村」と題された絵が描かれた「着物」を幾着も制作。これらは妻亡き後に身の回りの世話をしてくれた女性たちに贈ったとか。

 不染はまた若い女性たちに「正しく美しい心がからだに一パイになると、あふれてこぼれるようにいゝ美しい画になります」と書いた絵葉書を送ったそうな。不染鉄はそんな晩年を送って85歳で逝った。

 小生の島ロッジも間もなく崩れ朽ち、いや、その前に島へ行く元気も失せよう。自動車免許更新が無理になるかもしれない。島へ行けなくなったら、不染鉄のように思い出だけで〝大島暮し〟の絵を描きはじめるかもしれない。改めて〝島の写真集〟でも作るつもりで記録・記憶保存をしておくのも良いかもしれない。

 最後に図録掲載の不染鉄の写真を参考に、彼の絵を描いてみた。小生の心が「正しく美しくない」とみえて上手い絵にはならなかったが、晩年の彼は実にいい表情をしていた。(6月下旬の島暮しの思い出8:付録の不染鉄は3で完)

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岡田暮しが飛躍の原点:不染鉄(2) [週末大島暮し]

ohsimafuukei_1.jpg 不染鉄は「山海図絵」の前後にも「海村」「大島風景」などで各展入選。3年間の岡田村暮しが、彼の飛躍の基と言っても過言ではなかろう。

 「海村」は展示なしも「大島風景」は、これまた大島の絵では珍しい岡田・風早崎灯台(大正4年に灯火開始)を前面にした大島俯瞰図。灯台左に岡田港。港右の崖下に「龍王神社」、風早崎の右に乳ヶ崎と野田浜。多くの人家と沖に船。その先がたぶん赤禿で、遠くに元町。

 画面には〝すやり霞(素槍霞=大和絵から浮世絵に使われる省略、場面転換、遠近表現で使われる手法)〟が採用されて、沖に鯨が2頭。まさにこの俯瞰も漁師として沖に出て、そこから上昇して見る鳥眼(マクロ)と、想像的緻密描写(ミクロ)の混淆。

 さて、不染鉄は昭和2年末(1927)に、京都を離れて唐招提寺、薬師寺など名刹が点在する奈良県生駒へ移住。この頃に出自の僧侶資格も得たらしい。不染鉄の作品群を大別すれば奈良古刹を描いた作品群と伊豆大島作に分けられよう。

 昭和6年(1931)に神奈川県大磯に移住。昭和8年に妻の実家がある横浜へ。昭和10年(1935)に東京へ移住。同年頃の作に「大島絵物語」。これは霊岸島を夜の10時に出航し、荒波に揉まれて岡田村へ着くまでのを巻紙に描いた作品。

omoidenookada1_1.jpg やがて軍部の力が画壇を浸食し始めると、画壇から距離を置いた。戦後、昭和20年(1945)に乞われて奈良の中学校の理事長から校長へ。奈良の画室からの眺めを平和への感謝をこめて描き出す。昭和27年に同omoidenookada2_1.jpg校を退職。

 昭和33年(1958)、67歳で62歳の妻〝はな〟死去。この頃から再び亡き妻と暮した伊豆大島・岡田村を思い出して描き出す。岡田村を海上から俯瞰したシリーズ「海村」「南海海村」「南島」、そして昭和43年「思出之岡田村」など。これら作の多くには村中央奥に「八幡神社」、右崖の「龍王神社」に描かれている。

 ~村の人同様になり夏の海冬の山、お正月色々思ひ出はつきません。今から四十年も前の事です。今ではかはら屋根の家が並び、築港が立派になり岡田港となりました。~との文があるから、その後も彼は大島を訪ねていたと推測される。

 昭和37年、奈良に建てた終の住処兼画室で描かれたのだろう昭和47年(1972)81歳の作品が「思い出の岡田村」(写真下の横長の作品を2枚に分けてアップ)。脳裏に焼き付いた岡田港を描いたのだろう。沖に中型船が2艇停泊して艀が岸に着くシーン。海岸に並んだ小さな漁船。その右崖下に「龍王神社」、湾の左は現・堤防基部となっている勝崎(かったき)。その奥に人家が軒を連ねて、その一軒に不染らしき人物。人家の奥に「八幡神社」。同作を描いた4年後の昭和51年85歳で没。

