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港区の超高層ビル群彷徨 [新宿発ポタリング]

grantower1_1.jpg 7月中旬、久し振りに自転車を駆った(脊柱狭窄症と診断され、自転車の長時間凸凹道の影響と自己判断して、運動をウォーキングに切り替えている)。さて、どこを走りましょうか。

 一時期「お雇い外国人」らが眠る「青山墓地」へ通ったことを思い出し、まずは新宿~神宮銀杏並木~青山墓地へ。ここから道に迷って、ふと見上げるとガラス壁に三角錐が張り付いているような「六本木グランドタワー」が見えた。「よし、遠望ではなく間近で見てみよう」。

 六本木通りを「寄席坂」(坂途中に明治~大正期に寄席・福井亭があった)から「なだれ坂」(昔に土崩れがあった)へ。その坂沿いに同ビルが建っていた。下から見上げると、遠望で感じるほどに三角錐は出っ張っていない。眼の錯覚が計算されているようだ。3年前の2016年に竣工。先日、仮想通貨35億円流出のニュースで同ビル映像が流されていた。該当企業が入居しているらしい。

 同坂沿いに古い民家が1軒取り残されて、昭和初期風景の面影が残っていた。昔、荷風さんは麻布通りの向こう側「偏奇館」から、寄席坂の上辺り「丹波谷」の窪地にあった秘密めいた家で、十円で女を抱いた。今は同ビル地下で麻布通り向こう地下鉄「六本木1丁目」や「泉ガーデン」とつながっている。

grantower2_1.jpg 昔からずっと赤坂にあった「日本コロムビア」が六本木1丁目に移転した際は、仕事ついでに隣の「泉ガーデン」泉通り側玄関の植え込みにある「偏奇館跡碑」を幾度か眼にし、荷風さんがいた時代に思いを馳せたもの。荷風さんは「偏奇館」勝手口に蛇が出ると記していた。川本三郎は『荷風と東京』で偏奇館跡付近を歩いていた際に、そこから坂を下る「御組坂」で大きな蛇がゆっくりと坂道を横切っていたと記していた。

 もう蛇は見なかったが「御組坂」を下ると、正面が「アークヒルズ仙台山森タワー」(2012年竣工の47階建て)。同ビルを見上げて振り向くと、背後の小さなビル「泉ガーデンANNEX」で「ポニーキャニオン」社屋があって腰を抜かすほど驚いた。しかも同社ロゴマークも変わっていた。今年4月頃に虎ノ門3丁目から移転したらしい。

 小生がPC社の仕事をしていたのは、同社社屋が浜松町・世界貿易センター、九段の一口坂やNPビル、中央区入船時代まで。その後に虎ノ門3丁目へ移転したらしい。同社全盛期は九段時代と思っていpc_1.jpgるが、そこから流転。無理もない。音楽は陳列商品商売からデジタルへ。そして六本木1丁目にあった「日本コロムビア」は、逆に虎ノ門3丁目に移転らしい。かく街の姿の激変に併せて、仮想通貨やIT(情報技術)系、AI(人工知能)系企業が躍進して産業構造も変わっているのだろう。

 六本木1丁目彷徨を終えて「そうだ海を見に行こう」で「竹芝桟橋」まで走ったが、その帰路で「ソニーミュージック・市ヶ谷ビル」が「武蔵美大・市ヶ谷キャンパス」になっていた。

 「偏奇館」が東京大空襲で紅蓮の炎に崩れるさまの荷風記述が鮮やかに脳裏に残るも、今の港区はこの5年ほどで超高層ビル乱立(70棟ほど)。ちょっと前のことが〝遠く・遠ぉ~い過去〟になっていた。

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「東都新聞」と「東都ジャーナル」 [政経お勉強]

myback1.jpg 上記タイトルからお気づきの方も多いだろうが、映画『新聞記者』主人公・吉岡は「東都新聞」で、川本三郎原作の映画『マイ・バック・ページ」主人公・沢田は「週刊東都~東都ジャーナル」。

 映画は同じ〝東都〟だが、前者モデルは「東京新聞」で、後者は「週刊朝日~朝日ジャーナル」。6月28日公開『新聞記者』から約1週間後7月7日にBS日テレが2011年公開の『マイ・バック・ページ』(以下『マイ~』)を放映した(頭のいい編成がいるらしい)。

 映画『マイ~』は映画や町歩きの随筆、また永井荷風テーマはじめの幾作で文学書を受賞の川本三郎が、1971年の赤衛軍を名乗るグループによる自衛官殺害の際の血痕付き腕章などの所持から「証拠隠滅」で逮捕。同社を懲戒免職された15年後に、その経緯を記した同題書の映画化。

 ここでは著者の〝問題点〟を再考せぬが、〝東都〟両映画から45年の時代の変わりようにも気付かされた。川本三郎は小生と同年代だろう。60年安保は16歳で、70年安保は26歳で社会人。学生運動の狭間世代。小生は付属高校入学時に、大学生らが物騒(危険)なプラカードを作っているのを見た。70年直前には新宿西口フォーク集団や東口のフーテン族を縫って新社会人として通勤していた。当該世代は傷を負い、狭間世代が口を挟めば揶揄される。

warudakumi_1.jpg 映画『マイ~』には、当時の荒れた世情や若者の熱気が満ち、ザワザワとした手触りが満ちていた。一方の映画『新聞記者』画面には妙なクール感が流れていた。内閣情報調査室(内調)場面の灰色プラスチック壁の中で、大勢の内調スタッフらが黙々とパソコンに〝悪だくみ〟を打ち込む光景にゾッとする恐怖感があった。

 45年を経ると同じ<新聞・雑誌&政治>の世界は、かくも変化している。ならば今から数十年後は、当然ながら戦前の傀儡のような政治家らの姿や影響のない、「ビッグデータ~AI(アーティフィシャル・インテリジェンス)」による未来予測、政策立案、効果的施策の時代になっているのかも知れないと思った。何かと問題が多く、金食い虫の〝国会議員〟はもういらない時代がきてもいい。

 川本三郎の妻は、彼が懲戒免職された際に「私は朝日新聞と結婚したワケじゃないから~」と彼を励ましたとか。彼女は2008年没で、川本三郎は2012年刊『いまも、君を想う』で荷風句「持てあます西瓜ひとつやひとり者」をもじって「持てあます野良猫二匹やひとり者」と書き出した。その最終章では「公園墓地と言う霊園で亡き妻を思いひとり弁当を食う」と詠った。

 時代も、人も、街の姿も変わり、「中立」は絶えず変化し、テクノロジーは驚異的変化・普及している。そのなかで誰もがどう生きるかを問いつつ生きて、あたしもソロソロでございます。

 時の流れは早く、人々はもう「モリカケ問題」があったことなど、すっかり忘れているらしい。森功原作『悪だくみ』なる映画が製れたら、『新聞記者』より遥かに凄い映画が出来るに間違いない。話題の人物が多いゆえオールスター出演。2時間余の超大作になりそう。小生は単行本で読んだが、今年6月6日に「文春文庫」刊らしい。

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「同調圧力」について [政経お勉強]

doucyo_1.jpg ●迂闊にも、同映画を観るまで「同調圧力」なる言葉を知らなかった。★クマさんは、江戸時代で遊び過ぎだよ。●ネット検索すると、2015年6月の為末大氏(元400mハードル選手、走る哲学者)のサイトがヒットした。タイトルは「同調圧力の正体」。概ねこんな内容だった。

 ~テレビに関わっていると、メディアの方が〝この意見は中立だろうか〟と神経質になっている姿をよく見る。〝中立に報道すべし〟の縛りを自らに課している。だが〝中立〟とは何か。それは常に今の時代の中立で、時間軸を伸ばせば、その中立も偏向しているに違いない。よって多様な世界観が大事なのではないか。山本七平氏は、現在の〝中立意識〟をどう看破してくれるだろうか~。

 ★2015年と云えば、第二次安倍内閣の当時の高市早苗総務相が「中立報道でなければ〝電波停止宣言〟」をした頃だな。マスコミ陣は〝中立〟にピリピリしていた姿を見ての、為末氏の考察だろう。で「同調圧力」なる言葉の出所はわかったの。●勉強不足で申し訳ない。わからず仕舞い。山本七平著『「空気」の研究』も読んでいないし。ブログに別テーマ出現で読書途中のままのオルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』にも同様な指摘があったようにも思う。

 ★同題書が出ているんだよな。●映画『新聞記者』に座談会映像が挿入で、画面中の小枠挿入ゆえに、何を語り合っているか明確にわからなかったが、その座談会が題名『同調圧力』で出版とか。★クマさんは、現代ごとに疎いから、同書で初めて知った言葉も多かったんじゃないか。●うん、少し勉強してみた。

 ■同調圧力:全体主義的で、多様性を認めずに〝村八分〟の圧力らしい。■リテラシー(literacy):何らかの形で表現されたものを適切に理解・解釈・分析して改めて記述・表現すること。昨今はネット上にフェイクが多数ゆえに「リテラシー〝力〟」が重要視される。

 ■アクセス・ジャーナリズム(access journalism):権力に近い側に寄り添って取材する法。余りに権力側に偏っている人を「政権のポケットに入っている人」。★あぁ、あの人・この人だなぁ~。 ■アクセス能力:権力者や有力者の懐に入る能力。これに長けたミラー記者がブッシュ政権高官のリークでスクープ。それがイラク大量兵器保有の報で戦闘へ。後に政権のガセリークとわかり、危険な取材法とされた。

 ■アカウンタビリティー・ジャーナリズム:accountability=説明責任。制作決定へのプロセスを情報公開法などで丹念に探り、真実を白日に晒す報道とも言うのかなぁ。昨今の政治は内緒ごとが多いから議事録を改ざん・破棄・さらには記録せずで、説明責任から逃げている場合が多いらしい。

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『新聞記者』出演者・制作者の矜持 [政経お勉強]

eigakoukoku_1.jpg ★クマさん、映画好きじゃねぇな。●子供時分から泣いたり怒鳴ったりのテレビドラマが大嫌いだった。★男は黙って~ ●それも面倒臭い。やはり好きじゃない。

 ★そんなクマさんが、珍しく映画を観ようとしたら、それが〝なっちゃん〟と官邸がらみで興醒めした。●その反動かなぁ、ふと眼にした映画広告(写真)に「日本の映画が変わる!」とあった。是枝裕和の推薦文が「これは、新聞記者という職業についての映画ではない。人が、この時代に、保身を超えて持つべき矜持についての映画だ」。キネマ旬報の推薦文を要約すると「権力と闘うジャーナリズムを描く映画は日本では無理だろう~を打ち破ったのが『新聞記者』。ここで描かれる数々の政治事件が、何を指すかは一目瞭然。大手映画会社では出来ないこと。この映画は観客に多大な問題を問う力作である」

sinjyukupi_1.jpg ★例の如く、観る前に原案・望月衣塑子『新聞記者』を読んだ。●いや、これは読む前に観るだな。即「新宿ピカデリー」まで歩いた。★チケット買えたか? ●満席。明日の最終回に2席が空いていた。「前から2列目ですがいいですか」。そのチケットで翌日観た。★どんな映画だった。●映画内容はネットに溢れているから省略。

