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焼け跡に日野皓正のトランペット [千駄ヶ谷物語]

IMG_0998_1.JPG 日野皓正、昭和17年、高円寺生まれ。昭和20年(1945)に疎開先の盛岡から焼け跡・千駄ヶ谷5丁目の親戚所有地に建てたバラックで戦後生活開始。(山手線と中央線に挟まれた一画か?)

 「焼け跡・千駄ヶ谷には未だ誰も住んでいなくて、富士山がよく見えた」。ワシントンハイツ竣工後で、バラック前に米軍接収の1軒家があった。皓正少年は同家のブッチ少年と交流。日野の父は戦前に日劇のタップダンサーでトランぺッター。ブッチ少年は日野の父からタップダンスを習い、皓正も5歳からタップシューズを履き、父から厳しく仕込まれた。

 鳩森小学校に入学、(その名から「鳩森八幡神社」傍と思われるが、中央線の向こう側、新宿御苑の千駄ヶ谷門前。同小学校の通学圏は東京体育館、鳩森神社を含む千駄ヶ谷1丁目、北参道駅周辺の千駄ヶ谷4丁目も含む)。トランペットの練習は小学3年、9歳頃から。父の古いトランペットで、学校へ行く前の30分、放課後に2時間、そして、父がキャンプやキャバレーの仕事から帰宅後の夜12時頃にまた練習。

 後のジャズベーシスト・中村テルオ少年が、日野少年の〝河原〟での練習音を耳にしていたとか。最初は渋谷川と思っていたは、当時を思えば玉川上水が現・新宿南口の文化学園辺りから千駄ヶ谷へ「原宿村分水」が2本も流れ込んでいたゆえ、その河原と推測した。

 皓正少年は、練習より遊びたい。東郷神社の池で泳いだり、明治神宮の池で鯉を釣ったりの悪戯盛り。中学生になると代々木寄りへ移住だが、弟・元彦と共に馴染の地、外苑中学校(現・明治通り内側に千駄ヶ谷小学校で、山手線側に原宿外苑中学校)へ入学。

 父がタップで、弟がドラムスの「日野ブラザース」でワシントンハイツに出演。皓正少年は〝見世物はイヤだ〟と荷物運び。この頃に「原信夫とシャープス&フラッツ」のトランぺッターがカッコよく、それを見たことで練習に熱が入る。日系2世のディ―プ釜萢の新宿(大久保)の「日本ジャズ学校」(昭和25年設立)や、千駄ヶ谷に出来たジャズ学校へ通い出す。

 昭和28年(1953)、父に連れられて「浅草国際劇場」公演のルイ・アームストロングを観た。前座はフランキー堺のバンドだった。次第に腕を上げてワシントンハイツから成増、立川、朝霞などのキャンプに出演。中学生で早くも新宿のキャバレー「リド」にも出演。佐藤勉に師事・修行。

 日野照正の少年時代を例に挙げたが、戦前からジャズマン、また戦中生まれの多くのミュージシャンたちが、かく米軍キャンプや米国文化に触れつつ、戦後日本のジャズや、ポピュラー音楽のブームを興して行ったことは衆知のこと。またワシントンハイツ在住の日系アメリカ人、ジャニー・ヒロム・キタガワが、同ハイツ内の「ジャニーズ少年野球団」に代々木中学校野球部の飯野修實、真家弘敏、青井輝彦、中谷良三が通って来たことから最初のユニット「ジャニーズ」誕生。アイドルもまた同ハイツから生まれたと言ってもいいでしょう。

 以上、日野皓正については、小川孝夫著『証言で綴る日本のジャズ』、秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』、ネットに多数アップのインタビュー記事からの再構成です。

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ワシントンハイツの影響(40) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0981_1.JPG 「ワシントンハイツ」のアメリカ文化が日本へ与えた影響は大きかった。小生の高校時代の部活ランニングコースに「ワシントンハイツ」フェンス沿いがあったことを思い出す。同ハイツ接収は東京オリンピック前年まで続いた。

 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ~GHQが東京に刻んだ戦後』序章は、著者が西麻布1丁目の木造アパートに住み始めて、突然の爆音に驚いたことから書き出されていた。今も接収が続く米軍ヘリポート(六本木トンネル辺り)の離着爆音だった。

 同書から「 ワシントンハイツ」の概要をまとめる。敷地面積27万7千坪。工事費8億円は全額日本の賠償金。工事従者延べ216万7千人。工事を請け負ったのは鹿島建設、清水建設、戸田建設。

 安普請の低価格住宅は家具付きで827戸。平屋一戸建て、平屋及び二階建ての二戸建て、二階四戸建て。間取りは9種。ガスレンジ、ガス瞬間湯沸かし器、電気冷蔵庫、バス、シャワー、水洗便所、電気暖房装置など。加えて学校、教会、ガスタンク、消防署、クラブ、三つの野球場、テニスコート2面、ヘリポートなど。芝生5万8千坪、立木1万3千本などで整えて昭和22年(1947)9月に竣工。

 「白洋舎」がドライクリーニング、ランドリー工場設立命を受けて大躍進。東京では他に成増飛行場跡に「グランドハイツ(1267戸)」、永田町の閑院宮邸跡に「ジェファーソンハイツ(70戸)」、霞が関に「リンカーンセンター(50戸)」が竣工。娯楽面では日比谷・宝塚劇場が「アーニ―パイツ」劇場へ。同劇場についてはカテゴリー「ミカドの肖像」で詳細報告済。

 これら米軍接収施設の米国文化が日本に及ぼした影響は多大。米軍キャンプ巡りのミュージシャンらが日本にジャズ旋風を、また歌謡曲、ポップスを盛り上げた。ハイツからアイドル・ジャニーズも生まれた。ハイツ将校夫人らのアメリカン・ファンションが、焼け跡の青山・原宿をファッション拠点化した。「青山・紀ノ国屋」が米国式スーパー・マーケット第1号。米兵らによる性風俗も様々に影響した。

 一方、日本の極貧環境による疫病防止にGHQによるDDT散布。大量飢餓防止に諸国から集められた対日援助物資(ララ物資)が支給され、日系人からの救済400億円援助。欧州の困窮者支援団体から180億円などが続々寄せられた。昭和21年、都内89校を手始めに脱脂粉乳はじめの学校給食が開始。小生も脱脂粉乳の味を覚えている。

 次に米軍接収施設が日本に及ぼした音楽、ファッション、性のそれぞれについて調べ記してみたい。

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天皇の戦争責任(39) [千駄ヶ谷物語]

syowatenno_1.jpg 『東京プリズン』の米国ハイスクール留学のマリちゃんのために、小生も「天皇陛下の戦争責任」について少しお勉強。まず『「東京裁判」を読む』から~

 半藤「ポツダム宣言は軍隊の無条件降伏で〝国体護持の保証を条件に日本国は降伏する〟と言っている」。保坂「つまり〝天皇を裁かない〟が条件」。半藤「だが国民は余りに愚か・残酷な戦争ゆえ〝何もかも糞くらえ〟の気分」。保坂「国体護持には三つの考えがあった。(1)旧憲法のままの形で継承。(2)旧憲法から離れるも天皇が主権者・元首は変わらない。(3)天皇の名前と存在が認められればそれでいい。

 半藤「天皇はマッカーサーと10回も会談。まさに〝たった一人の反乱〟で(3)まで頑張った」。保坂「裁判所条例を出したのが昭和21年1月19日。天皇を訴追しないと決めていた」。半藤「ゆえに御前会議にはふれていない。共同諜儀になりますから」。保坂「天皇を訴追したら米国は百万の軍隊が必要になるという認識もあった」。同書余白に小生のメモ。~米国は防共の為に天皇制を利用し存続させた。また同書には真珠湾攻撃は奇襲ではなく、半藤「ルーズベルトもハルもマーシャルも事前に知っていたから、奇襲と云えば米国が墓穴を掘るゆえ有罪認定から外れていた」

 次に古川隆久著『昭和天皇』(写真)を読む。第五章「戦後」。「木戸日記」に概ねこんな記述があると紹介。。天皇「戦争責任者を連合国に引き渡すのは忍び難い。自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」。天皇は責任を感じていたが、木戸が「退位が皇室廃止に結びつく可能性」を指摘し、退位に至らなかったと。

 9月25日のNYタイムズの天皇インタビューで「裕仁、記者会見で東条に奇襲の責任を転嫁」の見出しで掲載。だが天皇発言とされる東条批判部分は、勅書の利用のされ方についてで、開戦判断の責任についての言及ではなかったと説明。

 天皇・マッカーサー会見10回の内容は、一部公開のみだが、その内容は「宣戦布告前に攻撃する意図はなかったが、そうなったことを含め、日本の行動に対し自分に最終的な責任があると明言していた」らしい。マッカーサーは「陛下が平和の方向に持って行くため御軫念(しんねん=天子が心を痛めること)あらせられた御胸中は、自分の充分諒察申上ぐる所」と同情。元帥側近のフェラーズ准将は「天皇の君主としての責任は明らかだが、天皇の〝聖断〟で米国被害を減らすことができた」。そして「天皇を訴追したら、さらに百万の軍隊が必要になる」。

 以後は、各自のお勉強にお任せ。なお同著には、昭和天皇批判論は井上清著『天皇の戦争責任』、擁護論は栗原健著『天皇』が定評高いと紹介。マリちゃんに教えてあげよう。それにしても千駄ヶ谷は、かくも様々な問題を考えさせます。次回から「ワシントンハイツ」の影響について。

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東京裁判と「原田日記」(38) [千駄ヶ谷物語]

saiban2.jpg_1.jpg 徳川宗家が慶喜から家達に代わって、家達邸がGHQ接収で将校クラブ「マッジ・ホール」へ。小説『東京プリズン』では主人公・母が同所出入りで「東京裁判」資料下訳をし、娘は米国高校で「天皇の戦争犯罪」肯定のディベートに臨む。そして戦前の千駄ヶ谷のお屋敷住人らに「東京裁判」関係者が多いと知って千駄ヶ谷物語〟は「東京裁判」お勉強が強いられている。

 前回の続きです。第3章:弁護側立証を読む ~の鼎談で井上亮「弁護側が出した文章は公文館所蔵約2130件、頁数約15000。だが焼却を免れた資料ゆえ証拠能力に乏しかった」。清瀬副団長の冒頭陳述について保坂「彼の能力では無理だった。〝共同諜議〟の概念が分かっていなかったのではないか」。半藤「御前会議が共同諜儀にあたると思い当たっていたのではないか。それより欧米列強に圧迫、屈辱を受けてきたアジア諸国の歴史を代表して語れば良かったんだ」。さらに「そもそも国民や民間は、軍部が何を考えていたかなんて知らなかったし、軍事的知識もなかった」と弁護力不足を指摘していた。

