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荷風の友・井上唖々とは(2) [永井荷風関連]

rasosanjin1_1.jpg 荷風による『井上唖々君のこと』を読む。書き出しに「本年七月十一日肺結核で永眠した」とあり、亡くなったニケ月後、大正十二年九月「枯野」発表の原稿。前回との重複部分を割愛し、( )に注釈や訂正も加えつつ概要引用する。

 ~彼は秀才で在学時より書店「大学館」の編集部員。同館発行誌「活文壇」は生田葵山(きざん)君編集で井上君が其助手を勤めていた。同誌の俳句選者は河東碧梧桐(かわひがしへきごろう)氏。在学当時は漢文を島田篁村(こうそん)の塾に学び、漢詩を(荷風と同じ)岩渓裳川(いわたにしょうせん)に学んだ。同級生に俳句を作る者がいて時々俳句会を開催。仲間には正岡子規の処に出入りしていた者もいた。

 (荷風十九歳の時)明治三十一年に自作『簾の月』を携えて広瀬柳浪氏を訪ねた時も井上君は同行した。また唖々君は葵山君の紹介で巖谷小波(いわやさざなみ)氏の「木曜会」に出席するようになった。(荷風自身は清国人・羅臥雲〝蘇山人〟の紹介で「木曜会」に参加と記している)

 唖々君の「大学館」勤務は明治三十四年から大正元年。同館退社の数年は遊んでいたが、その間に加賀藩の編纂所で史料記載。細君を迎えてから一時深川の森下に住んでいたが、間もなく以前の加賀藩の関係の本郷の前田邸内の家に戻った。明治四十三年に私が慶応義塾講師になって『三田文学』を編集したが、その第一号に唖々君小品文を載せた。

 大正五年(慶応、三田文学を辞めて)に籾山庭後、井上唖々らと雑誌『文明』を創刊。同誌は丸二年続き、其の後の『花月』は私の処に発行所を置き、編集を唖々君がやってくれた。大正七年に唖々君が「毎夕新聞」入社で『花月』廃刊。彼は亡くなるまで「毎夕新聞」に在社。主な著は『夜の女界』『猿論語』と『小説道楽』(荷風渡米前に大学館から刊。荷風を主人公にしたモデル小説)。君の家の菩提所は白山の蓮久寺であるから、君もそこに葬られたのであろう。~で同随筆は終わっていた。

 挿絵は荷風を「木曜会」に紹介した羅臥雲(らがうん)。男もゾクッとする眉目秀麗とか。写真を見ると描かなかったが右手が女性仕草っぽかった。羅臥雲については「荷風句雑感(その3)」で詳細を記したの省略。(次は『断腸亭日乗』や随筆『深川の散歩』に書かれた井上唖々について~)※明日から1週間ほど〝島暮し〟。帰京後に続きをアップ。

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荷風の友・井上唖々とは(1) [永井荷風関連]

kafuaa1_1.jpg 時に荷風関連記事の閲覧あり。読み直せば、荷風と〝水魚の交わり=井上唖々〟の名を流し記すも、彼の人となりを記さなかった反省と、ネット上でも彼の詳細記述少なく、改めて調べ直してみた。

 まずは秋庭太郎著『考證 永井荷風』を参考にする。荷風と井上唖々が出会ったのは、荷風の東京高等師範尋常中学校(神田一ツ橋、6年制)時代。荷風は明治24年、12歳で同校2年編入学。軟派・荷風は硬派の寺内壽一(後の元帥陸軍大将)らに殴られている。

 荷風は病弱で長期療養で1年留年。その間の読書で文学に親しんだ。17歳より尺八と三味線の稽古を開始。併せて書を岡三橋に、絵を岡不崩(横山大観と共に東京美術学校の第一期生)、漢詩を岩渓裳川に学んだ。漢詩を共に習った同級生・井上唖々と親しくなる。

 余談だが、荷風が絵を習っていたとは知らなかった。荷風は師の不崩とは晩年まで交際を続けたそうな。荷風が描く絵に、かく謂れがあったと改めて認識した。ちなみに弟・威三郎(後に農学者)も同中学在籍で、彼の同級生で図画は〝藤田嗣治か威三郎〟と言われたそうな。威三郎は昭和35年の西欧旅行の際のパリで藤田に逢い〝少女像〟を額入りで贈られ持ち帰った。藤田は日本画壇に愛想をつかしフランス国籍、レオナール・フジタになった後だろう。

 話を戻す。秋庭著より井上唖々(本名・井上精一)経歴を簡単に記す。~金沢藩士の長男。明治11年、名古屋生まれ。幼少より父と東京飯田町に住み、第一高等学校第一部を卒。東京帝国大学独文科に学ぶも、病のために学業を廃し、書店に勤める傍ら雑筆を以て口糊とした。英独語に通じ、漢文学の素養浅からず、式亭三馬や斉藤緑雨風の滑稽風刺文を得意にした。

 日本史に明るく、芝居を好み、俳諧に遊んだ。文壇に見向きもせず陋巷陰士的生活をよしとし、酒を愛し清貧に甘んじ、明治43,44年頃に継母と衝突して深川東森下町近くの裏長屋に女と隠れ住む。

 その後、正妻みねを娶り二子を設ける。大正時代に籾山書店勤務後に毎夕新聞に入社(酒が呑める暮し優先で校正係りに甘んじる)。荷風主筆の文芸雑誌『文明』『花月』の編集に協力。大正12年、46歳で〝脱俗陰淪(だつぞくいんりん)の一生を終わった。著書に『猿論語』『酒行脚』『裏店列伝』『小説道楽』『遊楽書生』など。荷風との合作『夜の女界』。

 挿絵は荷風帰朝後に浅草で撮った写真を参考に描いた。二人、無頼ぶっている。写真ではよくわからないが荷風は髯を蓄え、唖々は丸眼鏡を外しているか。(このシリーズ4、5回は続きそう)

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円形信号機から若き日々を [スケッチ・美術系]

nisigutidigi_1.jpg さらに苦手の高層ビル街へ。新宿警察署近くの「新宿アイランド」前にLOVEの赤文字オブジェ。道路反対側は「新宿三井ビル」(1Fにキヤノン修理サービスあり。先日も立ち上らぬストロボ修理が無料だった)

 その十字路が「新宿警察署裏交差点」で珍しい〝円形信号機〟が架ってい、それを描いてみた。なんだか〝塗り絵〟のようになってしまったが、苦手のビル街を描いたことで、苦手意識が薄らいできたような気がした。

 描き終わって、この円形信号機(サインリング)が「GKデザイン」作と知った。GKグループ創業者は栄久庵憲治さん(2015年没)。工業デザイン草分けの偉い方だが、実は氏は小生が若い時分に数年所属の「ヘラ鮒底釣り会・喜楽会」会長だった。

 当時、上井草駅近くに「釣り堀・喜楽沼」あり。何故そこへ、どう行ったかも思い出せないが、釣りを見学していて誘われたのだろう、「喜楽会」へ入会した。

 月例会後に、帰り道が同方向だったかで栄久庵さん、老哲学者、絵描きさん他のメンバーで喫茶店に立ち寄ってしばし談笑が恒例。その談笑が釣りより愉しかったのを覚えている。栄久庵さんはヤマハのバイクもデザインしていて、当時の小生はヤマハ音楽振興会の仕事をしていた。

 当時は仕事一途だったが、このヘラ鮒釣りを機に、子供時分の釣りを、高2からの山岳会(東京白陵会)活動を思い出して、一気に野外遊びに目覚めた。遊びのためにバイク、自動車免許を取得。ランクルにある日はトライアル競技バイクを積み、また海釣りやダイビング機材を載せて走り回るようになった。そんな事も思い出して~(苦手の風景スケッチ克服記6で完とします)

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ツナギを購った萬年屋を描く [スケッチ・美術系]

mannenya3_1.jpg 新宿御苑を出て自転車に跨れば「島の作業ツナギがボロボロで、新ツナギ購入」を思い出し「萬年屋」へ向かった。新宿南口からワシントンホテル前を通って角筈交差点際の黄色ビルへ。

 店頭にツナギが吊るされ〝格安札〟。1階奥壁に3180円の各色ツナギが並んでいた。腰に伸縮自在の蛇腹折り付き。ポケットにあった数千円で買える価格ゆえ、そのブルー色に即決。

 店員が親切で「2階も見て下さい。その上でコレが良いならばMとLの試着をして下さい」。ズボンの上から着ることが多いのでLを購入。店のロゴ、亀のイラスト入りタオルをくれた。

 同ビルは人目を惹く黄色ペイントに亀のイラストが描かれていた。左右ビルを省略し、手前に街路樹と黒塗り高級車を配した。初めて自動車(3台も)を描いた。満足できる絵ではないも〝苦手〟を描いたことで〝よし〟としましょ。

 ネットで水彩画巡りをすれば、本格水彩画に写実派、濡れた(水気たっぷり)抒情派、人物中心、街中心、風景中心など実に多彩多岐。さらに「線と淡彩」、「線画中心」などの描き方もあって、それぞれがグループ(指導者と生徒たち)が形成されている。小生は群れるのが嫌いゆえ、あくまでも〝自己流〟探しです。

