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方丈記6:京都に辻風襲う [鶉衣・方丈記他]

tujikaze1_1.jpg 前記「太郎焼亡」の翌年、治承2年(1178)に「次郎焼亡」。火災範囲は前年と同様で、京の主要建物多数が焼失して景観一変した。

 北村優季著『平安京の災害史』には、平安遷都直後から頻繁に火災があったと列挙されていた。当初は高い建築物への落雷火災、小さい家の密集地での出火延焼(数百家規模)が多く、10世紀になると社会・政治不安から盗賊襲撃などの火災多く600家~700家規模に拡大。

 以上から道路幅拡大、防火考慮の建物が作られるようになるも、その上での「太郎焼亡・次郎焼亡」だったと記す。その2年後の治承4年4月に「以仁王の乱」。騒動収まらぬ5月に今度は「辻風(竜巻?)」が京を襲った。長明は「以仁王の乱」のやるせない気持ちを「辻風」記述にぶつけた(らしい)。

 又治承四年卯月廿九日のころ、中御門京極の程より、大なる辻風おこりて、六条わたりまでいかめしく吹けること侍き。三四町をかけて吹まくる間に、其中に籠れる家共、大なるもちいさきも一(ひとつ)としてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けた(桁)、はしら(柱)ばかり残れるも有。又門の上を吹はなちて四五町が程におき、又垣をふきはらひて隣とひとつになせり。いはんや家のうちのたから、かずをつくして空にあがり、檜皮ぶき板の類ひ、冬の木の葉のかぜに乱るるがごとし。塵を煙のごとくふきたてたれば、すべて目もみえず。をびたゞしくなりどよむ音に、物いふこゑも聞えず。地獄の業風なりとも、かくこそはとぞ覚へける。家の損亡せるのみならず、これをとりつくろふ間に、身をそこなひ、かたはづけるもの、かずを知らず。此風ひつじさるのかた(南南西)にうつり行て、おほくの人の嘆きをなせり。辻風はつねに吹く物なれど、かゝることやはある。たゞことに非ず、さるべき物のさとしかなどぞうたがひ侍りし。

 ●辻風は内裏東側辺りから南方向へ吹いた。●籠れる=囲まれている、包まれている。●「かくこそはとぞ覚へける」は岩波文庫では「かばかりにこそはとぞおぼゆる」=このくらいであろう。●かたはづけるもの=身体が不自由になった人。●ただごと=徒事(普通の事)。●さるべきものの(何事かの)さとし(神仏のお告げか)どぞ(強調)うたがひ侍り(怪しみ恐れた)

 五味文彦著には「リアルな記述ゆえ、長明も被災していたのかもしれない」と記されていた。そして心休む間もなく翌月6月2日に、なんと「福原遷都」です。

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千駄ヶ谷4:仙寿院墓地下にトンネル! [散歩日和]

senjyuinboti_1.jpg 「江戸名所図会」と「絵本江戸土産」両方に「仙寿院」が描かれていた。江戸時代に遡る前に、現「仙寿院」を見てみる。

 建築中の国立競技場の南角前、ビクタースタジオのある交差点から西を見れば眼前に「千駄ヶ谷トンネル」あり。

 その上を通っている道路は? だがトンネル上は仙寿院の墓地と知って仰天した。これは東京オリンピックの際に、代々木選手村から国立競技場への道を造るべく、強引に墓地下にトンネルを掘って「オリンピック道路」にしたらしい。

 ネット上では有名な〝心霊スポット〟。「埋葬された霊の皆さんが行政の暴挙に怒って化けて出る」と記されていた。ならば明治通り側からトンネル(写真上)をくぐってスタジオ入りして制作されたビクター音源は、霊の洗礼を受けて完成ってことになる。

senjyuinn_1.jpg サザンオールスターズの14枚目の30曲入り2枚目アルバム『キラーストリート』に表題インスト曲あり。この「キラーストリート」は仙寿院の墓地ではなく、青山墓地横を走る道ゆえの〝キラー〟らしい。

 仙寿院へは、同交差点角から入れる。寺院に迫るほどビッシリと詰め込まれたお墓。えらく窮屈な佇まいです。「法雲山仙寿院沿革」説明看板の創設由来は「江戸名所図会」に依るとして、それ以後の沿革説明文を読んでみる。

 「江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革(廃仏毀釈?)によって衰微し、明治十八年には火災によって全山焼失。その後、里見日玞(体尊院日玞上人)により復興されるも、昭和十八年戦災で再び全山焼失した。更に昭和三十九年、東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和四十年には本堂、書院を再興。昭和五十九年には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている」

 かくして「江戸名所図会」や「絵本江戸土産」に描かれた長閑で広い寺院情景とは雲泥の趣になった。しかもお墓の下に道路トンネルとは魂消た。東京オリンピックでは日本橋(川)の上に首都高速を走らせるなど、行政の無茶振りに呆れたが、ここにもそんな無茶があったかと改めてそう思った。

 では次に、懐かく良き江戸時代の「仙寿院」へ思いを馳せるべく「江戸名所図会」と「絵本江戸土産」の世界へ。

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方丈記5:長明の翻弄された人生 [鶉衣・方丈記他]

tujikazenoe_1.jpg ここで鴨長明の前半生調べ。「保元の乱~平治の乱」は4~7歳。「保元の乱」主戦場は下鴨神社近くの近衛河原。「平治の乱」主戦場は六条河原。家の近くで展開の内乱が、幼児長明の胸にどう刻まれたか。

 平清盛・入道信西組が勝って、京につかの間の平和。二条天皇の賀茂社行幸を機に、長明の父・鴨長継は従四位へ。9歳になった長明は、応保元年(1161)に二条天皇の中宮高松院の叙勲によって従五位。藤原親重(勝命)に和歌を習い、天皇の管弦伺候の楽所預・中原有安に琵琶を習った。

 承安年間は和歌文化は花咲き始めた時期で長明は順風満帆。だが20歳に突然の不幸が襲った。承安2年(1172)、父の突然死。〝父身まかりてあくる年、花をみてよめる〟「春しあればことしも花は咲きにけり 散るを惜しみし人はいづらは」。花が散るのを惜しんでいた父は、どこにいってしまったのだろうか。

 父の補佐を長年行ってきた祐季(鴨県主=かものあがたぬしの別流)が惣官禰宜に就き、社司の務めをしてこなかった長明は下賀茂社を後にした。父方祖母が残した家で、独り暮らしを開始。20歳で庇護者を失った長明は、和歌に望みを託した。

 俊恵法師による歌人らの交流の場「歌林苑」最年少の会衆へ。和歌の道を着実に歩んでいた24歳の時、今度はもうひとりの庇護者・高松院が安元2年(1176)に亡くなった。長明を支えた足場二つを失うと併せ、同年7月に後白河の后・建春門院死去。平氏と法皇を結ぶ建春院も亡くなって、京も再び危うくなって平清盛が暗躍する。

 治承3年(1180)長明27歳の11月。清盛は後白河天皇を鳥羽殿(伏見区の鳥羽離宮)に幽閉し、高倉天皇の譲位を計って安徳天皇を立てた。「平家にあらずんば人に非ず」の平家全盛。翌年、これに反発した源頼政が後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)に平氏一族を討って天下を取るように勧め、東国の源氏や武士らに挙兵を勧めた。

 この「以仁王の乱」は謀反露見で源頼政、以仁王は討死。頼政は当時の代表的歌人の一人。有為転変かつ諸行無情。長明が受けた衝撃はいかばかりた。そして翌月に京都〝辻風の難〟。長明は「以仁王の乱」への胸の痛みを押し殺すように「辻風の難」を記した。絵は山岡元隣『方丈記之抄』(国会図書館デジタルコレクション)の京都大火の挿絵。

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千駄ヶ谷3:明治改造に残されて [散歩日和]

sendagayatizu2_1.jpg 千駄ヶ谷「鳩森八幡神社」一帯についての多少を知ると、概ね次のように時代大別が出来そう。

 ①江戸時代の長閑な暮らしと風景。②明治政府による御所・神社・公園などの大改造。③朝鮮戦争~東京オリンピックまで千駄ヶ谷駅周辺にあった〝連れ込み旅館〟全盛時代。④現在の新国立競技場・アパレル系商店・寺院混在状況。

 なんとも複雑な経緯を有した一帯です。まずは②明治政府による御所・神社・公園などの大改造について。同地域を囲んで北から東へ広大な「新宿御苑」~「神宮外苑一帯」~「赤坂御用地」が連なっている。反対側の西側が「明治神宮・代々木公園」。それぞれの設立経緯を簡単にまとめてみる。

 「新宿御苑」は徳川家康が江戸入りして家臣・内藤家に与えた広大地のなかの下屋敷。明治になって牧畜園芸改良の試験場になり、明治12年(1879)に皇室献納で「新宿植物苑」。皇室のゴルフコースも出来ていた。昭和24年(1949)に国民公園になって一般開放。当時、幼児の吾輩はオタマジャクシ採りに夢中になって池にドボンと落ちた。泣きながら大木戸門前の親戚の家へ走った。

 「明治神宮外苑一帯」。江戸時代は各藩下屋敷や御鉄砲場などで、明治19年(1886)に陸軍用地になって練兵場、陸軍大学などが移転して来た。当時の地図を見ると、千駄ヶ谷駅~信濃町駅を北端に、青山通りまでが広大な青山練兵場。その陸軍が代々木に移転(代々木公園、代々木体育館、渋谷公会堂、NHKなど)後の昭和1年に(1929)に明治絵画館、銀杏並木、記念記念館、運動場、野球場、競技場が造営された。

 その南側が「青山霊園」。明治5年(1872)に美濃郡上藩主・青山家の下屋敷跡に開設。ここの外人墓地調べで幾度も通ったことがある。

 「神宮外苑」のさらに東側が広大な「赤坂御用地」。元紀州徳川家の上屋敷で、明治維新に接収され皇室に献上。御所、各宮邸、赤坂御苑、迎賓館など。

 「明治神宮」は肥後藩主・加藤家別邸や彦根藩・井伊家の下屋敷。明治7年(1874)に明治政府買上げで「南豊島御料地」へ。明治45年(1912)の明治天皇崩御で、大正9年(1920)より造営開始で明治神宮へ。