 そして三人の同意見「ポツダム宣言受諾時の首相・鈴木貫太郎が『終戦の表情』で、天皇の意思に反して陸軍が誤った侵略戦争をしたと記しているのだから、彼に発言させたかった」。また三者は繰り返して「勝者の無制限潜水艦戦、無差別大空襲、原爆投下などを列挙すれば〝日本人は残虐〟だなんてレッテル付けも出来なかったはず」と悔しがる。

 以降は、第4章:個人弁護と最終論告・弁護を読む 第5章:判決を読む 第6章:裁判文書余禄~と続くが、〝千駄ヶ谷〟からどんどん離れるので、この辺で止める。最後に鳩森八幡神社の隣で在住だったジャズ評論家・久保田二郎著が「僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊雄男爵家」とあったので「原田日記」について記す。

 「東京裁判」の個人弁護段階で、検察側の反証材料で突然に「原田日記」が登場する。185件提出で140件も採用。同日記は最後の元老・西園寺公望のために私設秘書・原田熊雄が動き回って情報収集した「西園寺公と政局」と題された記録。原田が近衛秀麿夫人(泰子)を筆記役に口述。原田没後に里見弴(原田の親戚)が原稿整理。加筆もあろうし不正確情報もあったらしいが、400字×7千枚の膨大日記。

 原田は皇室や宮廷官僚とはいい関係も、政治家や軍人関係の話は〝また聞き〟が多かった。軍部は同日記を危険視。東条英機も原田を毛嫌いしていたとか。裁判では『原田日記』と『木戸日記』では違った記述があって、両日記比較による反証が多かったらしい。

 なお『西園寺公と政局』は全8巻・別巻1セットで岩波書店刊。『木戸幸一日記』は上下巻で東京大学出版会刊。両日記を較べ読むのがいいそうだが、小生にはそこまで読む気力がない。最後に米国高校で「天皇の戦争犯罪」ディベートに立つマリちゃんのために、その辺も少し勉強してみたい。写真は東京裁判被告写真(国会図書館デジタルより)

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『「東京裁判」を読む』(37) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0991_1.JPG 『「東京裁判」を読む』は第1章:基本文書を読む 第2章:検察側立証を読む 第3章:弁護側立証を読む 第4章:個人弁護と最終論告・弁護を読む 第5章:判決を読む 第6章:裁判文書余禄。そして各章毎に半藤一利・保坂正康・井上亮の鼎談で構成。

 三者は冒頭で「裁判記録が60年余(2008年)後に公開されて、今は従来の〝東京裁判史観〟軸の政治的解釈ではなく、歴史的に捉えるべき(史実検証)時と確認し合う。かつ東京裁判は〝勝者の裁き〟で、勝者も無制限潜水艦戦、無差別大空襲、原爆投下、さらにはベトナム戦争など〝戦争犯罪〟を裁ける立場ではなく、東京裁判を受けた日本人こそが裁判批判可能と語る。

 それにしても「裁判記録を読むほどに、日本人は無知過ぎた」と三者は嘆く。無理もない。国民も一般兵も耳にするのは〝大本営発表〟のみ。さらに終戦同時に軍部(マスコミも)は戦争資料を徹底的に焼却し尽くした。ドイツ文書は保存されているも、日本人は歴史に対する責任皆無。これでは弁護ができるはずもない。法務省地下倉庫に30年余も眠ったままで、国立公文書館へ移って公開された資料は、焼却を免れたものばかり。いきおい『高松宮日記』『原田日記』『木戸日記』などがクローズアップ。公文書破毀、隠蔽、改ざん~ 現在の日本行政も余り変わっていない。

 第1章:基本文書を読む ~の鼎談では「東京裁判」はポツダム宣言(軍隊降伏で、国家は無条件降伏ではない)を根拠で行われたマッカーサー裁判。同元帥は天皇を訴追しない、東條と数人を裁いて終わりの予定だったが、ニュルンバルク(ドイツ)裁判の「平和に対する罪」「人道に対する罪」を採用したことで訴追対象が拡大したと指摘。

 第2章:検察側立証を読む ~の鼎談ではA級(級=カテゴリー)で百人余も逮捕するも、冷戦開始で裁判どころではなくなってA類戦犯28名に止まった。メインの南京事件も資料なしで証言だけ。20~30万人説もあるが半藤は3万人で、秦郁彦調べでは4万人とか。先日(5月13日)、BS日テレNNNドキュメント’18で「南京事件Ⅱ」の再放送を見たが、兵士インタビューや焼け残った資料からの再現映像があって、観ていて鳥肌が立った。

 半藤「日本は中国と何のために戦争をしているのか分からなくなって政府発表した。それが<日中戦争の理想は我国肇国に精神たる八紘一宇の皇道を四海に宣布する一過程として、まず東亜に日・満・支を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり>。何年か前に、若い女性タレント議員が国会で「八紘一宇は大切な価値観」と言ったニュース映像が流れ、腰を抜かしたことがあった。

 またこんな記述もあった。保坂「東条は国際法を知らない。無茶苦茶です」。半藤「当時の日本の指導者には国際法の知識がなかったんですよ。みんな〝夜党自大〟であった」。保坂「東京裁判の怖いところは、被告たちの証言で彼らの無知、愚かさが浮かび上がってくるところです」。おぉ、怖い怖い。今も為政者のレベルは同じような気がしてなりません。(続く)

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千駄ヶ谷と東京裁判(36) [千駄ヶ谷物語]

saiban1.jpg_1.jpg 赤坂真理『東京プリズン』は、母が「マッジ・ホール」出入りで「東京裁判」資料下訳をし、米国ハイスクール留学のマリは「東京裁判」見立てのディベートに立つ。

 実は小生の息子も米国ハイスクール卒。真珠湾攻撃の日にいじめられるのではないかと心配したもの。

 千駄ヶ谷の戦前のお屋敷住人を調べれば、「東京裁判」関係者が多いのに気付く。徳川邸前に住む幣原喜重郎は「原爆なる武器出現の世に戦争など真っ平御免」と「平和憲法」へ。鳩森八幡神社の南側在住だった松岡洋右は国際連合脱退、日独伊三国同盟締結時の大臣で「東京裁判」出廷後に病死。その南側に住んだ林銑十郎は、陸軍大臣・内閣総理大臣で昭和18年2月死去。もう少し長く生きていたら「東京裁判」主役の一人だったかも。

 同神社隣の久保田二郎が「僕の家の横手が〝原田日記〟の原田熊雄男爵家」と記す、その「原田日記」(「西園寺公と政局」)は、検察側の反証材料に140件も採用。獅子文六の三番目の妻は、原田熊雄の妻と姉妹。文六家の南は「東京裁判」日本側弁護団長の鵜沢聡明。團琢磨邸跡の一画に住んだのは重光葵(「巣鴨日記」)。原宿竹下口の奥には東條英機に次ぐ主役・広田弘毅(主に盧溝橋事件と南京事件で訴追)も住んでいた。

 どうやら千駄ヶ谷は「東京裁判」抜きでは語れそうもない。小説『東京プリズン』にはA級B級C級の記述が幾度も登場するが曖昧のまま。まずはそこからお勉強です。教科書は思想的偏りのない著作が肝心。半藤一利・保坂正康・井上亮の『「東京裁判」を読む』(平成21年、日経ビジネス人文庫)を選んだ。

 A級「平和に対する罪」、B級は「通常の戦争犯罪」、C級は「人道に対する罪」。BとCの区別が曖昧ゆえ「BC級戦犯」と一括で呼ばれもした。「BC級戦犯」は世界49ヶ国で起訴件数2244件、被告者約5700人。各国の軍事法廷で約1千人が死刑判決。赤坂真理の母は「BC級裁判」資料の下訳だったのかしら。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)は昭和21年(1946)5月3日~昭和23年11月(2年半)に市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で行われた。日中・太平洋戦争時の政府・軍指導者を新たな概念のA級「平和に対する罪」で裁き、7名が絞首刑、16名が終身禁固刑、2名が禁固刑。

 これら裁判資料は朝日新聞の裁判取材で収集したものの他に、昭和31年(1959)の「戦争裁判関係資料収集計画大網」省議決定で本格収集。国内外で行われたA級・BC級約2千数百件、5千数百人に関する膨大文書を収集。後者資料は平成11年(1999)まで法務局倉庫に30年余も眠ってい、法務局から国立公文館に移管されてマイクロフィルム化、平成19年(2007)4月に初公開。「A級裁判記録」約6千件、文書枚数は約5万8千枚。300頁書籍換算で200冊相当。翌年に〝コマ番号化〟されて検索し易くなった。

 膨大さゆえ読み込むのは至難。前述の3名が1年間読み込んだ分をまとまたのが『「東京裁判」を読む』。前段が長くなったので本題は次回へ。(写真は国会図書館デジタルコレクションより)。

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マッジ・ホールと津田塾(35) [千駄ヶ谷物語]

tudajyuku_1.jpg 赤坂真理は千駄ヶ谷をこう記していた。「千駄ヶ谷は昔を歩いているような気分になる町だ。都心に近い山の手なのに、エアポケットのように昔の風情が残っている」。獅子文六も同じような文章を残している。

 『東京プリズン』の主人公マリは、母が千駄ヶ谷へ通ったワケを電話で問う。以下、会話文を要約する。母「津田で速記を習っていて、近くにマッジ・ホールというのがあったのよ。たぶん進駐軍の施設で」「どういうスペル?」「MUDGE」「ワシントンハイツみたいなところ?」「あぁいうのじゃないの。住居ではなく将校が集まるようなところ。たぶん、もとは個人の邸宅」「どんなどころ?」「洋館なの。入ると絨毯が敷いてあって~。そこは今、東京体育館があって、昔はその通り沿いに、出入りの商屋みたいのが並んでいた。あと鳶とかの職人、井戸掘り屋とかがあって。そこは高台だから、自然に坂になってるでしょ。下がると川があって観音橋があった。川のそばには貧しい集落もあった」

 マリの母は日本女子大英文科で、千駄ヶ谷の津田で速記を習った。その縁から「マッジ・ホール」に出入りして「東京裁判」の下訳をするように至る。千駄ヶ谷駅前の津田塾概要も知っておこう。

 Webサイト「津田塾大学」を見る。明治33年(1900)、津田梅子が私塾「女子英学塾」を生徒10名で麹町1番地に開校。明治36年、元園町を経て5番町へ移転。昭和6年(1931)に小平市に新校舎。昭和23年(1948)、津田塾大設立。千駄ヶ谷が出て来ないので、次に「津田塾大学同窓会」のサイトを見る。

 昭和21年(1946)「津田英語会」規模拡大のため、千駄ヶ谷の鷹司侯爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成。昭和23年「津田スクール・オヴ・ビジネス」各種学校認可。昭和24年、津田英語会拡大のために千駄ヶ谷の土地1613坪を購入。昭和26年、津田英語会鉄筋コンクリート校舎落成。昭和63年(1988)(財)津田塾会「津田ホール」建設。