 次は最も不得意、描きたくもない高層ビル街の真ん中へ行ってみた。(苦手の風景スケッチ克服記5) 

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カップルを〝さっぱり描き〟 [スケッチ・美術系]

couple1_1.jpg 描き込み過ぎた台湾閣を大反省し、再びプラタナス並木に戻ってベンチに座るカップルを超省略で描いてみた。

 右上に広重風景版画を意識して、プラタナスの葉を大きくデフォルメかつ白スペース風に残した。葉の繁みもプラタナスとわかる描き方で簡略。彩色もサッと幾筆。

 ウム、ちょっと要領がわかってきたぞ。背後から覗き込んできた西洋人が「オォ、ジャパニーズ〝サッパリ〟ネ」と言った。(それは嘘。先日のテレビで建築家・隈研吾と日本修業を経て米国で日本食レストランを成功させたオーナーシェフが対談。二人が〝さっぱり〟コンセプトを話し合っていた)

 〝サッパリ〟の要領を覚えた次は、さらに苦手の建造物(街)を描くことにも挑戦したくなってきた。(苦手の風景スケッチ克服記4)

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台湾閣を描く。写実より省略を [スケッチ・美術系]

goryoutei15_1.jpg 新宿御苑3作目は御苑スケッチの定番、旧御涼亭(台湾閣)。この日もどこかの〝教室〟の年配者らが並び坐ってスケッチをしていた。彩色仕上げまでするのか、蚊の対策は万全か。

 野外スケッチは椅子が肝心だ。身体の安定をもって画用紙、ペンの走りも安定する。小生も鳥撮り用にコールマンの折り畳み傘状になる携帯椅子を持っているが、公衆の場(人前)で椅子に座って絵を描く勇気がない。風景画苦手には景色観察は遠視で、手元は近視で、その遠近調整が少々辛いことも関係している。

 ここは御託を並べても埒はあかない。無理して描き始めれば、風景を〝写す〟ことに己を見失って描き込み過ぎた。小生のような初心者でも、ペン・筆を持てば描けもしないのに、見た通り(写実)に描こうとし、その結果〝無残なお目汚し〟になってしまう。

 人は何故、細部を描こうとするのだろうか。本能や? ゴッホらジャポニズムの西洋画家らは、浮世絵の大胆な省略(デフォルメ)に胆を潰し魅了されたらしい。

 西洋画は〝見るまえに跳べ〟の実存主義的なところがある。その引き換えに一つづつの筆触に責任を負う。比して水彩画は〝描く前に考えろ〟だ。構図やテーマを、白をどう残すか、どう省略し、どんな線で、どう彩色するかなどを描く前にしっかりと頭の中でデザインしてから描き始める。

 細部を描こうとする性癖が本能ならば、ここは浮世絵や水墨画でも描く〝禅的〟な気持ちを持って、思い切った省略(抽象に近いほど)の覚悟が必要だろう。次はこの辺に留意して描いてみることにした。(苦手の風景スケッチ克服記3)

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プラタナス並木を描く [スケッチ・美術系]

platanus1_1.jpg 最初に描いたのは日本最古のプラタナス巨木だが、次に大木戸門方向の「プラタナス並木」を描いた。ベンチに座ると、並木の陰と陽が交互に続くのが面白いと思った。

 昔、ここのプラタナスの穴にワカケホンセイインコが出入りしていたのを見たことがある。

 プラタナス並木と云えば『鈴懸の径』。立教大キャンパスの〝鈴懸の並木〟から佐伯孝夫が作詞で灰田勝彦作曲。あたしは4ビート・アレンジの鈴木章治のクラリネット、平岡精二のヴィヴラフォンが好きだ。

 御苑のプラタナス並木の秋の風情もいい。プラタナスの大きな落葉が、ベンチを埋めるかのように降り積もる。

 昔、某有名写真家が某のジャケット写真をここで撮った。〝早撮り〟の彼のこと、苑の許可なしでサッと撮ったらしいが、子供時分から御苑を知っている者には〝あぁ、この写真の木はあの木だなぁ〟とわかる。そう指摘すると彼は頭を抱えた。某の名は言えぬ。

 そんな鳥や歌や写真家のことなどを思い出しつつ、この絵を描いた。途中で投げ出そうかと思ったが、最初に描いたベンチの板の線(角度)が良かったので最後まで頑張れた。さて、3枚目はどこで描こうか。(苦手の風景スケッチ克服記2)

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新宿御苑2度目のスケッチ [スケッチ・美術系]

taijyu3_1.jpg 2年前の春、暇つぶしに新宿御苑で初スケッチ。「うひゃぁ~、描けねぇ」で、ムキになって始めた水彩画。人物を描くのは好きになったが、風景画は相変わらず苦手。2年振りにクロッキー帖持参で御苑へ行った。

 これまでも幾度かスケッチブックを持参で御苑に行ったが、風景画は描かずしまい。「今度こそ」。新宿門を入ってすぐ右の巨木(明治20年頃に移植の日本最古のプラタナス=モミジバスズカケノキ)を前に、藪を背にしたベンチ(後ろから覗かれない)に座って描き出した。

 向こうに白シャツの男が座り込んで紫陽花を描いていた。鉛筆でアタリを取り、ペンで描き始めて数分か、ブ~ンと蚊が手に止まった。払い避け、まくり上げていた袖を手首まで伸ばす。再びブ~ン、チクッ。

 虫よけ剤を不携帯。最初はヤブ蚊くらいに思っていたが、痒くなるに従って、ひょっとしてネッタイシマカ、ヒトスジシマカだろうか。デングウィルス感染かと思ったら集中力が切れた。

 彩色せずも、せめてペンだけはと頑張ったが「いやぁ、参った・参った」。次のスケッチ場を探しながら、もしもデング熱ならば潜伏期間2~14日後に高熱かぁ~とつぶやきつつ、次は大木戸門方面のプラタナス並木へ向かった。(苦手の風景スケッチ克服記1)

 ★安倍内閣の暴挙止まらず。蛇蝎かの嫌悪感を覚えるあの顔が、テレビに映る度にチャンネルを変えてきた。チャンネルを変えれば〝御用新聞系チャンネル〟だったりで、テレビから離れる日々。風景スケッチの苦手は努力すれば克服できようが、議会無視で次から次へ憲法を変えて行くヤツラの罪は計り知れぬ。〝地獄に堕ちろ〟と記せば、戦前ならば即〝憲兵〟が飛んで来ただろう。チクッ、チクッ。毒がまわって暗黒の大日本帝国時代が甦る。 

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累計総閲覧数200万を越えて~ [アクセスレポート]

access1_1.jpg 大島シリーズ中に、ブログ累計総閲覧数が200万を越えていた。最近の閲覧数多い記事は「島の玄関・竹芝の高層ビル群」「九鬼周造の人生」「岡倉天心と九鬼周造」「謎の〝大島元町復興計画〟」「吉阪隆正と大島」「大江戸骨董市の掘り出し物」だろうか。

 思わぬ記事に閲覧が多く、これはと思う記事に閲覧が少なかったりもする。或る日は最新記事に一切見向きもせず、古い記事ばかりが閲覧されていることもある。古い記事は、自分でも何を記したかを忘れてい、自らアクセスして懐かしく読み返したりもする。

 そそっかしい小生は誤字脱字も多く、そうした際に訂正もし、時には過去の〝改ざん〟もする。ブログの写真を絵に替えたのが2年前。暇ならば昔の記事の写真なしに絵を添え、写真を絵に差し替える遊びもある。

 ブログ歴が永いくせに、200万を越えて「so-netブログ」左枠最下段「検索ボックス」の便利さに初めて気付いた。ちなみに「霊岸島」で<検索>すると18件ヒット。冒頭に写真か絵がアップで、文章は途中で<・・・>で終わる形で関連記事一覧が出る。そこの題名クリックで全文記事へ飛ぶ。

 江戸時代の金銭、時間、古文書解読などは一度勉強しても忘れてしまうことままで、そんな際にも過去の勉強記事に一瞬に飛べて、これは便利と今更になって感心した。

 写真は6月7日(今朝の数字は2006522)。更新はほぼ隔日ペースで記事数は1900ほど。1日の平均訪問者は200名で記事閲覧数はその3倍ほど。アクセスランキングとやらは1434だから、まぁ、地味な存在なのだろう。

 何故にブログを? 決まっているじゃないですか、隠居は暇なんですよぅ。金持ちならば他の遊びもあろうが、こちとら(此方人等)貧乏隠居ゆえ図書館の本を読む、絵を描く、散歩をし、自転車に乗り、ブログを記す。みぃ~んなタダで遊べることばかりです。