 これらによって、延々と続いてきた江戸時代の環境・景観が一変した。それら施策に囲まれるようにポツンと取り残されて、江戸時代の面影を残したのが「鳩森八幡神社一帯」と云えそう。

 こう理解すれば、次に明治以前(江戸時代)の同地域がどうだったかが知りたくなってくる。そこで「江戸名所図会」をひも解けば「千駄ヶ谷八幡宮・千駄ヶ谷観音堂・仙寿院・竜岩寺」が描かれていた。次に「絵本江戸土産」を見れば「青山新日暮里・仙寿院・竜岩寺」などが描き残されていた。次回はこれら図会から千駄ヶ谷の江戸散歩です。

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方丈記4:京都大火 [鶉衣・方丈記他]

tarokaji1_1.jpg 「保元の乱」から「平治の乱」の京都内乱の後に、鴨長明の運命は激変するが、それは後述で、京都大火の記述に入る。仁安元年(1166)14歳の12月1日に京都大火。その後も京都の火災は頻発。特に安元3年(治承元年・1177)25歳の時に京都大火、通称「太郎焼失」は大きかった。長明はこう記している。

 凡(およそ)物の心をしれりしより、四十あまりの春秋を送る間に、世の不思議をみること、やゝたびたびになりぬ。去(いんし=去る)安元三年四月廿八日かとよ。風はげしく吹て、しづかならざりし夜、戌のときばかり(夜8時頃)、都のたつみ(東南)より火出来りて、いぬゐ(北西)にいたしる。はてには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省までうつりて、一夜が程に灰となりにき。火本(元)は樋口富小路とかや。病人をやどせるかりや(仮屋)より出来けるとなん。吹まよふ風に、とかくうつり行程に、あふぎ(扇)をひろげたるがごとくすゑひろに成ぬ。とをき家は煙にむせび、ちかきあたりは一面ほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹立てたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風に堪ず吹ききられたる炎、とぶがごとくにして。

 ここで区切る。「廿八日かとよ」の●とよ=とおもう。~だったか。●とかや=~とかいうことである。●「病人をやどせる」は岩波文庫では「「舞人をやどせる」。●とかく=あっちこっちへ。●~となん(む)=強く推量。文を続ける。

tarokaji2_1.jpg 一二町を越えつゝ移行。其中の人、うつし心ならんや。あるひは煙にむせびてたふれふし(倒れ伏し)、或は炎にまぐれてたちまちに死ぬ。或は又わづかに身一からうじてのがれたれ共、資財をとり出るに及ばず。七珍万宝さながら灰燼となりにき。そのついへ(費へ)、いくそばくぞ。此たび、公卿の家十六焼たり。まして、其外はかずしらず。すべて都のうち三分の一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数千人、馬牛の類ひ辺際をしらづ。人のいとなみ、みな愚かなる中に、さしもあやうき京中の家を作るとて、宝を費し、心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき(この上なく無益なことだ)。

 ●うつし心=現し心=正気、理性ある心。●うつし心あらんや=正気でいられようか。●まぐれて=眩れて=目がくらんで。●七珍万宝=あらゆる宝物。●いくそばく=幾十許=どれほど多く、数多く。●さしも=されほど、あれほど、あんなに。●あぢきなく=味気なく、無益だ、わびしくつまらない、にがにがしい。 

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千駄ヶ谷2:国立競技場から富士塚へ [散歩日和]

hatomoritop_1.jpg 過日、足裏の痺れや腰の調子の塩梅が良く、久々に1万余歩のウォーキングで国立競技場まで歩いた。そして再び国立競技場へ。今回は新宿御苑沿いのコース。御苑が終わった目の先が「東京体育館・国立競技場の建築現場、神宮外苑」だった。

 競技場を一周後に、東京体育館から「鳩森八幡神社」へ向かった。寛政3年(1789)造築の都指定有形民俗文化財〝富士塚〟に登った。眼下左に今話題の将棋会館。同神社周辺にミニ商店街あり。昔の門前の名残りか。他に観音寺、瑞圓寺、千寿院。思いがけず毛深く濃密な感じで〝奇妙な不思議感〟を覚えた。

 この妙な感覚は何だろうか。帰宅後に地図を見れば「鳩森八幡神社」辺りは、大公園「新宿御苑~神宮外苑一帯」から広大な「赤坂御用地」へ続き、反対側に「明治神宮・代々木公園」。その狭間地と理解した。

IMG_6457_1.JPG 明治政府によって大変貌を遂げた広大な御所・公園・神社地域に囲まれて、ここだけにポツンと残った江戸の名残り。〝妙な感覚〟の所以はそこらしい。(追記:後日、千駄ヶ谷駅両側に都内有数の〝連れ込み旅館〟があったと知った。〝毛深く濃密な感じ〟はソレも影響していたか)

 ウォーキングや自転車散歩で都内彷徨の小生だが、何故か今までに「鳩森八幡神社」周辺を訪ねたことがなかった。その理由も探らなければいけない。(追記:都内有数の〝連れ込み宿街〟と知って、そう云えば十代の頃に、そう知って、踏み込んではならない怪しい地域と認識していたような記憶が甦ってきた)

 道路からみれば「明治通り」と「外苑西通り」に挟まれた〝素通り地域〟。我家からJR利用ならば「新大久保~新宿~千駄ヶ谷」。地下鉄ならば大江戸線「東新宿~都庁前に戻って~国立競技場」。一帯の散歩中に急きょ帰宅となればJR「信濃町~新宿~歩いて新宿三丁目~東新宿」。

 歩けば近いのに、かく不便な地で馴染もなかった。改めて他ルートを探せば「東新宿・副都心線」で2駅先が「北参道駅」。これは便利そうだが同駅開通は平成20年(2008)で馴染が薄い。利用するとしても明治神宮、原宿手前、代々木への下車駅で、同駅から「鳩森八幡神社」一帯へ行こうと考えたこともなかった。やはり特別の縁や事がなければ、足が向かぬ地域だったのだろう。

 同地は、あの万年ノーベル文学賞候補の村上春樹が、国分寺からジャズバー「ピーター・キャット」を移転した地らしい。「村上春樹好き」は多いが、小生はその名を口にするのが、何故かなんとなく気恥ずかしい。

 かくして「近くて遠き地域=千駄ヶ谷一帯」に偶然のように迷い込んで、遅まきながら同地に興味を抱いた。散歩の達人・永井荷風もこの地域には踏み込んでいない。野田宇太郎『改稿東京文学散歩』も触れていない。川本三郎はこの地域に言及しているや。いやきっと昭和30~40年(オリンピック前まで)頃の〝連れ込み宿街〟全盛期の通俗小説の舞台にはなっていたような気もするが~。

 まぁ、周辺を歩けば国立競技場の建築過程も見物出来るし、しばしウォーキング定番ルートになりそうです。写真は富士塚看板と、富士塚頂上から社を撮ったもの。

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方丈記3:内乱と大災害を経て [鶉衣・方丈記他]

hojoki2b_1_1.jpg 『方丈記』冒頭文の続き。河の流れから、京で暮す人々の諸行無常が朝顔の露に例えて綴られています。

 ところもかハらず、人もおほかれど、いにしへみし人ハ、二三十人が中に、わづかにひとりふたり也。あしたに死し、夕に生まるゝならひ(漢字表記すれば:所も変わらず、人も多かれど、古見し人は二三十人の中に、僅かに一人二人也、朝に死し、夕に生るゝ習ひ)。

 たゞ水の泡に(似)にたりける。しらず、生まれしぬる人、何方(いずかた)より来りて、いづかたへか去。又しらず、かりのやどり、誰が為に心を悩し、何によりてか、目をよろこばしむる(喜ぶのであろうかかわからない)。其あるじとすみかと、無常をあらそひ去様(さるさま)、いはば朝がほの露にことならず。あるひは露落て花残れり。残るといへども、朝日にかれぬ。或は花はしぼみて露猶消ず。消ずといへ共、夕をまつことなし。

 「しらず(不知)」は倒置法。生まれ死ぬる人、何方より来たりて何方へ去る~を知らず。「かりのやど=仮の宿=この世のかりそめの宿」。

heijiemaki_1.jpg さて「保元の乱」(1156)から「平治の乱」(1159)の京内乱は、長明4歳~7歳の頃。そして安元3年(1177)に京都大火、治承4年(1180)に辻風(竜巻?)、同年6月に突然の福原遷都、養和元年(1181)から大飢饉、元暦2年(文治元年・1185年)に大地震。長明25歳~33歳の頃にこれら大災害が続いた。

 長明ならずとも〝無常〟がイヤというほど身に染みたに違いない。これは江戸の相次ぐ大火も同じで、この無常観から江戸っ子の「宵越しの銭は持たねぇ」から粋へ、さらには「侘び、さび」の〝美〟までに昇華した。

 『方丈記』は、ここから次々と息もつかせぬ大災害の述懐が続きます。絵は平治物語<絵巻>第1軸、三条殿焼討巻より(国会図書館デジタルコレクション) 

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方丈記2:波乱の京に生まれ [鶉衣・方丈記他]

heiankyo2_1.jpg まず五味文彦『鴨長明伝』より〝出自〟調べ。生まれは、鴨川と高野川が合流する地に鎮座する賀茂御祖社(下鴨神社)の摂社・河合社の禰宜・鴨長継の次男。下鴨神社は平安京遷都から朝廷と結び付いた社。

 生まれ年は久寿2年(1155)、父17歳が定説だが、著者は定説より2年違いの仁平3年(1153)生まれで、父は25歳~35歳と推定。以後、年齢は五味著に従う。長明2歳の時に、父は河合社から下鴨神社の正禰宜へ。『方丈記』冒頭文は~

「行河のながれは絶ずして、しかも本(もと)の水にあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつきえ、かつむすびて、ひさしくとまる事なし(他著:とゞまりたるためしなし)。世中にある人とすみかと、又かくのごとし」

 山岡元隣の注に論語「子罕第九」の「子在川上曰、逝者如斯夫、不舎昼夜=子(し)、川の上(ほとり)に在りて曰く、逝く者は斯くの如き夫(か)、昼夜を舎(す)てず」に基づいて書き出していると説明。