 ★ひと言くらいは~。●内閣の悪だくみ、内閣情報調査室(内調)の暗躍。(内調)は政権不都合情報のコントロール集団(追記:~及び諜報活動などで250名ほどが在籍しているらしい。今井良著『内閣情報調査室』なる書あり。買おうと思ったが見城徹の顔が浮かぶ幻冬舎刊ゆえ買えなかった)。各省からの出向職員らが、ネトウヨよろしく一斉にネット投稿しているシーンの恐ろしいこと。政権に邪魔な人間をおとしめるガセネタもリークする。官僚にも無理強いし、それを苦に官僚の自殺もあった。フィクションゆえ、逆にリアルな恐怖が増す。そんな世界にジャーナリスト矜持を有する女性記者が闘いに挑む。苦悩する若い官僚~

 ★クマさん、若い時分にPR会社にいたな。●PRのそもそもが政治PRから始まった。★フリー後は楽曲プロモートの仕事。●あぁ、まず素材の分析。キャンペーン・コンセプトの設定。それに沿って攻めるべきラジオ、テレビ、活字媒体、店頭、出演、イベント、タイアップ、さらにはシンパ作りを考えてチャート化する。薄い部分をさらに補強してマルチ展開を仕上げて行く。そんな企画書ばかりを書いていた。

 ★楽曲も政治もPRの基本は同じ。政治はエゲツない展開もありそう。●一時期、首相がマスコミ各社役員と盛んに会食で~。★政権ベッタリの人間やマスコミ役員が増えた。

 ●内閣の動きを見ていると有能PRマン(戦略立案者)がいて、実行部隊が「内調」で、怖い別動隊(公安)も一緒に動いているらしい。資金は潤沢で、やりたい放題。テレビは放送法を盾に電波停止宣言。自己規制から「同調圧力」(村八分)。★そう云えば、テレビはこの映画について一切報じていない。●記者らの多くは、内閣が出す情報をただ流すだけが仕事。★戦時中の大本営発表と同じ。●一強政権で官僚も保身・忖度で生きている。

 ●エンドロール後の映画館に大拍手が渦巻いたってぇのは、映画内容と同じく、出演者も製作スタッフも配給会社も劇場も、すべての方々が相当な覚悟を持って挑戦したってことで、それらすべての方々の勇気への賞賛だったと思うんだ。

 ★7月18日追記:ヒットが続き、興業収入2億円突破とか。願わくば、一つでも多くの映画賞を受賞し、海外でも公開。また現政権下では無理だが、「同調圧力」薄れた後の時代でもいいから、テレビ放映されるようになることを願っています。

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映画『ある町の高い煙突』を観る前に [政経お勉強]

entotu_1.jpg ●映画は、日立鉱山の煙害と闘った男の物語。時は大正3年、煙害回避で世界1(当時)の高さ155.7mの大煙突をおっ建てた噺。★ほぉ~。●映画の公式サイトを観るてぇと、実在モデル4人を紹介。まずは主人公。若くして煙害対策委員長になった関氏。★二人目は~

 ●藤田組・小坂鉱山から日立鉱山へ移って、煙害被害の補償問題担当の角氏。彼が伊豆大島・三原山の噴煙に耐えて美しく咲き誇る「オオシマザクラ」に注目。明治41年に鉱山社宅周辺に同サクラを植えた。植え続けて昭和7年(18年間)に260万本へ。日立に「オオシマザクラ」が満ちた。★角氏が「オオシマザクラ」を知った経緯や如何に~。

 ●そこが肝心も書かれていない。三人目も藤田組・小坂鉱山から日立鉱山に移った小平氏。社内起業で電気系「日立製作所」を創った。★四人目は? ●大物・久原房之助。彼の父の実弟が藤田伝三郎だ。久原は藤田組に入社。退社後に鉱山買収して久原鉱業。彼の最初の妻が鮎川義介の妹で、久原は鉱山を鮎川に譲渡して政界入り。鮎川は同社を日立鉱山に改称し、後の日産コンシェルン(鉱業、電気、自動車など)を形成し、久原は立憲政友会総裁になった。

 ★藤田組、鮎川義介で伊豆大島のメンツが揃った。●鮎川義介が私財投じて大島公園を作ったのが昭和10年。その後に藤田組が東京湾汽船、大島観光に着手する。★で、その映画『ある町の高い煙突』を観たの? ●観る前に原作・新田次郎の同題小説だ。胸ワクワクさせて新宿・紀伊国屋へ走って入手。だが読めども読めども「オオシマザクラ」は出て来ねぇ。さらに落胆したのは~

 ★どうした・どうした~。●新田次郎に大煙突の小説化を勧めたのが日立市天気相談所の山口秀男氏とか。なんと秀男氏の子が、公明党代表・山口那津男。選挙になるってぇと、支持者に「皆さん〝なっちゃん〟ですよぅ~」の山口代表。で〝なっちゃん〟が、映画スタッフ率いて首相官邸へ。映画が公明党、官邸とくっついちゃった。

 ★あら、嫌だ。首相官邸ってぇのは何でも取り込んじまう。先日も吉本新喜劇メンバーが官邸表敬訪問。●それは吉本芸人〝闇営業〟問題噴出前の確か6月6日だった。同映画スタッフの官邸訪問は5月初旬。安倍晋三ツイッターが「鉱山の公害に対して、企業と地域の皆さんが力を合せて、解決に取り組んだ実話が映画化されます。山口代表と、その映画の関係者の皆さんが本日、令和最初のお客様として~」

 ★政権は若い女性も取り込みたいってんで、先日は女性ファッション誌ともタイアップ展開した。●かくして同映画への興味がストーンッと醒めた。★映画を観ないクマさんが、久し振りに観ようと思い立ったら残念な結果になり申した。●するってぇと、映画『事件記者』の広告が眼に飛び込んで来た。

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オオシマザクラとゴーンさんと映画 [政経お勉強]

nitta_1.jpg ●八っつぁん、映画の噺していいかぁ。ちょっと政治がらみだが。★老い先短ぇんだ、手短に頼むぜ。●伊豆大島だが~。★ははっ、クマさんも小屋もボロボロだ。免許返上の歳にもなった。●島ってぇと「椿」だが、島を真っ白に染める「オオシマザクラ」が、まぁ見事なんだ。★それがどうした。

 ●先月に読んだ新聞コラムの書き出しが「大島で磯釣りをした。入った磯がかつての鮎川義介別荘地と聞かされて、一気に仕事モードに入った」てぇんだ。★おぅ、先が気になる。●日産ゴーン被告逮捕が「国策捜査」じゃねぇのかっちゅう憶測があって~と続く。★さて「オオシマザクラと鮎川義介と日産ゴーン氏」がどう結びつく。

 ●安倍首相が敬愛するのが~ ★祖父・岸信介だな。戦犯逮捕も何故か起訴を免れた。●彼の満州事業の中核を担ったのが同郷(長州)の満州重工業開発の初代総裁・鮎川義介だ。彼もまた巣鴨拘置所20ヶ月で無罪放免。★そういやぁ~、おめえの千駄ヶ谷シリーズで元満鉄総裁・松岡広右は戦犯裁判中に病死とあった。

 ●3人共に同郷で姻戚関係。満州で権勢を奮ったのが「2キ3スケ」と言われている。信介・義介・広右(ひろすけ)が「3スケ」。★「2キ」が東条英機(絞首刑)と満州国総務長官・星野直樹(終身禁固刑)。それがゴーン氏とどうつながる?

 ●岸信介の遺志実現に執着するのが現首相。祖父の盟友・鮎川義介(日産コンシェルン創業)の日産が、フランス政府の企てに潰されてたまるかってんで、内閣から日産社外取締役を送り込んでいた。★ホントかいなぁ。●ゴーン逮捕と同時に日産側が官邸へ走っている。

 ★それが「オオシマザクラ」とどう結びつく。●鮎川の日産コンシェルンには日立鉱山がある。鉱山と云えば公害だ。そこで鉱山側が噴煙にもめげずに自生する「オオシマザクラ」に着目して、明治41年に鉱山社宅周辺に植えたっつぅんだ。それが広がって今では260万本。かくして今も日立市は「オオシマザクラ」が美しい。時期になると海からのサクラ観賞ツアーがあるてぇほどだ。★はぁ~ん、大島じゃ「椿」ばかりで「オオシマザクラ」の観光施策はねぇ。噺はそれだけじゃなかろう?

 ●「オオシマザクラ」をネット検索すると「大島さくら子」さんばかりがヒットするが、その隙間に6月公開映画『ある町の高い煙突』がヒットした。★噺が長くなりそうだから、次にまた聞いてやらぁ。

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日本語(10)濁点記号〇〇が〃になる。 [くずし字入門]

dakuten_1.jpg 小池著のⅤ章は「近代文体の創造 夏目漱石」(近代小説家らの文体・日本語論)。Ⅵ章は「日本語の文法の創造 時枝誠記」(日本語の現代文法成立の過程を紹介)。ここは濁点疑問から離れるのでスルーする。

 最後に山口著『てんてん』より第六章「訓読と濁点」を読む。菅原家に対する藤原家の「冬嗣」(恒武天皇に信頼厚く左大臣まで出世)が創った大学寮「勧学院」の故事成語に「勧学院の雀は〝蒙求〟を囀る」(蒙求=もうぎゅう、中国語初学者向け教科書)。これは例えば、学生らが「秋収冬蔵」を中国語で「ツユゥツユゥ・チュウジュオウ」と覚え読むので、雀が囀っているようだの意。当時は中国語発音教師〝音博士〟なる渡来人がいたと説明。

 しかし遣唐使廃止後は「日本語で漢文を読む訓読」になって数字や返り点、さらに漢字の四隅に「ヲコト点」付きで読ませるようになる。「日本語英語」ならぬ「日本語〝漢文〟」。日本人が作った最古の漢和辞典は『新撰字鏡』(僧侶・昌住の著。898~901刊)。現代の漢和辞典と同じく部首分類で編集。音読み、万葉仮名で日本語の訓読み。これは経典を日本語で読むための辞書。

 次に作られたの辞書が『和名類聚抄』(源順著、931~938)。万葉仮名の日本語読み。次が「いろは」検索の『色葉(いろは)字類抄』。漢字の音読みをカタカナ表示。例えば「雷」は「ライ」。訓読みで「イカツチ」。別頁の「雷」には音読み「テン」。訓読み「イナツルヒ・イナツマ・イナヒカリ」。

 平安中期1100年に『類聚名義抄』が登場。これはアクセント記号、濁点記号付き。アクセント記号が(→)や濁音〇記号が付けられている。小生が確かめれば(写真)、カタカナの左上や左下に「〇〇」印あり。ヒクラシ、ヒコホシ、ヒクレ、ヒケなどに濁点〇〇印があるのがわかる。

 この濁点記号が、後に濁点(〃)になると説明。例えば「油=阿布良(万葉仮名)」で「布」横の平音位置に「〇〇」で「ブ」と読むという印付き。

 次に言葉が二つ合わさっての「連濁」は『万葉集』当時からあって「竹竿(タケザオ)」、「神棚(カミダナ)」「島々(シマジマ)」など。この連濁は幽霊のように時代や方言によって現れたり現れなかったりで一定ではなかったと説明。また江戸弁になると「でぇこん(大根)・でえく(大工)などやたらに濁点が多発されるようになったと説明。

 未消化・理解不足ながら、この辺で「てんてん」のお勉強を終了します。なおこのシリーズのカットはすべて国会図書館デジタルコレクションより。

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日本語(9)儒教批判と和歌文学の本居宣長 [くずし字入門]

motoori2.jpg_1.jpg 小池著のⅣ章「日本語の音韻の発見 本居宣長」を読む。本居宣長(もとおりのりなが)。江戸中期の国学者。内科・小児科医。35年を費やした『古事記伝』、「源氏物語」の注解『玉の小櫛』、歌論など多数。外来の儒教を批判して和歌文学(もののあわれ、恋愛歌)、古道、神道論、近代考証学を追及。また五十音図など日本語の音韻を明確化した。小林秀雄、丸谷才一らが『本居宣長』論を著わしている。