 鷹司公爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成の〝裏〟を読む。確か徳川家達の実母は津田栄七の娘。つまり家達と津田梅子は従兄妹。そして鷹司信輔の妻・綏子は、徳川家達の次女ではなかったか。この地は元・徳川家達敷地ゆえ、綏子から鷹司家へ渡ったものと推測してみたが、いかがだろうか。

 さて、クラシックの殿堂と称された「津田ホール」(写真)は今はない。小生の千駄ヶ谷散歩が最後の姿で、現在は工事癖に囲まれて解体~津田塾大の千駄ヶ谷キャンパスの教学施設になるらしい。ちなみに同ホールは槙文彦設計で、槙は数年後に現・東京体育館を設計。

 千駄ヶ谷は江戸の寺院を残しつつ明治維新、明治神宮出現、戦前から戦後へと様々に変貌を遂げ、今また国立競技場、津田ホールが姿を変えつつある。渋谷川は暗渠になったが、町の様相は〝ゆく河の流れは絶えずして~〟でもあり。また「津田女子英語塾」卒業生には、大杉栄を葉山で刺した神近市子もいた。家達との確執から民俗学確立の柳田国男の指導を得た山川菊栄もいた。『東京プリズン』の母子に限らず、同塾に通った多数女性のそれぞれに〝千駄ヶ谷物語〟がありそうです。

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赤坂真理『東京プリズン』(34) [千駄ヶ谷物語]

akamari1_1.jpg 保科順子著『花葵~徳川邸おもいで話』に、GHQ接収で「マッジ・ホール」と名を変えた徳川邸を訪ねる記述があった。そこの将校らが何をしていたかは書かれていないも、将校クラブと聞けば〝松本清張的勘〟でクンクンと探りたくなる。クン!と反応したのが赤坂真理の小説『東京プリズン』(2012年刊、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学書)だった。

 『東京プリズン』は、16歳少女が米国ハイスクール留学の進級に「東京裁判」見立てで「昭和天皇は戦争犯罪人である」を肯定するディベートに立つことになり、それを自身の母子の女系物語に絡めた内容。同小説を書くに至った理由を「そもそも私の家には、何か隠された秘密があった」で、母には英文科時代に津田塾を出た人から東京裁判資料の下訳を誘われて千駄ヶ谷の「マッジ・ホール」に出入りしていたキャリアが明らかになる。

 ネット掲載の著者インタビューで「それは事実で、父もGHQ通訳していた」と語っていた。著者は小説のなかで千駄ヶ谷をこう記す。「マッジ・ホールはGHQ接収前は徳川宗家になった徳川家達邸で、大河ドラマの天璋院篤姫が晩年を過ごした場所。つまりは、私たちは何代か遡ればすぐ江戸時代に到達してしまうのに、江戸時代をまったく断絶した共感不能なものとして感じている。マッジ・ホールは江戸と明治の断絶の象徴のようにそこにあったのだが、そこを通った昭和の人間は、すでにそれに思いを馳せることはできなかった。私たちは明治維新と第二次世界大戦後という大断絶を二度経験していて、それ以前と以後をつなぐことがむずかしくなっている」

akasakasinsyo_1.jpg そう、千駄ヶ谷の最も大きな魅力は、それら時代断絶の溝が幾つも秘められているところだろう。江戸時代の長閑な郊外情景と明治維新・大日本帝国の溝。寺社だけでも神仏習合、別当寺、神仏分離、廃仏稀釈などの溝。明治天皇を祀った明治神宮内苑と外苑の狭間の千駄ヶ谷。学徒出陣の舞台「明治神宮外苑競技場」と戦後の2度のオリンピック。軍部愚挙に耐え忍んだ日々とGHQ接収によるアメリカ文化の影響。戦前の高級住宅地と戦後の連れ込み旅館街のギャップ。そうした時代の断絶、溝の宝庫が千駄ヶ谷なんですね。

 そんな千駄ヶ谷に触れると、日本とは?を改めて考えたくなって来る。著者も同小説刊の2年後に、日本の諸状況に次々とクエスチョンを投げかけて日本再構築を試みる『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)を著わしている。著者がそこから何を掴んだかは定かじゃないが、著者の今後の問題だろう。

 小生は、そうした断絶と激変の度に、日本人は何かを得て、大事な何かを失って来たような気がしないでもなく「千駄ヶ谷散歩」はウォーキングの域を超えて頭クラクラになる。軽い気持ちで始めた「千駄ヶ谷物語」。鴨長明『方丈記』全文くずし字筆写と同時進行だったが、『方丈記』が終わっても『千駄ヶ谷物語』は終わる気配が未だなし。困惑しつつの続行です。

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戦前・終戦時の記録・思い出(33) [千駄ヶ谷物語]

sibuyatosyo_1.jpg 読みたい本があって、渋谷区中央図書館へ行った。同地は元池田侯爵邸跡。池田侯爵を調べれば、鳥取藩主14代の池田仲博。なんと!徳川慶喜の5男じゃないですか。池田侯爵の嗣子没で、彼は同家次女・亨子に婿養子。池田侯爵家を相続・襲爵。かつて「徳川慶喜は自転車好きだった」で登場の、父と共にポタリングの〝彼〟だった。

 同邸の庭設計は著名な長岡安平で、鴨池のある典型的な貴族庭園だったらしい。池田家が同邸処分後の昭和12年に「海軍館」(海軍資料展示。現在は原宿警察署)が、昭和15年に「東郷神社」(日清・日露戦争の英雄・東郷平八郎を祀る)が建った。図書館はその一画に在り。

 お目当ての書を借りて閲覧予定だったが「貸出致しましょうか」に誘われ、渋谷区立図書館利用者カードを作ってしまった。ならばと地域資料コーナーで以下3冊を借りた。各書の概要を記す。

 『千駄ヶ谷昔話』(渋谷区教育委員会)は大正末期~昭和初期の千駄ヶ谷1、2、3丁目通り、千駄ヶ谷大通り、観音坂通り、北参道、鳩森小学校界隈、代々木駅前など全15地区の当時の詳細地図(店舗名入り)と説明で構成。

 雨宮央樹著『原宿わんぱく物語』:空襲で焼け野原になった原宿・神宮小学校(表参道の青山同潤会アパート裏)の青空教室で授業再開の少年が主人公の小説7話。米兵が子供らの頭からDDTを吹き掛けるのに抗議した新任女性教師。それに応えて石鹸をくれた日系二世兵との交流。彼は肺炎で入院中の級友母の為にペニシリンも調達。

 秘密トンネルから明治神宮へ忍び込んで池の鯉を捕った話。隠田川の清流、代々木練兵場から巻き上がる赤土を含んだ「練兵場颪(おろし)」。GHQ指令で各学校設置の奉安殿(御真影と教育勅語を納めた)の取り壊し作業。ラジオにかじり付いて聴いた放送劇「鐘の鳴る丘」や全米水上選手権の古橋選手らの活躍実況。爆弾でさらに深くなった東郷神社の爆弾池に潜り赤フンが絡まっての瀕死体験。絵画館前池での水遊び、同潤会アパート在住だった大投手スタルヒン家の少年との交流~。

 家城定子著『原宿の思い出』:海軍館の明治通り反対側の「吉川酒屋(空樽問屋)」で少女時代を過ごした方の思い出。隣が團琢磨家。当主は岩倉具視の遣米欧使節団で米国で鉱山学を学んで三井財閥総帥へ。昭和7年に血盟団員に暗殺された音楽家・團伊玖磨の祖父。明治通り反対側の実業家・池田亀三郎邸の思い出。池田侯爵邸跡に海軍館や東郷神社が建つ経緯。そして実家の空樽倉庫は「民芸」稽古場へ。原宿3丁目町会や明治神宮の見世物小屋のこと。

 さらには原宿・宮廷駅の北側一帯、数万坪を有した徳大寺侯爵邸跡地(千駄ヶ谷3丁目)に政治家・永井柳太郎、経団連会長・植村甲午郎、龍角散の藤井家、江利チエミ(チエミ御殿・洋館。林真理子のモデル小説「テネシーワルツ」に注目)、片岡仁左衛門などが続々移転してきた話。片岡仁左衛門65歳、妻26歳、女中12歳と65歳は、昭和21年3月に12歳女中の兄(22歳、座付き見習い作家として住み込み)の食糧難の恨みで斧で全員殺害された。

 徳大寺侯爵は明治店天皇の侍従長・徳大寺実則。父は徳大寺公純で公家・鷹司政通の子。実則の弟が侯爵・西園寺公望。西園寺の私設秘書・原田熊雄(鳩森八幡神社近くに在住)の「原田日記」は「東京裁判」で140記述の採用。千駄ヶ谷や原宿の高級住宅地に住む貴族・軍人らの名を知れば、千駄ヶ谷物語は「東京裁判」へと誘われます。

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千駄ヶ谷周辺のGHQ接収(32) [千駄ヶ谷物語]

palace_1.jpg 終戦翌月の昭和20年(1945)9月18日、明治神宮外苑はGHQ接収で「メイジパーク」となって米将兵運動場になった。野球場が「ステートサイド・パーク」で内野に芝生が張られた。競技場が「ナイル・キニック・スタジアム」(ナイル・キニックはアメリカン・フットボールの名選手名)。共に照明塔新設でナイトゲーム可能に。神宮プールは「白人専用プール」、相撲場が「メイジボール」でボクシング場。中央広場にはテニスコート、ソフトボール場などで「神宮レクリエーション・フィールド」、日本青年館は「メイジ・ホテル」。そして徳川宗家邸が将校クラブ「マッジ・ホール」へ。他には現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)も接収。将校家族用に現・明治通り沿いのBSテレビ朝日の地に建っていた和洋折衷の池田侯爵(鳥取藩主)邸の一部、その向かいの團琢磨邸跡のドイツ大使・武者小路金共(実篤の兄)の洋館も接収。

 「ステートサイド・パーク」は米軍優先ながら、戦後初の6大学野球OB戦、早慶戦、大相撲夏場所(国技館接収のため)、プロ野球初の日本選手権試合なども行われた。また「ナイル・キニック・スタジアム」では早慶サッカー定期戦をはじめ陸上競技も行われた。「プール」ではトビウオ・古橋広之進選手が活躍。そして昭和27年(1952)に接収解除。

 「代々木練兵場(代々木の原)」(92.4万平米)は合衆国空軍兵と家族のための団地「ワシントンハイツ」へ。兵舎と家族住居827戸に学校、教会、商店、将校クラブなど。昭和27年(1952)のサンフランシスコ条約で日本占領終了も、今度は安保条約で〝在日米軍〟となって引き続き駐留。全面返還されたのが昭和36年(1961)11月で、その後の東京オリンピック選手村・競技場用地になった。

 千駄ヶ谷の西側が「ワシントンハイツ」ならば、東側の現・国立劇場や最高裁判所辺りの2万坪が「パレスハイツ」(写真。国会図書館デジタルのモージャー氏撮影より)もあった。同ハイツ返還は昭和33年(1900)11月。そして青山霊園東側、現・国立美術館の地にあった旧陸軍第一歩兵師団第三連隊(麻布三連隊。2.26事件で多くの反乱将校が所属)、第一連隊(現・東京ミッドタウン)も接収。現在のその一部「赤坂プレスセンター」の名で「星条旗新聞社」、ヘリポート、米陸軍宿舎「ハーディー・バラックス」は接収されたまま。