 そしてまた、この書き出しは鴨川と高野川の合流する地に生まれ育った長明ならでは。だが京は、長明4歳~7歳で「保元の乱」「平治の乱」の内乱の地と化した。

hojoki1a_1.jpg 「保元の乱」は、後白河天皇と崇徳天皇の皇位継承の内紛。後白河天皇方に平清盛・源義朝が、崇徳天皇方に義朝の父・為義と義朝の弟・為朝が付いての闘い。後白河天皇方が勝って、為義斬首、為朝は伊豆大島へ配流。

 そして「平治の乱」。後白河天皇の下で権勢を誇ったのが藤原(入道)信西。後白河天皇が皇位を二条天皇に譲ると、信西と藤原信頼が対立。信西は藤原なれど家柄低くて出家。妻・朝子が天皇の乳母だったことで天皇に重用された。一方の藤原信頼は家柄良く、天皇に寵愛(男色?)されていた。

 信西側に平清盛が、信頼側に源義朝が付いての闘い。信西・清盛側が勝って、義朝の子・頼朝は伊豆に流罪。かくして『方丈記』は冒頭文からこう続く。

 玉しき(枕詞的意で)都のうちに、むねをならべ、いらかをあらそへる。たかきいやしき人(身分の高い人や低い人)のすまゐは、代々をへてつきせぬものなれど、是をまこととたづねれば、昔有し家はまれ也(他著:或は去年焼けて今年作れり~が入る)。或は大家ほろびて小家となる。すむ人も是におなじ。

 無常観を前面に打ち出した冒頭文。ここで区切る。小生、京都知らずゆえ、冒頭に平安京地図をアップ。高校の修学旅行が京都も、その金で親に黙って山登りへ行ってしまった。

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方丈記1:先入観なしが肝心 [鶉衣・方丈記他]

hojyokihon1_1.jpg 司馬江漢の隠棲を思えば、『鶉衣』横井也有や永井荷風も想起する。あぁ、鴨長明『方丈記』未読のままと気付いた。

 「松岡正剛の千夜千冊」の岩波文庫『方丈記』評に、「長明は失意の人で、典型的な挫折者。内田魚庵のいう〝理想負け〟、山口昌男のいう〝負け組〟だったから」「そういう男が58歳のときに『方丈記』を綴りはじめたのだ。われわれもよほど覚悟して、その意図の表裏に惑わされずに読む必要がある」

 松岡正剛の〝われわれ〟とは誰のことだろう。この記述で『方丈記』を読む気が失せたが、とりあえず岩波文庫『方丈記』(昭和64年初版で現44版)を購った。校注・市古貞次がこう記していた。「何かと思うに任せないことがあって、神社関係の交らいもしないで、自宅に籠居していたらしい。社交的ではない偏屈な性格であった」。また若くして出家した西行と比較して「30年余、神職の家に執念を持ち続け(略)いわば敗残者長明」

 松岡正剛の読書評は、同書の受け売りのような気がしないでもない。次に図書館で関連数冊を借り読んだ。五味文彦『鴨長明伝』(平成25年刊)の「はじめに」を読む。

 「これまでの多くの研究を見ると、いささか長明に冷たい」と記し、岩波文庫の前述文を引用し「このような評が生まれたのはどうしてか。(中略、それはどうやら)『源家長日記』の記述に起因しているらしい」。そして細野哲雄『鴨井長明の周辺・方丈記』(昭和58年刊)以後は研究も進んでいないと記していた。

 ここはどうやら〝典型的な挫折者〟なる先入観なしに読むのが肝心らしい。かく心得て、僅か9千字程を一気読了を思いきや、小生は平安末期の歴史も京都にも疎い。過日はひょんなことで『保元物語』を読んだが、『平治物語』も読み、京都の地理や歴史、加えて古語、くずし字のお勉強もあって、なかなか先に進めない。

 『方丈記』には古本、流布本さまざま。岩波文庫は最古本掲載だが、これは「カタカナ+漢字」表記。ゆえに校注者によって漢字表記が異なる。各校注本を読み較べれば、岩波文庫にして、例えば地震記述部分が2百字ほど抜けていたりもした。

 小生は「くずし字」勉強中ゆえ、明暦4年の山岡元隣(江戸時代前期の俳人、仮名草紙作者)注の『方丈記之抄』(国会図書館デジタルコレクション)を中心に読み、筆写もしてみようと思った。約8百年も前の人物・著作ゆえ不定かなること多々ゆえ、ここは勝手解釈の隠居遊びで参りたい。

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老いてなほ筆おろしする庵の春 [くずし字入門]

fudeorosi2_1.jpg ブログに文鎮を並べ撮ったら、やはり「筆ペン」ではなく、書道筆も使ってみたくなった。世界堂の書道コーナーで細字用●呉竹の細字「はやせ」7号・中峰(1500円。中国産の山羊に、穂先はイタチ)●墨運堂の「雅」(1100円、全茶色)を購った。

 書道筆を手にするのは、小学生以来か。小生らの世代は、子供時分に多くの子が書道塾か珠算塾に行ったもので、あたしは書道塾に通った。とは云え〝筆おろし〟などという記憶はない。水彩筆は何本かを使ってきて、今はどういう筆が良いかがわかりつつある段階。

 書道筆を求めたには、他にもワケがある。実は目下、鴨長明『方丈記』を読み始めている。平安末期~鎌倉初期頃の著作で、最古本は「カタカナ+漢字」表記だが、小生は「くずし字」勉強中ゆえ、江戸時代の写本を手本に筆写してみようと思った次第。

 同著はたった9000字程だが、平安末期頃の歴史や古語のお勉強で遅々として読書進まず。従って未だ固い筆を眺めつつ、さて「筆おろし」ってどうやってするのだろう。

 まず口に含み、唾で濡らしつつ舐めほぐすのだろうか。ここは経験豊かな方に手ほどきを受けたほうがよろしいか。そこでネットでお勉強です。

 細字筆は穂先の三分の一だけおろす。やり方はぬるま湯に三分の一ほどをつける。穂先から指で少しづつほぐす。充分にその部分の糊を落としたら、紙や布で水分を拭き取る。この際に抜け落ちる細かい毛は除く。キャップは捨てる、とあった。

 未だ固いままの筆をみつつ駄句。「老いてなほ筆おろしする庵(いお)の春」。

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司馬江漢23:江漢へ見せたき皆既月蝕ぞ [北斎・広重・江漢他]

gesyoku2_1.jpg 司馬江漢が「月蝕説明図」を描いてから226年後の赤い月、皆既月蝕です。

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千駄ヶ谷1:国立競技場へ往復1万余歩 [散歩日和]

kyougijyo1_1.jpg 4年前の秋のこと。横浜で「五姓田義松展」を観た後に煉瓦街へ向えば、足裏に酷い痺れ。慌てて大病院へ行った。MRI検査で「脊椎狭窄症」と診断された。

 若い時分は山登り。ギックリ腰の最初は40代か。以来、慢性腰痛ながら調子が良ければウォーキング。韋駄天のように都内疾駆。歩き過ぎて踵を痛めた。それでも今度は鳥撮りで野を歩き回った。「もう歩けないのか」と愕然とした。

 脊椎狭窄症は、薬治療のみでらちが明かない。自己流ストレッチや腰痛体操。少しづつウォーキング。やがて5千歩、小1時間ほど歩けるようになった。

 そんな矢先の昨年の大島暮しで「草アレルギー」。脛が酷くかぶれた。これは病院の薬一発で治ったが、汗をかくと顔や頭が痒くなった。これもアレルギーらしい。酷暑と汗を嫌って、夏の間はずっと冷房装置の部屋に閉じ籠った。歳を取るとワケ分からぬ病気が襲う。

 涼しい季節になって、ウォーキングを再開。身体がすっかり衰えて、歩くのがえらく辛い。「歳をとると、こうして歩けなくなって行くんだ」と思った。まだ頑張れる歳だろう。歯を食いしばって自宅~新宿伊勢丹の往復、小1時間のウォーキングを再開。少しづつ背中の筋肉の辛さが薄らいでいった。

 先日、伊勢丹を越えて歩き続けた。原宿手前を左折。国立能楽堂脇を経て東京体育館のドーム横へ。あれまぁ、眼前に国立競技場の骨格が聳えていたじゃないか(写真)。かく帰宅すれば1万数千歩。ここまで歩ければ「脊椎狭窄症」とは言えまいぞ。家に籠って衰えたきった筋力もどうにか復活と認識した。

 話は変わるが、国立競技場の現場を観ていて、この現場の過労で青年が亡くなったことを思い出した。きっと五輪開幕時の華やかな最中にも、青年の死を思い出すだろう。NHKや電通でも青年が過労死。中小企業には、そうした事例がさらに多いような気もする。

 人の営みの裏にはビッシリと罪が張り付いている。日本の歴史然り、日本の風景の至る所で、そんな罪が満ちている。辛いなぁ~。

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雪払ふ肩が恋しやはぐれ鳥 [暮らしの手帖]

inko1_1.jpg 都内4年振りの大雪、草津白根山噴火、米軍ヘリ今月3回目の不時着、相撲取りの不祥事、韓国冬季五輪の騒動、破棄した森友学園の文書開示~。そんな騒々しい1月23日のこと、我が身にも〝椿事〟あり。

 夕餉の食材買いの帰り、我がマンション数軒手前でスゥ~と白い鳥が横切った。かかぁが「アァッ」と指さし、小生「ハクセキレイ」。だがセキレイの飛び方でもなく、止まった辺りをよくよく見れば白と青のインコ。セキレイインコ(背黄靑インコ)。

 「あれまぁ」と見やれば、なんと云うことでしょうか、飛んできてかかぁの肩に止まった。「まぁイヤ~」と払えば、今度はあたしの肩に止まった。

 そのままエントレンス、エレベーターを経て7Fの我家へ。餌と水を与えたが(写真)、飲み食いほどほどに、すぐに肩や頭に飛び止まる。可愛がられていたのだろう。

 どうしましょう。糞もしよう。ならば鳥籠が必要か。いや飼えば最後までが責任だろう。元気な若鳥らしく、ワシらより長生きしそうだし、飼えば旅行もまままらぬ。

 餌も水も摂ったゆえ、外へ出した方がいいのかも知れない。ベランダに出るも肩から飛ぼうとせず。〝弱ったなぁ〟と何度も言いつつ、結局は払うようにして、やっと空へ。数年前にもベランダの手摺りに飛んできたインコを部屋の中から撮ったこともある。〝迷いインコ〟多いんですね。