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大型船と中村屋とゴジラカレー〈2017‐10〉 [週末大島暮し]

ohgatasen3_1.jpg 元町の観光協会前、「寿し光」海側の小公園に座って元町桟橋を眺めていたら、大型船「さるびあ丸」が出航するところだった。

 かつて竹芝を夜発の同船に乗るべく長蛇の列に並び、座る場所確保に熾烈な闘いを展開した嫌や思い出が甦ってきた。だが大島を昼発の大型船には〝優雅な船旅感〟があった。「久し振りに大型船で帰ろうか」。しかし帰京日の大型船運航なし。

 大島暮し7日目に、元町からジェットフォイル艇で島を後にした。ややして右舷窓から我がロッジが見えた。大別荘の脇の小さな茶色屋根。手前の白線は塩工場の屋根。車で海岸通りをロッジへ走っていると「ロッジが火事だ」とドキッとすることがある。白煙は火事ではなく塩工場から立ち昇る煙(湯気)らしい。

 塩害については不明だが、いずれにせよ防風林が伐採されて船からロッジが丸見え。ロッジから海一望で、冬はニシ(強い西風)を食らって怖くて住めなくなった。老人ゆえ残り幾度の島暮し。ここは島の産業、塩の量産・発展を祈りましょ。

wagaya1_1.jpg 船の中で大島土産を確認した。「アシタバ五把、ゴジラカレー二つ、冷凍ハンバノリ四つ、そして大島の塩」。土産を見ながら「ゴジラカレーと中村屋がコラボすればおもしろかったのに」と思った。中村屋はインドカリー発祥店。中村屋の娘と結婚できぬ傷心を島で癒した中村彝。前回記したが新宿中村屋ギャラリーで「中村彝生誕130年記念展」をやっていた。実は我家は安くて旨い中村屋のレトルトカレーを常備している。

 それが元町「ベニヤ」にもあって驚いた。もしも前述のコラボが実現していたら、全国のスーパーに「中村屋の大島ゴジラカレー」も並んだだろうにと、その絵を想い浮かべたら、ちょっと楽しくなった。

 楽しくないのは、初めて描いた船の絵。友人が言う。「お前は線がダメなんだよ。描く前に線を引く練習をする。縦に、横に、円も描く。太く、細く、早く、遅く、入りと抜き~」。今回の大島暮しで痛感は、もう少しマメに島通いをすること。風景スケッチ苦手を克服すること。(今回の大島シリーズおわり)

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御神火太鼓の子供たち〈2017‐9〉 [週末大島暮し]

gojinkataiko2_1.jpg 今回の大島では、ライフライン復活と草刈りでスケッチをする余裕もなかった。そこで「ぶらっとハウス」裏の多目的広場で行われた恒例「軽トラ市」で行われた子供たちの「御神火太鼓」の写真より〝お絵描きの練習〟です。

 ブログ絵は迷った結果、やはり「ペン画+淡彩」がいいと結論し、改めてペンを再考。今までのペンは万年筆=LAMY Safari(ラミーサファリ)+インク=プラチナのカーボンインク・ブラックの細字と太字の2本。そしてボールペン=パイロットHI-TEC-C。共に水彩をのせても滲まぬインク。

 ボールペンではやはり硬質過ぎやしないかと、もっとタッチ感の出そうなSTAEDTLER pigment liner(ステッドラーピグメントライナー、水性顔料インク)が良さそうだ。世界堂へ行くとボールペンは文具売り場で、ステッドラーは画材売場。ドイツ製。絵を描くには、やはりコレがいいらしい。

 かかぁが言った。「お爺さんが文具に夢中になって、女学生みたいじゃないの。絵は道具じゃないの。腕よ、デッサン力よ。描いて・描いて・描きまくらないと上手にならないよ」。ピカソか、はたまた漫画の浦沢直樹みたいなことを言った。

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吉谷神社への参道に感動〈2017‐8〉 [週末大島暮し]

mikageisi2_1.jpg 新宿区百人町在住だった早大教授で「ル・コルビュジエ」に師事した建築家・吉阪隆正。彼は昭和40年の元町大火のテレビ映像を観た夜に「大島復興計画書」を書き上げて大島へ届け、復興の希望と勇気を元町に届けた。(弊ブログ2月に6回シリーズで紹介)

 「大島町史」にも昭和41年に〝吉阪教室による町づくり〟なる文言あり。彼らは「都市計画」と同時に建築家集団ゆえに島南部(例えば波浮小学校)の建物など多くを手掛けたらしいが、実際にどの建物の設計をしたのかは小生調べでは確証を得るには至らなかった。

 その中で「復興計画書」に図入り記載され、かつ多数建築家らが吉阪隆正について語った膨大な「You Tube」資料にも「吉谷神社への敷石参道」も彼のアイデアだったとあった。それは町づくりにおける海岸から神社へのドラマ性の演出で、敷石は都電廃止で不要になった御影石を利用とか。

 都電史をみれば、銀座を走っていた都電も同時期に廃止ゆえ、この参道の御影石に銀座の敷石が混ざっていたように推測してみた。さて、本当にその敷石参道はあるのだろうか。この眼で確認したく元町をちょっとワクワクしながら歩いてみた。

 「あった、あった、確かにあった」。

 計画書通り御影石の参道は、海岸沿いの道、現・観光協会事務所の前、以前に何度か共に呑み、元町花火を屋上で楽しませてくれた夫妻の現・廃業ホテルと東屋のある小さな公園の間から石畳みは始まっていた。

mikageisi3_1.jpg tosyokan_1.jpgそこから山側へ真っ直ぐ続いて役場通りの元町郵便局まで続き、すこし左にズレて銀行から吉谷公園(昭和43年開園。これも吉阪チームによるものらしい)を通って神社までドッシリとした石畳参道が続いていた。

 あぁ、これが銀座を含めた都電廃止による御影石の参道だ、コルビュジエに学んで都市計画に情熱を燃やした吉阪隆正の痕跡だな、とちょっとジーンと胸が熱くなった。彼は同計画に日本初?の住民参加のワークショップを勧め、また世界初のボンネルフ設計(人間優先の車道で、後に真っ直ぐな車道に直されたらしい)など数々のユニークなアイデアを提案・実施。

 小生なら参道下に、この石敷参道の由来を記した案内板を設置し、観光客を吉谷神社へ誘いたく思うのだが、そんなことを思う島の方は誰もいないんだなぁとちょっと淋しかった。

 また朽ちかけた元町図書館も、多くの資料に「吉阪プロジェクト」によるものとの記述があったので写真をアップです。

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夏来る繁茂の庭と老い戦〈2017‐7〉 [週末大島暮し]

kusakariman.jpg 何日も要して腰まで伸びた庭の雑草を、小生の頭(坊主)のようにきれいに刈り込んだ。島ではあちこちで〝草刈り現場〟を眼にした。その手際の良さに感服も、街育ちの老人(小生)は10分やって30分の大休憩。

 「こんなに辛い草刈りはもうイヤ」。ついに「除草剤」を買った。草刈り後に〝いざ散布〟と説明文を読めば、撒くのは草刈り後ではなく、雑草に直接散布して葉や茎を経て根を枯らすとあった。除草剤は次回へ。「老いぼれて闘い放棄の除草剤」

 さて、帰京後の仕事が上手く行けば、かかぁの友達らと再び島遊びの予定。同じメンツで幾度も島を愉しんできた。庭写真の「杉」は、I夫人が某社催事で入手の15㎝の苗を植えたもので、それがこんなに大きくなってしまった。

kusakarikanryo_1.jpg 昨年は玄関急階段でT夫人が転げ落ちた。いつの間に全員の足許が覚束ない歳になった。手摺りが必要だが、それを作る技術なく、庭に土を削った緩い階段を拵えた。

 ご夫人方全員がマンション暮しで〝あぁ、私たちもそんな土の階段作りがしたかったなぁ〟と言い出しそう。マンション暮しで出来ぬ作業に汗するのも〝島暮し〟の愉しみです。

 今回の庭仕事で、長年(20年)愛用〝黄色いツナギ〟がボロボロになった。庭仕事や防腐剤塗りなどで必需品。新調すべくネット検索すれば「草刈り専用ズボン(前部にパット、背部にベンチレーションジッパー)が15,120円。専用ヘルメット、ジャケット、手袋、ブーツもあって計68,000円。リッチな方も草刈りをするらしい。

 近所に「ワークマン」なし。西新宿の「萬年屋」か「伊勢啓中村屋」で安いツナギを求めよう。挿絵は描き終わってパソコン取り込み後に、肩ベルトが本体に繋がっていない(描き忘れ)のに気付いた。Windows「ペイント」のマウスで描き足した。草刈りが苦手でも、パソコン操作は若者のようにサッと出来る。

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長らへてあと幾度や島の風呂〈2017‐6〉 [週末大島暮し]

roten6_1.jpg ロッジのライフライン復活と草刈りで疲労困憊。いつもなら毎夕愉しむ「浜の湯」(水着着用の露天風呂)だが、今回は7日間で2日だけ。

 かつて、湯に浸かりつつ〝島の古老らの話を聞くのが愉しい〟と記したが、湯に寛ぐ方々を見回せば〝吾も古老〟かと気付かされた。かかぁが湯にあたって倒れはせぬかと眼を離せず、自分も弱った足腰をマッサージしつつの入浴。