 GHQはかく千駄ヶ谷周辺の多数施設接収だが、同時に「神道指令」(国家神道の廃止、政教分離)。国立競技場を除く「明治神宮内苑・外苑」が国から離れて「宗教法人・明治神宮」へ。さらに現在は、外苑北側・信濃町は「創価学会の街」と化していて、北参道際には「神社本庁」(日本会議の主団体)があり、代々木に共産党の本拠地。

 いかなる宗教団体、政治団体にも属さぬ小生は、この辺を散策する度に胸底に戸惑いを覚えざるをえない。それら真ん中に位置する千駄ヶ谷は、なんともスリリングな町とも云えます。次は赤坂真理小説『東京プリズン』を読む。

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東京大空襲から接収へ(31) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0990_1_1.JPG 久保田二郎、獅子文六が記す千駄ヶ谷も、戦争末期に大空襲に遭う。『東京大空襲~未公開写真は語る』を見ると、昭和19年(1944)11月27日空襲の原宿付近の被災写真が冒頭18頁に渡って掲載。婦人らのバケツリレー(消火作業)の原宿竹下口付近、現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)破壊写真、瓦礫の中で拝礼する東郷神社神官の姿など。

 昭和20年2月19日には、代々木練兵場の高射砲によってB29が千駄ヶ谷5丁目に墜落の記録がネットにあった。そして3月10日の「下町大空襲」で死者8万余人。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』第1章が「青山表参道の地獄絵図」。4月13日の「山の手空襲」を記している。渋谷~宮益坂~青山通りは一面焼け野原。「青山墓地に逃げろ」の合言葉も、逃げ切れぬ人々が表参道口の安田銀行(現みずほ銀行)前へ殺到。夜間で鉄扉閉鎖ゆえ焼死体が2階の窓まで重なったとか。著者の被災者取材で「参道はエントツみたいになって熱風が吹き抜けた」「青山通りと表参道の十字路が熱風のつむじ風、竜巻になった」。またネットには表参道口の石灯籠の銀行側は、今も黒ずんでいるとあった。

 3月15日に世田谷、目黒の死者850人。24日に品川、目黒、蒲田の死者559人。そして25日、未だ住宅が残る渋谷、青山、足立、荒川、王子、品川、大森、杉並、世田谷へ約470機のB29無差別爆撃。死者2258人。負傷者約8500人。都内全焼家屋165000戸。

 ここで永井荷風の罹災体験を日記から読み直してみる。3月9日:天候快晴。夜半空襲あり。翌暁4時わが「偏奇館」(麻布市兵衛町の26年間住み慣れた家)焼亡す。10日:代々木の杵屋宅へ行こうと地下鉄・青山一丁目より渋谷駅へ。駅は大混雑ゆえバスで代々木へ。昨夜を振り返って「猛火は殆東京市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、吉原遊郭焼亡。明治座に避難せしもの悉く焼死す」

 4月3日:夜半空襲。淀橋大久保辺火起る。4月13日:夜十時過空襲あり。明治神宮社殿炎上中。新宿大久保角筈の辺一帯火焔。角筈東大久保より戸山が原のあたり一帯に灰となりしが如く。5月25日、風爽やか。夜空襲。焼かれたる戸塚大久保新宿の町々を歩み代々木へ。ここも焼野。

 6月2日:東京脱出。「軍部の横暴なる今更憤慨するの愚の至りなれば(略)われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」。この記述〝荷風らしさ〟として注目です。原爆投下から終戦へ。

 終戦と同時、昭和20年9月8日にGHQが各施設接収。代々木練兵場へ3000名の米兵が一夜にキャンプシティー設置。将校向け接収住宅は港区137戸、渋谷区125戸。次に千駄ヶ谷周辺の接収諸施設を記し、焼け跡にアメリカ文化がいかに浸透したかを振り返ってみる。

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獅子文六『娘と私』(30) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0976_1.JPG 久保田二郎の次に獅子文六『娘と私』を読む。獅子文六は明治26年(1893)、横浜生まれ。大正11年(1922)に渡仏。フランス人・マリーと結婚。大正14年に帰国し、同年に長女巴絵(文中・麻理)誕生。昭和5年(1930)に妻マリーが病気になって母国に連れ戻して看病後に帰国。

 『娘と私』は、娘を男親一人で育てる悪戦苦闘から始まる。やがてフランスからマリー病死の報。娘の健康も芳しくない。そうした状況で幾度かの見合い。昭和9年(1934)に富永静子(文中・福永千鶴子)と結婚。新居を千駄ヶ谷に構えた。麻里と久保田二郎は1歳違い。久保田が軍隊コスプレで代々木練兵場を我が物顔で闊歩していて頃に、二人は会っていたかも~。

 その家は、鳩森八幡神社から坂を下った辺り。新妻の郷里女学校時代の同級生の夫が家扶をしている家族一族の持ち家だった。1年間も借り手なく、家賃40円をまけてくれた。場所は八幡社から南へ松岡洋右邸、林銑十郎邸と続いての南側。明大総長で「東京裁判」の弁護団長、「大逆事件」弁護の鵜沢聡明邸の北側。当時の地図を見ると獅子文六宅傍に川が流れ、さらに西側の千駄ヶ谷小の裏にも川が流れている。この2本の川は「原宿村分水」。少学校裏の川幅は5m。大雨で洪水もした。東側の獅子文六宅傍の川幅は3m。両川は神宮前3-28辺りで渋谷川に合流する。

 千駄ヶ谷をこう記していた。「徳川、松平などの大華族が住んでいるかと思うと、青山近くには貧民街があり~(中略)~山の手と下町風の混流がある。祭礼や盆には子供たちが騒ぎ回るのも下町風で~(略)駄菓子屋の問屋があるのも場末の千駄ヶ谷らしく面白い」

 そんな環境で、病弱の麻里も近所の子らと遊び回って元気溌剌。文六も千駄ヶ谷が気に入った。執筆仕事に疲れれば、パリのブーローニュ公園に似た外苑散歩が愉しい。

 「家主の子爵邸を除けば中流以下の小住宅が多い。昔、村落だった名残の近所の榎稲荷。わが家の裏手は広々とした田畑が広がる田舎風で、穀物でも干してないのが不思議なくらい。(中略)妻が鶏を飼って一層、田舎染みさせた」

 久保田二郎著が記す〝高級住宅地〟の実際は、徳川宗家邸周辺のことで、そこから少し離れれば、文六記述が実情、実景だろう。物事は幾作も眼を通さぬと真実に迫れない。そのうちに「地下鉄も開通して、青山まで歩けばその利用もできた」。驚き調べれば、浅草~新橋間開通が昭和9年、新橋~渋谷開通が昭和14年だった。

 昭和11年、麻里が雪の中をランドセルを背負って学校へ(多分、九段の白百合女学校)。ほどなくして戻ってきたので「どうした」と訊けば「悪い兵隊さんがいるので学校がお休み」、二・二九事件だった。

 貧乏文士・獅子文六だったが、次第に執筆仕事が増えて余裕が生まれた。西隣の間数の多い家に移る。そこは家主が自分用に建てた古風家屋。一家の生活も日本風スタイルへ。夕刊紙の連載小説『悦っちゃん』が決まって人気作家へ。麻里も16歳。

 家運は上昇も、時代は厳しくなった。支那事変で青山連隊の入営者激増。そして太平洋戦争へ。隣組、防空演習も活発化。神信心ない文六も、鳩森八幡神社で祈願する。「ぜひ日本を勝たして下さい」。文六50歳。娘18歳。そして姉の死。一家は亡姉が残した中野玄町へ移転すべく千駄ヶ谷を去った。

 なお文六57歳の時(昭和25年)、妻・静子が44歳で病死。翌年に三人目の妻に18歳年下で子爵・吉川重吉の娘・幸子を迎えた。幸子の姉(妹ではなく、たぶん姉)は「原田日記」の原田熊雄の妻。次回は千駄ヶ谷周辺を襲った東京大空襲について。

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戦前は高級住宅地:久保田二郎編(29) [千駄ヶ谷物語]

kubotajiro_1.jpg 千駄ヶ谷は、小生が学生の頃は〝連れ込み旅館街〟だったが、戦前までは〝高級住宅地〟だったらしい。その頃の千駄ヶ谷を描いた久保田二郎著『極楽島ただいま満員』と獅子文六著『娘と私』を読んでみる。

 まず久保田二郎著の同書は新宿図書館になく、都中央図書館は「多摩・都立収蔵庫」に1冊のみ。ここは頭の使い様、各区図書館の蔵書検索をすれば、文京区「水道端図書館」にあった。自転車で江戸川橋から石切橋へ。小日向の巻石通りを夏目漱石家の菩提寺・本法寺の前。静かで広い閲覧室で頁をひもといた。

 久保田二郎は大正15年(1926)生まれ。ドラムスで「レッド・ハット・ボーイズ」「グラマシー・シックス」参加後にジャズ評論家。「スイングジャーナル」編集長時代に、植草甚一を発掘。確かMJQを紹介した人じゃなかったか。小生最初の購入レコードが「MJQ/JANGO」だった。

 同書最初の章は「史上最大の兵隊ごっこ」で、当時の千駄ヶ谷を詳しく紹介。こう始まる。「僕の本籍地は東京都渋谷区千駄ヶ谷三丁目五二七番地だ」。少年時代ということは、昭和10年代初頭だろう。当時の地図を見れば、鳩森八幡神社に隣接の南西部一画(「徳川家達邸の変遷(15)」にアップの地図で同番地が確認出来る。久保田金四郎宅。『千駄ヶ谷昔話』には代議士で、白壁をめぐらせた大きな屋敷とあった) 

 「昭和20年5月の空襲で焼けたが、その家は五稜郭の戦いで有名は榎本武揚の屋敷だった」で、ちょっと驚いた。榎本武揚は五稜郭の戦い後に明治政府に仕えて逓信、外務、文部、農商務大臣を歴任する子爵になっている。大臣時代の屋敷だろう。

 「部屋数30ほど、かくれんぼをすれば女中五人、書生、運転手など総勢8、9名で家中を探しても見つからぬ広さ」で、久保田家も相当に裕福。それでいて大逆事件の幸徳秋水の弟子だったとも記していた。

 続いて周辺の屋敷群を紹介。省略引用すると~「千駄ヶ谷駅は今でも同じ。左に東京都体育館で、ここは徳川宗家・家達公爵邸。道路を隔てた前が幣原喜重郎男爵邸(戦争放棄の第九条を決めた。似顔絵付き記事をリンクしておきます)」。さらに屋敷紹介が続く。