 今年もベランダのローズマリーへメジロが遊びに来た。紐一本で着脱可能の餌台をセットすれば、新宿とは云え何羽のメジロが集い、ヒヨドリも来る。ヒヨはメジロを追い払い、糞もデカい。今年は餌台を止めようかしらと思案中。

 さて〝椿事〟と云えば、1月28日から伊豆大島〝椿まつり〟。この寒さに「椿にメジロ」が愉しめましょうか。

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机上〝文鎮動物園〟 [暮らしの手帖]

buntinzu_1.jpg 「明窓浄几」は〝まぁ〟として「古鼎宋硯」の「鼎」は若い時分に通った新宿伊勢丹前の地下酒場。墨汁+筆ペン+コピー紙で「〝硯〟もほろろ」。窓外は「奇峰遠水」ならぬコンクリート建築群の遥か先に東京スカイツリー。

 かく「文房清玩」とは程遠い机上に〝ガラクタ文鎮〟増殖中。机には万年筆4本、無数のボールペンや絵筆もある。それらに各々の使い勝手があるように、文鎮群も夫々の役目と思い出がある。

①文鎮初入手の鶏。1000円。(池袋古本まつり):書道系書棚で発見。机の佇まいが妙に整う感じで、初めて文鎮を認めた。従来の「習字セットの金属棒」を捨て文鎮集めが始まった。この「鶏」はつまみ易く、文庫本などの見開き押さえなど稼働多し。

②牛。1500円。(池袋古本まつり):形悪く期待ゼロも、ズシリッと重い鉄の塊でお気に入りに。キーボードを立て掛け置く場合、この「牛」でビクとも動かぬ。

③鯉。2500円。(代々木公園の大江戸骨董市):絵を描く時、分厚い本の見開き押さえに稼働。この種の文鎮は数万円の工芸品級をよく見かけるが、これは某学校ノベルティー。

④仕掛け鍵の亀。2500円。(花園神社骨董市):仕掛け鍵で尾の錠が外れる。面白いので机に居る。インド製。

⑤銭山に乗る亀。1500円。(護国寺骨董市):小生の文鎮は粗悪品が多いが、これは細部まで精緻。小さく摘まみ易いのでメモなどにマメに使っている。

⑥REGALウエスタンブーツ型ペン立て。500円。(代々木公園の大江戸骨董市):同じのがヤフオフで6800円也。この種の骨董値はあってないものと教えてくれた。

⑦虎。800円。(花園神社骨董市):ウォーキング途中でつい手が出た。期待ゼロも意外に重くて気に入った。小生の文鎮価値は形より重さが肝心。

⑧象形文字の山。300円。(国際フォーラムの大江戸骨董市):女房がチェスト上に敷く正月、クリスマス用の金糸刺繍の帯が欲しいってんで、初めて骨董市に連れて行った。2千円の帯を5本購入。そのついでに買った。

⑨古代刀貨レプリカ。2500円。(護国寺骨董市):骨董市でよく見かけるが、本物とレプリカの違い不明。先日の司馬江漢調べでは数冊を見開き読み較べの際に大活躍。

⑩滑車付き分銅。1300円。(国際フォーラムの大江戸骨董市):「これは何だい」「こんなモン買ってどうすんの」「文鎮替わりになるかなと」「へぇ、そんな使い方もあるんだ。200円引きで持って行きな」

⑪象。1200円。(富岡八幡宮骨董市):画集を見開きで立て掛け鑑賞する時の押えになる。他にドアノック用装飾金具も買った。

⑫龍。2000円。(代々木公園の大江戸骨董市):これも重いのがいい。★机上ガラクタは12個まで。新文鎮購入で机上隠退の入れ替え制。

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司馬江漢22:参考書一覧 [北斎・広重・江漢他]

★主な参考書:黒田源次『司馬江漢』(昭和47年刊)、『司馬江漢全集』第一巻/西遊旅譚、吉野紀行、江漢西遊日記。第二巻/独笑妄言、春波楼筆記、無言道人筆記、訓蒙画解集、江漢書簡集、雑纂。第三巻/輿地略図、地球全図略説、和蘭天説、天球図、西洋画談、和蘭通舶、おらんだ俗話、白薾天文図解、地転儀略図解、天理理譚、痘瘡伝法など。第四巻/作品集。細野正信『司馬江漢』(昭和49年刊)。東洋文庫『江漢西遊日記』

★その他参考書:芳賀徹『平賀源内』(昭和56年刊)、日本古典文学大系『風来山人集』、菅野陽『江戸の銅版画』、吉田暎二『浮世絵入門』、平野威馬雄『平賀源内の生涯』、田中優子『江戸の恋』、川本三郎『大正幻想』、永井荷風『江戸芸術論』、芳賀徹他『杉田玄白~蘭学事始ほか』(中公クラシックス)、杉本つとむ『江戸長崎紅毛遊学』(ひつじ書房)、河出書房社『江戸の科学大図鑑』、森銑三著作集・第一巻。

★国会図書館デジタルコレクション:司馬江漢著作群、中井宗太郎『司馬江漢』(昭和17年刊)、西村貞『日本初期洋画の研究』の「晩年の司馬江漢」、石井栢亭『画人東西』(昭和18年刊)、本田寛編『画家逸事談』、『伊能忠敬言行録』の「交友門弟」、村岡典嗣『天地画談』(昭和5年刊)、松本愛重『本朝立志談』(明治23年刊)など。

★東京国立博物館アーカイブス:司馬江漢著作群

★ネットヒット:青木茂<高橋由一「司馬江漢像」の成立について>、近藤秀美「司馬江漢の面白さ」、田川邦子「晩年の司馬江漢~『春波楼筆記』を中心に」。

<メモ> 見開き頁のノド余白を削除して画像合成したり、自作の三人似顔絵を一枚に合成したので、その法もメモ。1)素材の必要部分を各トリミング 2)Windows「ペイント」で左写真を取り込む。この際に次に取り込む右スペースを作っておく。3)左から次々に取り込む。4)jpgで保存。

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司馬江漢21:定信の子飼い亜欧堂田善 [北斎・広重・江漢他]

 司馬江漢シリーズ「終わり」予定も、小生は「ジャポニスム17~北斎が学んだ新画法」で「大久保純一著『北斎』では(北斎が学んだのは江漢の遠近法ではなく)年代的及び普及度から〝亜欧堂田善の江戸名所銅版画〟から学んだのだろう」なる記述を紹介した。やはり亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)も調べ知りたい。

 細野正信著『司馬江漢~江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売選書、昭和49年刊)他より「亜欧堂田善」を簡単要約でお勉強です。

 亜欧堂田善(善吉)は、延享5年(江漢生の翌年)に白河藩の中心地、福島・須賀川に生まれた。代々農具商の5代目の次男。兄は家業を継ぐと同時に狩野派に学んだ画家。善吉は兄から絵の手ほどきを受けた。兄弟はやがて染物業異国屋に転業。〝異国染〟は鈴鹿・白子で栄えた紙型(現在も文化財)で、同技術は「応仁の乱」で京都と伊勢に二分された。京都では雁金屋(尾形光琳の父)が隆盛を極めた。一方、伊勢の型彫師は全国行脚の商売で、吉宗時代に隠密的性格を帯びて名字帯刀。この伊勢系が江戸進出で「江戸小紋」になった。

 著者は、福島の異国染もそうして伝えられたものだろうと推測。善吉は型紙彫と併せて画業の精進も続けて、白河藩主・松平定信に認められた。天明7年(1787)、田沼意次が失脚後に徳川家斉が11代将軍で定信が老中へ。

 定信は、老中首座を退いた時点で『退閑雑記』を書き始めた。そこに寛政6年(1794)、善吉を見出してお抱え絵師・谷文晁に学ばせたとあるそうな。同年、江漢『西遊旅譚』で久能山を描いたとして絶版命。寛政8年頃に善吉は紺屋を知人に譲って白河城下に住み、定信の御用画家的存在へ。寛政10年、定信は彼を江戸藩邸に呼び寄せ「銅版法を習い製作せよ」と命じた。その時に見せられたのが大黒屋光大夫が帰国の際に持参したオランダ版世界地図。すでに江漢が模刻済も、さらに精密なものを作れと命じたらしい。定信『退閑雑記』と江漢『春波楼筆記』は、共に公開予定なしゆえ、互いに非難し合っている。

 善吉は4年ほど長崎で銅版画修行へ(ウィキペディア)。一方、定信は「寛政の改革」を展開。山東京伝が手鎖50日の刑、版元・蔦重が財産半分没収、恋川春町が自刃?に追い込まれている。文化2年(1805)、善吉は『鈴ヶ森』で銅板画・亜欧堂田善としてデビュー。号は定信が授けた。同年、江漢は59歳、田善58歳。すでに江漢は蘭学者グループから孤立し、同年の『頻海図』を最後に銅版画から手を引いた。

 田善は定信の力をバックに検印なしで銅版画を次々発表。銅板画が江漢から田善へ移行した裏には、びっしりと田沼意次~松平定信の政変があったと推測して間違いなかろう。著者・細野忠信は、田善を〝体制側子飼い名職人〟と評していた。その通り、田善は定信が致仕(隠棲)する文化11年頃には須賀川に帰郷。政局は再び田沼グループの水野忠成が老中へ。

 江漢の「死亡通知書」だが、死亡宣告後は市井の民としてホンネで生きて行こうという思惑もあったような気がしないでもない。「寛政の改革」で狂歌から身を退いた大田南畝(蜀山人)は「白河の清き魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)というて夜もねられず」とこっそり詠ったらしい。

 天明8年(1788)の江戸の町方人口136万8080人(これに武士・出家・吉原そして武士45万人がプラス)が、吉宗の重農主義で10年後の寛政10年(1798)には町方人口49万。江戸人口は1/3になった。細野著より)。

 なお田善は4年間の長崎修業をしたらしいが、同著には勝本清一郎が「田善はオランダに密航して銅版画を学んだという話は奥羽史料にもある」と記していると紹介。どの史料かは定かではない。これは余談になるが、勝本清一郎と云えば、永井荷風の別れた妻・静枝のその後の若い愛人。その後も竹下夢二の愛人から徳田秋声と同棲した山田順子の恋人でもあった人物。その顛末は、徳田秋声自身が書いているそうな。