 不染鉄の美術館回顧展は、21年前の奈良県立美術館の1回だけで、東京での展覧会は「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)が初めて。次回は3年間の岡田村暮しをクローズアップしてみたい。(6月下旬の大島暮しの思い出7:付録・不染鉄2)

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「山海図絵」の秘密:不染鉄(1) [週末大島暮し]

sannkaizue_1.jpg 「東京ステーションギャラリー」で開催「没後40年 幻の画家 不染鉄(ふせんてつ)」へ行った。ギャラリ―には東京駅竣工時(大正3年)の煉瓦壁あり。まずは代表作「山海図絵」(伊豆の追憶)に注目。

 この絵、なんと大島・野田浜から見た伊豆の風景だというから驚くじゃないか。同作の元になったスケッチ「伊豆風景」(下)も展示で、不染の文が紹介されていた。「大正十二年十二月廿五日 大島野田浜海岸にて伊豆を見て描く。暖かい冬の日向の下、枯草のそよぐ上に、煙草を吸ひながら海を見る。はるかに富士山に雪がふってるのを見、寒い国の冬を想ひ出す。枯木山や、かさかさした笹にふりつむ雪、霜の道。(中略)~数日前に乗った汽車は今頃もあの道を走っているかもしれない」

 伊豆から島に渡ったのだろう。その時に見た伊豆の風景を、大島・野田浜で蘇らせつつ描いている。見えるはずもない汽車まで走らせて、富士山の奥には雪降る日本海の漁村まで描いている。「山海図絵」は大正14年の第6回帝展入選で不染鉄の代表作。

nodahamafuji1_1.jpg 小生も絵を描き始めた2年前に乳ヶ崎(野田浜)を数度描いた。乳ヶ崎トンネル越しに見える海と富士山を描いた際には、ハッキリ見えぬのに伊豆の町並を描き込んだ。小生の想像力はそこまでだったが、不鉄は時空を超えた。

 図録解説文には、同作品に不染の特質=中心性、俯瞰構図、マクロ的視線とミクロ的視線の混淆、多視線のすべてがここに現れていると指摘されていた。あの<バベルの塔>を描いたブリューゲルと共通点が多いとも指摘。

 図録より不染鉄の経歴を読む。明治24年、小石川・光円寺(現存、茗荷谷駅の近く。大田南畝と共に活躍した狂歌師・鹿都部真顔の墓あり)生まれ。浄土宗の名門・芝中学入学もワルで放校。画家を目指し、小石川の川端画学校の日本画家・山田敬中の門下生から大正3年に日本美術院の研究会員へ。だが金も自信もなく行き場も失って、妻(はな)と共に霊岸島から汽船に乗った。〝行き場も失って〟の裏には、図録年譜に18歳で母を亡くし、22歳で父を亡くしたことの影響があろう。

「廿七の秋(正しくは大正3年23歳)東京に住むところのなくなった私は病ひ上りの家内と二人東京を小さな汽船に乗って話にきく大島へまいりました。途中風雨夜中からはげしく目的地まで行く事が出来ず、岡田村という淋しい村につきました。そこで三年程都を忘れて漁師と遊びくらしました」

 その後、京都市立絵画専門学校日本画予科から本科を首席で卒業。その年(大正12年、32歳)に大島を再訪して描いたのが「山海図絵」。彼は妻を亡くした晩年も、共に暮した岡田村を思い出して実に多くの大島を描き遺している。次回は〝不染鉄にとっての大島とは〟、その次に〝岡田村で暮した3年間の様子〟を探ってみたい。(6月下旬の島暮しの思い出6:付録・不染鉄1)

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岡田港の昔と明日 [週末大島暮し]

okadatunami2_1.jpg 今回の島暮しで、小生は〝岡田港〟について無知だったと相知候。我がロッジ住所が大島町岡田字~なのに、大島通い26年なのに。

 大島発着港は元町か岡田で、元町は島の中心で馴染店も多い。比して岡田港は馴染店なし。だが船は元町より岡田港が多い(ナライ=北風が強いと元町港で、西風や南風が強いと岡田港)。岡田に着岸すれば即バスやタクシーで港を離れ、出航時はいつも慌ただしい。