 「その裏手、今の津田スクール・オブ・ヴジネス辺りが鷹司公爵家。僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊男男爵家、その先が現皇后陛下の親戚、二荒伯爵家、僕んちの裏手が京都の公家・若王子子爵家、その先が松岡外務大臣、その先が総理大臣もやった陸軍大将・林銑十郎邸~」。おや「東京裁判」がらみの人が多いようでございます。

 「当時の千駄ヶ谷は自由が丘、田園調布、成城なんぞ二流、三流のたかだか文化住宅地に過ぎず」とまで記していた。そんな時分の子供らの遊びは、軍隊コスプレで代々木練兵場の闊歩。親たちが大将、中将、公爵、侯爵らで、兵隊たちも手が出せずで我が物顔で遊んでいたらしい。

 同書は昭和51年(1976)刊で、表紙イラストは植草甚一。次に獅子文六の小説『娘と私』を読んでみる。

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外苑競技場で学徒出陣(28) [千駄ヶ谷物語]

kyougijyoreki2_1.jpg 昭和18年(1943)10月2日、勅令で在学徴集臨時特例が公布。全国の大学・高等学校、専門学校の文科系学生・生徒に許されていた徴兵猶予廃止で、同年12月に「学徒出陣」。それに先立つ10月21日、東京周辺77校参加の出陣学徒壮行会が「明治神宮外苑競技場」で行われた。

 髯と眼鏡の独裁者よろしく「その若き肉体、清新なる血潮、すべてこれ御国の大御宝なのである。そのいっさいを大君の御為に捧げ奉るは~」と高みから、死んで来いと叱咤激励するのは(半藤一利『歴史と戦争』より)〝夜郎自大〟の東条英機内閣総理大臣兼陸軍大臣だった(半藤一利『「東京裁判」を読む』より)。

 その2年前から大学繰上げ卒業での入隊も多く、それは特別操縦見習士官制度で応募すれば曹長(見習い士官。陸軍応募1万人、海軍応募5万人)になれるもので、「学徒出陣」は二等兵から。その徴兵検査は10月25日~11月5日。本籍地で身体検査ゆえに、上京組は帰郷して家族に会った。入隊者は推定5万人。

 東京本籍で陸軍入隊者は約2百人。品川から学徒列車で門司へ。釜山から極寒の会寧へ。古兵のイジメと寒さに耐えて2ヶ月で1等兵、上等兵へ。幹部候補生試験の合格者は、下士官教育で内地に戻ったらしい。海軍入隊者は、2等水兵で体罰に耐えつつも知的新兵で飛行科、兵科、主計課へ。

 戦前のジャズ史『ジャズで踊って』著者・瀬川昌久は帝大法学部政治科入学と同時に学徒出陣の第2陣で「後楽園球場」で壮行会。築地の海軍経理学校の半年後に、奈良県橿原に配属されて終戦。GHQ命令の海外日本将兵の復員作業に志願して、主計科士官として氷川丸に乗り込んだ。数千名の帰還作業に従事したが、数名のMPが乗り込んでいて、携帯ラジオから終日WVTRから流れるジャズを聴いていたと記していた。

 明治神宮外苑競技場は、終戦と同時に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」(千駄ヶ谷周辺のGHQ接収については後述)。なお平成5年に学徒出陣50周年に「出陣学徒壮行の地」碑が、旧国立陸上競技場・千駄ヶ谷入口に建てられたが、現在の工事で目下は「秩父宮ラグビー場」に移転中とか。門の外から覗いたが、どこに仮設置されているかわからなかった。次回は戦前の良き千駄ヶ谷時代を記した「スィングジャーナル」元編集長の久保田二郎著を読む。

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方丈記28:その後の鴨長明 [鶉衣・方丈記他]

edohoujyouki_1.jpg 鴨長明は建暦2年(1212)3月末、60歳で『方丈記』を著わした翌年に、鎌倉へ旅立っています。源頼朝の次男・実朝が12歳で征夷大将軍になり、藤原定家から和歌を学んだ。京の諸知識を教える人として長明に白羽の矢が立ったとか。

 「閑居にこだわるのも、また執着ではないか」。そう自戒しつつも、余命僅かと自覚しての鎌倉行。ゆえに実朝に仕える欲もなく、修行のつもりの旅。途中で大洪水にも遭ったりして、西行を意識しつつの旅だったのでは、と五味文彦は記しています。1200年代の鎌倉の記録を見ると、毎年のように大きな地震に襲われています。長明の人生は最初から最後まで災害と共に生きたようでもあります。帰郷後に『発心集』約百話を編集し、『方丈記』から4年後の健保4年(1216)64歳で死去。

<『方丈記』シリーズを終えて> 原本は「国会図書館デジタルコレクション」公開の明暦4年刊、山岡元隣『鴨長明方丈記』(長谷川市良兵衛開版)。くずし字の練習が主目的でしたので、深く読み切れていません。まして古文、和歌に疎く、解釈も不十分です。勉強不足や間違いは、随時追記訂正したく思っています。現代語訳は控えました。机上には「古語辞典」「俳句で楽しく文語文法」「旧かなと親しむ」がありますが、調べっ放しで完全に覚えるには至っていません。調べ知った言葉は、受験生のように「暗記カード」でも使って覚えきろうかとも思っています。

<筆写とくずし字について> 現在市販中の東京堂出版の児玉幸多編『くずし字解読辞典』ではなく、古本市で入手の近藤出版刊、児玉幸多編『漢字くずし字辞典』(近藤出版の使い易さについてはブログで報告済)が、今回の『方丈記』筆写ですっかり手に馴染みました。索引から数度で該当頁にピタリと辿り着く〝技〟が身につきました。

 老いて、新聞の頁も指先を舐めナメなのに、同辞書の紙質とも相性が良かったようです。検索から筆順調べなどの没投感も実に心地よく、時間を忘れるようでした。筆写は、多分に写経に似ているようにも思いました。

 30代からのワープロ、パソコン人生を経ての〝手書く〟復活。万年筆LAMYサファリ色違い4本。水彩筆も持ち始めました。筆写も筆ペンから習字筆へ。骨董市で入手の古硯も愛用で愉しかったです。

<参考書> 岩波文庫『方丈記』(市古貞次校注)、新潮社日本古典集成『方丈記・発心集』(三木紀人校注)、五味文彦著『鴨長明伝』(山川出版社)、笠間文庫『方丈記』(浅見和彦訳・注)、吉川幸太郎『論語』(朝日選書)、北村優季著『平安京の災害史』(吉川弘文館)、日本古典文学大系『方丈記 徒然草』(西尾實校注)、同『平安物語』(上下巻)、玄侑宗久著『無常という力』、久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫)、杉本秀太郎著『平家物語』(講談社学術文庫)他。

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大正13年竣工「明治神宮外苑競技場」(27) [千駄ヶ谷物語]

meijigaien_1.jpg 千駄ヶ谷といえば、やはり目玉は国立競技場だろう。後藤健生著『国立競技場の100年』(ミネルヴァ書房)、山口輝臣著『明治神宮の出現」(吉川弘文館)、蜷川壽恵著『学徒出陣』(吉川弘文館)を参考に、国立競技場の歴史をお勉強。

 明治天皇崩御が明治45年(1912)で、青山練兵場跡地に設けた仮設・葬場殿で大喪の儀。「天皇陵を東京に」の運動が盛り上がるも、埋葬は定め通り京都・伏見桃山陵へ。そこで東京市長や東京財界有志が、陵墓が不可なら東京に「明治天皇を祀る神社(内苑)+公園(外苑)」をというアイデアを思い付く。

 明治神宮内苑は「代々木の原」(22万坪)に国費で和風造営、外苑は「青山練兵場」跡に国民献金で洋風造営と決定。外苑の献金受付「明治神宮奉賛会」設立で徳川家達が会長就任。一気に予定額を越える624万円が集まったとか。

 「明治神宮外苑競技場」竣工は、大正13年(1924)10月。敷地は約1万坪。西側メインスタンド。他3面は芝生観客席で、収容数は3万5千人。日本初の大規模スタジアム。竣工直後から全国規模の「明治神宮競技大会」など日本スポーツの聖地へ。昭和4年(1929)に「日独対抗競技」。翌年に第9回「極東選手権大会」。

 スポーツ熱が盛り上がったが昭和6年に満州事変。昭和7年(1932)3月に「満州国」樹立。翌年に国連脱退。昭和11年(1936)の第11回ベルリン大会で有名なのが「前畑ガンバレ」連呼。第12回オリンピック東京開催(昭和15年・1940)が決定するも、昭和12年7月に日中戦争。戦火拡大でオリンピックどころではなく、東京開催を返上。昭和16年(1941)に第2次世界大戦。スポーツは「国防競技」に変わった。

 そして終戦。「政教分離」で〝神道〟が国から分離されて、内務省神社局管轄だった「明治神宮内苑」が「宗教法人・明治神宮」へ。外苑も「競技場」(文部省)の他はすべて時価半額で同宗教法人へ払い下げられた。

 かくして今も「聖徳記念絵画館」は明治天皇を描いた絵画館で、「明治記念館」には大日本帝国憲法草案を作った建物を保存。今の明治神宮球場も「宗教法人・明治神宮」。

 昭和14年の地図から当時の外苑の様子が伺えます。野球場南「青山の女子学習院」は東京大空襲で焼失後に秩父宮ラグビー場へ。女子学習院は新宿・戸山キャンパスへ。当時の競技場写真は、ネットの画像検索で「競技場絵葉書」を見ることができます。

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方丈記27:閑居への愛も執心か~ [鶉衣・方丈記他]

somosomoitigo_1.jpg 抑(そもそも)一期の月影かたふきて、余算山の端(は)にちかし(余命の端も近い)。忽に三途のやみにむかはん時、何のわざをか、かこ(託つ=歎く)たんとする。仏の人を教給ふおこりは(おこりは=始まりは。岩波文庫は〝趣は〟)、事にふれて執心なかれとや。今、草の庵を愛するも科(とが)とす。閑寂に着するも障(さわり)なるべし。いかが用なき楽しみをのべて、むなしくあたら時を過さん。しずかなるあかつき、此のことはり(理)をおもひつづけて、みづからこころにとひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心をおさめて道をとなはん(仏道修行をする)為也。しかるを、汝が姿は聖(ひじり)に似て、心はにごりにしめり。

 『方丈記』が評価される一つが、この「抑一期の~」の文にあると指摘する方が多い。つまり、隠棲の境地に達したかの後で「草庵を愛するのも、静かな生き方に心を休めるのも、執心ではないか。語っている姿は聖に似ているも、それゆえに心が濁っていると云えなくもない。その自戒は、こう続く。