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司馬江漢20:己の「死亡通知書」配布 [北斎・広重・江漢他]

jiseigo2_1.jpg 『春波楼筆記』を記した翌文化9年、江漢は新銭座の家蔵を売り、終の棲家を吉野に定めて旅立った。だが親類に預けた金子が遣われたと知って、1年ほどで江戸へ戻った(『無言道人筆記』)。『吉野紀行』を記し、今度は己の死亡通知書『辞世ノ語』(文化10年・1813年)を配布。ここは絵とくずし字お勉強。

 江漢先生老衰して、画を需(もとむ)る者ありと雖(いえども)不描、諸侯召ども不往、蘭学天文或ハ奇器を巧む事も倦ミ、啻(ただ)老荘の如きを楽しミ、厺年(去年)ハ吉野の花を見、夫よりして京に滞る事一年、今春東都に帰り、頃日(けいじつ=近頃)上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠摂禅師の弟子となり、遂に大悟して後病(わずらい)て死にけり。

 一、万物生死を同(おなじう)して無物に復帰(またきす)る者ハ、暫く聚(あつま)るの形ちなり、万物と共に尽ずして、卓然として朽ざるものハ後世の名なり、然りと雖、名千載を不過、夫天地ハ無始に起り無終(むじゅう)に至る、人(ひと)小にして天(てん)大なり、万歳を以て一瞬のごとし、小慮なる哉 嗚呼 七十六翁 司馬無言辞世ノ語 文化癸酉(十年)八月

 前述通り「七十八翁」は虚構で、正しくは「六十七歳」。「万物生死~」からの文は老荘思想だろう。この「死亡通知書」後日談に、こんな逸話もある。西脇玉峰編著『伊能忠敬言行録』(大正2年)の<交友門弟>「司馬江漢」の記述~。

 「某江漢の後背を見、追うて其の名を呼ぶ。江漢足を逸して走る。追ふもの益々呼びて接近甚だ迫る。江漢首を廻らし、目を張り叱して曰く、死人豈(あに)言を吐かんや。再び顧みずしてまた走り去れりと」(この逸話は木田寛栗編「画家逸事談」にも紹介されていた)

 さて司馬江漢は、北斎ほどに絵を極めたわけでもなく、良沢のように蘭語を極め、玄白のように医学に情熱を注いだわけでもない。その意では、やはり師匠・平賀源内にどこか似ている。知的遊民、ディレッタント的要素を受け継いだフットワークのよい反骨精神で自由に時代を走り続けた人のようにも思われる。虚無的な人生観を語って、文政元年(1818)10月21日、72歳で没。

 長くなり過ぎたので、ここで司馬江漢シリーズを一応終える。しかし生涯を辿っただけで、様々に考えるのはここからだと思っています。多くを図書館本、国会図書館デジタルライブラリーなどに依ったので、せめて『春波楼筆記』くらいは蔵書し、書き込みもしつつ読み込みたく思っています。次回に参考書籍を一覧。

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司馬江漢19:晩年の老荘著作群 [北斎・広重・江漢他]

 江漢の晩年著作を年代順に記す。文化7年(1810)に身辺雑記・人生訓の随筆集『独笑独言』、8年に随筆集『春波楼筆記』、9年に『吉野紀行』、10年に死亡通知書『辞世語』、11年に『無言道人筆記』、12年に『西遊日記』。その2年後の文政元年(1818)10月22日、72歳で没。

 まず文化6年に哲学的な絵『桃栗に地球儀』を描き、文は「桃に生る虫を桃むしと云、栗に生る虫を栗虫といふ。地球に生るを人間といふ。つるんでハ喰てひりぬく世界むし、上貴人より下乞食まで」。天から見れば人に貴賤なし。そんな事が老年になっても不知の者が多いと歎く。さらに顕微鏡で覗き、それら虫の寄生虫も示す。

 「須弥山論説」では、世界の中心に聳える聖なる山・須弥山をもって世界観を解く古代インドだが、地球や天体を知れば絶笑・妄説。無智の凡僧なんぞや天地広大なる事をしらんや。こうした視点から体制側を切りまくる。江漢の顔が、老荘思想の哲学者になっている。

 『春波楼筆記』冒頭。~狐や狸が人に罠をかける。酒肴の罠にすれば食い倒れ。小判を罠にすれば欲が膨れて大損し盗みにも至る。女を罠にすれば誰もがひっかかる。そうならぬように狐の稲荷に手を合せて拝むがいい。無欲がいい、度量を過ぎず、中庸が宜しい。

 自身の反省も忘れない。「後悔記」はすでに引用の画歴だが、その最後に「我名利と云ふ大欲に奔走し、名を需め利を求め、此二つのものに迷ふこと数十年。今考えるに、名のある者は躬に少しの謬(あやま)ちある時は、其あやまちを世人忽に知る者多し。名のなき者誤ると雖も知る者なし。是名を得たるの後悔。今にして初めて知れり。愚なる事にあらずや」と記す。

 明治27年に同著を読んだ日本哲学の父・大西祝はショウペンハウエルと一致する。江漢は我国の思想界に於ける稀有の産物といふべきと記した。

 成瀬不二雄は「彼の思想を一言でいうと、西洋天文学と老荘思想とを合せた虚無思想。宇宙は水と火で成り立ち、死は水と火が分離して宇宙の大気に還る。そんな虚無のなかで、人間は欲望に翻弄され苦しむ存在。そこから厭世主義にならず現世的な自然主義と中庸主義に落ち着く」と説明。

 小生、これら著作を読むと、下級武士(徒歩組)の大田南畝(蜀山人)が、司馬江漢(庶民絵師・庶民学者)が長崎に旅立った頃に出版した『鶉衣』の著者、上級武士ながら隠居後の横井也有翁の三者を較べ考えざるを得ない。大田南畝も也有翁はもっと洒脱な虚無観だったような気がするのだが~。次は江漢自らの「死亡通知書」。

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司馬江漢17:悩ましき晩年 [北斎・広重・江漢他]

sensoujisiba2_1.jpg 江漢は長崎から戻って旅行記を、天文学や世界地理、物理などの新知識をまとめ、さらには油絵風景画の代表作を次々に発表。脂がのりきった観がするも、心は暗く、次第に隠棲を望むようになっていたらしい。

 推測するに、その一つの原因は、寛永5年(1703)からの蘭学者らとの孤立化。これは桂川甫周がロシア漂流の帰還者・大黒屋光大夫への質疑応答筆記『漂民御覧記』を批判してのこと。烏有道人筆(匿名)が「盲蛇」と題して〝汝は学者にあらず~不届千万なり〟と激しく逆批判。お抱え医・お抱え蘭学者と庶民学者・江漢の間に溝が生まれたこと。

 翌6年の『西遊旅譚』に久能山を描いたことで絶版命。寛政8年には『蘭学者芝居見立番付』で〝唐ゑ家のでつち猿松〟や〝銅(あかがね)やの手代こうまんうそ八〟と揶揄されたこと。

 江漢、ほとほと厭になったのだろう。文化3年(1806)、60歳になって柳橋万八楼で「退隠書画会」を行う旨の引札を配布。「今茲年已(すでに)耳順(60歳)気力且衰」によって業を門人に譲り閑居すると宣言。開催は翌文化4年だった。

 文化5年から〝江漢奇行〟のひとつ、9歳加算の年齢偽称が始まる。文化6年には浅草観音堂に納めた蘭油『錦帯橋景』が「衆之を奇とし、観るもの堵の如し(群がって)、清浄の地に南蛮の画を揚ぐるは不可なりと因(よ)つて終に之を撤せり」という事件も起きた。(西脇玉峰著『伊能忠敬言行録』より)

 なんと、80年後の明治23年刊の松本愛重著『本朝立志談』(国会図書館蔵)に、その想像情景図が掲載されていた(上写真)。文は「当時は西洋諸国を南蛮と卑しめける世の習いで、諸僧が清浄なる伽藍に蛮画を掲ふるは穢らハしといふ論起りてとり除きぬ」と説明。

 翌文化7年に慈眼寺に寿塔。これには私的な悩みもあったと推測される。「母七十三にして没しぬ。家を捨てゝ諸国遊覧と思ったが、人道にあらずと親族に諫められて~」、42歳で長崎に旅立った時は「宿(裏長屋)に妻子置きたる故~」で、この時には所帯持ち(入夫して一女を設ける)。

 だが『春波楼筆記』では「四十を過ぎて後妻を娶るべからず、人四十にして漸く精気衰ふ。女子と小人とは養ひがたし」「今に至りて考えるに、子は無きにしかじ」とも記していた。そんな精気衰ふが原因か、妻とは離別。娘に入夫された門人・江南は小胆者で間もなく不縁。持参金三十両で惣右衛門を入夫させたが早くに没で、二代目惣右衛門は俗人でままならず(昭和17年刊の中井宗太郎著『司馬江漢』より)。墓は自分で建てておく他になかったのだろう。

 かくして公私共に厭なことも次々に起こっての隠棲だろう。ついには己の「死亡通知書」配布に至る。隠棲となれば、筆峰は遠慮なく鋭くなる。次は晩年の著作集について。

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司馬江漢16:地動説を説明 [北斎・広重・江漢他]

tidousetujiga_1.jpg 次は寛政8年(1796)『和蘭天説』。朝鮮文字、韃而靼文字、西洋文字の例をあげ、諸国商船は万国に通じていると説明。さらに関心は宇宙に飛ん太陽系惑星図(水・金・地球と月・火・木・土星)と、公転周期(地球は約365日など)も説明。

 そして象限儀之図(四分儀)、起源儀之図(六分儀)で、天体の角度を測定して現在地の緯度を知る法。(ブログ「古代の天文学」さんは江漢の図を見て、絵を真似ただけで観測装置に無知だとわかる、と記していた)

 さらにコペルニクス紹介。「刻白爾(コペルニカナ)ト云人ノ説ニテ、日輪ハ天ノ中心ニアリテ運転シ、月ハ大地ヲ中心トシテ施リナガラ~」ちなみにコペルニクスは地動説『天体の回転について』の発表を25年余もためらい、70歳の死の当日に校正刷り(1542年刊)だったとか。それでも100年余後のニュートン万有引力の法則(1687年、元禄元年の前年)をもって、初めて「地動説」が受け入れられたらしい。