 著者はまず「母音・子音」の歴史から説明している。小野篁が拒否した最後の遣唐使(承和5年・838)に、最澄に師事の44歳円仁(えんにん)がいた。唐滞在9年。真言(密教の呪術的語句)の正確な発音を求めてインドの発音(サンスクリット語=梵字)の発音一覧表「悉曇章」を請来し、『在唐記』を刊。仏典など計423部・559刊を書写。その波乱万丈の旅日記『入唐求法巡礼記』は日本初の本格旅行記。中公文庫、東洋文庫あり。他に講談社学術文庫は元米国駐日大使ライシャワー氏の著作。(本居宣長、円仁のお勉強が新たな宿題になってきた)

 なお山口著には、空海が請来した悉曇学書は『悉曇章』『大悉曇章』『羅什悉曇草』『瞻波城悉曇章』『七曇字記』『悉曇釈』で、サンスクリット語から日本語になった「ulambane=盂蘭盆」「stupa=卒塔婆」などの例を紹介していた。写真下は『悉曇字記』例。これは梵字を漢字翻訳した音訳書で、喉声(唇音)は5字。この梵字は「波(ハ)」と発音すると記されている。

sittanjiki.jpg_1.jpg 唐末~五代の頃の『韻鏡』に、横軸に声母(日本の子音)、縦軸に韻母(日本語の母音)で構成した図表があり、ここから平安時代に母音5字×子音10字の日本語50音図が考案された。日本に現存する最古の「五十音図」は11世紀初期に経典の読み解き方を伝える附録に「ア行・ナ行なし」の『孔雀経音義』もあったと説明。

 そして慶長9年(1604)にジャアン・ロドリゲス(ポルトガル出身イエズス会宣教師)著の『日本大文典』が、ローマ字50音図で「あいうゑを」を発表。それらを訂正したのが元禄6年(1693)の契沖『和字正濫抄』で「安(あ)・以(い)・宇(う)・江(え)・遠(を)」を発表。この頃に初めて「五十音図」なる言葉が使われたと説明。

 そして安永5年(1776)に本居宣長が『文音仮名字用格(もじごゑのかなつかい)』で「お=ア行」「を=ワ行」とし、「いろは47字」を定めたと説明。宣長は他に『てにをは紐鏡』や特殊仮名遣いの『上代特殊仮名遣』も著わし、現代に通じる音韻を確立したと説明。隠居の頭では理解も大変だが「くずし字」に親しむには、こんな歴史も知っておきたい。このシリーズは次回で終了です。

 カットは「肖像(野村文紹著)」より本居宣長。カット下は『悉曇字記』より波(ハ)の説明頁。

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日本語(8)「仮名遣い」の創始・藤原定家 [くずし字入門]

sadie_1.jpg 小池著のⅢ章<日本語の「仮名遣」の創始・藤原定家(さだいえ)>を読む。定家は平安末期~鎌倉初期の歌人・歌学者。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』などの撰。歌論書、また多数仮名文の筆写を経て「定家仮名遣」を考案。歳時記をもって日本人の季節感形成にも寄与。

 藤原定家は和歌の家、御子左家(みこひだりけ)当主・俊成の息子。俊成が後鳥羽院に『新古今和歌集』編集を命じられて、息子・定家を参加させた。(小生注:鴨長明は定家より8歳年長。後鳥羽院に認められて「和歌所」寄人になっていたが、撰者6名から外され十首入集のみ。その後に〝隠棲〟した。『方丈記』を読むと、彼らの時代は戦乱・大火・地震・大飢餓・福島遷都・源平合戦~の激動期とわかる。)

 定家はそんな時代に身を潜めるように文献書写に専念していたらしい。生涯を通じた書写は仏典19種、記録類など9種、物語や日記は『源氏物語』他5種、歌関係が30種。そして56年間に及んだ日記『明月記』を遺した。

 定家59歳、後鳥羽院(40歳、翌年から上皇で23年間にわたって院政)の逆鱗に触れて突如の閉門。宮廷保護に頼らぬ研鑽、膨大な書写をもって和歌の二条家、御子左家を興し、校訂力を磨いての『定家仮名遣』(『下官集』など)を考案、定着させた。「を」は高い発音で、「お」は低い発音で~などの使い分け。他に「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の使い分けで、平仮名の誤読誤解を防いだ「和漢混交文」を普及。

 一方、後鳥羽院は鎌倉幕府・北条義政へ兵を挙げた「承久の乱」で隠岐へ配流。また「定家仮名遣」は僧侶の世界にも変化を及ぼした。寛和元年(985)に天台宗の恵心僧都(えしんそうず)源信が漢文『往生要集』を著わすも、庶民へ広めるには漢文では役に立たずで、彼も仮名主体の『横川法話』500字余りを著わした。法然もまた『仮名法語』を著わし、弟子・親鸞も「漢字平仮名混交文」を著わした。

 定家と同時代の天台座主慈円も歴史書『愚管抄(ぐんわんせう)』もまた適度に漢字、意識的に仮名を使い、しかも主格助詞「ガ」用法は近代語と同じレベルだと指摘。また慈円は『平家物語』の成立にも関与して、美しい韻律を有した抒情的和漢混交文の傑作に関与したらしい。

 なお〝仮名遣い〟は、後の元禄期の僧・契沖によって定家とは理論の異なる「歴史的仮名遣」が生まれ、明治以降の学校教育採用に至るが、13世紀の藤原定家はじめの活躍で、日本語のあるべき姿、スタイルの基礎が出来たと言えそうです。カットは藤原定家(権中納言定家)。江戸後期の「肖像集」より)

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日本語(7)和歌に「濁点なし」の理由 [くずし字入門]

  昨夜、新宿ピカデリーで映画「新聞記者」を観た。映画終了後、会場は水を打ったよう。ややして大拍手が沸き起こった。この映画に携わったすべての方々を賞賛したい。これ、とりあえずの記。日本語シリーズ後「観た映画・観なかった映画」を改めて記す予定。

 mototune.jpg_1.jpg 藤原定家は、かくして「和漢混交文の時代」へ導くが、山口著『てんてん』の主題〝濁点〟について。平仮名の『古今和歌集』は905年。980年の『宇津保物語』には「漢詩は楷書、青い色紙に草書体、赤い色紙に仮名文字」の記述ありと説明。さらに仮名に5種類の書き方ありの記述があって「男手=万葉仮名」「女手=平仮名」「男手・女手でもない=草仮名」「片仮名」「葦手=装飾的文字」ありと記されていて、当時はさまざまな書き方が混在していたと説明。ちなみに『宇津保物語』は作者不詳で〝婚姻がらみ皇位係争〟を語る最古の長編小説。

 万葉仮名は「濁音と清音」を漢字で書き分けていたが、「草仮名~ひらがな」へ移って、濁音は「〃」の補助記号を使って書き表わされた。だが次第に「濁点なし」へなるのは、宇多天皇即位後の「阿衡(あこう)の紛議」が影響していたと指摘。

 藤原公清から代々天皇の実験を握ってきた藤原北家の藤原基経(もとつね)が、嵯峨天皇崩御45年後の宇多天皇の代で、橘広相(ひとみ)と「阿衡の紛議」勃発。原因・経緯は省略も「広相が受罰」。基経が関白太政大臣になって権力集中。「広相を遠島」に反対したのが菅原道真(みちざね)だった。

 当時は娘を天皇に嫁がせ、天皇外戚となって要職独占の「摂関政治」が展開。小生補足すれば、藤原基経の妹は清和天皇の皇太后だが、清和天皇が子を産ませた女性は25名。多数子孫を「清和源氏」として臣籍降下。広相の娘も宇多天皇と結婚。菅原道真の娘も宇多天皇の女御。その前の嵯峨天皇の相手も25名で子が50人。32名の子に「源」の姓を与えて「源氏」誕生とか。為政者の性と権力が絡み乱れ爛れて、その反省・浄化もあったと推測する。

 かくして「摂関政治」で実権を失った以後の天皇は「あぁいやだ・いやだ」と穢れを避け、浄化に道を求めて住居を「清涼殿」と命名。著者はこれによって中国にはない〝穢れを避ける意識〟が日本に生まれ、それが日本語にも影響したのでは~と説明していた。

 後の本居宣長はそれを「濁った世の中に現われる蓮の花=もののあはれ=物事に触れて心にわき上がるしみじみとした感情=王朝文化=『源氏物語』や和歌に秘められた」と語っていると説明。

 和歌にそんな流れが生まれて「ごみ・ぶた・どろ・げろ・がま」など濁音で始まる言葉を「穢い、下品」と避け「優艶さ・浄化美」を求める風潮へ。和歌という場の雰囲気に「濁点」がそぐわない感覚が育まれたのではないかと指摘。

 以後、公的文書記録は誰が読んでも間違えない漢文で書かれ、文学(私的で女性的)は平仮名で書くようになった。だが「仮名」は読む人によって誤解を招きかねない点を残し、その危うさもまた味わいになったと記す。カットは菊池容斉『前賢故事』(明治1年)の挿絵「藤原基経」。

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日本語(6)仮名は読み次第~和漢混交文へ [くずし字入門]

takamura_1.jpg 再び山口著『てんてん』に戻る。第三章「かな前夜」、第四章「聖なる世界が創られる」を自己流まとめ。まず著者は「仮名」の前に「章草体」ありと紹介。唐全盛期の玄宗皇帝の手紙も、空海書も「章草体」。その写真を見ると漢字を崩し書いたような「草仮名」へ至る過程の形と思える。そして小野篁(たかむら)の孫・道風の書は「草仮名」。さらに「平仮名」に近くなっている。

 小野篁が登場すれば、嵯峨天皇(上皇)との逸話も欠かせない。空海没後の承和3年(836)遣唐使副使に任命された篁。2度の難破。3年後3度目に、篁はもう唐の時代ではなく、自国文化を築く時と遣唐使を拒み、遣唐使の無謀を漢詩に書いて嵯峨天皇が激怒。隠岐島へ流刑された。写真は小倉百人一首(菱川師宣・画)の参議篁の歌。「和田(海)の原八十嶋かけて漕出ぬと 人にはつけよ海士のつりふね」。隠岐へ向かう時に詠んだ歌。

 2年後に許されて後は要職を歴任。嵯峨天皇との間では、こんな逸話も有名とか。天皇がこれを読めるかと「子子子子子子子子子子子子」を出題。篁は「子=ね・こ・し」と読めることから「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いた。(「宇治拾遺物語」収録逸話らしい)

 同じような仮名の読み違いの有名逸話。蒔絵師が詠んだ。「たたいまこもちをまきかけてさふらへはまきてさふらひてまゐりさふらふへし」(只今御物を蒔き掛けていますので、蒔き終わってから伺います)を、高倉天皇の皇女坊門院範子の台所女房が「只今女房を抱いていますので、ことを済ませてから伺います」と解釈。(「古今著聞集」収録逸話らしい)。山口著は「こもち=御持=御道具。まく=枕く」。小池著は「こもち=女房、まく=婚く=情交」と読み違えたと説明。

 以上から山口著は「仮名は読みなし。解釈がさまざまにできる。しかも笑い、きわどさ、哀しさとも言えぬ複雑な「もののあわれ」を滲ませて「憂き世=仮の名(仮名)」に通じると説明。