 住家は則(すなはち)浄名居士(浄名=じょうみょう。インドで釈迦の教化を助けた長者。居士=寺に入らず家に居て仏門に入る男子)の跡をけがせりといへども、たもつところは(修行の結果は)、わづかに周sumikaha2_1.jpg梨槃特(しゅうりはんとく=釈迦の弟子で最も愚鈍だった人)が行にだにも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか(前世の報いによる貧しさか)。将又(はたまた)、妄心のいたりてくるはせるか(心が汚れての狂いか)。其時、心、更に答ふることなし。ただ、傍に舌根をやとひて、不請の念仏、両三返を申してやみぬ(二三度唱えるにとどまった)時に、建暦の二とせ弥生の晦日(つごもり)頃、桑門(出家者)蓮胤(れんいん=長明の法名)、外山の庵にして、これをしるす。

 月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな

 最後の文章も難解。「不請の念仏=心に請い望まない念仏」。岩波文庫版では「不請阿弥陀仏」。五味文彦は「不請阿弥陀仏=不請の阿弥陀仏=阿弥陀仏に請わない。安易に頼らない」と言明していると記す。

 現職住職で作家の玄侑宗久は「一生懸命に唱えれば〝自力〟になってしまう。阿弥陀様に挨拶するように自然な調子で二三回唱えるだけでいいという親鸞の教えに近づいている」と解釈していた。

 最後の歌「月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな」は岩波文庫版にはない。「月の光陰が山の端に入る(消える)のは(寿命が絶るようで)辛いこと。絶えぬ光を見るすべがあればいいのになぁ」の意か。辞世歌。これにて『方丈記』おわり。最後に、その後の鴨長明さんについて。

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島田旭彦、広東料理店を潰す(26) [千駄ヶ谷物語]

mizukouzu_1.jpg 嵐山光三郎『おとこくらべ』の「りんごさくさく」に、白秋の同郷・同年の歌人・島田旭彦が千駄ヶ谷で広東料理店「楽々」を出していた、と記されていた。

 52歳の旭彦が(白秋も52.昭和11年ならば成城の白秋宅)訪ね来て、秘書の宮柊二が言う。「ガンジーです。酔っぱらっています」。旭彦は色浅黒く、容貌がガンジーに似ていた。内気だが酔うと始末におけない。旭彦が絡む。

 「最近、あんたらはうとの店になして来んとですか」。旭彦は深川区役所を辞めた退職金で1年前に千駄ヶ谷に「楽々」という広東料理の店を出した。白秋が案内状を書いてくれたが、歌人仲間は一向に来てくれないと文句を言う。

 白秋が「いま戒厳令下ど(2・26事件)。みんな料理店へ行く暇はなかとぞ。そいけん歌人協会の集まりもおいの自宅でやったとぞ。ガンジー、金に困っとっとやろう」と白秋は菊子(三番目の妻)を呼び、五十円を封筒に入れて渡した。

 嵐山光三郎著は、概ね以上の記述。広東料理店「楽々」については川本三郎『白秋望景』にも出てくるが、詳しくは『白秋全集36』が詳しい。島田旭彦は昭和11年11月22日に脳溢血で急死。白秋は荒川三河島の陋巷を訪ね、遺体に接した後に詠んだ「貧窮哀傷」47首について記している。つまり、旭彦が酔って白秋宅を訪ねて間もなくの死だった。

 「あはれさはあふるる涙とどまらず生国も歳も同じこの死びと」「外に遊ぶ末の弟娘が声きけば父死にたりとまだ知らざらし」「人は死に生きたる我は歩きゐて蛤をむく店を見透かす」。白秋は別れた女にもクールだが、友の死にもクールで無常観を詠む。そう云えば「サトウハチロー」も都内警察の留置場すべてを体験のワルで、女性関係もドロドロだったが(佐藤藍子『血脈』)、そういう奴が子供向けの純朴な歌を書く。

 その頃の白秋も糖尿病と腎臓病で視力を失いつつあった。白秋の終焉の家は阿佐ヶ谷で、旭彦急死の5年後の昭和17年、病の床で郷里・柳河(柳川)写真集『水の構図』序文を書き、その1ヶ月の11月2日に亡くなった。57歳だった。写真は同写真集に掲載されたサングラス姿の白秋。(国会図書館デジタルより)

 さて、旭彦の店「楽々」は千駄ヶ谷のどの辺にあったのだろうか。『白秋全集36』の「旭彦覚え書」に~昭和十年の秋、旭彦は千駄ヶ谷の八幡通りに広東料理「楽々」の招牌を掲げた。深川区役所の雇員を辞めた退職金の殆どがこの資金に吐き出された。初めは「おでんや」をはじめるつもりで造作もしたのであるが~(中略)人の甘言に乗せられて「楽々」の店を譲り受けた。主人は老酒の名も知らず、細君は「メニュー」を料理名と思っていた、と余りに無知。高給の広東人コックを雇って、半年経たずにつぶれてしまった~

 白秋は「楽々」のチラシ文も書いたと全文掲載。~名も苅る萱の千駄ヶ谷三丁目に、気も楽々と広東料理の灯をかゞげて、新に荒き波の潮に生を凌がむとする島田旭彦は~。以後は友を悼む文章が10頁に亘っていた。「楽々」は鳩森八幡神社から南西方向へ坂を下る商店街かなと推測するが、いかがだろうか。

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方丈記26:住まずして誰が悟らん [鶉衣・方丈記他]

ohkatawonozu_1.jpg 大かた世をのがれ身を捨てしより、うらみもなく、おそれもなし、命は天運にかませておしまづ、いとはづ(厭はず)身をば浮雲になずらへて(準ふ、疑ふ=準じる、片を並べて)、頼まずまだし(未だし=時期尚早)とせず。一期のたのしみはうたたねの枕の上にきはまり、生涯の望は折り折りの美景に残れり。(ここまでは岩波文庫版にない文章です) それ三界はただ心一つなり。心若安からずは、牛馬・七珍(乗り物の家畜・宝物)も由なく、宮殿望なし。今さびしき住ゐ、一間の庵、みづからこれを愛す。

 をのづから(たまたま)みやこに出ては、乞食となれることをはづといへども、かへりて爰に居る時は、他の俗塵に着することをあはれふ。もし人此いへることをうたがはば(云える事を疑えば)、魚鳥の分野(ありさま)を見よ。魚は水にあかず、うほ(魚)にあらざれば其心をしらず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば其心をしらず。閑居の気味も又かくのごとし。住ずして誰かさとさん。

 ●三界(欲界=淫欲・食欲・色界)。●後半の文は、住まずして誰がわかろうか、と居直っている。『方丈記』次で終わりです。

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白秋と俊子のその後(25) [千駄ヶ谷物語]

hakusyue.jpg_1.jpg テーマは千駄ヶ谷。白秋がこの地を去れば、幾冊もの白秋関連書とも別れることになる。特定地域調べはロードムービーならぬ〝来ては去って行く人々〟を見る定点カメラのようです。

 そうとはわかっているも、白秋・俊子のその後を少しだけ追う。二人は市ヶ谷の未決監に収監され、弟・鐵雄が必死の奔走・金策でようやく示談で2週間後に釈放。示談金300円。鐵雄の保険会社月給15円。300円を手にした夫がニンマリするのもわかる。明治45年7月刊『桐の花』には情念の未練・苦悶の歌や散文が収録されている。

 「君かへす朝の敷石さくさくと雪と林檎の香のごとくふれ」「あだごころ君をたのみて身を滅し媚薬の風に吹かれけるかな」。そして囚人馬車「かなしきは人間のみち牢獄みち馬車の礫満(こいしみち)」。こんな事態に〝みち〟リフレインで遊んでいる。白秋、相当にしたたかです。「編笠をすこしかたむけよき君は紅き花に見入るなりけり」。惚れた人妻の腰と手に縄、編笠の囚人姿を見ている。次は獄中歌。「鳩よ鳩よをかしからずや囚人の〝三八七〟が涙ながせる」。白秋の囚人番号を詠っている。

 釈放された二人は、白秋の両親、弟・妹と共に東京脱出で三浦半島の三崎へ移住。陽光を浴びて再生を図る。「城ヶ島の女子うららに裸となり見れば陰(ほと)出しよく寝たるかも」。気分はゴーギャンです。

 しかし生計苦しく、家族らは東京へ戻り、二人はなんと!小笠原・父島へ渡る。同行は三崎で結核療養中だった姉妹二人。だが小笠原はよそ者には厳しかった。「聞いて極楽、住んで地獄」。四か月後に帰京して俊子と離婚。白秋の二番目の妻・章子も凄かったがここで終わる。荷風さんの「素人に手を出しちゃいけませんぜい」の声が聞こえます。

 絵は俊子と離婚後の大正3年(1914)刊の詩集『白金之獨楽』掲載の白秋画。手前に鶴、田畑で働く人々と富士山か。南海の沖に島が聳えて、ペンギンと魚が空を飛んでいる。〝気分はゴーギャン〟と言ったが、白秋の画才やはり凄い。(国会図書館デジタルより)

 次は白秋の同郷・同歳の島田旭彦が、千駄ヶ谷に広東料理店「楽々」を出して失敗した話。白秋は島田のガンジーのような風貌を「よく云えば男の藤陰静枝かな」と評したとか。静枝さんは、荷風の二番目の妻。

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方丈記25:独り気儘の自由 [鶉衣・方丈記他]

imaisyoku_1.jpg 今、一身を分ちて、二の用をなす。手のやつこ、足の乗物(手は召使、足は乗物)よくわが心にかなへり(適へり)。こころ又身のくるしみを知れらば、くるしむ時はやすめつ(つ=完了の助動詞)、まめなる(やる気のある)時はつかふ。つかふとても、たびたび過さず(無理せず)。ものうしとても、心をうごかつ事なし。いかに況や、つねにありき(歩き)、常に動くはこれ養生成べし。何ぞいたづらにやすみをらん(休んでいられようか)。人を苦しめ、人を悩ますは又罪業也。いかが(反語。どうして~あろうか)他の力をかるべき。

 鴨長明、いよいよ解脱の領域です。前項までが〝住宅論〟ならば、今度は〝身体論〟から〝物質・食糧論〟へ。

 衣食のたぐひ、又おなじ。藤の衣(藤や蔦などの皮で作った衣服)、麻のふすま(夜具)、うるに(得るに)したかひて、はだ(肌)人をかくし、野辺のつばな(茅花、ちばな、ちがや)、峯のこのみ(木の実)、命をつぐばかり也。人にまじはらざれば、姿を恥る悔もなし。かてともし(糧乏し)ければ、をろそかなれとも程味をあまくす(自分のおろそかの結果と思えば程甘んじる)。すべてかやうの事たのしく、富る人に対していふにはあらず。ただ我身一にとりて、昔と今とをたくらぶる(た=接頭語+較ぶる)也。

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白秋と俊子の家はどこ?(24) [千駄ヶ谷物語]

suzume.jpg_1.jpg 白秋が千駄ヶ谷原宿へ引っ越して来て、隣家人妻・俊子と深間になった。さて、どの辺に住んでいたのだろうか。

 現代日本文学全集『北原白秋・石川啄木集』巻末付録に、鈴木一郎・文「北原白秋と松下俊子」に住所が記されていた。「明治43年9月、白秋はそれ迄住んでいた牛込区新小川町34番地の仮寓から〝青山〟に居を移した。正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地である」