 江漢は上記説明に続いて雨、雪、雷、隕石、太陽の黒点、虹、蜃気楼、地震、干潮、温度、火山などを説明。同年は他に『天球図・天球全図』(禽獣人物異形ヲ以テ星ノ名トス=星座図)を紹介。一転して顕微鏡で見る小虫や雪の結晶などミクロ世界も紹介。文化2年に『頻海図』(アジア海図)、文化5年(1808)に『和蘭通舶』で五大陸風俗から西洋画法、銅板画までを説明。

tidousetu_1.jpg この時期の江漢からは、西洋知識の啓蒙普及に情熱を燃やす姿が浮かんで来るも、絵師として油絵の風景画代表作も次々発表していた。寛政6年(1794)『捕鯨図』(石井柏亭が布置・写形・着彩すべてよく傑作と称していた)、寛政8年『相州鎌倉七里浜図』、寛政9年『富嶽遠望図』『品川沖図』、寛政10年『品川富士遠望図』、他に『駿河湾富士遠望図』や『犬のいる風景図』など。

 銅版画から油絵へ、西洋の新知識普及、旅日記など脂がのりきった大充実期と思われるが、どうやら、その裏でジワジワと〝陰〟が忍び込み、次第に彼の頭に厭世の人生・世界観を膨らんでいたらしい。挿絵上は文化5年(1808)刊『刻白爾天文図解』の江漢自画像。挿絵下は地動説の説明図。(国会図書館蔵)

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司馬江漢15:地球・天体の著述へ [北斎・広重・江漢他]

sibacikyuzu1_1.jpg 江漢は長崎から戻ると『西遊旅譚』の絵と文のまとめ、各スケッチから油彩代表作を描き、さら長崎で入手の書物から天文学、世界地理、物理への興味を募らせ、これら模写・説明にも熱中した。

 黒田著「司馬江漢の自然科学的業績について」冒頭に~ 「司馬江漢は我国洋画の先駆者であると共に窮理学(物理学)の開拓者である。『和蘭天説』『刻日爾天文図解』等の著述を通じて、我国に初めて地動説を紹介した彼の業績だけでも明白である。またこれら知識を旧思想打破の一武器として利用しやうとした感がある。窮理学的業績が彼を思想家、哲学者に仕上げて行った」

 成瀬不二雄も「西洋の進んだ世界を紹介し、控え目ながら開国貿易論、人間平等論を説くなど鎖国体制下の進歩的思想家としての業績も評価したい」。これら著作を年代順に簡単に紹介してみる。

 寛政4年(1792)に『銅板輿地全図』『輿地略説』。「輿地=ヨチ、万物をのせる地=地球」。地球儀風平面図で世界の大陸を紹介。寛政5年に『地球図』『地球全図略説』。勝手現代訳で読めば「余絵事の余暇に、オランダ舶来の奇器画図の類を模写する。すでに西洋の銅版画法を考察し、すでに諸図を新製して人に見せて来た。今、その法でかの西洋の図を得て、是を模写して銅版に刻す~」

gesyokuhoka_1.jpg こんな調子で南極、北極、赤道、夏至と冬至、黄道、月蝕、日蝕などを説明。「月は一つの水晶の玉の如くにて、ひかりなきものなり、日の光りを受け、映じ照して光をなす、(略)~(月と日が)行合重なるときに日蝕するなり、又日月の間に地を隔て月地のために塞られて月の光を失ふゆへ、月蝕する也」

 緯度・経度、五大洲の説明。「エウロツパ諸州の人、遠く此諸国に船を通じ、其物産を交易しとなり、余先年長崎に遊し時~」と体験談も交える。熱帯、極寒地の人々の絵も描く。

 東海道ブームで旅行熱が高まる江戸で、江漢さんは海の向こうの五大陸、天文知識を披露。隣の熊さん・八っさんが「江漢先生よぅ、あっしも〝士農工商〟の窮屈な江戸から飛び出せるかなぁ~」なぁ~んて訊ね来る光景が浮かんで来る。挿絵は国会図書館デジタルコレクションより『地球図』(1巻)、月蝕・日蝕図(2巻)です。

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司馬江漢14:捕鯨体験記 [北斎・広重・江漢他]

kujiraawase_1.jpg 江漢は天明8年11月16日に長崎から船で平戸嶋に渡った。当地はシビ(鮪)漁が盛ん。

 21日、壱岐守(平戸藩第9代藩主、松浦静山侯、文政4年・1821年に全278巻『甲子夜話』刊。ちなみに妾腹33人の豪)書斎へ。侯は多数蘭書、西洋絵画、地図類を蒐集。宿に戻って、亭主に殿様から薄茶と菓子を戴いたと言うと、胆を潰した。22日、足軽船方宅に泊。翌日より平戸見物とスケッチ。

 9月4日、生月島へ渡る。鯨師・益冨又左衛門と倅・亦之助がいた。鯨の実談をせんと逗留。8日、鮪発見に、漁師の舟に乗る。6艘で網を囲み、引き上げるのを見物。13日、鯨来る。カコ6人の鯨舟に乗るも未発見。16日、鯨来る。前回に懲りて船に乗らぬと思うも、急き立てられて乗舟。矢の如く疾走。

 7、8艘が鯨を取り巻き、鯨の背に舟を乗り着けるようにして17本の銛を打ち込む。鯨の両側に3艘づつで剣を打つ。鯨が弱った段階で一人が鯨の潮吹きの処に登って穴を穿ち綱を通す。1人が海へ飛び込み、鯨の腹へ大網を回し込む。舟2艘に丸太2本を横に渡して鯨を支え吊り(沈まぬように)、午後10時に鯨の解体地へ着岸。一番大きなセミクジラで大きさ15間。17日、人足10人が各々長刀で解体。油200樽。金400両なり、鯨は捨てるところなし。

kuaitaawasw_1.jpg 江漢は同地で大晦日・正月を過ごし、1月20日に下関から筑前若松船の百石積の船に乗った。船賃40目、古き布団1貫200で出航。備前(岡山)牛窓で上陸し、大津~草津から石部へ。ここで江戸帰りのオランダ人一行と逢う。吉雄幸作が長崎から送った荷物が無事に着いているのを知らせてくれた。中山道経由で寛政1月4日に江戸着。

 なお『画図西遊旅譚』は国会図書館デジタルコレクションで、『江漢西遊日記』は東京国立博物館アーカイブスで閲覧できる。『西遊日記』は出版を諦めたことで、自由に記した自筆書。大正5年(1916)に陸軍士官学校で英語講師奉職中の岡村氏が同校書庫で発見まで眠っていた。昭和2年に黒田源次・山鹿誠之助校注で坂本書店から刊。同年に与謝野寛・晶子、正宗敦夫編『日本古典全集』の『江漢西遊日記』で刊。

 挿絵は『西遊旅譚』4巻の捕漁之図、解体之図。「鯨漁之図」の図中文字は「鯨頭を出し海上にあらハれ気を吹、即夫を見て魚〇(モリ)を投、気を吹終れハ尾を出し波を扣(たたい)て海底に入」「鯨舟ハ二十艘を出す、其他勢子舟いづる、又網舟を出す、双海と名づく、一結と云ハ網舟二艘に通舟二艘なり、此島にて三結を出す、三結ハ皆にて六艘、網舟ハ大船なり、是網を積故なり」

 なお挿絵上の捕鯨図は、寛政6年頃に数点の油彩に仕上げている。石井柏亭著『画人東西』(昭和18年刊)で、「布置(ふち、配置)と云ひ写形着彩と云ひすべてがよく整って居り~と称賛されていた。

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司馬江漢13:長崎日記 [北斎・広重・江漢他]

dejimaawase_1.jpg 江漢『西遊旅譚』と『西遊日記』のクライマックスは長崎。簡略に記す。小生、長崎知らずゆえ、机上に地図を広げる。江漢の長崎着は天明8年(1788)10月10日で、約一ヶ月滞在。

 まず高き処「浦上」より入る。おらんだ屋敷(出島の商館)、唐人屋敷(中国人居留地)を望み、湾内に7,8隻の唐船。遠くにおらんだ船1艘。「長崎町数九十六、町中石段多し、旅館はなし、旅人滞在を禁ず」

 「おらんだ部屋付き役」稲部松十郎宅へ滞留すべく訪ねる。夕方に「おらんだ大通詞」吉雄幸作(『解体新書』序文を記す)、本木栄之進(通詞で蘭学者。ラテン語やフランス語にも通じ天文・地理・暦学関係の10数冊の蘭書を翻訳。『天地二球用法』でコペルニクス地動説を初紹介。(江漢の江戸に戻ってからの窮理学系出版物の多くは、彼の翻訳書に頼ったような気がする)

 11日、幸作宅へ。二階の「おらんだ座敷」(幸作蒐集の洋書、絵画、器具が陳列)を見学。12日、御崎観音へ(長崎から7里の半島先端)。13日、三崎からの帰路で初めて唐人を見る。16日、南京寺を見て丸山町へ。大夫揚代二十七匁。夜芝居を見学。

kabitantunagi_1.jpg 17日、出島は坊主、総髪出入りならずで、剃って野郎(商人風?)となり江助を名乗ると決める。21日、町役と丸山で大夫を揚げ、泊る。22日、通詞方で交易の話を聞く。23日、唐船に乗って見学。24日、吾が白河侯の隠密と思われていると知り、江戸会所商人となって館内に入ることにする。

 25日、江戸会所より門の切手(札)を入手して出島入り。暫く行くと江戸の長崎屋で逢った外科医ストッツルに逢う。彼の部屋へ上がる。その後、通詞幸作の案内で「カビタン(商館長)部屋」へ。初めて黒人に逢う。商館長は江戸で逢っているロンベルグ。江漢に付き添う長崎在住者は、江漢がオランダ人と話している姿に胆を潰す。

 26日、悟真寺で唐人、オランダ人の墓を見る。27日、おらんだ船に乗る。船の詳細スケッチ。28日、通詞と共に唐人60名余の仏参に同行。30日、ビイドロ細工の玉屋訪問。ガラス絵を伝授してもらう。2日、長崎出立を決め、船が出るまで土産購入、挨拶回り。