 これに関して小池著<日本語の「仮名遣」いの創始・藤原定家>で、定家はこうした仮名文の支障に悩んで「日本語を書き表わすには、漢字だけでも駄目であり、仮名だけでも駄目である」と結論。かくして定家は心血を注いで「和漢混交文」を考えた。結果は漢字の比率を仮名文より多めにすることによって、漢字が文意の把握を容易にし、文のまとまりを示し、文節の始めを示し、文の構造を把握しやすくなるとした。日本語はかくして「和漢混交文の時代」へ入って行くと説明していた。

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日本語(5)和文の創造・紀貫之 [くずし字入門]

kokinkanajyo_1.jpg 続いて小池著のⅡ章「和文の創造・紀貫之」を読む。奈良時代に大伴家持(やかもち)らによって天皇~乞食までの歌が網羅された『万葉集(一大国民歌集、万葉仮名)』が生まれた。(2)で「吾勢子波借盧作良須草無者小松下乃草苅核」の一例を紹介済。

 そして平安前期、紀貫之(きのつらゆき)らによって、今度は貴族・僧侶中心の平仮名『古今和歌集』(延喜5年・905)が生まれた。紀貫之の一首は紹介済だが『古今和歌集』には有名な「仮名序」、漢文の「真名序」あり。「仮名序」冒頭(写真左)を読んでみる。「やまとうたは人の心をたねとして よろ川のことのはとそなれりける よの中にある人ことわさ志けきものなれば こころにおもふことを~」。

 さらに有名な二首を紹介してみよう。在原業平の〝都鳥の歌〟(写真下左。慶長13年刊の嵯峨本より)は「名にしおハゝいさことゝハん宮古鳥 わか思ふ人はあり屋なしやと」とよめりけ禮ハ~。

 次は国家の基歌。~たいしらす よみ人しらす(題しらず 読人しらず)「わかきみはちよにやちよにさされいしのいわおとなりてこけのむすまで」(濁点なし)

 『古今和歌集』をもって「仮名」が公認、市民権を得た。「仮名」は漢字の意を捨て、音だけを利用した「万葉仮名」を、多くの人々が草書で簡略書き(草仮名)するうちに次第に固まった日本オリジナル文字の誕生。

nanisioha_1.jpgkokenomusumade_1.jpg 「平仮名」に後れをとった「片仮名」は、寺院での講義ノートから生まれた一種の速記文字として発達したらしい。「平仮名」誕生は「和歌」を発達させ、文字社会の成熟も生んだ。作者不詳の歌物語(和歌にまつわる説話を集成した物語文学)の『伊勢物語』も誕生した。

 当初の和文は、和歌と消息(手紙)から発達したが、「消息=話ことば」をそのまま書きことばにして〝だらしない〟印象があった。そこで漢文を基に(後ろ盾にして、養分を摂取しつつ)次第に磨かれていった。

 紀貫之はその後に『土佐日記』も著わす。同作は男である貫之が、女に仮託して述べる虚構で、その方法もまた文芸の香り高さを有する日本文学の礎になった。著者は夏目漱石の「吾輩は猫である。名前はまだない」と書き出して「猫」に仮託してしゃべらせる~に通じていると指摘していた。

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日本語(4)小池清治『日本語はいかにつくられたか?』 [くずし字入門]

kojikijyo_1.jpg 小池著『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫。筑摩書房版は平成元年・1889に刊)を入手。同書を〝プロの読み手〟とでもいうべき「松岡正剛の千夜千冊」が今年2月に取り上げていた。再評価? こう紹介されていた。

 「本書はよくできた一冊だった。6人の〝日本語をつくった男〟を軸に、日本語の表記をめぐる変遷を近代まで読み継がせた。(日本語研究の全8巻、全16巻などを挙げて)それらをひも解くことがあるも、全貌を俯瞰する視野と結び目がもてないままにいた。それがこの本書によって画竜に点睛を得た」

 その6人で各章構成。Ⅰ「日本語表記の創造・太安万呂」、Ⅱ「和文の創造・紀貫之」、Ⅲ「日本語の〝仮名遣〟の創始・藤原定家」、Ⅳ「日本語の音韻の発見・本居宣長」、Ⅴ「近代文体の創造・夏目漱石」、Ⅵ「日本語の文保の創造・時枝誠記」。まずはⅠ章を読んでみる。

 太安万呂(おおのやすまろ)。日本に漢字がなかった応神天皇15年(4世紀末~5世紀初頭)に、百済国王より馬2頭が贈られ、馬飼職として「阿直岐(あちき)」も来朝。彼が「経典」を読むので皇太子の家庭教師にした。字の重要性に気付いた天皇は、百済に人を派遣して『論語』十巻と『千字文』一巻を携えた「王仁(わに)」先生を招聘(出典は『日本書記』『古事記』でしょう)。かくして飛鳥時代に日本人が日本語を書き表わすようになった。

 奈良時代の和銅4年(711)、太安万呂が稗田阿礼(ひえだのあれ)らの協力を得て4kojikiden_1.jpgヵ月で『古事記』を撰録。その早さは阿礼ら語部の「誦習(よみなら)=暗唱)ゆえ。それを文字化するのに太安万呂は「言=主に音声」と「意=意味」に二分して「漢字仮名交り文(音訓交用)」を創造した。だが未だ「仮名」はなく「訓注・声注・音読注・解説注」多用で対処した。

 ちなみに『古事記』冒頭(写真上。明治3年の柏悦堂刊)は「臣安萬侶言、夫混元既疑、気象未効、無名無為、誰知其形~」。現代訳は「臣の安萬侶が申し上げます。夫(そ)の混元(まざりはじめ)は既に疑れど、気象(かたち)未だはっきりしませんで、名なく為(なすこと)なく、誰も其の形を知らず~」

 安万呂は4ヶ月で『古事記』を書いたが、江戸中期の本居宣長は『古事記』を読み解くのに35年も要して『古事記伝』(写真下)を寛政10年(1798)に脱稿とか。安万呂の表記法が不完全ゆえに苦労したらしい。小池清治著のわかり易いこと。氏は1641年生まれの国語学者。昨年亡くなった。

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日本語(3)和歌は濁点を好まない [くずし字入門]

dakuten2_1.jpg 「おまいさん、そんなに机に向かっていると今月は10万歩達成できないよ。馬場のブックオフへ行っておいでよ。あたしの好きな時代小説を買って、ついでにコージーコーナーでケーキを買ってきておくれ。往復5千歩だよ」

 かくしてブックオフで小池清治『日本語はいかにつくられたか?』と岩波文庫の『古今和歌集』を購った。それらも参考に山口謡司『てんてん』を拾い読みする。「はじめに」にこう書かれていた。

 「いまだに和歌は〝ひらがな〟には濁点をつけずに書くのが正統である。/本居宣長は古代日本語には濁音で始まる言葉はなかったと記している。/江戸時代は濁音なしでもよくて〝蕎麦をするするすする〟は(するする)でも(ずるずる)でも読み手次第。/日本人は自然の音を言葉にする能力に長けて〝てんてん〟をつけて擬音、擬態語(オノマトペ)を創造した。」

 第一章「日本語の増殖」 『古今和歌集』の「梅の花見にこそ来つれ鶯の ひとくひとくといとひしもをる」は、「ひとくひとくと=人が来る人が来ると」だが、この発音は平安時代初期は「フィトク」、奈良時代は「ピチョク、ピティォク」。鶯の鳴き声「ピーチク」(ホーホケキョじゃないのか?)にかけた〝言葉遊び〟だったと解説。平安初期まで「はひふへほ=パピプペポ」、『源氏物語』の頃は「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」に変化。「さしすせそ=ツァ・ツィ・ツゥ・ツェ・ツォ」。「笹のは葉=口を開かずにツァツァノパパ」。

kouin_1.jpg 著者は「唐の漢字の発音を知ることができる『広韻』を調べてみると」として、次々に「発音記号」で説明するが『広韻』(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可、写真左)に発音記号があるワケもなく、中国語発音記号「ピンイン」がローマ字式で制定されたのは昭和33年(1958)。これらはネット公開「音韻学入門」(愛知大)はじめ幾つかのサイトに詳しいが、専門過ぎて小生にはとても読めない。

 第二章「万葉仮名で書く日本語」 中国は唐王朝の影響で日本も公用語は漢文。だが日本固有のものは漢字では無理ゆえ、漢字の当て字(万葉仮名)が生まれた。漢字には主に呉音(ごおん)と漢音がある。「女=ニョ(呉音)、ジョ(漢音)/男=ナン(呉音)、ダン(漢音)/老若男女=ロウニャクナンニョ、法会=ホウエは呉音」と説明。

 面白いのでネット調べで追記する。日本へ最初に入ってきた中国語は南北朝時代の南朝・江南からで、同地はかつて呉の地方ゆえに呉音。他に食堂(じきどう)、文書(もんじょ)、金色(こんじき)、今昔(こんじゃく)、経文(みょうもん)なども呉音。

 だが中国が唐中心になると「科拳」(官僚試験)のために唐音に統一が必要で『切韻』で体系化。年々改訂された最終版は1008年『広韻』となって2万6千字ほどを収録。~どうやら「てんてん」を知ること=日本語誕生の歴史を知ることらしい。そこで体系的に説明された小池著『日本語はいかにつくられたか?』を読んでみることにする。

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日本語(2)「てんてん」の本 [くずし字入門]

manyousyu_1.jpg 新宿中央図書館へ行った。沼田克明著『濁点の源流を探る』はなく、山口謡司『てんてん~日本語究極の謎に迫る』があった。

 裏表紙のコピー。~「かな」を濁った音にする「てんてん」は、近代に発明された記号である。『古事記』『万葉集』など万葉仮名で書かれた日本語には、濁音で始まる言葉はほとんどなく、江戸の人々は、「てんてん」がつかない文章でも、状況に応じで濁る・濁らないを判断していた。自然の音を言葉にする能力に長けた日本人の精神性に根ざした「てんてん」の由来と発明の真相に迫る!