 川本三郎『白秋望景』には「千駄ヶ谷原宿(現在の千駄ヶ谷駅近く)に引っ越しをした」。瀬戸内晴美の小説『ここ過ぎて』には「靑山原宿、正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地」。作家らは同住所を記すも「千駄ヶ谷駅近く」「青山」「青山原宿」と微妙に異なり、誰もが場所を説明する文章を避けている。住所特定が出来なかったのではなかろうか。

 明治40年(1907)頃の住所を調べてみれば「東京府豊島郡千駄ヶ谷大字原宿」。明治42年地図では仙寿院の南側に「北原宿」「南原宿」あり。昭和12年の明治通り開通後の地図には「北原宿=原宿1丁目」「南原宿=原宿2丁目」、明治通り付近が「原宿3丁目」だが田畑ばかり。そして現在は原宿1~3丁目は「渋谷区神宮前」で「原宿」の名も消えている。

 かつて小生は藤田嗣治がパリ留学前の大久保の新婚旧居を特定したことがある。その資料は大正1年「東京市及接続郡部〝地籍地図〟」で、今回も同地図で探してみた。だが「千駄ヶ谷町大字原宿」は「字竹之下・北原宿」「字南原宿」「字石田」「字灰毛丸」と細分化されてい、「千駄ヶ谷原宿85番地」では特定出来なかった。

 作家らも同住所は記すも、場所の説明文を避けていた。文学者旧居巡りのサイトも多いが誰も手をつけていない。ひょっとして、この住所表記は正確ではなかったのではと推測される。まぁ、当時の地図を見れば「仙寿院」の南側が原宿一帯で、最寄り駅は「千駄ヶ谷駅」(明治37年8月開業)か「原宿駅」(明治39年10月開業)だろう。

 さて、二人の〝姦通〟経緯を簡単に記す。白秋は同地を五ヶ月後に去り、京橋区木挽町の土蔵「二葉館」二階一間に移転。そこは元待合で壁一面に描かれた春画を、いい加減な塗装で隠した部屋。ここが最初の情交場所か。白秋はここから飯田河岸、新富町、浅草と転々としつつ、明治45年5月に越前堀(お岩稲荷のそば。荷風さん関連で同地を訪ねたことがある)に移った時に、夫・長平から告訴。検察局より姦通罪で起訴。かくして二人は囚人馬車の乗せられて市ヶ谷未決監へ送られることになる。

 カットは白秋の二番目の妻・江口章子と過ごした極貧時代に〝雀を友〟として綴った雀観察の『雀の生活』(大正9年刊)の白秋自画。白秋は絵の才能もあり!と感じた。

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方丈記24:自分の為の家とは [鶉衣・方丈記他]

subeteyono_1.jpg すべて世の人の住家を作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子・眷属(けんぞく=一族郎党)の為につくり、或は親昵(しんぢつ=親しい人、昵懇の人)、朋友のために作る。或は主君、師匠及び財宝、馬牛のためにさへこれを作る。我今、身の為にむすべり。人の為につくらず、故いかんとなれば、今の世のならひ。此身の有様。ともなふべき人もなく、たのむべき屋つこ(奴=使用人)もなし。たとひ、ひろくつくれり共、誰をやどし、誰をかすへん(据へん)

 今の言葉で云えば、究極のシンプルライフ、断捨離、ミニマリストの暮し。妙に現代の時流に合っているから面白い。

 それ(夫、そもそも)、人の友たる者は、とめるをたうとみ(富めるを尊み)、ねんごろ(外見上の親切)なるを先とす。かならずしも、情あると直成(すなおなる)とをば愛せず(人情ある者、素直な者を愛せず)。たゞ糸竹(弦管楽器)、花月を友とせんにはしかず。人の奴たるものは、賞罰のはなはだしきをかへりみ、恩のあつきをおもくす。更に、はごくみあはれふといへども、やすく静なるをばながはず(穏やかで静かであることなど願っていない)。

 ただ我身をやつことするにはしかず。もしすべきことあれば、則をのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど(弛からず=だるいわけではないが)、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。若ありくべきことあれば、みづかsorehitonotomo_1.jpgらあゆむ。苦しといへ共、馬・鞍・牛・車と心をなやますには似ず。

 今、都心在住者に、自家用車所有欲がない。車を持つ煩わしさ、経費を嫌っている。『方丈記』が著されたのが1212年。それから806年です。

 五味文彦は、これら長明の〝住宅論〟は、吉田兼好『徒然草』に受け継がれてゆくと記している。「家の作りやうは夏をむねとすべし~」。小生はまた、横井也有『鶉衣』にも引き継がれていると追記したい。也有翁は頭を剃っても「夏をむねとこそと思ひ定めて~」と『徒然草』を引用するほど。次回は長明の〝身体論〟へ。

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北原白秋、姦通罪で囚人馬車へ(23) [千駄ヶ谷物語]

kawahakusyu.jpg 千駄ヶ谷の与謝野夫妻「新詩社」が明治42年1月に千駄ヶ谷を後に、神田・東紅梅町へ去った翌年9月のこと。北原白秋が牛込区新小川町から千駄ヶ谷村大字原宿へ引っ越してきた。「新詩社」の件で千駄ヶ谷に馴染があったゆえだろう。

 以下、川本三郎『白秋望景』、西本秋夫『白秋論資料考~福島俊子と江口章子を中心に~』、藪田義雄『評伝 北原白秋』を参考にする。

 白秋は明治42年(1909)24歳の若さで処女詩集『邪宗門』刊。日露戦争勝利の近代日本ヤングジェネレーションの官能謳歌。2年後に第2詩集『思ひ出』刊。一躍、詩壇の寵児になった。

 さらなる飛躍を期して郊外住宅地・千駄ヶ谷へ移転。だが「好事魔多し」。隣家の人妻・俊子がなんともいい女だった。俊子22歳。前年に松下長平と結婚して長女を出産。短歌を愛し、斉藤茂吉にも師事。夫・長平は国民新聞社の写真部記者。嗜虐性が強く、俊子に生傷絶えず。加えて混血情婦もいた。それゆえの愁い含んだ眼差しで白秋を見つめる。すらりとした肢体、ぬけるような白い肌。坊ちゃん気質で世間知らずの白秋はイチコロだった。

 だが道ならぬ恋ゆえ、人妻ゆえ、姦通罪ゆえに、二人の恋心は抑えれば抑えるほどに燃え上がった。どうやら隣家主人・長平が仕込んだのかもしれない。時代の寵児へのやっかみ、脅せば金にもなろう。やがて思惑通り「姦通罪」で起訴。白秋と俊子は、出頭した裁判所から他の囚人らと共に囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監に送り込まれた。時代の寵児が、一転して姦通罪人。マスコミが喜ぶことよ。

 「小生は第八監十三室の〝三八七〟というナンバーに名を改められた」。2週間後、弟の北原鐵雄の必死の奔走で示談。相手は300円という大金をせしめてニヤリと笑ったとか。川本三郎著には松永伍一『北原白秋 その青春と風土』よりの引用で「僕に童貞を破らせたのは石川啄木だよ。浅草十二階の魔窟へひっぱって行かれてね」を紹介。白秋は、性の甘い深淵を覗き見たばかりだった。

 そんなことはどうでもいい。川本著には「千駄ヶ谷原宿に引っ越した」と記して、括弧括りで(現在の千駄ヶ谷駅近く)とした。さて、それは一体どの辺りだったか。(続く) 

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方丈記23:草庵、早や五年~ [鶉衣・方丈記他]

hodosemasi_1.jpgokatakototokoro_1.jpg 大かた此所に住初(すみそめ)し時は、白地(あからさま)とおもひしかと、今迄に五とせを経たり。仮の庵もやゝふる屋(岩波文庫は〝ふるさと〟)となりて、軒にはくち葉ふかく、土居苔むせり。

 をのずから事の便に都を聞ば、此山に籠ゐて後、やんごとなき人のかくれ給へるもあまた聞ゆ。まして其数ならぬたぐひ、尽くしてこれをしるべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、又いくそばくそ。たゞかりの庵のみ、のど(長閑)けしくて恐れなし。

 ●白地=あからさま、にわかに、突然、ちょっとの間である、しばらく。●むせり=咽ぶ、噎ぶ。詰まらせる。●おのづから=たまたま、偶然。●やんごとな=やむごとなし=捨てて羽おけない、重大である、はなはだ尊い、別格である。●尽くしてこれしるべからず=知り尽くすことはできない。

 程せばしといへども、夜ふす床あり。昼居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうな(やどかりの古名。岩波文庫は〝かむな〟)は、ちいさきかひをこのむ。これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人をおそるゝによりて也。我又かくのごとし。身をしり世をしれらば、願はず、ましらはず。たゞしづかなるを望とし、愁いなきを楽とす。

 ●ましらはず=ためらわず、不安の念なく。岩波版は〝わしらず〟で校注に「あくせくと奔走しないこと」とある。


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晶子と「おなか団子」(22) [千駄ヶ谷物語]

kimonoakiko.jpg 千駄ヶ谷の「与謝野寛と晶子」編の最後です。夫妻の長男・光氏(医学博士、公衆衛生関連の理事、会長など歴任)90歳の聞き書き『晶子と寛の思い出』には、こんな文もあった。

 「千駄ヶ谷に移って、有名な〝一夜百首会〟が行われた。十時で電車が止まっちゃうから、一晩に一人百首読んで、朝に帰るんです」

 これは「結び字、結字」を入れての作歌会。石川啄木「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きゆれて蟹とたはむる」は「蟹」を結字にした一夜百首会で詠まれた作とか。評伝では〝一夜百首会〟は中渋谷の明治36年頃から始まってい、当時は渋谷も千駄ヶ谷も終電は10時頃ゆえに、徹夜の歌詠み会が行われたのだろう。

 光さんは話をこう続ける。「百首会は長丁場で腹が減りますから、近衛4連隊の下、今は住宅公団のアパート裏あたり、今は暗渠になっている渋谷川沿いに〝おなか団子〟という団子屋さんへ行くんです。僕が三つか四つの頃で、母が団子をたくさん買って大きな袋に入れて、それを背負って帰るんです」

 小生が2年前春に、この周辺を自転車散歩した際には、未だ「都営霞ヶ丘アパート」群が建っていて、団地北東脇の小公園に「近衛歩兵第四連隊(青山練兵場)」の碑が建っていたのを覚えている。今は新国立競技場建設と同時にアパート群も碑も姿を消した。

 「おなか団子」は、千駄ヶ谷シリーズ最初に『江戸名所図会』の「仙寿院」紹介の際に「渋谷川に沿った道を多くの人が歩いていて、そこには明治元年まで〝お仲だんご〟あり。お仲さんは美人で広重も描いたとか」と記した。その「お仲だんご」が与謝野晶子の千駄ヶ谷時代にもあったと語られている。代替わりして存続していたか、同名を名乗った団子屋だったのだろうか。