 2年前のこと、突然の足裏のシビレに驚いた。大病院診断は「脊柱狭窄症」。病院通いをすれど改善せず、自己流ストレッチで痺れを軽減。1時間ほどのウォーキングも平気になった。腰痛は慢性。

 過日のこと、小石を踏んで転んだ。自己判断をすれば足首の柔軟性、強靭性が失われて踏ん張る力を失ったと判断。大腸内視鏡検査を勧められ「ケツから何かを突っ込んで調べるなんぞ真っ平御免でぇ」と啖呵を切るも、結果はポリープ(良性)を二度に渡って除去し、年に1度の定期検査を受けることにもなった。

 若い時分に無理をした反省あり、逆に遠慮したことの反省あり。いずれにせよ、人生やり直しが効かぬ歳。そう思ったら「浜の湯」隣にある「中村彝(つね)像」が気になった。彼は小生の半分37歳で逝った。島ではどんな暮らしをしていたのだろうか。

 帰京後に「新宿・中村屋ギャラリー」で開催中の「中村彝・生誕130年記念~芸術家たちの絆展」を観た。彼は岸田劉生と同じく「白馬会研究所」に在籍。劉生の2年先輩で、二人の仲は良くなかった。その劉生も39歳で逝った。思わず「長らへてあと幾度の島の風呂」です。(季は〝島〟で四季)

 挿絵は「浜の湯」に自分らを配す〝想像〟で描いた〝初想像画〟。今回の「浜の湯」は若夫婦と2歳半の赤ちゃんが展開する微笑ましい入浴風景が記憶に残った。

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自然木カウンター〈2017‐5〉 [週末大島暮し]

counter1_1.jpg 大島のボロロッジは薪ストーブ、吹き抜け、天井を回るファンに加えて、この太い自然木カウンターが存在感を発揮している。

 かつて島を去った知人が譲ってくれたもの。チェーンソーでカウンターの形に整えて入念に塗装。大人4、5名でワッセ・ワッセの掛け声に合わせて運び込んで設置したのを覚えている。

 ブログ挿絵は、目下さまざまな描き方を模索中。いや、迷って悶々としている。この際に改めて「不透明水彩(ガッシュ)」も使ってみようすれば、暫く使わなかった幾色もが凝固して使えなくなっていた。世界堂へ行けば2号(5ml)の単体販売はなしで、プロ仕様のような大きなチューブだけで頭を抱えてしまった。

 筆のコーナーを見る。「これは使い易そう」と選んだ筆をレジへ持って行こうとしたら4千円で、慌てて商品棚に戻した。それでも千円の水彩筆を2本買った。えらく彩色し易い。水をたっぷり含んだ描き方には、それなりの筆がある。ン万円も有りで驚いた。 

 今回は仕切り直して、チューブから出した「透明水彩パレット」を作り直し、色見本も作り直して壁に貼ってみた。初心者ながら、描き方の試行錯誤や迷いは限りなく続くのだろう。ブログ挿絵は「絵日記」のようなものゆえに、最も簡単な「鉛筆+淡彩」がいいのだろうが、悶々の日々は続く~。 

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薪燃やす愉しみ残す五月哉〈1017‐4〉 [週末大島暮し]

stove1_1.jpg ライフライン顛末記の次は〝良かった事〟も記す。まず海沿いの道(サンセットパームライン)から防風林を抜ける凸凹道が26年を経て、ついに舗装された。友人のブログアップ写真で飛行場際まで続く舗装かと思っていたが、我がロッジ際までだった(下写真、まるで藪トンネル。右側が次第に深い谷になっているが、少し先まで行けば飛行場脇からの舗装路が来ている)。いずれ全舗装を期待です。

 今回はライフライン修繕ばかりで、かかぁには「面白くない大島暮し」と思えど、「あらっ、楽しかったよ。東京でこんなトラブルは絶対に体験出来ないもの。家の中からキジを、キョンを、リスも見た。一日中〝ホーホケキョ〟の声に包まれ、ホオジロやコジュケイも盛んに鳴いていた。〝ぶらっとはうす〟で買った自然薯も美味しかったし~」。

 さらに〝良き哉〟は、東京出発まで真夏日だったが、島は天候不順で朝・夜が寒くて存分に「薪ストーブ」が愉しめたこと。〝島の朝は早い〟と記したいが、実際は我がロッジの朝は〝遅く・寒かった〟。

 東京はマンション7階で東向き。4時半頃に昇る朝日は、早くも恐ろしいほど真っ赤で、昇り切ると白熱で、灼熱の陽が部屋に射し込む。遮熱・遮光カーテンが必需品。

hosouroend_1_1.jpg 比して島ロッジは西向きで、東側に他家ロッジと雑木林で、太陽が斜め上まで昇らぬと陽が射し込まぬ。建物の立地環境で、こうも違いがあると痛感。そこでもう一句。「明六に独り暖炉や島の初夏」

 次回島暮しは、秋に備えて久々にチェーンソーで「薪作り」と「煙突に接触の朽ち気味の桜の木を伐採」。

 倒したい方向に三角の切り込み(角度30~45°、受け口)を作り、反対側に受け口の少し上にチェーンソーで(追い口)。チェーンソ―が挟まれないように(くさび)を打ち込む~だよね。倒す方向を間違えると大ごとになる。島暮しは次から次へと、都会では出来ぬ〝仕事〟が迫ってくる。

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島ロッジ1年放置の無残かな〈2017‐3〉 [週末大島暮し]

lifeline1_1.jpg 大島のボロ小屋を1年間放置すれば、尋常であるワケがない。庭の雑草繁茂は覚悟だが、まずは「あぁ、水が出ねぇ」。役場に電話をする。「検査をしたら漏水疑惑で元栓を閉じてあります」。次にプロパンも出ぬ。これも「長期留守のために定期点検が出来ず止めています」。

 次に「トイレの水の塩梅も良くない」。プロパン調整を終えたS青年が「ちょっと見てあげよう」。仕事外の親切に、かかぁと共に感涙す。この時点で水道漏水はトイレの垂れ流しが原因かと判断した。

 そこに「おぉ、久し振りに来たかぁ」とM氏。「草刈機の2サイクル燃料はこれを使ってくれ」とポリタンク。かくも皆さんの親切に支えられての島暮しです。

 翌日、家裏で水音がする。裏へ回って腰を抜かした。石油給湯器の裏側下部の水道菅とのジョイント部が腐食し、そこから水がジャージャーと勢いよく洩れ流れているじゃないか。慌てて「水道元栓(量水器)」を止めた。

 これは昨日、役場の方が雑草に埋もれていた元栓を操作するのを見ていて出来たこと。そして役場の方が教えてくれた近所の業者さんへ電話。やっとN氏の会社が電話に出てくれた。「どんな具合か夕方に見て、明日直してあげよう」。

 それからは水なし生活。風呂場に溜めた水をバケツに汲んでのトイレ流し。あぁ、被災地のライフライン崩壊の辛い生活一端を知ったり、です。翌日、水道N氏が石油給湯器の水漏れを修理し、トイレも応急処理。これでやっと湯が出た、風呂に入れた。

 そこに再びM氏登場。再びトイレを調整。おぉ、何と云うことでしょう。勢い良くジャーと水が流れでピタッと止まる。こんなに歯切れの良い水洗トイレは久し振り。島で生活するには、こうした技術と経験がなければ生きては行けない。都会暮らしの軟弱さ痛感です。

 そして、いよいよ草刈り。不安と緊張でリコイルロープを引く。「おぉ、な・なんだ!一発始動だ」。これは前回の島暮しでMK商会さんに〝上手な仕舞い方〟を教わった結果だろう。腰痛ベルトを締めて、腰まで伸びた雑草と格闘開始です。その姿を見た水道N氏が笑ったね。「貧乏老人の別荘持ちは地獄だねぇ、ふふっ」

 <メモ>1年間放置でもプロパン・水道・電気料金の請求書は毎月来る。電気はブレーカーを落とせばいいが、それが冷蔵庫の故障原因、また浄化槽ポンプ(ブロウ)は止めない方がいいのアドバイスで今までは電源は入れっぱなし。今回は思い切ってブレーカーを落として帰った。

 水道は26年目にして、役場で「別荘扱い」手続きで、使用時のみの請求になるのを知った。同じくプロパンも電話連絡で停止をしてもらえば、これまた使用時だけの請求になるらしい。今頃知っても、老いた身であと何回ロッジ通いができますでしょうか。

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東京ベイを経て島へ〈2017‐2〉 [週末大島暮し]

takesibax_1.jpg 前回、汐留を含む浜松町地区の近代高層ビル化を再確認したので、次は東京ベイゾーン(臨海部)も知っておこうと思う。

 まずは竹芝桟橋対岸の(勝どき地区)の特異な外観のビル2棟が気になる。これは平成20年(2008)竣工の58階建て分譲マンション「THE TOKYO TOWERS」。あの外観はヨットの帆をイメージとか。竹芝より海に出てから、この絵のビル右角から両面を見れば、確かに三角形のセールが膨らんだ形になっている。