 テーマが明確に記された文章。だが同書をひもとけば、話がやたらに彼方此方へ飛ぶ。体系的・理論的に理解するには程遠い。どんな方が書いているのだろう。顔写真はア―写(タレント宣伝写真)、選挙写真のよう。誰に微笑んでいるのだろうか。言語学者イメージはない。「読むのを止めようかしら」と思ったが、ちょっと立ち止まって著者周辺を探ってみる。絵も書も達人とか。絵は湯村輝彦や先日亡くなった河村要助らのヘタウマ系イラスト風。夫人はフランスの方らしい。本を閉じようとしたら板橋は大山在住らしい。それで拒否感が少しだけ薄れた。

 あたしは中学の時に、別中学の女番長っぽい方から呼び出しを受けて、ビビり向かったのが大山辺り。そんなことを思い出す頃に、同書にまとまりがないのは、あちこちに書いたものを強引に一冊にまとめたらしいと推測した。

 中学時代を思い出したついでに、同書を読む前に中学程度のお勉強をし直す必要があろうと、以下をお勉強した。「平仮名」は奈良時代に使われた借字(万葉仮名)を起源にする。そうか。では『万葉集』(延暦2年・783)から一首をあげてみよう。原文(写真上)「吾勢子波 借盧作良須 草無者 小松下乃 草苅turayuki_1.jpg核」。解読すれば「吾(わが)勢子(せこ)波(は)借盧(かりほ)作良須(つくらす)草無者(かやなくは)小松下乃(こまつがしたの)草苅核(かやをからさね)」

 「万葉集=万葉仮名=当て字」だな。これら当て字から「波・者を草書体にした〝は〟の形」のようにして平仮名が生まれて『古今和歌集』が誕生。その巻1の2、紀貫之の歌(原文・写真下)を見る。「そてひちてむすひし水のこほれるを春たつけふのかせやとくらむ」。そ(曾)、む(武)、す(春)、つ(川)。江戸時代の「くずし字」と同じ。濁点なし。紀貫之は後に平仮名で『土佐日記』を書いた。

 一気に明治33年〈1900)へ飛ぶ。「小学校令施行規則」第一号表「あいうえお」の48字(ゐ、ゑを含む)が示された。ここまでを予習して「濁点(てんてん)」について~(続く)

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日本語(1)濁点なし文章 [くずし字入門]

edoezu_1.jpg 過日の「戸山荘シリーズ」の解読で、手こずったのが「濁点なし」文章だった。無教養の小生は、この歳で初めて「濁点」に向き合ってみることにした。

 例えば折々にひも解く『江戸名所図会』(絵:長谷川雪旦/文:斉藤月岑)は写真上の通り、漢字にルビ付きで「濁点なし」。一方のほぼ同時期『絵本江戸土産』(西村重長版も広重版も)、写真中の通りルビ付きで「濁点あり」。

 もう少し調べてみましょう。芭蕉『おくのほそ道』の場合はehon_1.jpgどうか。岩波文庫の校注本は「読解上の便を考えて、内容に従った区切りを設け、適宜句読点、濁点、カギ等を施した」で、ここは原本(素竜清書本)を読んでみます。写真下の4行目中ほどから読みます。

 「又いつかハと心ほそしむつましきかきりハ宵より津とひて舟にのりて送る千住といふ所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻の巷に離別の泪をそゝく」。

 芭蕉も「濁点なし」です。「津とひて=集いて」は「万葉仮名(津=つ)+濁点なし(と=ど)+旧仮名(ひ=い)の構成。古典は概ね〝施さokunohosomiti_1.jpgれた〟文章で接することが多いも、やはり原本には特別の味わい深さがあります。

 十辺舎一九『東海道中膝栗毛』はどうでしょうか。校注者は「清濁は、同じ語でも表記が違い、濁点を欠くもの甚だ多い。(中略)当時の発音にできるだけ従って補い正した」。濁音付き校注だと説明。

 時代を遡って明治22年(1889)公布の「大日本帝国憲法」を見ます。第1章天皇第3条「天皇ハ神ニシテ侵スヘカラス」。漢字+カタカナ+ルビなし+濁点なしです。表記・黙読は〝ヘカラス〟で、音読ならば〝べからず〟と読むのだろう。

 下世話な小生は、ここで遊んでみたくなった。「本々尓多ん古ん不知古ん天」。北斎ならば即答してくれる。「開(ぼぼ)に男根ぶち込んで」。かく下世話で無教養でお馬鹿な小生にも、そんな濁点についてを、わかり易く教えてくれる本があるだろうか。ネット調べをすれば「そんなこたぁ作者が好んで濁点有無を選んで書いていることゆえ、読む側は文脈の流れから勝手に読めばいいんだよ」とあった。やはり図書館へ行って調べてみよう。(続く)★カットは全て国会図書館デジタルコレクションより。

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75歳で老衰死亡と鉄瓶と~ [暮らしの手帖]

tetubin_1.jpg 若い時分に人気だったイラストレーターの新聞訃報あり。思わず同記事を繰り返し読んだ。氏とお付き合いがあったワケではなく、次の文章が気になったからだ。「老衰のため死去、75歳。」

 過日、千駄ヶ谷までの往復1万歩ウォークをした小生だが、昨年12月から月10万歩ペースが続く。それが功を奏したかは知らないが、病院での血圧検査が「102/58」。「あれっ、俺って高血圧じゃないじゃん」で、日々の薬を捨てた。それはひょっとして老衰ゆえの低血圧なのだろうか。

 小生はずっと高血圧気味で、女房は低血圧気味。貧血で蹲ることままあって「鉄分が足らねぇ」と言われて以来「1日分の鉄分入り云々ジュース」を欠かさず飲んでいる。某日、テレビが「現代人の鉄分不足は鉄器を使わなくなったせいです」と言った。

 先日、馬場から帰る裏路地途中のアンティーク屋・店先に鉄瓶があった。3千円で購入。「値切らねぇ客は初めてだ。店頭の好きなもんを一つ持って行け」てんで、「〇善」刻印の可愛い鉄瓶をいただいた。

 気のせいか鉄瓶で沸かした湯で飲む茶、コーヒーに深い味わいが生まれた。だが鉄瓶使用後は、空焚きして水を飛ばしておかないと、残った水が鉄錆で茶色になる。手入れが面倒で握力減退の老婆には重すぎて危険ゆえに余り使っていない。鉄分過剰摂取を心配するには至らぬだろう。

 かく健康に気を配っている小生らも、ここで倒れれば〝老衰のため死亡〟になるらしい。さて、今日はどこまで1万歩ウォークしましょうか。

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国立競技場の植栽とパノラマ撮影 [散歩日和]

63kokuritu_1.jpg 1万歩ウォークで、千駄ヶ谷・国立競技場を一周した。各階の外周に草木が植わったプランターが並び、地上の植栽も始まっていた。

 完成予想図で感じた〝緑豊かな〟印象はなく、木材多用イメージだったが各階鉄骨天井に板が張られた程度で、木の印象もなかった。今後の仕上げで変わってくるのだろうか。

 小生、20歳の「東京オリンピック」では東京脱出組だった。今回のオリンピックへの関心も希薄。この巨大な競技場を見上げていると、国家イベントゆえにアスリートが為政者に取り込まれている気がしないでもなく、ちょっと心配になってきた。

kucya_1.jpg すでにテレビは「放送法4条」とやらで縛られ、為政者にへつらう人物が番組審査委員長だったりしている。テレビを主な生活の糧にする芸人らも、風刺諧謔の尾を丸めているような~。むりもなかろう、すでに官僚らは〝忖度〟した人生を歩み始めている。

 国立競技場はじめの五輪の膨大経費。戦闘機の巨額購入。「イージス・アシュア」導入では、秋田市配置調査でグーグルアースから算出の呆れたお粗末。年金生活に2千万円足らずも明らかになった。今朝のニュースでは、女性ファッション誌によるモデル起用の自民党とのコラボ企画が報じられていた。「そこまでやるか!」と腰を抜かすほど驚かされた。

 国立競技場をスマホでパノラマ撮影したら、車3台がクチャと潰れていて、面白い絵になっていた。何故こうなるのだろうか。オリンピック終了の頃の日本も、何かが「クチャ・クチャ・クチャ」と潰れていて、不景気に襲われ、老人らの悲鳴が満ち、民主主義も無視され、若者らも明日に夢を託せぬ~とんでもない日本が始まっているような気がしてきた。

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戸山荘㉔『和田戸山御成記』を終えて [大久保・戸山ヶ原伝説]

tokyosisiko.jpg_1.jpg 戸山荘のあった地は〝地元〟です。16年前に「東京市史稿」より大田南畝(写)の『戸山庭記』他を転載したことがあります。今回は三上季寛による寛政5年の11代将軍徳川家斉に随行した『和田戸山御成記』。文章を吟味しつつ、該当現在地をも確かめつつのアップ。戸山荘資料は多数ゆえ、機会があれば今後も読み込んでみたく思っています。

<「東京市史稿」の『和田戸山御成記』について>  同史稿は翻刻(くずし字で書かれた文献を活字に直して一般に読める形式したもの)ですが、昭和4年刊で、珍しい「くずし字活字」交じり。それはまぁ読めますが旧かな、旧字、濁点なし、無教養ゆえ知らぬ語彙も多く、解釈するのに「古語辞典、広辞苑」が欠かせなかった。

 読めなければ、濁点を付けてみる。旧かなを現代かなに直してみる。読点(、)位置を入れ直してみる。漢字変換をしてみる。~等々を試みつつの解読でした。小生は戦後生まれ。かつ母が茶道華道のお師匠さんでしたから着物の生活、茶道具、華道具などに多少の馴染もあり、道具名から〝あぁ、家にもあったなぁ〟などと懐かしく思い出したりしました。しかし今や「集合コンクリ住宅+デジタル生活」で、小生の子供らには江戸はさらに遠い世界になっているように思います。

 わからない個所はそのまま、またいい加減に読み飛ばした部分も多々です。それらが気になる方は、ぜひ御自分で「東京市史稿」をお読み下さり、御自身のサイトでアップ下さいませ。

<現在地の推定について> toyamaenzu.jpg_1.jpgowariko.jpg_1.jpg 戸山荘25景の推定現在地は「新宿歴史博物館」のチラシ「新宿の遺跡2019」の「尾張徳川家下屋敷」の絵図+現在地=「重ね地図」を、また幾つか建っている史柱を参考にさせていただきました。

<参考絵図> 国立国会図書館デジタルコレクションより①「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全図」 ②「尾候戸山苑図」(平野知雄・原図。戸山邸内の長屋生まれの藩士。42歳で安政6年の戸山御殿全焼に遭遇。明治元年に名古屋に移住して、戸山荘の思い出を『戸山邸見聞記』(明治元年3巻を刊)。そこから皆園圭・写で明治21年刊。 ③「尾張公戸山庭園」(寛政5年) ④「東京市史稿・遊園篇」2巻掲載の宝暦頃「戸山御屋敷図」

<参考資料> ●国立国会図書館デジタルコレクションより「東京市史稿・遊園篇第1~6篇」(昭和4年~11年刊)より、第1篇「和田戸山庭築造」「尾州公戸山御庭記」/第2篇「戸山御成記」(久世善記・大田南畝写)、「和田戸山御成記」(三上季寛)、「戸山の春」(佐野義行)他。

●新宿区歴史博物館の刊行物「平成4年度企画展図録・尾張徳川家戸山屋敷への招待」/「平成18年度特別展・尾張家への誘い」/「所蔵資料展・新宿の遺跡2019(特集)尾張徳川家戸山屋敷とその周辺」及び同テーマの計3回講座資料。

●書籍 ①小寺武久『尾張藩江戸下屋敷の謎』(中公新書1989年刊)/西村ガラシャ『公方様のお通り抜け』(日本経済新聞社2016年刊)/③清水義範『尾張春風伝』(幻冬舎1997年刊)/④芳賀善次郎『新宿の散歩道』(三交社刊)/⑤『我が町の詩 下戸塚』。他に多数ウェブサイトも参考にさせていただきました。

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戸山荘㉓徳川光友と千代姫と~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

segaiji1_1.jpg 三上季寛『和田戸山御成記』最後に戸山荘造営に関して~<尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心(気持ち)に任せ侍らしと仰せありしかば、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓てこと行はれ侍るとそ申伝へたるとなん>

 と簡単に記している。この尾公とは、11代将軍家斉御成りの際の9代藩主・徳川宗睦ではなく、戸山荘を造った2代藩主・光友のことだろう。加えて最後に本堂なしの「世外寺」も登場した。同寺は光友の正室・千代姫を産んだ「お振」の墓所・自証院(現・市ヶ谷富久町)が焼失で、家斉御成りの寛政5年の54年前、元文4年(1739)に世外寺(コブ寺)を移築したため。(絵図は尾候戸山苑図より。世外寺は現・生協辺り)