 以上、多数スケッチを掲載。そのなかより出島とカビタン室内をアップ(国会図書館蔵)。『司馬江漢全集』掲載図には、出島絵には「阿蘭陀人ハ出島ヲ築(キズキ)館ヲ作(ツクル) 一年二銀五十五貫目地代ヲ日本へ出ス」や面積、各施設説明文入り。室内絵には「阿蘭カビタン居所ビイドロ額人物山水をえがく障子ビイドロに張ナリ」などの書き込み有り。

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司馬江漢12:一九や北斎とも絡み~ [北斎・広重・江漢他]

sannin.jpg 江漢は天明8年(1788)4月に江戸を出立し、丸1年で江戸に戻ってきた。即〝旅日記〟を完成だが、東照宮を描いたことで絶版の命。14年後の享和3年(1803)に同絵や文章大幅削除で『画図西遊譚』を刊。

 その前年、享和2年に十返舎一九『浮世道中膝栗毛』初編大ヒット。享和4年(文化元年・1804)、東海道人気にあやかって葛飾北斎も『狂歌入り東海道五十三次=春興五十三駄之内』(広重の東海道五十三次・保永堂版より約30年も前)を板行。

 同年、喜多川歌麿が『太閤五妻洛東遊観之図」(国立博物館蔵)で入牢3日間50日の刑。十返舎一九もベストセラー人気に調子に乗ったか、『化物太平記』で手鎖50日の刑。それを知って58歳の江漢は、首をすくめたに違いない。

 かく厳しい改革のなかで、江戸の出版業界は艶物から一九の道中もの、馬琴の勧善懲悪の読み物へギヤチャンジ。浮世絵も北斎が風景画を前面に押し出し始めた。江漢は文と絵をもって両方のシフトチャンジに拍車をかけた。(と小生は推測)

koube_1.jpg 以上の時代状況を認識した上で、いよいよ司馬江漢〝西遊もの〟を読む。「天明戌申四月二十三日 昼過、江戸芝神僊坐(新銭座)を出立して金川(神奈川)に至る。其日曇て雨なし。従者には宿(自宅の裏長屋)に居たる弟子なり。歳二十位の者にて松前の産れなり、吾此度の旅行はじめてなり、是より肥州長崎の方諸国を巡覧して、三年を経ざれば帰るまじと思ひ立しにや~」

 江漢は描き上げたばかりの『三囲景図』など一連の腐食銅版筆彩作、覗き眼鏡、蘭書などを携帯。4月26日に熱海に着。29日「今井に一碧楼と云有。画など認め、持参した蘭器・書蘭など取出し、皆々に見せけるに、事好なる者もなし、見物山の如し」

 覗き眼鏡を知る好事家などいないから我も我もと大騒ぎ。蘭書の世界地図の見せたかもしれない。封建制度下に生きる人々には驚愕だっただろう。江漢、秘かに啓蒙者気取り。そんな調子で行く先々で長逗留が多く、長崎に本当に行く気があるのかと思わすが、同年10月10日に長崎着。

 ここで道中すべてを紹介するわけにはいかないゆえ、次回に旅のハイライトだろう長崎部分と、例の捕鯨体験の部分を紹介の予定。

 挿絵上は左から江漢・北斎・一九の似顔絵(今までに描いてきた小生絵を合成)。挿絵下は「覗き眼鏡」(神戸市立博物館蔵)。江漢は折り畳み式を携帯。反射鏡で左右逆に映るゆえ、絵は左右反転の遠近法〝浮絵〟で描かれている。

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司馬江漢11:西遊旅譚と西遊日記 [北斎・広重・江漢他]

kunouzan1_1.jpg 天明6年に田沼意次の老中罷免。松平定信の浮世絵、戯作、異学(朱子学の他)などを締め付けるイヤな時代が始まった。江漢はそんな江戸に背を向けるように天明8年(1788)4月、42歳で念願の長崎へ旅立った。

 3年予定も、丸1年で江戸へ帰ってきた。その絵日記〝西遊もの〟を読む前に、心得ておくことがある。江戸に戻った寛政元年~2年(1789~90)頃には、旅の絵と文をまとめた『西遊旅譚』完成も、出版ままならず刊行は10数年後の享和3年(1803)になった。

 寛政6年(1794)に全5巻の版完成も、第1巻に「久能山之図」(静岡県・日本平辺り)に東照宮が描かれていて絶版命。同絵は海際に聳える山にジグザク階段が山頂まで続き、頂きに五重塔や社。問題ありの絵に思えぬが、そこは家康埋葬の東照宮(埋葬翌年に日光へ改葬)。「寛政の改革」がそこまで厳しかったってことだろう。

kunouzan2_1.jpg 文章は「府中より東の方三里久能山あり、海を望て山俄に高し、石段十七曲斜に登る、左に五重塔、唐銅の鳥居入て正面本社、右に経蔵堂、御廟は頂に有、扨此山を下りて一里余行て八部と云所十二景あり」

 東海道は「清水」から西に真っ直ぐも、江漢は海岸線(現150号線)を歩いたか。雪舟描く『富士三保清見寺図』の絶景を見て、描きたかったと推測する。「久能山之図」さえ描かなければ~と思うが、お上は何かと難癖をつけたような気もする。

 なお、この絶版は『司馬江漢全集(一)』に収録、「序」の日付も寛政甲寅(寛政6年)五月。ゆえに「久能山之図」も掲載。挿絵も大量135図で圧巻です。問題の絵を削除し、各地名士らとの交流記述も削除した『画図西遊譚』全5巻(享和3年・1803年刊)は国会図書館データベースで公開。

 そして69歳、己の「死亡通知書」配布後に同旅行を懐かしく思い出し、絵と文を改めた『西遊日記』6冊を清書。この自筆本、なんと大正5年(何故か陸軍士官学校書庫で)発見まで眠り続け、昭和2年に初刊行。

 参考に「久能山」の次に掲載の駿河湾を眼下に富士山眺望の両方の絵をアップ。絵上は『画図西遊譚』(第1巻のコマ番号16)が銅版画を意識してか、鋭く短い筆致の風景画。絵下は国立博物館蔵アーカイブス『江漢西遊日記』(本文17P)は柔らか筆線と濃淡の絵。「久能山観音寺ヨリ富嶽ヲ望図」が、お上に忖度して「八部山ヨリ眺望ノ図」になっている。

 この両絵と雪舟「富士三保清見寺図」、江漢の寛政11年作の油絵「駿河湾富士遠望図」を併せ見るも一興。むろん各「西遊もの」併読がお薦めです。

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司馬江漢10:『蘭学事始』概要Ⅱ [北斎・広重・江漢他]

rangakukoto_1.jpg 杉田玄白は4年間で、原稿書き換え11回。前野良沢は蘭語の完璧解釈が目的だが、玄白は一日でも早く正しい解剖知識をもって治療に役立てたく『解体新書』を刊。

 前野良沢は蘭語勉強に生涯をかけ、中川淳庵は海外の物産研究へ。玄白の許に何度も質問状を送った奥州一関の建部清庵と玄白の往復書簡は『和蘭医事問答』にまとめられた。

 清庵は老人ゆえ門下の大槻玄沢を江戸へ上らせ、玄沢は先輩らに学んだ後に長崎へ。通詞宅寄宿で勉強後に江戸で『蘭学階梯』を刊。新井庄十郎は長崎の通詞の養子だったが、源内の許へ。後に福知山侯の地理学の手助けをした。宇田川玄隋は秀才で根気もあって『内科撰要』全18巻を刊。

 京都の医者・小石元俊は大槻玄沢宅に同居勉学後に、京都で蘭学を広めた。高橋宗吉は玄沢に入門後、大阪に戻って医者になって蘭学を広めた。山村才助も玄沢に入門後、新井白石『菜覧異言』に新知見と訂正を加えて全13巻を刊。

 石井恒右衛門(庄助)は長崎通詞の養子になって馬場清吉。定信侯は彼にドドニュース『本草書』を和訳させた。彼はまた『ハルマ辞書』も翻訳。桂川甫周は秀才でオランダのことは概ね通じて名声広く、将軍より和訳御用を承っていた。

kaitaikokkaku_1.jpg 稲村三伯は玄沢門下で蘭学を学び、全13巻の蘭日辞書『江戸ハルマ』を編纂。宇田川玄真は玄沢門下から甫周の塾で学び、杉田玄白の養子になるも放蕩が過ぎて離縁。その後に『医範提網』を刊。行いが改まったので玄白と昔通りの間柄になった。

 大槻玄沢は将軍家御所蔵の蘭書和訳を命じられた。玄真も同様拝命を受けた。オランダ通詞・元木栄之進の弟子・志筑忠次郎はオランダ文法を研究。文化年間に吉尾六次郎と馬場千之助他らが学んだ。千之助は天文分野で蘭学翻訳。

 『解体新書』から約50年で、かく蘭学は全国普及。その医術は人々の命を救い、鎖国の日本に西洋知識を普及させた。

 挿絵は前野良沢と杉田玄白。玄白資料が83歳の皺だらけゆえ少し若く描いた。写真下は『解体新書』の精緻な小野田直武の模写例(国会図書館蔵)。次回から司馬江漢の〝西遊〟について。

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司馬江漢9:『蘭学事始』概略Ⅰ [北斎・広重・江漢他]

kaitaisinsyo_1.jpg 江漢はまだ江戸に戻って来そうもないので、その間に当時の蘭学事情をお勉強。『解体新書』の杉田玄白が83歳になって当時のことを記した『蘭学事始』を読む。

 まず菊池寛の同題を青空文庫で読んだが、一部クローズアップの小説化。ここでは中公クラシック刊『蘭学事始ほか』から私流概略です。

 まずは平戸出島のオランダ医師による外科手術を見様見真似の「阿蘭陀外科」西流、栗崎流、桂川流あり。それらは読み書きに至らず。八代将軍吉宗が蘭学勉強を許可し、江戸では野呂元丈と青木昆陽に勉強を命じた。

 備前中津藩養子で藩医・前野良沢が晩年の青木昆陽に師事。青木著『阿蘭文字略考』を覚えて長崎留学へ。百日昼夜一心の勉強。小浜藩の杉田玄白と中川淳庵は麹町在住で、長崎遊学の医師・安冨寄碩からアルファベットで「いろは47文字」を習った。