 その左は「勝どき東地区再開発」中のA1棟だろうか。他にA2棟、B棟も建築中らしい。勝どき地区の北側は「月島~佃島」で巨大高層マンション群林立風景は有名。ついでに記せば、佃島の対岸が東京湾汽船当時の霊岸島発着場。東海汽船はそこから芝浦桟橋、月島桟橋を経て現在の竹芝桟橋に至った。

 勝どきの沖側が晴海埠頭。現在確認出来るのは「晴海客船ターミナル」だけで、目下はオリンピック選手村は基礎作り段階か。その先が混迷深める豊洲市場。小生の記憶が正しければ、平成3年ロッジ建設時の七島海運は、この豊洲埠頭にあったように思う。

 さらに先は「有明コロシアム」が写真で確認できるゆえ有明地区。ここに有明アリーナ(バレーボール等の屋内競技場、竣工費360億)、アクアティックセンター(水泳等、竣工帆470億円)が建設らしい。東京ゲートブリッジ際では揉めに揉めたカヌー競技他。お台場がトライアスロンやビーチバレー。東京ビッグサイトでは各種室内競技、夢の島葉バトミントン、バスケ、アーチェリー、馬術など。

toukyobey2_1.jpg 昭和39年(1964)の東京オリンピックの時は小生二十歳。〝東京がうるさくなってきたから〟と友人と伊豆へ遊びに行った。そんな小生ゆえ「よくもまぁ、巨費(税金2兆円?)を投じて、とんでもないことをしてくれるなぁ」の感が否めない。

 それだけの金があればアレもコレもできように。厳しい格差社会になって最新建造物、高層ビル街にまったく無縁の取り残された人々は膨大で、対策遅れが山積みだろうに。

 さて、レインボーブリッジ(平成5年開通)下から東京ベイゾーンを過ぎ、東京湾を出れば、伊豆大島は目の前。1年間放置したロッジは「ライフライン」全滅で、スケッチをする余裕もなかった。帰京後、竹芝桟橋の写真から、島通いの友人からいただいた「Cotoman Travellers24」(固形水彩24色、筆入れ、スケッチブック収納の旅行スケッチセット)でお絵描きに相成候。

 風景画は苦手だなぁ。美大出の友人は「クロッキー帖(コピー用紙風の紙)に水彩画は無茶だよ。ヘロヘロに波打っちゃうだろ。ちゃんと水張りした水彩用紙に描きなさい」

 下写真は「世界貿易センタービル・最上階展望台」から東京ベイゾーンを撮ったもの。午前中は都心部が順光で、臨海は午後が順光。観覧料大人620円(高齢者500円)。次はロッジ1年間放置が、いかに無残なことになるかのご報告。 

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島への玄関、竹芝の高層ビル群(2017‐1) [週末大島暮し]

bunkahousou_1.jpg 伊豆大島の1週間暮しから戻った2日後、19日の東京新聞にJR浜松町駅隣接「世界貿易センタービル」最上階展望台が紹介されていた。同ビルは昭和45年(1970)竣工。当時は霞が関ビルに次ぐ都心の超高層ビルだったが、東京オリンピック翌年に建て替えとか。

 小生昨今の大島経路は、大江戸線「大門」下車で竹芝桟橋まで徒歩。「大門」で地上へ出れば同ビル前。この辺りは平成12年(2000)から次々と高層ビルが建ち並び。今や近代高層ビル街に変貌した。

 同ビル前「浜松町スクエア」(写真上中央、下が賃貸オフィス、上が賃貸住宅)が平成16年(2004)竣工。右隣「文化放送ビル」が翌々年竣工、JRを渡った先の「〝芝〟離宮庭園」前の「汐留芝離宮ビルディング」(オフィスビル兼複合商業施設)も平成18年(2006)竣工で、デッキで繋がった隣の「汐留ビルディング」(2Fが25店の飲食街、4~24Fがオフィス)がその翌年竣工(下写真の右下の2棟)。その後ろの「〝浜〟離宮」際に建つのが「アクティ汐留」(下写真中央のビル。58階の賃貸住宅、平成16年・2004)、また最近では竹芝桟橋前に「浜離宮インターシティ」(平成23年・2011)が建った。

 その背後が〝虎の門・汐留地区〟だ。「東京汐留ビルディング」(ホテル・コンラッド東京、ソフトバンクが入る。平成17年・2005竣工)。その裏に「電通本社ビル」(平成14年・2002)、「ロイヤルパーク汐留タワー」(平成15年・2003)、「日本テレビタワー」(平成16年・2004)、「汐留メディアタワー」(共同通信社、平成15年・2003)等々が見える。

tenbou1_1.jpg そして今回は「芝離宮庭園」隣が巨大敷地になって工事中だった。東急不動産・鹿島建設2社共同「竹芝地区開発計画」。全体延べ面積20万㎡の国際ビジネス拠点を創出とか。業務棟は地上39階地下2階。竣工は2020年。ますます高層ビル街になる。

 かつて威容を誇った「世界貿易センタービル」に老舗感が漂うも、その最上階展望台からは360度の抜群の眺望が見える。眼下竹芝の近代高層ビル群も手に取るようにわかる。「竹芝地区開発計画」工事が進めば、竹芝桟橋は視界から消えよう。

 かく記すのも、小生「世界貿易センタービル」に多少の思い出あり。昭和52年(1977)頃か、30代半ばの頃に同ビル入居の音楽会社PCの仕事をし始め、同社は昭和53年秋に市ヶ谷・一口坂に移転。その頃が同社隆盛期で、同社は市ヶ谷から移転後に次第に凋落して行った。まぁ、そこでの仕事収入をもって平成3年(1991)に大島ロッジを建てた次第。つまり平成3年からの島通いの度に、竹芝周辺の変化を眼にしてきたことになる。

tenbou2_1.jpg PCはフジサンケイグループ。フジテレビは東新宿の自宅から徒歩圏内の河田町をあとに、お台場へ移ったのが平成9年(1997)。四谷の文化放送も前述通り浜松町へ移転、系列違いだが市ヶ谷の日本テレビも汐留自社ビルへ移転。

 かくして大島の玄関口ともいうべき浜松町~竹芝桟橋を歩くと、若き頃の仕事、我がフリーランス前半のあれこれが甦る。それにしても同地区の昼間人口は、かつての数倍増だろう。島通いの旅人らが大きな荷物を持ってゾロゾロと歩く程度だった道が、今はこれら高層ビル群の勤め人雑踏で、旅行荷物を持って歩くのが困難になってきた。

 浜松町、汐留地区が、かくも近代高層ビル街化して、そこが過疎化進む大島の玄関口とは何とも皮肉なり。いや、年々そのギャップが大きくなって、同地からジェットフォイル艇90分で〝東京のジオパーク・大島〟へが面白くなっている。このギャップ堪能で大島人気が復活すればいいのだが、と思ってしまう。

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劉生7:松本清張『岸田劉生晩景』 [スケッチ・美術系]

ryuseiend1_1.jpg 松本清張『岸田隆盛晩景』は、岸田麗子『父岸田劉生』が記す「父の研究は鵠沼時代までの画業が多く、京都鎌倉時代の研究は少ない」の指摘から書き出すノンフィクション。まず同時期の研究が少ないのは、見るべき作品がない点と、劉生日記が途切れていることだろうと日記空白時期の劉生像を探りたいと記す。

 京都移住は大正12年10月。新居が落ち着くと、劉生は古美術蒐集にのめり込む。彼の東洋画観を、彼の随筆集から読んでみる。

 ~東洋の美術を見た目で西洋美術を見ると「作られしもの」の感がする。東洋画の美的要素は意思的ではなく自然的・無意識的な深さがある。渋さ、苦さもある。比して西洋画は人為的で騒々しく甘味もある。東洋画には「間抜けさ=深い稚拙感=現実味の拒否・欠如=写実の欠如」が「仙・気韻・真髄」の感を生み出している。

 かくして劉生は東洋画、肉筆浮世絵のいい作があれば、金がなくても「江賀海鯛(絵が買いたい)」先生で、借金も返せない。絵を売りたいが京都にファンもパトロンも少ない。

 大正14年3月、我儘が嫌われて春陽会脱退。旧友の木村荘八、中川一政らは同会に留まった。淋しい。友人の質も変わって酒席通いが始まった。茶屋遊びのお相手は祇園の花菊。当時の日記「昨夜また茶屋へいってしまった。(中略)別に女と深入りする訳ではなく酒をのんでさわぐだけだが自分にはどうもやはり女を弄んだような感じがして罪の感がのこり~」

 だが元クリスチャンの劉生は隠遁者・荷風のように、アナキスト・大杉栄のように、エロス追及の池田満寿夫のように、ピカソのようには性を奔放に愉しめない。いや、手も握れないのだ。デカダンス、退廃美の理解は頭だけ。