 ということで、戸山荘シリーズ最後は女性がらみだった光友の「戸山荘造成」経緯を簡単にまとめておく。光友の父・義直は家康の9男で、家光は2代将軍秀忠の次男。家光は衆道傾向ゆえ「おなよ」の孫娘「お振」を春日局の養女にしてボーイッシュ仕立てで側室にあげ、家光最初の子・千代姫が産まれた。「おなよ」は二度の結婚や夫浪人などの経歴、勉学で深い教養を深めており、義理の叔母・春日局の補佐役として大奥や家光の信頼を得た。しかし千代姫の母「お振」は、産後の肥立ち悪く3年後に没。

 12ヶ月の千代姫は、13歳の光友と婚約。寛永16年(1639)、14歳光友と2歳千代姫が婚姻。もし家光に男子が産まれなければ、次は光友が将軍なる密約もあったとか。だが2年後に家光に「家綱」が誕生。

 寛永20年(1643)、家光の勧めで「おなよ」は出家して「祖心尼」へ。同年に春日局も没。1646年、祖心尼は家光より寺社建立をと牛込に1万坪を拝領して「濟松寺」(現・早稲田駅から徒歩7分の榎木町)を開山。

 慶安4年(1651)に家光没。「祖心尼」も大奥を去って同寺へ。翌年に千代姫15歳、光友27歳の間に「綱誠」誕生。(側室が長男を産んでいるも、側室の子で嫡男へ。ちなみに光友側室は10名。子は正室の子も含めて11男6女。庭作りも好きだったが、子作りも好きだったらしい)

 寛文8年(1668)、濟松寺内に江戸有数の名庭を有していた80歳の祖心尼が、戸山荘の地4万6千坪余を光友に譲る。光友は翌年から造営開始。寛文11年(1671)、その隣接地8万5千坪余を幕府から拝領。理由は千代姫御病気御静養のためとか。周辺地も入手して計13万6千坪余の戸山荘へ。(尾張藩の江戸屋敷については徳川黎明会によるPDF「大名江戸屋敷の機能的秩序」渋谷葉子氏に詳しい)

 そして寛文末から延宝期(~1681)に戸山荘の主施設完成。戸山荘の作事奉行は尾州の加藤新太郎とか。なお「祖心尼」は濟松寺で余生を過ごし88歳で没。千代姫は元禄11年(1699)に62歳で没。増上寺に葬られたが、後に尾州瀬戸の定光寺に合祀されたらしい。この項は多数ウェブサイト巡りで自分流まとめ。また『和田戸山御成記』の三上季寛は、当時は御先手頭を勤めていた600石旗本と記したが、改めて同名検索すれば「火付盗賊改方頭」180代長官(鬼平モデルの長谷川宣以の8年後)でヒットした。多分同一人物だろう。次回にこのシリーズ主な参考資料を記して終わります。

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戸山荘㉒五重塔、世外堂で完 [大久保・戸山ヶ原伝説]

gojyunotouup_1.jpg ここかしこめくりて、なたれ(傾)たる芝生の清き事いわんかたなく(言いようがない)、塵もなく、さし出し草もなく、たゞのしにのべたるか(伸ばし絶え間なく続くさま)ごときうちに、見上るばかりの大石をこともなけにすへ、そのほとりに芝つつしなとたへたへに(控え目に途切れ途切れに)あしらへるさま、御庭の事司しめさせ給ふ人の心の行しことぞおし量られて、いと感することの限りなりし。右りもかたの長畑道とて細く清らに直なる道に入らせ給ふ。<この大石風景は幾つもの絵図に描かれているも省略>

 左に「番神堂」また「五重の塔」有。事ふりし(事旧りし=ふるめかしい)白木造りにて、是なん餘慶堂にての眺望なりけらし(~だったようだ)。このほとりは竝木(なみき)の松数もしられぬばかたちつゞきたるか。林の竹の生たるようにて、枝もすくなくすなほにてのびやかなる。西北の風烈しき所なるにや、梢は皆東南になびきて、吹ぬに残す風の姿(風が吹くことによって残った姿)もめづらかなり。「稲荷」の宮ゐ(宮居)など拝まれおはします。

segaiji2_1.jpg 此道をはるばると過させ給ひて「世外寺」と名付られし古寺の跡有。地内に地蔵堂また大きなる鐘あり。楼は節々多くたくましき荒木にて造りたるも古めかし。八幡観音虚空蔵殊勝にも又とふとし。小高き岳より見やりけるに、こは名におふ大久保などいへるあたりを見おろしたるけしき。折から青みわたりしもたくひなくぞ覚え̪し。むかしはまことの寺にて、墓所なんと有しとし。万治の年号刻る石燈など有き。誠に閑寂たることともあわれけに見へしも、皆御庭の風情もとめんたよりに作りし成べし。西南山の車力門より還御おはし給ぬ。これは寛政五のとし、けふの暮つかた(暮つ方)のことになんありけらし(~たらしい)。

 そも此御庭と申は、将軍家大猷公(徳川家光)の姫宮、尾州家へ御入輿ましましたる時、御遊び所にとて進せしめ給ひし、二とせ三とせ過にし頃、さいつ頃(先つ頃=先頃)の外山の庭はいかにとも尋され給るに、尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心に任せ侍らしと仰せありしかは、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓て(やがて、にわかに)こと行はれ侍るとぞ申伝へたるとなん。

seikyo_1.jpg けふの御もてなしの御調度ともは、皆御宝にて尾州国よりはこびもて来しものなるか。程もなく築地の御屋敷なる御蔵へ運き行て舟艤(ふなよそおい)し、尾州国の御宝蔵へ送り、かりそめに造られし御調度迄一ツとして残し給はず、皆御宝の数に入られたるよし聞伝へし。其折しも幸に御供にまかりて、ここかしこ見し聞しこと計をおもひ出しはしはし書つづり侍るもよしなし。『和田戸山御成記』(16)完。

 <世外寺(せがいじ、コブ寺)があったのは現・生協(写真)辺りか。世外寺は千代姫がらみゆえ、尾張2代藩主・徳川光友の造営経緯をまとめる最終回に詳しく記してみたい。「五重塔」は現・小生マンション7F眼前が14、15階の戸山ハイツ群だが、昔ならば眼前に五重塔が建っていたのだろう>

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戸山荘㉑望野亭で無礼講の宴 [大久保・戸山ヶ原伝説]

bouyateup_1.jpg 扨かの「望野亭」(ぼうやてい)の御殿には、御上段をかまへ餘慶につぎたる大との(殿)造りなりき。御床には喚鐘撞木(かんしょう:小さな釣鐘+しゅもく:それを叩く木の棒)をかけられ、寄合書の三十六歌仙の手鑑。筆はしるし(著名)なけれ共、ふるき筆の跡位も尊とげにて某人の名もしたはし。画は藍をもて艸々と書たるか。さもめづらかなる御物也。唐かねの菊の折枝の文鎮のさひしけなるをそ置き給ふ。

 数々の御殿につづきし御厨(みくりや=台所、御供所)をば、あらたに造そへられ、御井(みい=井戸)は大広床の最中にありて、かたへ(片方)には大いろり、青竹もて作れるおちゑん(落ち縁=雨戸外の座敷より一段低い縁側)なんどいさぎよし(景色などが清らかである)。御はめ(板張り)には御画師の何某打つけて気より畫(かくす)る。いかにも浮たつさまにそかゝせ置る。御手水入られしは南京とかや、いかにも大きなる瓶なり。水満ち満ちてきよき事のかぎり言葉もなし。人々めづらしき器也とて感じぬ。

kanzan_1.jpg 大納言殿(尾張公)より贈物にと檜重三組(重箱)、からはらに紙片木器なんぞ取そへて、たばこの火に茶のまふけまで残所なく出しおかれし。御前にて御供の人々に御酒など給はり、興すること限りなし。酔(よえ)る貌は夕日のかがやかされてまくよりあかし。

 たはふれののしれども聞とるべきこと人もちかずかす。心そらになして御前の事も覚へず顔になるまでゑゝる(出来ている)もあり。御酒たけぬものには御菓子をとり広めよとて、御庭に氈むしろなんとしどろ(乱れ)に敷わたし、をのをの腹ふくらかしていねむり出るもおかしき事になん。御供のおさの誰かれは、傍なる小座敷にて御酒肴とも数々給りける。皆せきふくれたりとて、かの広き芝の原を走競せばや(したならば)とて、酔るはころびころびてさまよへるなど、いと御気色よかりし。

 日のかたむくもしらで(不知で=知らずで)ありけるに、かねて期せさせ給ひし事ありて、鴈かしまし(喧し)うたせせよとあれば十匁の炮薬もいとつよふこめて、三放まで大井の何某つかふまつれが、御供の人々あつまり侍りける。

 御名残惜し、今一廻り給んとて出立勢給ひ。「乾山」に登らせたまふ。この御山は九折なり。老木の松の枝垂しをばひくくり、根などに取付登りみれば向うには「諏訪明神」の御林しんしん(森々)たる御よそほひなと、又たくひなき風景也。あたりの野原には秋のためにや萩薄など植置れし。をのがさまざま(己が様様=思い思いに)芽生出て、花咲秋をまた見まほしげ(見たいようす)にて、人々も行なやまり(悩めり=悩んでいるようにみえる)。『和田戸山御成記』(15)

 <絵図上「望野亭」は現・学習院女子大の敷地内。絵図下「乾山」は現・明治通りと諏訪通り角の区立西早稲田中学校辺り。富士山も描かれている。この記述を読んでいると「寛政の改革」から解放された御供らの、いかにも楽しそうな姿が浮かんできます。>

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戸山荘⑳臥龍渓・養老泉・望野亭 [大久保・戸山ヶ原伝説]

garyukei_1.jpg <全図拡大で、宿場木戸を出た所の「石カケ嶋・臥龍渓」を確認して~> しばし行ほどに「石カケ島・臥龍渓」。ここには橋などのかたちに御床几やうのものをいくつもならべて広くまふけ、尾州にて造りしものとて、黄なる氈(もうせん)に色々の山水の画をえもいはれぬほどうつくしく織出したるを、広やかに敷わたされしも興ありて覚へし。

 <次も位置確認に絵図(西が下)を拡大。琥珀橋の左に「四ツ堂」。池沿い先に「傍花橋」。小池奥に尾張瀬戸焼の阿弥陀像安置の「阿弥陀堂」。奥に「奥の院」。四ッ堂の斜め左下に「養老泉」。奥に「薬師堂」。さらに左下に「望野亭」>

yorosyuhen_1.jpg 「三嶽権現薬師堂」「養老泉」。抑(そもそも、さて)此いづみと申は石にて作れる井なり。いかにも清き水の湧出て、さされ石のかくれぬほどにさらさらと音して流行も耳にとまりぬ。この茶屋には紅の氈を敷ひろげて、ゑにしだ(金雀枝。黄色の蝶形の花がいっぱい咲く)の花を籠にいれて、垂撥(すいばち=花器を掛けるべく板に切り目を入れた道具)にぞかけられたり。人々にもやすらへとにや(~であろうか)、小き棚におかしげなる茶わんひさぐ(拉ぐ=ひしゃげる)なんどまで取そへられしに、ものわびしげにも見へし。(現「養老泉跡」支柱の奥は、学習院女子大敷地内になります) 