 前野良沢の許に蘭学を学ぶ杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周、平賀源内、司馬江漢らが集った。オランダ通詞の元木良永、馬道良らも仲間に挙げておこうか。時は田沼意次時代で望遠鏡、暗室写真機、寒暖計などの西洋器機も続々入荷。

 当時はオランダ商館一行の長崎から江戸参府が恒例で、宿舎は日本橋・長崎屋。上記の蘭学仲間らがここに馳せ参じた。某日、商館長カランスが、彼らに知恵の輪仕掛けの袋を差し出し「開けられたら差し上げましょう」。誰もがお手上げも末席の源内がスラッと開けた。本草学の源内は、逆に竜骨を披露・贈呈で、カランスは源内に『禽獣譜』『生殖本草』『アイボンス貝譜』などを贈呈。その後に源内は長崎遊学。壊れたエレキテルを入手。

hokusainagasakiya_1.jpg 明和8年(1771)、長崎屋でオランダ人が人体解剖図『ターヘル・アナトミア』『カスパリュス・アナトミア』を譲ると言った。玄白は家老直訴でお金を工面して入手。その直後に千住で腑分けの一報。前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、小杉玄適他計6名が立ち会った。オランダ解剖図に間違いなしと確認した。

 帰り道で良沢、玄白、淳庵、玄適は「せめて『タ-ヘル・アナトミア』一冊でも翻訳してみよう」と約束。以来、良沢宅で1ヵ月6,7回ペースで解読に精魂を傾けた。

 写真は『解体新書』の「解体図」小野田直武模写の扉カット(リンク第1巻の17頁)。写真下は北斎が享和2年(1802)に描いた『画本東都遊』の長崎屋(リンクの29頁)。オランダ商館の江戸参府は寛政2年から4年に1度になっているが、その際に描いたものだろう。画像は共に国立国会図書館デジタルコレクションより。 

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司馬江漢8:源内と直武はゲイ? [北斎・広重・江漢他]

gennai1_1.jpg 江漢が天明8年(1788)に長崎へ旅立ったので休憩余談。

 江漢出立の12年前、安永5年(1776)に平賀源内はエレキテル復元に成功。エレキテル=電気治療器に江戸中が大騒ぎ。だがその3年後に源内は獄中死。翌9年に小野田直武32歳も死去。蘭学・蘭画史の謎。

 それを探って平野威馬雄『平賀源内の生涯』を読めば、解説文が田中優子先生だった。優子先生(現・法政大総長)は自著『江戸の恋』で<源内と直武はゲイだった>と記している。

 ~源内『根南志具佐』は、女形役者の二代目・瀬川菊之丞に捧げた小説。源内は実生活でも役者に溺れた。源内宅には常に男性複数が同居。そのなかで直武は特別な存在。相当の美青年ではなかったかと記していた。

 『解体選書』挿絵をはじめで江戸滞在4年。安永6年に一時帰郷。江戸に戻って1年後に謹慎処分(理由不明)で急きょ秋田に戻された。彼が帰途についた直後に源内の殺人事件~獄中死。直武も半年後に死去。病死とされるも血染めの裃が残されていたとかで、自害ではないかと推測していた。

 「やむにやまれぬ理由で人を斬らねばならぬとしたら、源内はやはり直武を江戸から逃がすであろう。殺人の理由を追及されて、それが直武に係わる事であれば、獄中で自害するかもしれない。一方直武の死が自害ならば、どう考えたって〝後追い自殺〟である」(他に佐竹藩内紛、直武の酒の失敗等々説があるらしい)

 また田中優子先生は平野著の解説で興味深い指摘をしていた。「源内は紙で遊んだ人である。源内が江戸に出てきてすぐに四国高松藩(出身地)で作られた「衆鱗図」が幕府に献上された。源内の関わりは不明だが、これは紙に凸凹をつけて感触も愉しむ絵。春信の「錦絵」が源内アイデアなら、春信の「空摺り」(凹凸付け)も源内の発案だろう。

 源内の有名な「金唐革」も紙に凹凸を付けて革を模して煙草入れ、壁紙などになった。源内の「火浣布」も燃えない不思議な紙のようなもの。彼は紙で遊ぶことを教えてくれた人だった、と記す。

 また源内の油絵、直武や秋田藩主・佐竹曙山らの「秋田蘭画」は、日本と中国と欧州の絵がそのまま混在した奇妙な東洋画。それは模倣ではなく完璧に混合形態で、それを阿部公房は「文化のクレオーレ現象」と言っている。秋田蘭画もクレオーレ変異の産物だろうと記していた。

 自分の基礎がしっかり出来ているから、単なる模倣ではなく消化する力が強い。その系譜が源内~直武~鈴木春信~江漢へと繋がった。同様指摘は黒田著にもあった。「当時の洋画家は、それまでの和漢画の素養を放棄せず、むしろ駆使し折衷して独自の画風を生み出している」。小生はさらに続け加えたい。北斎はじめ浮世絵に刺激を受けた印象派らのジャポニスムもまた然りと。

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司馬江漢7:油絵と銅版画 [北斎・広重・江漢他]

masayosie_1.jpg 江漢は『春波楼筆記』に ~吾が年三十の時に仙台侯へ絵の御前披露をした。その時に同席の親和親子(深川在住の書家、篆刻家)より〝足下は唐画描と聞きしに和漢の人物風景山水を描く〟と誉められた、と記している。三十歳で唐絵(紫石門下)としてすでに名を成していたらしい。だが編者・成瀬不二雄は、仙台藩正史にそれは天明元年の記録ゆえ、江漢35歳が正しいと記す。

 年代解釈はさておき、深川で思い出した。清澄庭園から隅田川寄り「アサノセメント深川工場」脇に建つ「平賀源内電気実験の地」碑を撮ったことがある。面倒ゆえ写真探しはしないが、同地は神田を火事で焼け出された後の源内が移転した「深川清澄町の武田長春院の下屋敷」だろうか。源内は安永5年(1776)のエレキテル復元成功の3年後に獄中死。翌9年に小野田直武も秋田で死去。

 二人の死の謎は後述するが、ここでは万象亭『紅毛雑話』掲載の北尾政美画「エレキテル」治療図(国会図書館)を紹介し、次に江漢の油絵習得について調べる。

 江漢『西洋画談』(寛政10年刊)の書き出しが面白い。油絵を説明するにあたってまずは「西洋は唐日本より西にある国土をさして云々~ 其遠く国土を欧羅巴(ヨーロッパ)と名づけ世界の一大州にして~」と世界地理の説明から入る大変さ。

 「西画は蝋油を以て膠に換ふ。故に水に入りても損ぜず。世俗之を油絵と云う」。崎陽(長崎)に遊んだ際に阿蘭人チシングより画帖を贈られた。本は『コンスト・シキルド・ブ-ク』(『紅毛雑話』では「シキルデブック」)。

 黒田著には「当時チシングは長崎にいない。彼の江戸参府が安永9年か天明2年。江漢は蘭学仲間の一員として江戸で彼と交誼を結んだ際に〝仲間共有の書〟として貰ったのだろう。そう推測すれば天明3年の銅版画創製も符号する」と記す。それが正しいだろう。

 すでに万象亭が『紅毛雑話』で同書を訳してい、さらに『解体新書』翻訳の前野良沢、大槻玄沢らにも協力をあおいでの油絵、銅版画習得だったと思われる。江漢の初期油絵の代表作『異国風景人物図双幅』(神戸市立博物館蔵)を黒田著では天明5年頃と推定している。ならば江漢の長崎旅行前で、すでに油絵を描いている源内の油絵具で、画法も源内にも教わったかしらと解釈したい。

(追記:森銑三著作集・第1巻「平賀源内研究」にこんな一文を見つけた。~藤岡作太郎博士は「日本油絵の祖」なる一文に於いて「近世油絵の祖は平賀源内なり」と断定せられ、司馬江漢の油絵は、源内より伝へられたのであらうといはれてゐる)

 同じように腐食銅版画の法も研究。油絵より早い天明3年(1783)に『三囲景図』(神戸市立博物館蔵)を完成。続いて『御茶之水図』『広尾親父茶屋図』『不忍池図』『両国橋図』『七里ヶ浜図』『中洲夕涼図』を描いている。これらは覗き眼鏡用ゆえに左右逆構図。絵上部の題字も裏返し。銅版画をものにした江漢は、それら作品と折り畳み式覗き眼鏡を弟子に持たせて、天明8年(1788)42歳で念願の「画修行のため」長崎に旅立った。

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司馬江漢6:再び人体比率図を~ [北斎・広重・江漢他]

fujinratainozu_1_1.jpg 前回、江戸は明和7年(1770)刊、万象亭(桂川甫周の弟、森嶋中良)編の『紅毛雑話』の人体比率図をアップしたら、美術系友人から「江戸時代にそんな図が出回っていたとは驚いた。文章があれば、それも紹介せよ」の連絡が入った。古文書初心者ゆえ、たどたどしく読んでみた。

 「紅毛の画法附銅板の法」 紅毛の画たるや至れり尽せり。尤(およそ)此道学ぶ者、初めに男女の骨節(骨格の意だろう)を精(くわし)うし。夫(それ)より赤裸(あかはだか)の人物を出き習ひ。其上にて衣服を着たる所を画くにいたる。下に出す画法は「シキルデブック」に載る。一チ二箇を模写して、好事の人に看(かん)に呈す。「シキルデ」は画、「ブック」は書の事なり。扨(さて)銅板(あかねばん)を~ 文章はここから銅版画の法の説明に入っていた。(誤訳あればごめんなさい)

koumougahou1.jph_1.jpgkaonokakikata_1_1.jpg 残念ながら、比率図に関する文章はこれだけ。ついでに「婦人身體之図」と「同異本之式~是はコンパスル矩(さしがね)にて割たる法なり~」(顔の描き方の説明図)もアップ。これまた現在のデッサンの教材と同じ。

 改めて記すが、杉田玄白『解体新書』刊の4年も前、鬼平が火付盗賊改方長官になる17年も前の、明和7年刊の書です。当然ながら以後の絵師らも、むろん北斎も同図を見ていたような気がします。

 国立国会図書館『紅毛雑話』下巻をリンクゆえ、興味ある方はその先もお読みください。他に「骨節之式」「手足之式」「人物活動之式」なども掲載。次回は司馬江漢の油絵と銅版画についてのお勉強に入ります。

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