 木村荘八は「内心の謎=追及心」が失せて制作面に情熱を失ったと記し、清張は武者小路が記す「家庭の暗い事情」や、麗子が記す「母は女盛りを美しく飾って、取り巻きの若い連中と京の名所旧跡巡りで楽しんでいた」から夫婦間に〝秘められた疑惑〟があったのではと彼らしい推測もする。

 大正15年、鎌倉に移住も酒毒消えず。今度は新橋料亭「幸楽」に流連(いつづけ)から、三流処の茶屋に落ちるも、どこも迷惑顔だ。

 昭和3年秋、満鉄招待で大連へ。画会や肖像画で金を得てフランスへと思うもままならず。大連からの帰路に山口県徳山へ。ここで体調を崩して入院。昭和4年12月死亡。39歳だった。

 清張は最終3頁でこうまとめていた。~ゴッホらの〝模倣の天才〟から写実神秘派へ。そして肉筆浮世絵、唐画の先人画家らの〝形式の模倣の旅〟を続けた。かれの〝リアリズムの手〟が新たな精神の獲得の邪魔をした。エコール・ド・パリが画壇の主流で、それら時代の波と闘ったことで批評家、コレクターから背を向けられた。彼はその先の自己の芸術が発見できぬ煩悩で耽溺生活に逃げ込んだ未完成の画家だった。

 清張、通り一遍の結論だな。清張もまた性、デカダンスには臆病だった。清張に出来たことは39歳で亡くなった劉生を反面教師に、44歳で手にした文壇の座を維持すべく、ただひたすらに原稿を書き続けただけのような気がしないでもない。

 小生は、劉生・晩年の写実から脱した作品群から推測すれば、さらに絶望を深め(ボス的、家長的挫折)、かつ生き永らえば、抜群の写実力を有すも次々に作風展開のピカソのようになれたのではないかという気もする。ピカソのキュビスム開眼は36歳。劉生の死は、美を追求するには余りに早過ぎた。(未消化だが終わる)

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劉生6:京都時代の蒐集耽溺 [スケッチ・美術系]

ryuseienikki1_1.jpg 劉生32歳、関東大震災から8日後の9月9日の日記。~ねころんで「女性」誌の荷風『耳無艸(みみなしぐさ)』などみる。この人も古美術を愛するらし。今の境地にてこの文をみて、かわける時水に会うような心地幾分したり。

 荷風へ言及で、これは確認したい。『耳無艸』は後に改題『隠居のこゞと』。大正12年4月2日『断腸亭日乗』に、~夜随筆「耳無艸」を草す、と有り。『荷風全集』15巻「麻布襍記」に『隠居のこゞと』収録。長文ゆえ雑誌「女性」に連載と推測する。

 内容は、昨今(大正当初)の編集者らの行儀の悪さ(無知)の指摘に端を発し、衣食住全般の堕落を嘆き、良き明治の森鴎外や江戸文化(浮世絵など)を懐かしく述懐。最後は大震災に遭ったが、被害の少なかった山の手に暮らしていて助かったと結んでいた。

 雑誌「女性」や「苦楽」はプラトン社発行で、同社調べも面白そう。劉生の絵に挿入される装飾(描き文字、額縁風模様など)は、同誌の山六郎、山名文夫のタイポグラフィー、イラストにどことなく似ている。

 また鵠沼脱出前、9月20日の日記に「大杉栄が甘粕という大尉に殺された由、大杉は好きではないが殺されるのはよくないと思ってへんに淋しい気がした」。誰が言ったかは忘れたが〝劉生の日記は、荷風の日記と同じくらいに面白い〟なる記述があった。

masuoeniki2_1.jpg 話を戻す。劉生が京都生活を始めたのが大正12年10月。月謝25円の長唄師匠も京都に落ち着いた。当時の京都は古美術の宝庫。まず唐画「雁」を購入し、自らを「陶雅堂」。鵠沼時代に芽生えた唐画、日本の初期肉筆画への関心がさらに深まった。

 「又兵衛」を5~800円で購入、古茶道具を70円で購入。日記にはあれ・これ欲しいと金策ばかりの記述が続く。大正13年正月の日記に「今年もよき年であってくれるよう、よきものの手に入るよう」と記す。骨董商の誘いで茶屋遊び、深酒の遊蕩も始まった。

 借金も返せないのに、欲しい作があれば買ってしまう。自ら「江賀海鯛(絵が買いたい)先生」と称し、「美の鑑賞は創造と同価値」を広言。そして大正14年7月9日に、大正9年元旦から続けられていた絵入り日記が突然終わる。その原因が様々に揶揄されるも、松本清張『岸田劉生晩景』が、この耽溺時代の劉生像を描こうとしているので、この先は同書を読むことにする。

 挿絵は、劉生〝絵入り〟日記の小サイズ超ラフ絵のひとつ。日記内容の雰囲気が伝わって愉しい。またまた余談だが池田満寿夫『尻尾のある天使』(文春文庫)を読めば、画家による同じような感じの超ラフ絵掲載。どこか似ていて面白いも、池田満寿夫の方がアートしている。岸田劉生を例えば永井荷風、大杉栄、池田満寿夫らと比せば、その像もより明確になって来よう。弊ブログ絵もこんな感じのラフ絵が描けたらいいなぁです。(続く)

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劉生5:「内なる美」「卑近の美」など [スケッチ・美術系]

jibunnokao1_1.jpg 劉生の鵠沼時代の充実について、もう少し記す。前回、デフォルメされた麗子像を簡易模写したが、この辺は「内なる美」から「東洋の〝卑近美〟」へ移った例。門外漢の小生には難解だが、岸田劉生随筆集より『東洋芸術の「卑近美」について』をまとめてみた。

 「東洋芸術には、概して一種の卑しさ、下品に見える味があって、実はそこに〝渋い美〟が多く見かけられる。それは露骨な美(端正、偉大、権威、伝統的写実)とは正反対の〝卑近美〟だ。日本の踊は概して西洋の舞踊に較べて端正の味を欠く。歌舞伎の所作にもある種の卑しさに似た渋い美の味がある」

 小生は北斎の裸踊り図を模写したことがある。それが歌舞伎舞踊の「願人坊主」「うかれ坊主」でもあり。その味は下世話で露骨に違いない。劉生はこう続ける。

 「概して東洋美術及び日本美術の味には端正とか、権威とか、精神的というか倫理的感銘が欠けているかのように見えると思う。露骨な美(端正な写実)と〝卑近美〟がある。例えば水墨画の深さは西洋美に匹敵して劣らない。ならば美は二つあるのか。いや、そうではない。東洋の美は露骨性が避けられ、匿(か)くされているのだ。そこに〝渋さ〟がある。一皮剥ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さがある。それが東洋美術の〝卑近美〟である。ゆえに全美術家は、通俗さを恐れなければいけない」

 そして「デカダンスの考察」へ。デカダンスを分類分析した後で「日本の音曲の江戸末期のあるものは、明らかに本質上のデカダンスでありながら、必ずしも非芸術として捨ててしまえない一種の芸術的な魅力を持つ。一種の芸術的な魅惑となって我々の感情を一種の陶酔に導くのは何故か」

jibinkao3_1.jpg そして自答する。「それは技巧の味覚である。江戸末期の芸術は、多く技巧の繊細に走って、それがますます鋭くなるにつれ、芸術上の本質が腐ってゆく代わりに、技巧の味覚だけは非常に進んだ。その技巧の持ち味が人を或る陶酔に誘うのである」

 劉生の当時の日記を読むと、夫妻で三味線や長唄の出稽古を受け、日々上京の折りには必ず東洋・日本美術品を鑑賞しては蒐集の欲を募らせていた。だが富山秀男著では「劉生のそうした進化が、関東大震災後を契機に欧州から流入の前衛的画風が画壇主流となり、次第は無視されていった」と記す。劉生は油彩で日本画風に、または水墨画を、油彩で大首絵風を描いたりと彼の探求心は限りなく展開するのだが~。

 さて挿絵は劉生自画像の油彩、素描淡彩を一皮崩してみれば、何かが見えてくるような気がしてデジタル処理してみた。ははっ、どちらの絵が油彩か素描かが分からなくなってきた。これで色を抜けば水墨画にもなろうか。こんな遊びはきっと「剽窃・加工」でいけないこと。(続く)

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劉生4:充実の鵠沼時代 [スケッチ・美術系]

reiko4_1.jpg 岸田劉生26歳、大正6年(1917)。より温暖な地・鵠沼へ移転。草土社、白樺派メンバー、そしてバーナード・リーチも訪ね来る。椿貞夫も引っ越して来た。梅原龍三郎は鎌倉で、萬鉄五郎は茅ヶ崎。大正期の湘南画壇はちょっと熱かった。劉生の健康も回復してパトロンも増え〝劉生の鵠沼充実期〟へ。

 若い画家らの信奉者が多かったのは、彼が展開する画論・芸術論などの筆力(父親譲り)も影響大だったろう。大正7年『麗子肖像』から麗子連作も始まる。大正9年元旦から克明な「絵入り日記」(大正14年7月まで一日も欠かさず)を書き始める。この頃の画論「内なる光」について富岡秀雄著では、以下のように要約していた。