 今回は、元気な老夫人らに「港で慌ただしくお土産を買うのはイヤ」ゆえに、事前に岡田港へ連れて行けと仰せつかった。彼女らの買い物中に、初めて岡田港の村ん中を散策。家々を縫い歩けば鎮守様「八幡神社」へ出た。為朝建立。御神体も為朝がらみ。1月15日の「正月祭」で〝天古舞〟奉納。若衆が梃子(てこ)を用いて木槍に合せて舞う。都の無形文化財。その模様はYou Tubeにもアップされていた。

 そして漁港(絶壁)側に「力士大島伝吉碑」と「力石」。その右側の崖に「龍王神社」。八幡神社の祭神が源(為朝)ゆえ、平家の神々が怒って災害を起こすので建立とか。

 史蹟案内板には、岡田港の災害も記されていた。関東大震災(1923)の津波で繋舟(かいせん、つなぎぶね)が民家二階に押し上げられ、崖崩れで死者も出た。元禄16年(1703)の大津波では回船・漁船の18槽、男女54名、流人2人、家58軒が波に取られたとあった。史蹟看板に「繁舟」とあるが「繋舟」の間違いだろう。

 さて、そんな岡田港が目下大工事中。大島支局HPを見ると仮称「岡田港船客待合所兼津波避難施設」。当初は2015年完成も、何か事情があったのだろう、遅れに遅れて今は土手状階段部分(津波避難通路?)が完成しつつあった。ここから堤防基部に「緑地施設休憩所・船客待合所及び津波避難施設」(確かな情報ではないが外観三階建てだが4、5階に備蓄倉庫や貯水槽、その屋上部分が高さ約12㍍とか)へ繋がるらしい。

 島のブログを拝見すれば車で1分、走って数分で高台ゆえ、わざわざ海に面した避難施設が必要だろうかと云う指摘に納得もするが、竣工すれば店舗も入り、イベント開催も可能だろうから岡田港に新たな魅力も生まれるかもしれない。★完成予想図が見つからなかったので、勝手想像で完成図を俯瞰気味に描いてみた。

 そんなことで岡田港に改めて関心を寄せれば、大正3年(1914)から岡田港で漁師生活3年を過ごしたという日本画家・不染鉄(ふせんてつ)の展覧会が「東京ステーションギャラリー」(8月27日まで)で開催中と知って、さっそく鑑賞に行った。岡田港の絵がたくさん展示されていた。次回は不染鉄の岡田港暮しについて。(6月下旬の島暮しの思い出5)

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爺婆とBBQとスイカと~ [週末大島暮し]

kokisuika.jpg 古希越えの友人婆さんらと、ベランダでバーベキューをした。島のS氏に婆連を紹介し「この歳でも食える柔らかい肉を按配して~」と注文。まぁ旨かった、良く食った、ビールも戴いたワインも飲んだ。最近は〝長生き・元気の元は肉〟ってんで、老人達もよく肉を食う。

 もうひとつ、皆でぜひ食いたかったのが、口からプッと種を飛ばしつつ食うスイカ。誰もが子供時分は縁側のある生活も、今は縁側のある家には住んではいない。旨いスイカだった。「げんろく」で買ったが〝内地もの〟だろう。

 昭和40年の元町大火復興計画のコルビュジエ師事の建築家・吉阪隆正調べで都立中央図書館へ行った際に、横井弘三『東京近海 島の写生紀行』も借りて読んだ。未だコンクリートやアスファルト道路もない時代の長閑な大島スケッチ群。そして練馬区立美術館で昨年開催の「横井弘三の世界展」チラシが、写真の通り老人がスイカを食う絵だった。

 他によく食べたのが野菜即売場「ぶらっとハウス」の野菜たち。開店と同時に売り切れになる店は島のどこにもなく、島一番の人気店と云っていいだろう。とくにアシタバは元ベテラン主婦の婆さん連が腕を振るって様々に料理してくれた。また彼女らは実にたくさんのアシタバをお土産に持ち帰った。

 食さなかったは意外に思われるが〝魚〟だ。島で出回る〝地魚〟は僅少。〝魚市場〟はあるも鮮魚なし。島の宿が提供する魚は、一体どこから仕入れているのやら。島で魚が食いたかったら自分で釣るか、突くしかない。島は〝肉よし〟〝野菜よし〟だが〝魚よし〟とは参らない。