 斜に向ふ「四ツ堂」といへるは、四間四方程もありて、いかにもゆへあるさまなり。柱はあけ(朱)にして、銅ものは緑靑をもてぬり、床はなく石畳にて、水引(四本柱上部に横に張る細長い幕)なんどいへるあたりは、皆彫物に手を盡し、真中にはもの釣べきたより(手段)と覚しくて、大きな環を打てたれにける。yorosen2_1.jpgyorosenato_1.jpg此御堂は何の為ならんやといふかしき見もの也。市買(いちがい=市ヶ谷)の御館の御庭にも四ツ堂とて、是にたがはぬ御堂ありと聞侍る。

 「傍花橋(ぼうかきょう)」のこなたより左りの寺に「阿弥陀堂」あり。奥の院と名づけしは、山のかたはらを少し平めたるに、ちいさき屋根計の堂に、尾陽瀬戸(尾張瀬戸焼)の造りし仏像古びわたりてさむさげにぞおはします。凍にやとちけん(?)、ひび多くありて、見事さ、殊勝さ、たちふべきにもあらず。四尺計も有なん座像にてぞ有し。

jyusuidou.jpg 爰にてまずおほよその御けしきはのこりなく見尽されたるならんかしと思ふにはや(ばや=~したいものだ)。大原の「望野亭」といへる殿にぞ入り給ふ。此大原と申は、広く平らかなるもたとふべき處なし。小松などしげからずに生て、はれやかに右の方の向ふに「拾翠台」(左図。御成御門脇にある)とて小高き所あり。面白げなる道を廻りて登りいたれば、日おふひの紅と白の布幕にてこしらへ、小き御ゆかをかまへ、遠眼鏡などかけられ、其かたはらは皆うすべり(薄縁=縁をとったゴザ)などいへる筵を広く敷て、青竹の節をもて鎗のやうにこしらへ、地にさし貫て風のふせきまでこまかなる御事なり。見渡されたる方は、名さへ高田の馬場隈なく見へて、ぞうしがや(雑司ヶ谷)鬼子母神など云あたりまちかく手もとゞきぬべきやはと覚ゆるもおかし。萩のかれえの垣ゆひ廻してさはやかなり。『和田戸山御成記』(15)

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戸山荘⑲古驛楼や高札の戯言 [大久保・戸山ヶ原伝説]

odawarajyukuzen_1.jpg <カットは全図の部分拡大。写真は小広場に建つ「古驛楼跡」史柱(赤丸)。この辺から右奥の建物(現「シルバー活動館」昔は児童館)へかけて小田原宿を模した町並が続いていたらしい。160年前の我家近所に、そんな戯れの宿場町があったとは、信じるも信じないも貴方次第。

 本陣といへる家には紫と白との布ませ(仕切り)の御幕引廻されしも、ちりめんにてあんなれば(~と聞けば)、風に吹なびきたるさまうやうやしくぞ見渡されたる。菓子(果物)の名をくすりに戯ぶれて茘枝(ライチ)丸、龍眼(リュウガン)圓、蜜漬丸などやうのkoekirousiseki5.jpg数々。金だみ(だみ=彩潰し。塗り潰す。金だみ=金泥で彩色すること)たる看板を臺にすへて、うしろには虎の絵かきたる屏風を建られたり。こゝをなん(強調)「古驛楼」と名付て、内のさまつきづきし(ふさわしい)。御上晴(御上=おうえ、座敷+旧字の晴=?)のご縁は高欄作りにて、氈敷ひらめ(平め)かしてことやう(異様、風変り)にこしらへ、こゝにはしばしやすらはせ給ひて興をそへ給ひし。

 <古語辞典、広辞苑ひもときつつ四苦八苦です> 我等ごときは始ことたりぬ(不足)など申せしも、いとふ(厭ふ)さみしげに成たるなどいいて、蓮葉につつみしかれいい下し(言い下し)給ふを手々に(てんでに)取てそたひにたひける(粗大に度ける?)。酒たうべ(飲む食うの謙譲語)など興ずるも多かりけり。御共のくすし(具すし=従い歩く)何がしかれがしそれがし(誰・彼某・某=だれ・あんた・わたくし)など、かの駕に乗てかたげ(乗手・担げ)ありきしも興尽ぬ事ぞ多かりし。かたへ(片方、傍ら)の経師表具したてて、かり張(無茶、むやみ)に懸置けるも、御もてなしの数なんめり。

 此所を過て大きなる木戸のある番所はいかめしくかまへ、火の番などいふめる(~ようだ)。とほしなとのさま(通行などの様)にいたるまでこまやかにぞ、其外面に星霜ふりし制札あり。たはふれの製し詞ことある中、落花狼藉尤くるしき事、草木の枝きりしたん停止の事。人馬の滞あつてもなくてもかまいなき事と、さもことごと敷そ建られたり。このころのたはふれ(戯れ)に書たらんものなりせばばかばかしき、御前にたてゝおかるべくもさむらはねど(さむらふ=「あり」の謙譲語。傍に控える、近づくことはございませんでしょうが~)、年ふりたれば(年を経たれば)、文字もさだかならず。やうやうとさゝやきあんじて(考えて)読つゞくるほどになんありけるにぞ。ふりにし(古るくなってしまった)世のしたはしげにや、人々もとふとみあへりき。『和田戸山御成記』(14)

 <高札原文と現代訳を以下に記す> 一、於此町中喧嘩口論無之時、番人ハ勿論、町人早々不出合、双方不分、奉行所江不可届事。(この町中において喧嘩口論これなきとき、番人は勿論、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所に届けべからざること) 一、此町中押買不及了簡事。(この町中で押し買いは了簡およばざること) 一、竹木之枝幾利支丹堅停止之事。(竹の枝、キリシタン堅く停止のこと) 一、落花狼藉いかにも苦敷事。(落花狼藉いかにも苦しきこと) 一、人馬之滞有てもなくても構なき事。(人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと)>

 <小寺著には37軒の町屋は約207m。1軒平均間口は約3間半(5.5m)。北端の木戸内に番所、外に高札。古驛楼と称する本陣は、以前は小田原名物の老舗「外郎屋」の名。この宿場町は享和3年(1803)の正月火災で27軒焼失。文化12年(1815)に古驛楼はじめ8軒再建。文政3年(1820)に11件、同4年に10軒完成で完全復活。弘化4年〈1847)の12代将軍家慶の来遊時にも町は健在。安政6年〈1859)の大火で焼失。同著は「虚構の町」で1章を設けて当時の図面入りで詳細紹介している>

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戸山荘⑱小田原宿を模した37軒の町並 [大久保・戸山ヶ原伝説]

koekiroup_1.jpg 抑(さて、それにしても)世に言伝へ侍る五十三駅(つぎ)を写し給ふなど申侍る其所におもむかせ給ふ。まづ左り右りの家居竝立(いへゐたちならび)てあやしの茅葺の屋に茶釜などいかにも鄙びたるさまにこしらへさせ、団子でんがくなどいふものを木にて造り、白々とぬりてならべ置けるさまもいと興ありき。弓師が見せには、白木ぬり木さし矢(差し矢)弓なんどまで二三十弦もかざりて、弓がための木などもかけ、小刀前がんな小かんな、大板には弦天鼠(くすね=接着剤)皮ことごとく握皮なんど切ちらし、隣の矢師は矧立(はぎたて)の矢多く錺り、矢柄竹ことごとし(弓道用語調べをどうぞ)。

matiyaup_1.jpg 本肆(ほんや)には、唐本和本誰か著述かれる石すか(石摺り?)新板色とり草紙袋へ入たるなんど棚に満、見せに錺りて夥し。薬種屋にはいろいろの薬種あらゆる数々取そろへ、袋の銘などやうありげに(わけありげに)唐めきて、御共のくすし(者?)共も胆をけし侍るほどにさへありてこしらへたり。

 合羽色々数を尽くし、桃灯(ちょうちん)はかたちもさまざまにかはり、思ひ思ひの紋をば書たり。茶売る家には茶壺を並べ竝(なら)べ、宇治の名所の数々さも風流なる手跡にて書たり。又下さま(下様)の茶には筆もまたいやしげにて荒々しく大きなる袋に入、かねて取散したるもおかし。

 金商ふ家には、天秤分銅などいへるものに大福帳、懸硯(手提金庫)などいふもの取そへ、銭は藤かづらやうのものにてさも誠しやかに造置たり。米屋にはさすが名におふ尾張俵を杉なり(三角状)に積たり。菓子見せには色々のもの共皆木にて造り、うましげにぞ見へし。医師か家迄造なせり。和田戸庵と宿札かけて、いづち(何所)へか出行けんさまして、薬箱に菖蒲草のおほひをかけ、碁将棋盤に茶臼をもそへて置たり。国助といふ鍛冶もあり。いろいろの打もの吹革(ふいご)ことごとしく炭取散らしていさぎよかりし。

 植木屋には腰懸などさわやかにつくり、家のうちを通りて奥の方へ行ば、いろいろの植木をうへ、石台(せきだい、植木鉢の一種)など花もいろいろ盛に葉をわきてつやつやし。「問屋」などいへる家は一きわ棟高く、見せは土間にして広く、四ツ手かごといふのりもの三ツ四ツ新に造りて置たり。

 其外数々思ひ思ひの秀作とも中々覚も尽くがたし。色々ののうれん(=のれん)紋所など家の名迄それぞれに似やわしくて、腹ふくるゝわざにぞ。炭屋薪屋酒屋せうゆ(醤油)味噌酢扇店、造花見勢(店)などわきてうるはし。生花いろいろ大桶小桶筒などそれぞれに多く入たり。御いへつとにとて一ツ二ツめされ給ひし(主君はすでに幾つかを召しあがったの意?)。小間物屋きせるこの外数も覚へねどいづれいづれおとらぬ事の多かり。『和田戸山御成記』(14)<ゆっくり読めば、なんとか解釈できそう。長いのでここで区切る>

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戸山荘⑰招隠里を探す [大久保・戸山ヶ原伝説]

syouinri_1.jpg 「招隠里」といへる世の常ならぬ御物数寄(ものずき)と覚しく、大樹生茂りたる枝払ふ事もなく、いつの世よりか苔も蒸し(苔は生える=むす)そへしにや。深みどりなめらかに、いやむしにむしそへて、いはんかたなく(言はむ方無く=言いようがなく)物すごきさまなり。「しづかなる庭のうちなるかくれ里 これも浮世のほかとおもへば」

 是は尾州家二代の君(光友)の自詠自筆にて、たやすく出さえ給はぬ御事と申されしもむべなり(いやはやもっともである)。誠に木の葉も去年のまゝにて雪のをのづから(自然に)消しあとなどと覚しく。其儘に草もねじけ(拗け)木もねじけて枝もきらず。なべてみどりの色にうつりて、人々のかほまで青ミたるやうに覚へしも、又なきしづけさなるべし。御すまゐの閑寂たる事はたとふるものなし。ひとりなと行たらんには物すごくたへかたかるべきと思ひやられ侍りし。

 扨、此山を出させ給ひ、左の方の沢には紫と白の杜若今を盛なりき。「大日堂人」「丸の堂」あり。この像はほのぼのとの画のさまをうついしたるかたちなり。過し年、狩野栄川法印(余慶堂で登場の狩野惟信の父・典信)此御庭を拝し奉りし時。御像を申syouinriurakara.jpgていはく、画の心に叶ひたりとていとふかく感じたるよし申伝しと承りき。『和田戸山御成記』(13)