 そして与謝野光著の最後はこう結ばれていた「やはり思い出すのは、貧乏ではあったが大勢の方々で活気があった千駄ヶ谷時代ですね。裏を返せば、うちの母にとっては、ずいぶん苦労の多い時だったということでしょうけど」 なお、与謝野光氏に関しては、GHQ命による米兵らの性のはけ口場設定と性病予防で後に再び登場です。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より。

 与謝野夫妻と交流のあった石川啄木や北原白秋の関連書を読めば、さらに当時の千駄ヶ谷の様子が記されていそう。手始めに川本三郎著『白秋望景』、嵐山光三郎著『おとこくらべ』を読めば、明治45年に「千駄ヶ谷大字原宿」に引っ越してきた北原白秋が、隣家の人妻・俊子さんと不義密通。姦通罪で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷・未決監房へ運ばれたとあった。

 荷風さんが〝大逆事件〟関係者らを乗せた囚人馬車を自宅前で見て「文学者として何も出来ぬ己は、江戸の戯作者に身を落とす他にない」と自戒したのが明治43,44年だった。白秋と俊子さんも、囚人馬車に乗せられて市ヶ谷監獄へ向かって行く~。さっそく北原白秋・関連書を読むことになる。

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方丈記22:草庵の夜しづかなれば [鶉衣・方丈記他]

mosiyoru_1.jpghojyozu.jpg_1.jpg 日野山の草庵の様子、暮しぶりの記述が続くので、江戸本『方丈記之抄』に挿入された絵を紹介です。

 もし、夜しづかなれば、窓の月に古(故)人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、とをく真木の嶋のかがり火にまがひ、暁の雨は、をのづから木の葉吹嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴を聞て、父か母かとうたがひ、峯のかぜぎの近くなれたるにつけても、世にとをさかる程をしる。或は埋火(うづみび)をかきをこして、老のね覚(寝覚)の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろうの声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけても尽ることなし。いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧(らん)人の為には、これにしてもかぎるべからず。

 「窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす」は『和漢朗詠集』から。窓からの光に旧友や故人をしのば、猿の声が彼らの泣き声にも思えて涙があふれる~そんな意だろう。

 ●真木の嶋=槙島(宇治川と巨椋池の間にあった洲。かがり火をたいて氷魚をとる)。●かせぎ=鹿の古名。●かきおこして=掻き熾す? ●景気=気配、景色(けいしょく、けしき、風景)。

 最後の「いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧人の為には、これにしてもかぎるばからず」の現代文訳は「いうまでもなく、深く考え、知識深き人には、これだけに限らないはずである」

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四角関係、キラ星の文人らが(21) [千駄ヶ谷物語]

yosanohon1_1.jpg 明治37年(1904)に山川登美子、増田雅子が日本女子大に入った翌年1月、登美子、雅子、晶子の合著『恋衣』刊。さっそく千駄ヶ谷で新年会を兼ねた『恋衣』出版記念会が行われた。開業間もない「千駄ヶ谷駅」に降り立つは登美子、雅子。そして錚々たる文人27人ほど。

 盛岡から上京の19歳石川啄木は、新詩社を紹介してくれた先輩・金田一京助にこう報告したとか。「一昨日は新詩社の新年会。めづらしく上田敏、蒲原有明、石井柏亭などの面々出席。女子大学より〝恋衣〟の山川登美子、増田雅子のお二人見え候~」

 鉄幹に晶子、登美子、雅子のめくるめく性愛を読みたい方は、その道の小説家・渡辺淳一『君も雛罌栗われも雛罌栗』でお楽しみ下さい。女性らの嫉妬の火花はさておき、与謝野光『晶子と寛の思い出』の「千駄ヶ谷時代」は、こう続く。

 「千駄ヶ谷時代っていうのは、まだランプなんです。だから朝ね、母を中心にランプ掃除をやるの。僕も手伝ったけど子供にはたいへんだった」。ネットで当時の電化状況を調べてみた。

 ●明治38年9月、日露戦争終結。兵士・武器・弾薬輸送に大変だったので甲武鉄道を国有化。●明治40年(1907)に東京鉄道が千駄ヶ谷、渋谷町、品川町、目黒村などに電灯・電力供給を開始。●戦勝景気で電気事業も好況。水力電力も加わって電燈料金半減。電燈が石油ランプを駆逐。

 啄木が最初の訪問から3年後の春の与謝野家を再訪しての日記に「お馴染みの四畳半の書斎は、机の本棚も火鉢も座布団も三年前と変わりはなかったが(中略)~少なからず驚かされたのは、電灯のついて居る事だ。月一円で却って経済だからと主人は説明したが、然しこれはどうしても此四畳半幅の人と物と趣味とに不調和であった。此不調和はやがて此人の詩に現はれて居ると思った」

 ランプ生活が電灯に変わったが、鉄幹編集の『明星』と彼の詩には、啄木日記からも伺えるように、早くも時代に色褪せてきた。明治41年正月、同人の吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田幹彦ら7名が退会。晶子は「朝の雨さびしうなりぬ紫のからかささして七人去れば」と詠った。

 その後に窪田空穂、相馬御風らも退会。啄木が5月に訪問した日記には「今の新詩社、与謝野家は晶子女史の筆一本で支えられている」。『明星』最盛期5千部から9百部に落ち込んで、明治41年11月の百号で終刊。「わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや」。

 明治42年1月、与謝野夫妻は千駄ヶ谷を後に、神田駿河台ニコライ堂近くの東紅梅町へ去って行った。

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方丈記21:方丈暮らしの充実 [鶉衣・方丈記他]

matafumoto2_1.jpg 日野山、方丈庵生活の充実記が続きます。

 又麓に一の柴の庵あり。則(すなわち)此山守が居るところ也。かしこに小童有。時々来て相訪ふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく(遊び歩く)。かれは十六歳、われは六十。其齢事の外なれど、心をなぐさむる事は、これ同じ。或はつ花を抜き、岩なしを取る。又ぬかごをもり、芹をつむ。或はすそはの田井に至りて、落穂をひろひて、ほぐみ(穂組)をつくる。若日うららかなれば、嶺によぢ上りて遥に故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師(これも地名)を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむる障なし。あゆみ煩なく、志とをくいたる時は、これより峯つゞき、すみ山を越、笠取を過て、石間にまうで、石山をおがむ。若は又栗津の原を分て、蝉丸翁が跡をとふらひ、田上川をわたりて、猿丸太夫が墓をたづぬ、帰るさには、折につけつゝ、桜をかり、紅葉をもとめ、蕨を折、木のみをひろひて、且は仏に奉り、且は家づと(みやげ)にす。

 岩波文庫版では「かれは十歳、これは六十」。江戸本は「かれは十六歳、われは六十」。どちらが正しいのでしょうか。長明のアウトドア暮しが、実に楽しそうです。ここからは植物のお勉強。

 ●つ花=茅花、イネ科の多年草。細い鞘に花穂を包む。この花穂が茅花。初夏にこの鞘をほどき銀色の穂がなびく。茅花の中の穂は僅かな甘みがあって、子らが食べる。●岩梨=ツツジ科。果実は緑色=赤褐色の果皮に包まれて、梨のような甘さがある。●ぬかご=むかご、自然薯の茎にできる実。

 草摘みを愉しめば、嶺に登って故郷を望み、かつ先輩歌人らの足跡に思いを馳せる。●すそはの田井=山裾をめぐる田。●勝地=景勝地。●すみ山=宇治市炭山。他に地名いろいろ。●石山=岩間寺。●蝉丸翁=琴をよくした翁。●猿丸太夫田風=三十六歌仙の一人。

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与謝野夫妻の千駄ヶ谷(20) [千駄ヶ谷物語]

myoujyo.jpg_1.jpg 明治37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「新詩社&明星」共々、千駄ヶ谷村字大通549へ引っ越して来た。現・北参道駅から鳩森八幡神社へ至る、今も〝大通り〟の名を冠する商店街の郵便局近く。現・千駄ヶ谷1-23。「東京新詩社跡」の史跡柱が立っている。

 夫妻の長男・与謝野光『明子と寛の思い出』(思文閣出版)に「千駄ヶ谷時代」の項あり。「明治書院がたくさん借家を造ったんです。で、その借家に移った」。そして、こう続く。「駅からかなり遠かった。今の津田塾のあたりです。今の駅からだと近いけど、その頃は信濃町の駅からでしたからね。今は南の方に出口がありますけれども、北の方にあったんです。それで、よけいにたいへんでした」

 氏の90歳の聞き書きゆえ、多少の記憶違いはあろう。この辺を検証すれば、資料では間違いなく「千駄ヶ谷駅」開業後の移転。ちなみに「信濃町駅」開業は明治27年(1894)。千駄ヶ谷辺りから軍用「青山停車場」へ引き込み線あり。「千駄ヶ谷駅」開業当初の乗降客は1日250人程だったとか。

 与謝野夫妻の足跡を要約してみる。逸見久美著『評伝与謝野寛晶子(明治編)』、青井史著『与謝野鉄幹』、野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』他を参考にする。

tekansi.jpg_1.jpg 鉄幹、明治32年(1899)に浅田信子との間に女児を設けるも40余日で死去。信子と別れて林滝野と同棲し「東京新詩社」設立。明治33年4月『明星』第1号発行。発行所は麹町区上六番。発行人・編集人は林滝野。鉄幹が林家の養子に入る約束、かつ資金も林家。金子薫園、佐々木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、泉鏡花、広津柳浪など錚々たる執筆陣。

 同年、鉄幹は岡山で鳳晶子、山川登美子と会う。滝野との間に男子誕生。明治34年(1901)1月、晶子と京都で遊ぶ。3月、詩歌散文集『鉄幹子』刊。「妻をめとらば才たけて、顔うるはしくなさけある~」の〝人を恋うる歌〟収録。

 『明星』は67頁雑誌に急成長で、歌壇の中心になる。子規派と鉄幹派は平行線で、3月に匿名『文壇照魔鏡』刊。鉄幹は「強姦をし、放火をし、妻を売り、無銭飲食をした」と誹謗。滝野は子供を連れて帰郷。5月に渋谷村中渋谷へ移転。6月、晶子が鉄幹宅へ身を寄せ、8月『みだれ髪』刊。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。10月、晶子・鉄幹挙式。

 明治35年、長男・光誕生。明治37年、鉄幹・晶子『毒草』刊。晶子『明星』に「君死にたまふこと勿れ~」発表。渋谷時代の彼らの住家を見た明治書院社主・三樹一平は日記に「あまりなるあばら屋で驚くの外なしと語り合ひ、さて千駄ヶ谷の地にふさはしき詩堂建てまゐらせむと申さるゝなり」と記す。かくしての千駄ヶ谷移転。

 挿絵は『鉄幹子』巻末の「明星」広告とカット。絵は藤原武二のアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォー中心画家)の模倣図だろう。国会図書館デジタルコレクションより。

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