 さて、横井弘三が大島スケッチをしたのが昭和2年で、それより10年も前に岡田港で漁師らと共に3年暮した日本画家がいた。現在「東京ステーションギャラリー」で「没後40年幻の画家 不染鉄」が8月27日まで開催中。その話は後で~ (6月下旬の島暮しの思い出4)

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海原と空に似合わぬ船の色 [週末大島暮し]

tatibanamaru2_1.jpg 大島へのお客様の帰京便に「橘丸」をセットしたので、数日後の自分達も「橘丸」で帰ることにした。数年前の新艇だが、新しさ微塵も感じぬ〝何と無粋な色よ〟と思った。逆によくもまぁ、こんな色・配色を考えたものと感心した。

 例えば、こう問えば納得できようか。「貴方はこの配色の車を買いますか?」。おそらく全員がNOだろう。青い海原と空に、何とも似合わない。そう云えば、ジェットフォイル4艇も子供のオモチャみたいに着色されていて、もっとスッキリできなかったのだろうかとも思う。東海汽船の〝模様デザイン〟は柳原良平らしい。

 ちょっと前までの元町桟橋の壁画も、不気味な深海魚が蠢くような幻想ゴチック風だった。現・空港の土手壁もちょっとギョッとする。きっとバームクーヘン風模様を意識したのだろう模様が描かれている。海も緑も美しいのに、人間の変な手が加わって不自然、妙な具合になる。

daibakikyou_1.jpg さて、色は無粋も〝橘丸〟の船名復活は個人的には楽しい。その名に60年前の「中学1年生秋の遠足」を思い出した。「橘丸」で一泊の大島遠足。日本は未だ米不足だったか、宿泊する遠足は自分用の〝白米〟持参だったと記憶する。

 当時は裕次郎ブーム。小生のアルバムには三原山をバックにトレンチコートの襟を立て、短い脚ながら裕次郎を気取ったポーズの色褪せた写真が残っている。写真は「橘丸」で夜のレインボーブリッジ下を通過中。優雅な大型船の旅も、貨物船に乗っているようだった。(7月上旬帰京の大島暮しの思い出3)

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小綬鶏が玄関に居る鄙暮し [週末大島暮し]

IMG_6349_1.JPG 終始賑やかだった客人らが帰った後、ロッジに静謐が満ちた。気が抜けてソファーで惚けていたかかぁが「おまいさん、玄関に鳥が来たよぅ」。小綬鶏。網戸越しの写真はピンボケだった。

 ロッジに居れば、大鳴声「コッチコイ!」が響き渡るも、その姿をなかなか見ること叶わず。そこで幾羽の小綬鶏が出没するという東京郊外・府中の浅間山(せんげんやま)公園まで行ったことがある(下写真)。玄関に小綬鶏で長年の謎が解けた。久し振りに島へ行けば、玄関床に鳥の白い糞あり。「そうか、犯人はコヤツだったか」と。

 なお小綬鶏は昭和14年9月の「島の新聞」に「昨年に放した小綬鶏の繁殖全島で分布し~」の記事があり、昭和13年に放鳥されたものと推測される。

 野鳥話題をもうひとつ。静かになったロッジ・ベランダで寛いでいれば ♪特許許可局~トッキョキョカキョク~」。その鳴き声はホトトギスに違いない。スマフォで「伊豆大島 ホトトギス」で検索すれば「グローバルネイチャークラブのガイド日記」の写真と記事がヒットした。

m_kojyukei2_1[1].jpg ウグイスの抱卵時期に〝託卵〟すべく5月中旬頃に島に飛来とか。双眼鏡を手に鳴き声方向に車を走らせたが、姿を見ることは叶わず。だが白っぽい腹に横線模様の鳥が、上空を一直線で飛んで行く姿を見た。「うたた寝にその鳴き声ぞホトトギス」

 ウグイス、ホオジロの囀りは終日響き渡り、斜め隣家の屋根はイソヒヨドリのお好み場だ。野鳥に加え「グバッ・グワッ」の野獣声方向を見ればタイワンリスがいて、キョンの親子も歩いている。

 「あぁ、鄙なる暮しよ」と思えば、今朝のテレビで山形県鶴岡市の民家の玄関に熊出没の映像が流れていた。熊の心配はないが、かくも大島の鄙な暮らしです。(6月下旬の島暮しの思い出2)

 ★メモ:「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集めた鷲、鷹、雉子などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥された。(Weblio辞書)

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