 <招隠里(隠里御茶屋)は、絵図から現在地を探せば23号棟西側辺り。坂を少し登った地ゆえ、勝手に写真の辺りだろうと推測した。この写真の背(反対)下側方向に「古驛楼跡」史柱有り。余談:その地を探して同地へ行けば、女の子がヘビを持ち、嫌がる小生に迫ってきた。新宿とは云え、古の隠れ里に今だヘビ棲息なり。戸山荘には関西のカエル、ホタルも持ち込まれたが、そのヘビの先祖も関西系か。

syouinri3_1.jpg 「大日堂・人丸の堂」は、絵図の通り小田原宿を模した町並の西側。「大日堂」は大日如来を安置した堂。「人丸の堂」は柿本人磨を祀った堂。次回はいよいよ小田原宿を模した町並へ>




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戸山荘⑯カニ川源流と排出 [大久保・戸山ヶ原伝説]

kanigawa1_1.jpg ここで「カニ川」のお勉強です。芳賀善次郎『新宿の散歩道』より~ コマ劇場を中心とした一帯は、大正のはじめまで元長崎の大村藩主・大村子爵の屋敷で「大村の山」と呼ばれ、うっそうとした森林で池もあり、そこが水源のカニ川になって西向神社下へ流れていた。明治20年頃の同池は閑静なカモ場だったが、明治30年代に一帯を尾張屋銀行の頭取・峰島喜代女(尾張屋5代目の女性実業家)が買い取り、森林を伐採し、淀橋上水場建設で掘った土で池を埋めて平坦地にした。(現在、コマ劇場跡に30階「新宿東宝ビル」が建ち、目下はミラノ座跡に40階ビル工事が始まろうとしている)

 カニ川の水源はもう一つ。新宿2丁目の太宗寺裏「新宿公園」の池は、元太宗寺庭園一部で、その池もカニ川(金川)の水源。以上の二つの流れが西向神社下で合流して戸山荘に流れ込んでいた。(小生の若い頃の記憶だが、同公園は薄暗い奥が窪んで池だったような。今は明るく平らな公園になっている)

hirayatoyama1_1.jpg ちなみに『江戸名所図会』『絵本江戸土産』の大窪天満宮(西向天神)を見ると、門前に小川と小さな池(水色で着色)が描かれている。それが北上して(絵では左へ流れて)戸山荘へ。全図の拡大図から判断すれば、カニ川が流れ込んでいたのは現・東戸山小学校と東戸山幼稚園との間辺りと推測される(写真上)。

 昭和45年(1970)の地図を見ると、当時の「東戸山小学校」は現在地より西側に建っていて、その西側が崖状(崖下の道は現存)。同校校歌~♪富士の高嶺を西空はるか「玉の泉」の湧き出るところ~は、その西側崖からの湧水で同校裏門辺りに50mほどの池になっていたそうで、「玉の泉」とはそれだろうと推測する。また湧水は学習院女子大内はじめに幾つもの湧水があって、それらも戸山荘の池へ流れ込んでいたらしい。さらに同地図を見ると、カニ川が流れ込んでいた辺りの東側が土手状地形になっていたこともわかる。

nisimukikawa_2_1.jpg 戸山荘からの流出については『我が町の詩~下戸塚』(下戸塚研究家)を参考にする。~戸山荘を出たカニ川は、穴八幡角の八幡坂下(三朝庵辺り)に「駒留橋」があり。その下をカニ川が流れていた。葦や熊笹が密生し、大小の樹木が繁茂。野鳥も多く特に雉が多く棲息していた。

 また『戸山荘御邸見聞記』には~ 穴八幡坂下に正覚寺あり。先年の戸山御泉水水抜けの節、境内本堂の縁上まで水が満ちた。水が落ちた後、近辺の若者が墓所に入って鯉、鮒、うなぎなど夥しく捕えたと記されているそうな。またこの水没は20町(約2.2㎞)先の中里村まで及んだとかで、戸山荘の池泉量を物語る記録になっているとか。なお「正覚寺」は「江戸切絵図」を見ると穴八幡前、現・早大戸山正門辺りにあった。

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戸山荘⑮カニ川は二手にわかれ~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

kanihairu.jpg 「濯纓川(たくえいせん)」はあさき流なるに、おもしろげなる石をしけく(繁く=いっぱい/をしけく=惜しいこと。〝繁く〟と読んでみたが~)おきて、つたひありくさまも清げなりき。「清水御座郷屋」とて田舎めき(めく=~らしくなる)たるか、御ゆか(床)もなく、御腰休めばかり竹と木と交あはせて作られたるに、夏毛と冬毛の鹿の敷革を六ッ七ツ重ねて出しおかれしもゆかしけなりし。その横さまに御供のやすらひ所も有けり。これはなをひきく竹にて造られし。此御屋の内は、皆砂を敷わたして箒の跡も乱さぬさまにてありし。こわ(これはまぁ、なんとまぁ)御座のみあり。ちかく通り侍らねば、爰かしこに通べき道なきまゝに、かくまで心を懸られしは、御はからひと思はる。此ところのさま見渡し給ふけしきもなく、ひたすらにおくらきさま、餘の御すまひにかわりたるも興ある御事にて、又深き故もやあるらんかし(あるだろうよ)。『和田戸山御成記』(12)

simizuya.jpg_1.jpg <戸山荘に流れ込むカニ川は、上の全図(寛政年間作)部分拡大から、荘内に入るとすぐに北上する「古流」と、湿地へ流れる「流」に二分しているのがわかる。「流」は「清水御在郷屋」前の小泉水となり、そこから周囲の田畑への用水となって、名を新たに雅名「濯纓川」(大井川)になる。

 今年3月の新宿歴史博物館講座「尾張徳川家戸山屋敷とその庭園」講師・渋谷葉子氏(徳川林政史研究所)は、池泉は年代によって大幅に造り替えられたと説明。まず池水は南から「上の御泉水」「下の御泉水」「御泉水」の三構造。第一段階:主にカニ川より取水で満水。第二段階:「下の御泉水」が湿地化。北側(早大側)の「御泉水」はカニ川以外の水源によった。第三段階:南の「上の御泉水」が消滅し「下の御泉水」と「御泉水」が満水になって併せて「御泉水」になったと説明。

simizuya2_1.jpg 絵図(中)の「尾張公戸山庭園」(寛政5年)は第二段階の形だろう。カニ川は荘内に入るとすぐ二分され、「流」が小池泉にダイナミックに流れ込んでいるのが描かれている。そして絵図(下)「尾候戸山苑図」(幕末近くの様子)は、渋谷氏説明で「同図は東上空から南西方向を見たパノラマで、遠景の大久保から細いカニ川が石組トンネルを経て流れ込んでいる。それが「古流」。絵は林に隠れているが北上して「下の御泉水」へ。「清水御在郷屋」前の小泉水へは〝掘り抜き井戸二ヵ所からの流入だろう〟と説明された。文中の「御供のやすらひ所」は、図の赤いコの字型のことだろう。また「濯纓川」には摂津国小田の蛙(カジカカエル?)が放たれ、宇治の蛍(ゲンジホタル?)が放たれたとか。

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戸山荘⑭「称徳場」(馬場)へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

baba_1.jpg (筆者・三上季寛は、ここから戻るように「称徳場」へ)野道をつたひて「御馬場」にいたり給ひ。そも此御かまへはなみなみならず。馬場の中に一はしの土手をまふけて、めぐりめぐりて乗べきためにや(や=~であろうか)とも覚ゆ。むま(馬)のあし冷さしめ給んためなりとて、石をもて畳みおろしたる所ありき。この頃のさまにはめなれぬもの也。馬場殿にはうんげん縁(繧繝縁=格の高い畳縁)のあけ(赤・朱)畳なんどもありて、御間数々のありて、きらきらしかりし御事とも也。(『和田戸山御成記』(11)

 <絵図は「尾張公戸山庭園」(上)と「尾候戸山苑図」(下)の「称徳場」。現・東戸山小学校前広場の西土手際に「称徳場跡」史柱が建っている。その辺りから学校を突き抜けて大久保通り際まで伸びていたのだろう。小寺著ではこう説明されていた。~馬を見る御亭syoutokujyo_1.jpg(馬見所)があり、うしろに馬の脚を冷やす堀が造られていた。『戸山御屋敷御取建以来伝聞記』には、かつては馬場周辺に蹄鉄をうつ鍛冶屋などの建物があり、見物席や広い楽屋などを具えて本格的な舞台も付近にあって「門前五軒茶屋」と称する長屋風の茶店も並んでいた。(次回はカニ川について)


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戸山荘⑬称徳場~彩雲塘~弁天島 [大久保・戸山ヶ原伝説]

babakatabenten_1_1.jpg 左の方の「紫竹門」(余慶堂内庭からの出口)を出させ給ひて、林のうちを過給ひける。ちいさき橋のあまたありけるが、皆新に造らしめて人の踏そめし(染し)跡だに一ツもなかりし。ふみならずまじとのおほせことありて、御供の人々もよきて(避きて)そ通りし。「称徳場(馬場)」といへる所を過て「彩雲塘」(弁天社に至る道)と名づけられしは、猿すべり(百日紅)という木の大きなるかきもとゝいふべbenten_1.jpgき、かぎりもなく左右に広がりて、枝は地をほふて、梢は雲に立のぼり。右りの方は、池の汀になびき、左の方は広き田面に枝さしおほひ、百日の盛に雲をも染なずべき名も思ひやられし。こまやかなり枝茂りあひて、もろこしの画などにみへしさまなるも、年ふりし(年古りし=歳月が経過している)御事の御いつくしみ絶せぬしるしなんめり(なめり=~であるようだ)と、心おどろかぬはなかりしか(ないのではないか)。

 「弁天島」は細道をつたひて、あけ(朱・赤)にぬりたるから橋(唐橋=中国風欄干の橋)をふむもおそれみ、ふるひふるひ(震い震い)わたるもあり。又けがし(穢し)奉る事なんはばかりて、ふし(伏し)拝みて通るもありき。宮居(神社)とふとけき御よそをひにして、宮めぐりするあたりも皆同じ。花の木ばかりぞ茂りあひける。そもそも此弁才天と申奉るは、ゆへある御事とて扉開き奉らぬならはしにとて、扉開き奉らんとせし時さはひなし(障なし)給んやなとの御事申も愚なるべし。『和田戸山御成記』(10)

bentenkoeki_1.jpgbentenjimaatari_1.jpg <戸山荘全図より「称徳場~彩雲搪~弁天島」部分をアップし、「尾張公戸山庭園」より「弁天島」部分をアップした。弁天堂はいわれがあって扉を開かぬことになっていたそうな。赤い唐橋の右の小橋から百日紅の「彩雲塘」が続いている。では「弁天島」はどこにあったか。おそらく現20号棟5階から俯瞰した桜の小広場辺りだろう。正面25号棟の右奥と26号棟左の間に見える木の茂み下に「古驛楼跡」(戸山荘を代表的する小田原宿を擬した37軒の街並の本陣=古驛楼)史柱が建っている。

 写真下右の桜の奥は19号棟~箱根山。19号棟は「平屋の戸山ハイツ」時代は、陸軍戸山学校時代の50m程のプールが残っていて、同棟を建てる際にプールを壊しての基礎造りゆえ建築業者が苦労していた。また広場辺りは更地で、後に桜が植えられた~と当時を知る友人が語ってくれた。同写真右端の20号棟手前辺りに百日紅の道「彩雲搪」があったのだろう。そこで箱根山に向かって立ち、両手を広げる。右手先に「称徳場」、足元に「彩雲塘」、眼の前に「弁天島」、左手先が「古驛楼」。現風景から陸軍戸山学校時代をも透かして、江戸時代の戸山荘の風景が浮かんでくる。

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