 「印象派はものの表面に当る光によって対象を認識し、刻々と変わるその見え方の違いに注目した。だが劉生は逆にものの表面ではなく、ものの奥にあるものを表現しようとした。有形な対象によって形而上の無形な精神まで捉えようとした」

 後期印象派風から、対象の生命感をも細密描写で描こうとする「写実的神秘派」を自称。麗子像、友人肖像などはアルブレヒト・デューラー(ドイツ・ルネサンス期)風に。小生の素人感想では、油彩ゆえ脂ぎった顔をマクロ撮影したような迫力満ちたリアリズム。

 写実を極めると、また次の画境へ向かう。京都での個展を機に、唐絵や肉筆浮世絵への関心を抱く。 麗子像も中国宋元時代の画家・顔輝が描く寒山の顔に似てくる。それまであの画材、技法では絶対に写実は無理と断言していた日本画を認め、さらに水彩画も再認識する。

 「筆触を重ねて美を追求する油彩に比し、唐画や日本画はまず対象美をすっかり飲み込んだ上で筆触少なく描くところに味・美が生まれる。水彩は〝美をいきなり掴む独立した芸術作品〟だ」。新概念を激しく展開。なんだか岡本太郎みたいと思ってしまった。

 大正11年「東洋芸術の『卑近美』に就いて」「写実の欠如の考察」「デカダンスの考察」を発表。瞠目すべき画論。内的にも充実の日々に、大正12年9月1日の関東大震災が襲った。

 「十二時少し前かと思う。ドドドンという下からつきあげるような震動を感じたので、これはいけないと立ちあがり、蓁につづいて立って玄関から逃れようとした時は大地がゆれて~」と緊迫の日記。家屋半壊。充実の鵠沼時代が無残に終わった。

 挿絵は中国宋元期の画家・顔輝が描く寒山の顔と、それに似たデフォルメの麗子像の対比部分模写。

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劉生3:「切通之写生」現場へ [スケッチ・美術系]

kioujinnjya_1.jpg 家に籠って連日読書では運動不足。自転車を駆った。岸田劉生関連書を読書中ゆえ、彼の旧居巡りと相成候。まずは劉生が新婚所帯を構えた妻の実家「西大久保457」小林宅へ。あらっ、ご近所だ。大正時代の地図を見れば、現・新宿職安通りから歌舞伎町方面へ曲がってすぐの鬼王神社隣辺り。

 今はスナックビルとラブホテル群の歓楽街で、当時の面影皆無ながら、104年前の大正始めに22歳の劉生が、ここで新婚生活と思えばなんだか身近な存在になってくる。

 職安通り沿い(鬼王神社へ曲がる手間)には、島崎藤村旧居碑あり。極貧生活のなかで『破戒』執筆中に栄養失調で三人の女児を亡くし、同通りの山手線寄り「長光寺」に葬られている。

 ここから新宿駅南口前の甲州街道を数分走って「西参道」に入る。突き辺りが明治神宮で、右坂下が小田急線「参宮橋」。まずは「北参道」左側、代々木3丁目側を走って西大久保からの移転先「代々木山谷117」を探す。今は「山谷」地名はなく代々木3丁目だが「山谷幼稚園・山谷小学校」に地名が残ってい、この辺りが劉生夫妻の移転先。

yoyogitizu6_1.jpg 近くに「田山花袋終焉の地」碑あり。花袋がここへ移転は明治39年。彼の『東京三十年』(岩波文庫)に、こう記されていた。「(社から帰ってまで来客の相手はたまらぬゆえ)代々木の郊外に新居をつくった。郊外の畑の中に、一軒ぽっつりとその新居を構えた」

 当時の氏は自然主義文学の拠点、博文館「文章世界」編集主任。忙しかったのだろう。静かな郊外の家で、あの『蒲団』などを執筆。自然主義小説のもうひとつの代表作が、前述の島崎藤村『破戒』。

 次に「西参道」の反対側へ。記憶通り参宮橋側(代々木4丁目方面)は急坂で下っている。劉生の「道路と土手と塀(切通之写生)」や「代々木付近の赤土風景」などはこの辺で描かれたに違いないと、あちこちの急坂を登り降りしていたら、何ということでしょう、「立正寺」脇に「岸田劉生が描いた〝切通しの坂〟」なる碑柱があるではないか。

 勘がピタリと当たった。碑柱に「名作「切通之写生(重要文化財)は大正4年に発表された」とあった。劉生「赤土風景連作」はまさに〝都市開発最前線風景〟だった。ちなみに松本清張『半生の記』文庫表紙も同絵。東京のコンクリート・ジャングルの地下は〝赤土〟で、そこに江戸・明治・大正が眠っている。(続く。次は劉生の鵠沼時代へ)

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劉生2:白馬会から草土会へ [スケッチ・美術系]

ryusei17_1.jpg 当初は水彩風景画を描いていた劉生だが、17歳で赤坂・溜池「白馬会葵橋洋画研究所(黒田清隆が指導)」に入門(挿絵は当時の劉生。痩せていた)。同所で木村荘八と親友に。木村は東日本橋の牛鍋(すき焼き)「いろは第8支店」生まれ。木村の父は愛妾担当の支店を22まで拡大して子供は30人。(岸田、木村の父は共に傑物)

 藤田嗣治が黒田の指導を嫌ったのは有名だが、劉生も黒田の指導日は避けたそうな。それでも3年在籍で、19歳で黒田スタイルの2点で文展入選。その直後、明治44年(1911)からゴッホ、ゴーギャン、マチス、セザンヌなど後期印象派の影響を受けた絵に一変。特にゴッホに夢中。後期印象派を紹介の雑誌「白樺」同人に接近。6歳年上の武者小路実篤と親交。同誌に文章も発表。バーナード・リーチとの交友も始まった。

 大正元年(1912)、高村光太郎筆頭のヒョウザン会に出品。ゴッホ風自画像などで注目。同展に学習院・漢学教授の娘で鏑木清門下生だった小林蓁(しげる)さんが観に来て、それを機に二人は結婚。新婚所帯は妻の実家・西大久保457番の小林宅二階。

 新婚当時の劉生は、訪ね来る客を次々にモデルにして数時間で完成。「岸田の首狩り・千人斬り」と言われたとか。モデルがいなければ自画像の連作、新妻も描いた。次第に後期印象派から離れ、アルブレヒト・デューラーに近づいて写実を深める。

 神経質・癇癪持ちの劉生に、妻の実家の二階は住み難く、早々に代々木山谷117の一軒家へ移転。大正3年に長女・麗子誕生。同年、二科会結成も劉生は監査委員に推されるも辞退。

 大正4年、事実上の第1回草土社展を開催。あの有名作「道路と土手と塀(切通之写生)」はじめ一連の〝赤土の風景〟を描く。同年秋「草土社」を結成。メンバーは木村荘八、中川一政、椿貞雄、高須光治など。同会展観は大正11年まで全9回開催。草土社に集う若い画家らは、劉生を狂信的に崇め、彼もまた独裁。その結束力は凄かったらしい。

 しかし大正5年、25歳の時に肺結核と診断。療養目的で駒沢村へ移転。戸外写生は無理で静物画に取り組む。大正6年、より暖かい鵠沼の別荘を借りる。次第に健康回復で、同地での6年半が彼の最も充実した〝鵠沼時代〟になる。(続く。次回は西大久保、代々木の〝赤土〟巡り)

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劉生1:劉生は岸田吟香の子 [スケッチ・美術系]

ginko5_1.jpg 松本清張の短編『装飾評伝』(昭和33年)を読んだ。概ねこんな内容。~私は、耽溺の末に39歳で病死の天才画家を小説に書きたく思っていた。彼の伝記を某が書いていた。某は彼に師事も、画業的には彼に圧倒されて挫折。私は、彼の小説を書くには某への取材が必要と思っていたが、某の死亡記事を見た。某には妻子がいて、当時の某はその子を連れて彼を訪ね続けた。それが彼を破たんへ誘った。彼が某の妻を寝取った秘密が~。

 天才画家は岸田劉生で、某は椿貞雄がモデルと揶揄されている。実在モデルを、そんなフィクション仕立てにすれば非常に失礼なこと。その後の清張『岸田劉生晩景』(昭和40年)が気になった。

 新潮社『岸田劉生晩景』(昭和55年刊)を読んだ。他に「骨壺の景色」「筆写」「女囚」「鳥羽僧正」と「北斎」(期待したが資料本抄録に過ぎず)の短編を収録。『岸田劉生晩景』は小説でなくノンフクションだった。ならば別の書も読むべきで、富山秀男『岸田劉生』(岩波新書)と画集がわりに別冊太陽『岸田劉生』を図書館から借り、書店で『岸田劉生随筆集』と『摘録劉生日記』(共に岩波文庫)を購った。

 それらから劉生のお勉強。彼は岸田吟香の子。おぉ、青山外人墓地シリーズのジョセフ・ヒコで登場済だ。ヒコが横浜で「海外新聞」発行時の編集手伝いが吟香。彼はヘボンの英和辞書を上海で印刷のために旅立って「海外新聞」は27号で休刊。吟香はその後「東京日日新聞」記者、諸事業展開。40歳の晩婚ながら14人もの子を設け、劉生は明治24年(1891)6月に9番目の子として誕生。

 吟香は銀座2丁目で、ヘボン博士より特許譲渡の目薬(精錡水)会社を経営(劉生書には、その地は現・銀座2丁目の服部時計店の地。富山書には名鉄メルサがある地)。劉生は隣や近所の勧工場(間口1間半ほどで長い通路の両側に玩具、絵草子、文具、漆器などを並べ売っていた)見物が好き。とくに油彩や水彩画の常設展覧所となった勘工場があって、そこで劉生は絵心を育んだらしい。

 なお『岸田劉生随筆集』の冒頭は「新古細句銀座通」で10章にわたって明治の銀座の思い出が〝絵入り〟で記されている。ついでに劉生の親友・木村荘八(荷風『墨東奇譚』の挿絵でお馴染み)の『東京繁盛記』も面白い。

 さて、裕福に育った劉生13歳の時に長兄が、翌年に父72歳が、母が50歳で死去。父が亡くなれば借財があって、彼は中3で退学。熱心な基督教信者になって牧師志望も、牧師から〝気性が激しいから牧師より画家になりなさい〟。燃える信仰心のやり場を絵画に向けたのはゴッホも同じだな。(続く)

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自動ペインティング実験 [スケッチ・美術系]

handouenpitu_1.jpg COREL「Painter essentials5」の「自動ペインティング」で、もう少し遊んでみた。クローンソースは最近ブログ使用の写真と絵。

 まず花の写真を「オイルペイント」加工。〝引き気味〟の風景写真よりもアップ気味画像の方が加工タッチが明確で面白い。ボケ過ぎや強調部分は「ソフトクローン」で当初ディティールを復元し、絵にアクセントをつけてみた。(レイアウトがうまく出来ずにアップ省略)

 次は自分で描いた「半藤一利さんの似顔絵に荷風の丸眼鏡、漱石のヒゲを加えた絵」を「色鉛筆画」処理をしてみた。実際は中太筆で15分ほどの色彩だが、まぁ無数の線でたっぷりと時間を要しての精緻な色鉛筆風に仕上がった。色鉛筆の太さ調節もできれば、もっと面白い絵になりそう。いろいろと試してみたい。きっと、いきなりコノ絵を見せられたら、本当に色鉛筆画と思ってしまうだろう。(絵をクリック拡大で、色鉛筆線がはっきりします)

 次に透明水彩の特性を生かした〝つゆだく〟で描いた芥川龍之介の似顔絵を「印象派風」にして、その上から「カラーホイール」と「ブラシ」で〝白+細ブラシ〟を選んで白目、瞳、鼻筋、爪を描き足した。絵を描いた時にうっかり忘れた指のハイライト部分も、薄黄色+ペンで描き足してみた。さらに大胆に追加タッチを加えれば、不思議な絵が生まれるかもしれない。

akutagawa_1.jpg 以上から、不慣れな「ペンタブレット」を使わずとも、スケッチブックに自由に描いた素描~彩色をした後で、デジタル処理をするだけで充分に面白いと思った。当分はこの方法に慣れて、気が向いたら「ペンタブレット」でも描いてみましょう。以上、デジタルお絵描き遊びのメモでした。

 


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島ロッジへ舗装路完成 [週末大島暮し]

keikai7.jpg 友人のブログ「つくって、つかって、つないで」に吉報あり。海沿い「サンセットパームライン」から我がロッジへ入る道が舗装されていたゾ!と写真掲載。腰を抜かすほど驚いた。

 大島ロッジは平成3年に建った。海から防風林を抜けるこの道は、26年間ずっと凸凹の未舗装路だった。タクシーは底を擦るから入りたくないと言った。道の凹部でコジュケイが砂浴びをし、キジが蛇を襲い、キョンが横切った。道脇に自然薯堀の深い穴が幾つもあって、道脇で「タラの芽」を採り、高い木に絡まってアケビが実っていた。

 そんな道が突然に舗装路になったという。写真ではわからぬが、この舗装はどこまで続いているのか。気になるなぁ。(追記:友人が同日ブログに舗装路写真を2点追加してくれた。舗装路はロッジ前で終わっていた。飛行場脇まで舗装がつながるのは先のことらしい)

 ロッジ周りの環境変化も26年間で様々なり。小生もロッジもガタが来た。防風林入口に塩工場ができ、木々がなくなってロッジからは海一望へ。ロッジ前防風林も伐採で大別荘が建ち、競売され、今は新所有者が定住されている。オーナー不明?のビニール製ロッジには、様々な方が住み替わった。呑み屋ができた。ハト小屋ができた。道奥にテニス民宿があったが今はなく、人家が増えた。今回の舗装化はこの道も生活道路になった、てぇことだろうか。

keikaihata_1.jpg 友人の写真をコピーしたいが、ここは〝ひとひねり〟。昨日覚えたデジタル「自動ペインティング」で〝印象派風〟にしてみた。このソフトは写真や絵を「細密水彩画、印象派、油彩、イラスト、水彩スケッチ、色鉛筆、鉛筆線画、パステル画」などへ瞬時加工してくれる。

 下の絵は、自分が撮った同道路前「ケイカイ風景」写真を、印象派風にしたもの。こんなことがパソコンで瞬時に出来るとは、昔の印象派画家らは腰を抜かして驚くだろう。

 以上、友人ブログによる吉報で腰を抜かすほどうれしかった御礼と、同道辺り26年間の変化と、腰を抜かすデジタルお絵描き技術でした。

 元写真はリンク「つくって、つかって、つないで」の23日の記事をどうぞ。島へはGW後に滞在予定。腰痛に耐えつつの草刈り重労働が待っている。

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フィニッシュは花弁を撮って名を尋ね [マクロ撮影]

natuzaki1_1.jpg ゼラニウム系に関心なしも、昨年某日、マンション上の階のご夫人が「いつも上から花びらを落としてすみません」と、この花を持参した。花がきれいだったので、ベランダの植え込みに三本を突き刺しておいた。それが根付き、春にグンと伸びて開花。間もなく満開を迎える。

 花と葉の形状からペラルゴニウム(フウロソウ科)、別名ファンシーゼラニウム、和名はナツザキテンジンアオイ(夏咲天竺葵)とわかった。四季咲のゼラニウムに比し、花期は春から夏。花はゼラニウムより大きく豪華。計5弁の2弁に斑あり。葉は縁に細かい切れ込みがあってプラスチックのように硬い。

 ゼラニウム系には無数の品種あり。「雄性先熟」で品種改良が容易なのだろう。「夏咲天竺葵」にも多彩な花弁ありで、それぞれに名が付いているらしい。品種改良種多数とは交配の繰り返し。

 花と人を比すべきではなかろうが、小生の祖父母は埼玉と新潟出身で、養女の母は新潟出身で神奈川県出身の父を婿に迎え、小生は板橋で生まれた。小生の妻の父母は青森と富山出身で、妻は新宿生まれ。小生らの息子は新宿育ちで、徳島のお嬢さんを嫁にもらった。人もそれぞれが太古から果てしない出会いの繰り返しを経て現在に至る。

 これにて「夏咲天竺葵」のマクロ撮影シリーズ終わり。次回は島通いの友人がブログ「つくって、つかって、つないで」で、それは素晴らしいニュースを教えてくれたので、それを記す。


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花芯の秘ひとに叶わぬ自家受粉 [マクロ撮影]

jyufun3_1.jpg この花は「雄性先熟」らしい。まず先にオシベが花粉を出す。その後でメシベが伸びてきて受粉。妙なるタイミングでの「自家受粉」。ネットには「自家受粉」を避けるべくの時間差と記した説明もあった。どちらが正しいのか門外漢ゆえわからない。とにかく虫媒花(ちゅうばいか)でも風媒花(ふうばいか)でもないらしい。

 「雄性先熟」には魚ではクマノミ、植物ではヤツデ、キキョウ、リンドウなど。植物は多彩な繁殖法を有すが、人間の繁殖法は一つゆえに良くも悪くもなる。日本の現出生率は1.46。50年後の人口は8千万人に減少するらしい。

 昔は子沢山家族が多かった。ちなみに現読書中「岸田劉生」の父は、青山外人墓地シリーズのジョセフ・ヒコで登場済。ヒコが横浜で発行「海外新聞」の編集を手伝ったのが劉生の父・岸田吟香で、彼がヘボン博士の和英辞書印刷のために上海へ旅立って、ヒコの「海外新聞」は27号で休刊した。

 岸田吟香はその後「東京日日新聞」記者や諸事業展開。40歳の晩婚で、それから男女各7名14名もの子を設けた。その9番目の子が岸田劉生。劉生の子は「麗子像」で有名。

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